2025年12月28日日曜日

海女の戦慄 昭和32年

志村敏夫監督、新東宝、73分、白黒映画。前田通子主演。前田とその妹、三ツ矢歌子らは海女である。三ツ矢は友人と一緒に東京に行く。しかしいつまで経っても帰ってこない。そのうち友人の死体が海に浮かぶ。酒場兼旅館に人相の悪い男たちが車でやってくる。また風来坊と称する若い男も来る。

実は人相の悪い連中は、戦時中に沈んだ船の中にある財宝を取りに来たのである。三ツ矢と友人は悪い奴らに捕まり、沈んでいる船からその宝を持ってこいと言われ、拒んだ友人は殴られ事故死した。三ツ矢は悪い奴らに捕まった学者やその娘と、洞窟に閉じ込められていた。前田、三ツ矢の弟である太田博之が、閉じ込められている姉らを助けるべく活躍する。最後は船から前田が宝を引き上げた。巡視艇に悪者らの乗った船が見つかり、銃撃戦を風来坊を含めた警官らとする。悪者は捕まり、風来坊は海上保安隊と分かる。

2025年12月25日木曜日

殺人狂時代 昭和42年

岡本喜八監督、東宝、99分、白黒映画。仲代達矢主演。天本英世は精神病院の院長で、患者を殺し屋に仕立てていた。ドイツからナチ系の男が来て、殺人依頼で腕を試すため、三人の殺人を依頼する。その中に、犯罪心理学の大学教員である仲代がいた。仲代は逆に殺し屋を殺す。仲代に仲間として砂塚秀夫と記者の段玲子が加わった。

天本はナチの意図が仲代で、ダイヤが身体に埋め込んであるからと知る。天本は殺し屋を次々と送り込むが、仲代に返り討ちされる。天本は団を人質に取る。仲代らは助けに行く。自衛隊が砲撃訓練をしている原野に団がいて救助する。最後は仲代と天本の一騎討ちで、天本を倒す。これで悪人どもをみんな片づけたと思ったが、実は団が敵方でこれを倒す。

処刑!血のしたたり Intruder 1989

スコット・スピーゲル監督、米、87分。スーパーマーケットが舞台の恐怖映画。スーパーマーケットで働いている女子店員のところへ、昔の彼氏が来てしつこく付きまとう。他の店員が話そうとすると暴力を奮い出し、店から追い出される。警察にも電話した。男が追い出されてから警察は着いた。店長から店を仕舞うと言われ店員らは驚く。もう売る先も決まっていると。店の次長格は、自分は反対したと言うが、株を過半持っている店長には叶わない。

その後店員たちに黒い影が付きまとい、次々と殺人をしていく。犯人はあの追い出された男かと思いきや、実は次長格の男と分かる。自分はこの店に愛着がある。売ろうとする店長を殺した。他の者も殺すと言う。女子店員は逃げる。追う殺人鬼。あの最初に追い出された、女子店員の元恋人が来て助ける。なかなか死なない次長格の斧を何度も振り下ろす。そこに警官らが到着する。女子店員や助けている元恋人を逮捕する。犯人はそいつらが人殺しだと言う。女子店員が抗議しても警察は聞かない。

2025年12月22日月曜日

果てしなき欲望 昭和33年

今村昌平監督、日活、101分、白黒映画。戦後十年経ち、地方都市の駅前に数人の者が集まる。殿山泰司、西村晃、加藤武、小沢昭一、渡辺美佐子である。戦争末期に軍が防空壕に隠しておいた麻薬を取り出そうとする。場所には家が立っているため、別の家を借りそこから地下を掘って防空壕跡に到達しようとする計画である。

不動産をすると称して、一軒家を借りる。大家から息子を使ってくれと言われ、その息子である長門裕之を雇う。長門には結婚したい中原早苗がいる。家を締め切り、地下で穴堀り作業を続ける。加藤が犯罪をやらかし捕まるが、後に脱走してくる。加藤と小沢は仲が悪く、小沢を打擲したので、仕返しで包丁で加藤を殺してしまう。大家から集まるよう言われる。立ち退きが決まっていると告げられる。数日間しか残り時間がない。ようやく防空壕に到達するが、ドラム缶が落ちてきて小沢は死ぬ。ドラム缶には麻薬が入っていた。しかし殿山は毒を飲まされ死ぬ。西村も殺される。長門が来て死体を見つけ、大騒ぎになる。渡辺は麻薬の入った袋を提げ、嵐の中を逃げ出すが、警察が追い、川を渡る途中に落ちてしまう。

2025年12月21日日曜日

恐怖の洞窟 It’s alive 1968

ラリー・ブキャナン監督、米、80分、総天然色。夫婦で田舎をドライブしているとガソリンが無くなり、最初会った男にこの先の家に行けば貰えるかもと言われ、そこに行く。すると主人は愛想よく迎えたが、二人を洞窟に閉じ込めてしまう。最初に立ち寄った男も、この家に来て同様に閉じ込められる。

洞窟の奥の方に探検に行く。その洞窟の奥の池には怪物がいた。現れて旦那の方を殺してしまう。この家の主人にはやや老けた女がいて、その女も同様に犠牲者で、閉じ込められた二人を助けたいと思っている。主人は最終的に怪物に殺され、老けた女もやられる。二人は逃げられた。

2025年12月20日土曜日

フローべール『ボヴァリー夫人』 Madame Bovary 1856

19世紀の写実主義小説の傑作とされている。医師と結婚したエンマは平凡な結婚生活に飽き足らず、凡庸な夫を憎み、ロマンスに憧れる。最初住んでいた田舎に飽き足らなく、ルーアンの近くに引越しする。そこで村の書記と恋愛関係になる。書記は逃げてしまい、後にプレイボーイの男と恋愛関係になる。商人からの売り込みで、多くの商品を買う。それで首が回らなくなり、情人らに金策を頼んでも全く協力してくれない。最後に薬を飲んで自殺する。人妻が不倫をし、最後は破滅すると要約すれば『アンナ・カレーニナ』と同じである。

この小説を書くのに、フローベールが非常に苦労したとか、自由間接話法なる手法で書かれているとか、そういった作り手側からの話はよく聞くが、読んで面白い小説だと思うだろうか。自分は何度読んでも面白く思えないのである。

2025年12月19日金曜日

猟人日記 昭和39年

中平康監督、日活、123分、白黒映画。戸川昌子の原作で本人も出演している。中谷昇はプレーボーイで何人もの女を物にしていた。ところが自分が関係した女が殺される。一人だけでなく、次々と殺され、自分の持ち物が現場に証拠品として残っている。逮捕され死刑判決を受ける。

弁護士とその助手(十朱幸代)が自分の謎を解いていくのが後半の筋である。ある女が画策して中谷を罠に陥れていると分かる。それは何者か。最初の被害者の姉かと思ったら、意外な人物が犯人と最後に分かる。中谷は猟人日記として自分の女漁りを日記につけていた。それが盗まれ、発見された時は最初のページが破られていた。それを知った中谷は控訴を取り下げる。そこには自分の妻(戸川役)のことが書いてあった。妻は以前出産で奇形児を産んでいた。それ以来夫婦の仲は冷え、猟人日記を読んで夫の相手になった女を殺し、夫に罪をかぶせるつもりで犯罪をしていた。中谷は釈放され、以前殺された女の産んだ赤ん坊がいると聞かされ、将来に希望が持てるようになる。

2025年12月18日木曜日

一寸法師 昭和30年

内川清一郎監督、新東宝、82分、白黒映画。乱歩の原作では浅草公園となっているところを撮影当時の渋谷に変更。それ以外はわりと原作を尊重している映画ではなかろうか。

宇津井健が原作の好奇心の強い青年、小林紋三(少年探偵団の小林少年ではない)を演じ、探偵は旗とかいって二本柳寛がしている。夫人は三浦光子で、その娘と女中の二役を三橋達也と結婚した安西郷子が演じる。安西郷子の出ている映画はあまり見られないので貴重。一寸法師役は実際の小人で、サンドイッチマンをしていた者がやっている。

2025年12月17日水曜日

浴槽の死美人 昭和31年

野口博志監督、日活、78分、白黒映画。河津清三郎扮する探偵シリーズの一作。スキー場にあるホテルに助手の女子と来た河津は、足をくじき静養していると女の訪問を受ける。河津が探偵と知っての相談で、宝石商の父とこのホテルに来ているが、何やら違法な取引のおそれがあると。

このホテルに来た客の幾多りかは真珠を持ってきており、それはかつて偶然手に入れたのだが、それを奪い返そうとする悪人に狙われている。夫婦で来た妻の方は浴室で殺されていた。また女助手は友人に出会うが、その友人もやはり真珠を持っていたのだった。ホテルの使用人なども悪漢一味の一人であり、最後は雪原で銃の撃ち合いをやる。戦後15年くらいまで犯罪映画では銃撃戦はよくあった。戦争がまだ最近の時代だったからか。

2025年12月16日火曜日

松川事件 昭和36年

山本薩夫監督、162分、白黒映画。松川事件の高裁判決までを描く。昭和24年8月17日に東北本線、福島県松川駅手前で起きた列車の脱線転覆事故に関して、元国鉄職員の19歳の男がまず容疑者として逮捕され、その自白を元に次々と全員で20名の者が逮捕された。

映画はまず事故のニュース映像より始まる。容疑者の19歳少年が逮捕され、警察に拷問で自白を強要される様を描く。更に仲間がいただろうとこれまた自白の強要が続き、多くの者が逮捕される。裁判は第1審、第2審ともありのままの裁判の記録のごとく、かなり長く撮影されている。出演者は弁護士、警察などは有名な俳優がやっているが、被告側は無名の俳優たちである。また被告の実名を使っている。まだ最終的な判決の前で撮影された映画である。

2025年12月15日月曜日

小峰隆夫他『エコノミストの戦後史』日本経済新聞出版社 2013

日本経済研究センターが1963年に出来て50年経ったので、その歩みを振り返り、今後のあり方を考えるための出版である。現在日経センターに関わっている担当者たちが、過去に日経センターを導いてきた、参加して人たちにインタビューを行った記録である。過去の大物エコノミスト、経済学者による回想はそれだけで価値がある。しかしながら、現在の日経センターとしては今後、センターをどうしていくか、が最大の関心事であったと思う。この問題に十分なヒントが得られたであろうか。

このうち、浜田宏一と聞き手である岡崎哲二、寺西重郎とのインタビューでは結構議論をしている。大体この人の価値観、イデオロギーはこうだと、それで分類して分かったつもりになっている場合がある。このインタビューはどちらに組するにしても、経済学の知見が必要な議論をしている。ともかく双方の経済学的検討がまず最初にくる。

また日銀にいた鈴木淑夫(懐かしい名)が、バブル崩壊後の長い不景気は、橋本内閣の消費税引上げが原因で、あれがなければもっと早く良くなっていたと言っている。消費税引上げの悪影響は良く言われるが、実際に分析してどの程度数量的に、失われた20年か30年に寄与しているのか、自分は知らないが、これは当然どこかでやっているだろう。それを元に議論すべきである。また小泉内閣によって格差が進んだという話も当然のようにされているが、随分前の話になるが、小泉行革でどの程度格差が進んだかのまともな分析はされていない、と聞いた。今ではどこかでやっているだろうから、それによって定量的に議論すべきであって、多数意見だからと言ってそれに寄りかかっていてはだめだろう。

2025年12月14日日曜日

セルギー神父 1911

若い士官は将来が嘱望されていた。しかし婚約したものの、それを中止し退官する。婚約者が実は皇帝の情人をしていたと知ったからである。その後は修道院に入る。ここでも精進し、高く評価される。しかし修道院の実際は世俗と同様、野望だけの人間の集まりに過ぎないと知る。反抗的な態度に出たため、上の者に忌避され僻地の場所に行かされる。

ここでも聖人とされるほどの評価を受ける。厳格な生活を送っていたので、ある軽薄な婦人が尋ねてきて誘惑する。誘惑に負けまいと自分の指を切って会う。婦人は驚愕し逃げる。病気を治す力があるとされ、多くの者が治癒を祈願に訪れる。ある日、自分の娘の病気を治してほしいとやってきた男の娘に会う。その時に女を抱いてしまう。恐れ慄き、そこから逃げる。

自分の幼馴染みの不幸な女を思い出す。女の家に行く。女は亭主などに苦労させられ、惨めな生活を送っていた。しかし幼馴染に会い、女の生活こそ真の神に仕える道と理解する。後は巡礼の札を持っていないためシベリアに送られ、そこで暮らす。(ポケットマスターピース、集英社文庫、2016)

2025年12月13日土曜日

ペンギン・レッスン The penguin lessons 2024

ピーター・カッタネオ監督、西英、112分。1976年のアルゼンチン、イギリス人の英語教師が私立学校に英語教師としてやってくる。生徒たちは全く騒がしく言うことを聞かない。軍政が敷かれ、反対派は容赦なく逮捕される、そんな時代である。休暇でウルグアイに行く。魅力的な女と知り合いになる。デートの最中、重油で汚れたペンギンを助ける。油をぬぐって綺麗にしてやる。女はあいにく既婚者だった。

女に去られ、ペンギンも海に返そうとするが、いつまでも付いてくる。アルゼンチンに帰国してからもそうである。秘密で飼う。飼わざるを得ない。知り合いの若い女が軍に拉致される。それを見ていても何も出来なかった。しなかった。女の母親は娘を返そうと運動をする。ペンギンを飼っているのがばれる。校長から叱られるが、置いておかざるを得ない。生徒たちもペンギンに気づき、ペンギンは人気者になる。しかしある日、ペンギンは死んでいた。埋葬を学校全体でやる。ただあの拉致された娘は解放され帰ってきた。

2025年12月12日金曜日

危険な女 昭和34年

若杉光夫監督、日活、55分、白黒映画。松本清張の『地方紙を買う女』の映画化。作家役は芦田伸介、女は渡辺美佐子が演じる。山梨の地方紙をとっている女がいて、連載小説を読むのが目的だというのである。それを聞いた作者の作家は、その女を知りたく思う。ところがいきなりとるのを止める。面白くなくなったと聞かされるが作家は納得できない。調べると、女が購読を止めた前日に男女の死体が山梨山中で発見されたとの記事があった。これを確かめるため、地方紙を購読していたのではないか。

作家は自分の小説を連載している雑誌社の女子を使い、その女(渡辺)を調べさせる。渡辺が働くバーに行く。渡辺に会う。帰りに新聞紙の切り抜きを忘れていく。渡辺は事件の記事の切り抜きを見て作家が探っているかと推測する。雑誌社の女子が調べた結果、渡辺は死んだ男にひどい目に会わされ、殺してやりたいくらいだったと言うが、自分は殺していないと言う。渡辺には亭主がいて、千葉の海岸で療養生活を送っている。

渡辺と女子は親しくなり、作家も一緒に三人で山中にピクニックに行く。渡辺が持ってきたサンドイッチを女子に勧めると、作家はそれを払いのけ、その中に毒が入っていると叫ぶ。渡辺は自分でサンドイッチを全部食い、毒など入っていないと証明し、そのまま一人で帰る。後に渡辺の亭主が自殺し、渡辺も追って自殺する前に作家に手紙を書く。実は毒が入れてあったのはジュースだった。それで疑いを持つ作家を殺そうとしていたと告白する。

2025年12月10日水曜日

ヴィオレッタ My little princess 2011

エヴァ・イオネスコ監督、仏、106分。主人公の女子は母親がカメラマンで、娘を被写体にして写真を撮り、それで有名になる。娘にとらせる姿勢がどんどん過激になり、娘は嫌がるようになる。普段は母親は家におらず、娘は祖母と暮らしている。娘の写真は有名になり、学校でもヌードモデルをしているなどと、嫌がらせを受けるようになる。

娘が写真に撮られるのを拒否するようになると、母親は別のモデルで写真を撮り始めたのかと思い、それでもすねる。娘は学校に行かなくなる。祖母が死んで、母親は裁判所から娘の扱いについて訴えられる。施設に入れと言われる。娘は非行するようになり、少年院に入れられる。母親が会いに来たが娘は逃げる。

2025年12月9日火曜日

亀山郁夫『ドストエフスキー共苦する力』 2009

本書でドストエフスキーの後期4長編、『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』を論じる。読んでいて思うのは、小説の意味するところを著者は果てしなく、自由に推察していくので驚くほどだ。正直、想像が過ぎるのではないかと思うほどである。しかし著者の考えるところ、ドストエフスキーの読みはこうでなくてはならないのである。あとがきに次の様にある。

「わたしの考えでは、ドストエフスキーこそは、まさに「二枚舌」の天才だった。(改行)わたしのドストエフスキー理解は一貫している。それは、書かれたテクストを絶対化しない、テクストには二重構造があるという信念である。信仰の裏に不信があり、不信の闇に神は存在する。作家というのは、そうした二重性の表現においてこそ、どこまでも真剣であり、誠実なのだ。」(本書p.261)

これを読んで、著者がやり過ぎと思われるほど、想像の翼を広げている理由が分かった。テクストなんかに拘泥していてはドストエフスキーは分からないのだ、これが著者の信念である。(東京外国語大学出版会)

悪い種子 The bad seed 1956

マーヴィン・ルロイ監督、米、130分、白黒映画。8歳の少女ローダは両親や、大家の小母に可愛がられている。ローダが学校のピクニックに行くと、同級生の男の子が湖に落ちて死ぬ事故が起きた。最初は自分の娘かと心配した母親は娘が帰宅後、全く気にかけない様子なのでいぶかる。事情が分かると、死んだ子がもらったメダルが自分の物になるべきだと娘は強く主張していた、更に最後に男の子に会ったのは娘だと知る。娘は男の子を湖に落とし、メダルを取っていたのだった。かつての隣人の死亡事故にも娘は関与していたのかと心配になる。

また犯罪者は遺伝によりそうなるのかと、作家に尋ねる。やって来た父親に自分は本当の娘か、もらい子ではないかと問い詰める。それによって自分の本当の母親は連続殺人犯だと知る。父親は幼い娘を引き取り自分の子として育てたのだ。家に来ている掃除等を請け負う男は、娘に執拗に犯罪をしたのだろうと聞き出そうとする。娘が反抗して相手の誤りを正し、本当の事を言ってしまう。その男は後に火事で死ぬ。これも娘のしたことだった。母親はノイローゼになり、娘と心中を図る。しかし娘は生き延び、自分も銃で死のうとしたが一命を取り留める。娘は嵐の夜、湖に行く。母親がメダルは湖に捨てたと言ったから、取りに行こうとしたのだ。桟橋で湖をさらっていると雷が落ち、娘に直撃する。

2025年12月8日月曜日

アリバイ 昭和38年

牛原陽一監督、日活、92分、白黒映画。二谷英明と宮口精二の二人の刑事が主な登場人物である。東京の新興住宅地で拳銃による殺人事件があった。映画はパトカーがサイレンを鳴らし、駆けつける場面から始まる。使われた拳銃は立川の米軍からの物らしい。何丁かの拳銃の行方を調べる。拳銃の取引をしている男を調べる。しかしその男にはアリバイがあった。これでは逮捕できない。また被害者が勤めていた会社は中国人の経営する会社との取引で不審なところがあった。しかしこの線で調べても尻尾を出さない。

宮口の妻が死に、その葬式で二谷は思いつく。アリバイがあるといっても本当に本人か。もう一度調べ、実際は似た別人であったと分かる。捕まっている男の妹を誘拐し、自白しないように中国人の一味は企んだ。それで外国に高飛びするつもりでいた。誘拐された妹が匿われている世田谷の家に刑事らは入り込み、誘拐被害者を助け出し、悪漢どもと銃撃戦をやって捕まえる。高飛びしようとしていた首領たちも寸前で羽田空港で捕まった。

今村均回顧録 日本人の自伝第12巻、平凡社 1981

陸軍大将今村等の回顧録の抄録である。今村は仙台の出身で、軍人になってからの回想を書いている。今の日本は軍人が社会の中枢の一部ではない。自衛隊はあるが、かつての軍人と今の自衛官では、かなり心情は異なるのではないか。自衛官の方は知らないが、この今村均という軍人の回顧録を読むと、今ではなくなった軍人の心構えや軍隊での実際が分かる。

およそ自叙伝は高齢になって昔を思い出して書くのだから、事実そのままでなく、その本人のかつての人生の意味づけが書いてあると言える。本書を読むと著者は軍人として快男児であった。また上司への理解や軍人としての心構えも感心する。もちろん、先に書いたように自分の意味づけであるから、正確さを云々してもしょうがない。それ以上に昔の軍隊の実際の一例が分かるのでこれは貴重な資料である。

2025年12月7日日曜日

無常 昭和45年

実相寺昭雄監督、ATG、143分、白黒映画。関西の旧家、長男は実家の業を継ぐ気がなく、姉に養子でも迎えればいいと言っている。その姉は家で働いている男や、長男の同級生である僧侶から慕われている。両親など家の者がいなくなった日、長男は姉と関係を持つ。姉は妊娠する。まさか相手が弟とは知らず、家で働いている男と結婚させる。友人の僧侶は姉弟の関係を知っていた。それでなじるが長男は気にしない。ある日、結婚した男は自分の妻と弟が寝ているところを発見し、絶望のあまり鉄道自殺する。

長男は仏像作りに関心があり、師匠に習っている。その師匠は妻と、もう夫婦間の関係がなく、長男はその妻とも関係する。友人の僧侶から長男はなじられ、議論して天国や地獄の発想を笑い飛ばす。師匠は死んだ。その息子が長男のところに来て、親の死はお前のせいだと非難する。長男を刺そうとして誤って自分を刺す。長男は夢の中か、祖母が地面から大きな鯉を掘り出しているので手伝う。その鯉の腹から多くの者の霊(?)のような塊が出てくる。映画の最後は幼児を連れて寺の外の階段を上る姉の姿である。

2025年12月6日土曜日

Monster モンスター Lizzie Borden took an ax 2014

ニック・ゴメス監督、米、87分、リジー・ボーデン事件のテレビ映画。1982年の夏、米東部で老夫婦が殺害され、その娘であるリジー・ボーデンに容疑がかかった事件。

真昼に起きた事件で、リジー・ボーデン役のクリスティーナ・ リッチが殺害された父親を発見して驚愕し、叫ぶところから始まる。斧で潰された顔が映し出される。事件当時、家にはリッチと女中しかいなかった。それでリッチに容疑がかかり、査問会が開かれ、リッチは被告となって裁判が開始される。結果は証拠不十分で無罪だった。しかし町の人たちから白眼視され、村八分になるまで描かれている。

この事件は、やはり同様のテレビ映画で「リジー・ボーデン 奥様は殺人鬼」(1975)の他、2018年には『モンスターズ 悪魔の復讐』という映画も作られている。邦題はみなモンスターと名付けているが、原題はリジーの名を冠した普通の題である。

エコール Innocense 2004

ルシール・アザリロヴィック監督、仏白英日、121分。女子(小学生くらい)のみの寄宿学校が舞台で、女子の生活が描かれる。生徒らはそこから勝手に出られない。

映画の初めは棺が届き、開けると少女(東洋系)が入っている。これがこの学校の入学で、他の生徒らとバレエの練習をして過ごす。外の生活に関心がある。ある少女は舟に乗り、川から漕ぎだしたが、後に水死する。審査があってそれに選ばれれば外にいける。どうしても選ばれたかった少女がそうでないと分かると、脱出して塀を乗り越え逃げる。教師はもうその生徒の話をしないようにと残りの生徒に伝える。いつまでも学校にいられるわけでない。大きくなると、一定の数の女子が外に引率され、列車で遠くの町に行く。そこで新しい教師に引き渡される。噴水のある池で少女たちは脚を水に入れて遊ぶ。そこで映画は終わり。

2025年11月30日日曜日

ガルシア=マルケス『百年の孤独』 Cien anos de soledad 1967

本書の原作は1967年、初の邦訳は1972年に出た。その改訳が1999年と2006年に同じ新潮社から出た。改訳の文庫化が本書である。コロンビアの架空の村、マコンドが舞台である。この村の創設者であるホセ・アルカディオ・ブエンディアとその妻ウルスラから始まる、ブエンディア家年代記とも言うべき小説である。20世紀の小説中、傑作とされノーベル文学賞を受賞、世界中でベストセラーになったと宣伝文にある。ただ他人の評価など自分が読んで面白くなければ意味がない。ノーベル文学賞にどういう価値があるか知らないが、賞金が巨額だから受賞者は大喜びだろう。それにしても多くの人々に読まれているので、読むに値するのではないかと思われる。

この小説の内容については既に多く書かれている。そこでこの小説がどういう点で、それも形式、書き方に関して、近代文学とどう異なっているか、自分の理解を書いてみたい。18世紀から19世紀は近代小説の完成期で多くの長編小説が書かれた。近代小説は大きな特色がある。人間を描くのが中心になった、という点である。例えば『赤と黒』や『罪と罰』を見れば明瞭だろう。他にもオースティン、バルザック、トルストイなど、19世紀の西洋小説群も同様である。それ以前の文学では話がどう進むのか、筋の展開の記述が主であった。古くなり過ぎるが、神話や伝説などを見れば分かるだろう。聖書に出てくるアブラハムやヨセフ、ダビデなど何をした人物か知っているが、性格は書かれていない。

『百年の孤独』は20世紀の後半、1967年に書かれた。もう19世紀型の近代小説を踏襲していない。20世紀の文学史について語る知識はないが、この小説は登場人物の人格を書き分けるのが目的となっていない。だから個々の人物について十分理解しえないから感情移入もしにくい。近代小説に慣れた読者にはとっつきにくいかもしれない。それでも大まかな人間像は分かる。

小説の女たちは愛に生き、家に仕え、家を仕切る。現実的であり、生命力の源である。男たちは自分の関心事だけに熱中し、壮年時に金や権力があれば好き勝手に振舞い、そのせいで長生きできたら呆けた鈍物になる。男と女の一つの典型に思え、小説では個々に肉付けされている。

名前について触れたい。家系図の下の方にレナータ・レメディオス(メメ)という名がある。この娘が生まれた時、よそ者の母親は自分の母の名、レナータとつけようとした。しかし太母ウルスラは一族にある名のレメディオスとしようとし、もめた末、双方の名をとって命名された。つまり一族の者であれば伯(叔)父(母)や(祖、曾祖)父母の名などを付けるべきなのである。だから男子であれば、必ず(ホセ・)アルカディオかアウレリャノにする。これは一家の男であると意味し、この小説の本質的要素の一つなのである。アルカディオ系とアルレリャノ系の夫々の性質についてウルスラは語っている。

この小説には空飛ぶ絨毯、空中浮遊、人体の文字通りの消失など超常現象が出てくる。この小説はSFでも幻想小説でもない。これら超常現象は普通の出来事と同等に扱われている。大体この小説は普通の出来事といっても恐ろしく変というか、滅茶苦茶というか、まともでない事柄が多く出てくる。だから超常現象を特別視する必要もない。それだけ取り出して、それが本小説の特色と言ったら適当でないと思う。通常の出来事と渾然一体となっているのである。

ともかく西洋近代小説を中心に文学に親しんできた者に、この南米の小説は新しい世界を開かせると思う。他の南米の長編小説もこれから読んでいきたい。

この文庫本は筒井康隆の解説がついていて、それが売りであると思う人は多かろう。以下、私事を書く。この小説は古い訳本を昔買っていて、初めはそれを読み出したのだが、途中で新訳があると知った。しかも新訳には家系図が付いているという。最初の訳本にはないのである。この小説で家系図がなかったら、照明のない暗夜行路ではないか。しかも筒井康隆の解説付きである。それで久方ぶりに書店でこの新刊の文庫を買った。大昔から知っている書店であるが、久しぶりなので買うのに戸惑った。出てからそばにある古本屋街で明治文学全集を2冊、各200円で買った。中を見ると綺麗な本で近くにある女子大の図書館の除籍本だった。それはどうでもいい話だが、筒井康隆の解説である。筒井は本書を読んで「この手があったか」と衝撃を受けたそうである。読んでいくとこの小説に影響を受けた日本の小説の名や、初めて紹介された時に、読みもせずにと筒井は書いているが、けなした老大家の作家がいたそうで怒っているが、もう鬼籍に入っていると思うので誰か書いてほしかった。

2025年11月29日土曜日

丸山眞男回顧談 上 岩波現代文庫 2016

政治学者、思想史家の丸山眞男が弟子である松沢弘陽、植手通有を聞き手として、自らの人生を語る。まず敗戦前後の状況から始まる。そこから過去に戻り、府立一中、一高時代の話になる。旧制中学は5年制だったが、4年修了の時点で旧制高校を受験できる仕組みだった。丸山は受けて失敗したらしい。これは惨めな経験だったようである。高校時代、それ以前から親しんだ映画の思い出などが語られる。他書でも書いてある、警察に検挙された経験は大きな意味を持ったようだ。また大学では文学部に行って独文学をやりたかったらしい。しかし大学では大学でしか勉強しないものをやれと言われ法学部に行った。法律は叶わないから政治に行ったそうだ。

大学に行ってからの、当時の教授連の話が多い。丸山が日本政治思想史を専攻するようになったいきさつは他書でも書いてあり、また当初、早稲田の津田左右吉を呼んできた事情も周知であろう。丸山が大学を出て助手になり、助教授になった時代は日本が戦争に突入していく時代でもある。そのあたりの政治情勢は丸山の解説でよくわかる。更にマルクス主義が全盛時代であり、マルクス主義は歴史主義で歴史の変遷を前提にしているから、自然法、自然権のような超歴史的な発想は対立的であるとも分かった。軍隊に召集され広島に行った話も周知である。戦中の自由主義の実際について記述があり参考になる。

2025年11月28日金曜日

大江健三郎『万延元年のフットボール』 昭和42年

難解で知られる大江の長編小説。四国の田舎に帰る蜜三郎とその妻。二人の間には障害児が生まれ夫婦仲は冷えている。蜜三郎の弟、鷹四は米国から帰り、故郷で若者を指導し、フットボールをしようとしている。

二人の兄弟の曾祖父の弟は、百年前の万延元年に一揆を起こし、その後高知に逃げたのではないかと言われている。故郷である谷間に戦後スーパーマーケットが出来た。その長は朝鮮人でスーパーマーケットの天皇と言われている。このスーパーマーケットから住民が好きな品物を勝手に持ち出す、強奪するという事件が起こった。指導者は鷹四である。蜜三郎は呆れて見ていて、その妻は鷹四に肩入れしており、寝たという事実まで分かった。

最後の方で鷹四は兄の蜜三郎に、過去の罪悪を話す。自分たちの妹と寝たというのである。その後妹は死んだ。東京から一時的に故郷に帰っているだけの蜜三郎は、全く鷹四のやること、人格そのものに共感できない。鷹四はなぜそんなに自分を嫌うのかと蜜三郎に叫び、その後自殺する。

蜜三郎らの家は既に鷹四によってスーパーマーケットの天皇に売られていた。その天皇が来る。手下に家を壊し始めさせる。すると家の地下に曾祖父の弟が隠れていた秘密の空間が見つかる。高知へ逃亡していたわけではなかったのだ。妻は鷹四も死んでしまった今、鷹四の子を腹に宿しているが、蜜三郎に結婚生活をもう一度やりなおさないかと呼びかける。

2025年11月26日水曜日

ドイル『バスカヴィル家の犬』 The Hound of the Baskervilles 1902

 ホームズの長篇小説の中でも評価の高い作品と言われる。次のような話である。

旧家に伝わる怪奇な話がある。そこに出てくる犬と関連しているのかと思わせる怪死事件が起きる。財産を相続する甥がアメリカから帰ってくる。しかしその男に危険が迫り、ホームズが乗り出す。

舞台は最初の方はロンドンだが、大部分はデヴォンシャーという田舎である。そこの怪しい雰囲気が小説を大きく支配している。


推理小説は長篇になると短篇に比べ、話そのものがより関心の対象になる。本書も謎解きの観点から言えば全く面白くない小説である。犯人は分かっているし、「夜光怪獣」の謎も子供だましもいいところである。なぜ評価する人がいるのか。異色作と言うべきで普段のホームズ物には見られない重厚さが感じられる、といったせいか。

この小説で一番面白かったところは、来訪した医師がホームズを欧州第二と言って、ホームズが憮然とする場面である。ここを読むと『瀕死の探偵』でホームズが(深謀だが)ワトソンを「君なんか経験も資格も大したことない一般開業医に過ぎないじゃないか」と言ってワトソンを侮辱するところを思い出した。


新潮文庫の延原謙訳は定評があるらしい。昭和29年初版で、持っているのは昭和62年の57刷、206頁、定価320円、この頃もうこんな薄い本で320円もしたのだと思った。

第二章のバスカヴィルの古文書の文語訳などは風格がある。

しかし第六章の次の文を読んだ時、少し気になった。

執事夫婦を追い出したらというワトスンの提案をホームズが一蹴するところである。


「万一罪があるとすれば、虎を野に放つようなもので、先生がたは舌をだして喜ぶだけだよ。」(昭和29年版、p.83)


文脈から言って不自然に思ったので原文をみてみた。


if they are guilty we should be giving up all chance of bringing it home to them.


これでは捕まえる機会を逃す、くらいの意味ではないか。他に持っている訳本を2種ばかりみたがやはりそう訳してある。

更にこの延原訳を読んでいたら、最終ページの最後から二行目で次のようにあり、驚きだった。


「僕はユグノー座の切符をもっている。」(昭和29年版、p.263)


原文は次の通り。


I have a box for ‘Les Huguenots.’


Les Huguenotsとは独生まれ、仏で活躍したオペラ作曲家マイヤーベアの代表作『ユグノー教徒』のことである。ウィキペディアのマイヤーベアの項を見たら『ユグノー教徒』の解説のところで『バスカヴィル家の犬』が言及されている。

訳者はクラシック音楽に詳しくなかったかもしれない。しかし当時は音楽ファンでも、ほとんどマイヤーベアなんて聞いたことがなかったはずだ。マイヤーベアは生前は人気があったが、死後は忘れられた。この訳が出た頃は、録音があったかも疑わしい。今では再評価され録音やDVDなど結構出ている。


ところで現在、延原訳として出ている新潮文庫は改版しただけでなく、子が訳文に修正を加えている。新版(平成23年)で見たら、上のユグノー座は『ユグノー教徒』(p.314)になっている。ただ虎を野や舌を出すのところ(p.95)はそのままである。

更に驚いたのは第二章の古文書が口語表記になっている。文語では読みにくいという配慮なのだろう。また新版では活字が大きくなっている。

延原訳の新旧を比べたら、文語文や、山中峯太郎に叶わないが自由訳、更に爆笑物のユグノー座など旧版は珍品と言うべきで、旧訳が好きである。

2025年11月25日火曜日

志村五郎『鳥のように』筑摩書房 2015

前著『記憶の切絵図』に続く本である。前著は著者の自叙伝といった感じで、特に文庫の最初の100ページほどは少年期を書いてある。戦前の東京では、生活がどんなであったかの一例として面白い。それに対して本書は著者の関心の赴くままの随筆である。学者というものは一国一城の主で、たいてい、かなりの自信家である。そうでなければ学者などやっていけないのだろう。この本でも著者の自信家ぶりは伺える。

本書の中では丸山眞男について書かれた章が特に有名であるようなので、それについて述べる。政治学者の丸山は東大を辞めた後、1975年10月にプリンストンの高等研究所に来た。プリンストン大にいた志村あてに、丸山の世話を頼む依頼が数通来たとのこと。丸山は志村より15歳ほど年上で、戦後を代表する政治学者、思想史家として有名だった。しかしながらここでは志村は丸山をかなり「やっつけて」いる。プリンストンで知り合った丸山がいかに中国の古典や成句に関しての無知であるかをさんざん書き、更に丸山は音楽好きでも知られたが、その音楽に関しても無知なので呆れているといった調子である。また丸山の自分自身の無知に対して素直でない態度も書いてある。丸山は学者というよりジャーナリストだとも評している。著者は前著でも、権威とされている数学者を遠慮なく批判している。これは同業者だからその気になる場合もあろうと思われる。しかし畑違いの丸山を、どうでもいいような事を含めて下げているのはどういう訳か。これは文中にある、丸山が著者について書いた書簡を読んだせいと分かる。その本は『丸山眞男書簡集2 1974-1979』みすず書房、2004である。その中で1975年11月6日の小尾俊人(みすず書房創業者)あての書簡で、知り合い、世話になった志村を次の様に評している。

プリンストンの数学者は日本人が多く、「・・・志村[五郎]教授はプリンストンの看板教授です。(中略)先日も志村教授のカクテル・パーティに招かれて(中略)志村教授とダべりましたが、非常に趣味と関心が広い反面、自信過剰で、政治=社会問題について平気でピントの狂ったことをいい、「第一級の専門家でも、一たび専門以外のことを発信する場合は一言も信用してはいけない」というレーニンの言葉を思い出しました。(以下略)(同書p.62~63)

ここを読んで志村は怒り心頭に発したのだろう。もっとも丸山は、後に志村あての書簡を書いている。同書簡集の1976年6月18日付けではバークレイに移った後にプリンストンで世話になったお礼とバークレイの様子を伝えている。更に帰国後、1977年7月27日付けでは、信州に来ていたらしい志村あての書簡で、音楽関係の話題、贈られた品の謝礼、招待されていたらしい信州行きについて触れている。丸山は1996年に没し、2004年に出版されたこの書簡集を読んで志村は怒り、丸山が自分の悪口を書いているから、この文を書けると本書で言っている。

そこで志村の丸山の批判は、朝鮮戦争の勃発は北朝鮮側からの攻撃なのに、それを丸山はそう認めていない、という点を中心にしている。実は左翼の風潮が強かった1970年代くらいまで、朝鮮戦争は南側からの戦争であったという説が幅を利かせていた。多数派が間違えていたからといって、丸山の免責にはならない。しかし丸山を批判するなら朝鮮戦争に関する認識だけでは弱い気がする。もっと根源的な批判は何か。自分が思うに、丸山は20世紀の終わり頃まで、平成まで生きたのだが、最後まで革命とか社会主義に対する期待(幻想)を捨てきれなかったようだ。これは認識というより信念、心情の問題なのだろうが、政治学者だから批判されてもしょうがないだろう。この文には「丸山眞男という人」という題がついているが、文は人なりというか読んで「志村五郎という人」という感想もした。

2025年11月24日月曜日

鈴木貫太郎自伝 昭和24年

終戦内閣で総理大臣を勤めた海軍軍人、鈴木貫太郎の自伝である。鈴木は慶応3年大阪で生まれた。その後関東で育った。海軍に入ろうとする鈴木に対して周囲は、海軍は薩摩でなければ出世が出来ない、と言って止めたそうである。実際に海軍兵学校に入ってみると、実際に九州人が圧倒的多かったという。海軍兵学校は江田島に移る前、築地にあった時分で、最後のそこの卒業生になったという。

軍人になってからの実際の経験は、もちろんそれなりに面白いが、何と言っても本自伝の核は終戦の年、4月に内閣総理大臣を拝命し、終戦をどのように行なったかの記録である。最後の御前会議でポツダム宣言を受け入れるべきか否か、反対と賛成が拮抗する中、昭和天皇の決断でポツダム宣言受諾が決まった。その際、大臣らの中には大声を上げて泣いた者もいたそうである。これら実際に歴史の場にいた者の、直接の記述は貴重である。

2025年11月20日木曜日

闇のバイブル/聖少女の詩 Valerie a tyden divu 1969

ヤロミール・イレシュ監督、チェコスロヴァキア、74分。祖母と住む少女は町に来た役者たちを見る。その中の不気味な男を恐れる。この男は何者か。後の方で主人公の父親かと思わせる場面がある。更に祖母が若返りする。聖職者は主人公を犯そうとし、失敗したので主人公を魔女と断定し火炙りの刑に処せられる。それでも主人公は助かった。このように幻想的に話は進んでいき、筋はよく分からない。主人公の少女を初め、幻想的な映像を見る作品である。

小さな悪の華 Mais ne nous délivrez pas du mal 1970

ジョエル・セリア監督、仏、103分。仲良しの二人の少女たちがかなり質の悪いいたずら、に留まらず、悪事までするに及ぶ。二人の少女たちは大人たちを誘惑したり、小鳥を殺したり、あげくのはては放火までする。

ある日、道で車が故障している中年の男を、自分の家に連れて来る。そこで下着姿になって、男を迷わす。男は欲情によって女子に乱暴しようとする。その時にもう一人が男の頭を打ち続け、殺してしまう。男の死体を池に沈める。後に警察が二人それぞれを呼び出し聴取する。学芸会で二人は詩を朗読する。最後に油で火をつけ舞台は炎に包まれる。

2025年11月19日水曜日

リジー・ボーデン 奥様は殺人鬼 The legend of Lizzie Boden 1975

ポール・ウェンドコス監督、米、96分。19世紀末に米東部で起きた、老夫婦殺害事件を元にしたテレビ映画。容疑者は被害者の娘、リジー・ボーデンだった。裁判が開かれ、リジーは証拠不十分で無罪になる。しかしリジーの犯行ではないかと思われ続けた。リジーは1920年代まで生きた。米国では非常に有名な事件と以前読んだ本に書いてあった。

この殺害事件の映画化では、より最近に『モンスターズ 悪魔の復讐』という凄い邦題(原題はLizzie)の、2018年製作の映画がある。『リジー・ボーデン 奥様は殺人鬼』では事件の起きた後から映画が始まり、査問会、裁判などで過去を回想する場面で事件当時の映像になる。この映画ではリジーが裸になって殺人を犯し、それで返り血を浴びなかったとなっている。この設定は、2018年の『モンスターズ 悪魔の復讐』でも踏襲されている。

なお邦題の副題「奥様は殺人鬼」は、この映画の主人公がドラマ『奥様は魔女』で有名だったから。リジーは独身である。

2025年11月18日火曜日

沙耶のいる透視図 昭和61年

和泉聖治監督、プルミエ・インターナショナル製作、102分。ビニ本のカメラマンは同僚にある女を紹介され会う。その女の倦怠で謎めいた雰囲気に惹かれ寝たくなる。しかし女は拒否する。再会してから、その女が紹介してもらった同僚とかつて何か関係があったと知る。またケロイド状の男の局所のスケッチを女は持っていた。カメラマンは同僚の身体を見た時、ケロイド状になっていると分かった。

同僚は自分の母親と、近親相姦的な関係があったと告白し、女との関係を推測するカメラマンの想像を否定する。後にカメラマンは同僚から電話があり、雨の中に横たわっている女と性行為をしろと言われる。それを映画に撮りたいのだと言う。カメラマンは女を抱きかかえ、部屋に連れていく。女とカメラマンがいる部屋の窓の外を同僚が落ちていくのを見る。

2025年11月14日金曜日

八月の濡れた砂 昭和46年

藤田敏八監督、日活、91分。高校生の若い男のかつての旧友、今は退学している、が校庭にやってくる。サッカーのボールを蹴って学校の窓ガラスを壊す。その若い男がオートバイで浜辺を走っていると、女が車から放り出されるのを見る。服も破れている。助けてオートバイに乗せ、服を持ってきてやると言って置いておいた場所には、戻ってみるといなかった。後になってその女の姉という者から妹を暴行しただろうと脅される。抗議する。乗った車の中で女を押し倒したら、車のレバーが折れてしまい、やる気がなくなった。

友人の退学生は、母親と再婚した中年親爺が嫌いである。若い男は後に最初会った若い女に海水浴で賑わう浜辺で会い、自分を暴行した連中があそこにいると告げられる。その連中と喧嘩を始める。友人の退学者も来て相手方と戦う。連中の車を奪い、逃げる。退学者の義父は良くないことをしていた。退学者は義父にヨットに乗せてくれるよう頼む。友人の高校生とあの姉妹二人も連れてきた。乗ろうとする時、ライフルを義父に向け、ヨットから降ろし、若い者だけで出港する。沖に出てから二人の男は姉妹のうち姉に暴行を働く。妹が銃を向けたが結局発砲しなかった。妹は船内でライフルを壁に向かって撃ち、穴を開け、海水が浸水してくる。

2025年11月12日水曜日

ヨーヨー Yoyo 1965

ピエール・エテックス監督、仏、98分、白黒、一部無声。1925年から始まる。当時の映画は無声だったので、無声である。富豪の生活が描かれる。恋人がいたが今は会っていない。恋人はサーカスで働いており、息子ヨーヨーがいる。富豪はこれは自分の息子かと尋ねる。大恐慌の時代となる。富豪も破産した。

富豪は妻と息子の三人で車に乗って巡業サーカスをする。チャップリンやフェリーニの映画を模した場面や写真が出てくる。グルーチョ・マルクスの写真の向こうにカール・マルクスの写真がある。時代が変わり、映画は無声から発声になる。息子のヨーヨーは成人してピエロになっている。親の富豪をやった役者が大人になったヨーヨーを演じる。テレビの時代が来る。ヨーヨーはかつて父の住んだ邸宅を求める。今では廃墟である。そこを入手し、芸などやらせる。

2025年11月11日火曜日

稲盛和夫『ガキの自叙伝』日本経済新聞社 2002

京セラの創業者、稲盛和夫の自叙伝である。稲盛は昭和7年、鹿児島に次男として生まれた。内弁慶の泣き虫だったそうだ。ガキ大将だったが、肺炎にかかった。治ったが戦争で家は焼失。闇商売に精を出した。兄弟の中で和夫だけ高校から大学を目指せた。阪大医学部を受けたが不合格。鹿児島大学の工学部に入った。

卒業後、入れてもらえたのは京都の会社。家族の期待を背負って入ると、潰れかけの会社だった。一緒に入った連中は辞め、最後の一人となった。そこで研究に打ち込み、松下電器から注文があったセラミックによる部品を開発する。後に仲間と共に京都セラミックを作った。後はいかにして会社を成功させたかの話である。全く休みも何もかも犠牲にして仕事を続け、それが会社を成長させたとある。

モンスター・パニック/怪奇作戦 El hombre que vino de unno 1970

トゥリオ・デミケリ監督、西、独、伊、87分。地球征服のため送りこまれた宇宙人博士は地球の怪物を復活させて、目的を果たそうとする。死んだ学者を甦らせ、吸血鬼、狼男、フランケンシュタインなどを復活させる。博士の陰謀を知った刑事は恋人と共に探る。怪物どもを復活させたものの、言うことを聞かず、怪物同士の戦いなど始めて、最後はアジトだった城ともども宇宙人博士らは滅び、炎上する。

2025年11月8日土曜日

原武史『日本政治思想史』新潮選書 2025

政治思想史となっているが、歴史を追って思想家やある思想を解説していく形式でない。例えば「空間と政治」とか「時間と政治」という切り口で日本の政治を捕えていく。また徳川の政治体制を朝鮮との比較で論じる。天皇が日本の政治でどういう意味を持ってきたのか、現在までその意味を考える。

江戸時代の本居宣長や平田篤胤を論じるなどは標準的な話題だが、鉄道がもった政治思想とか東京と大阪の比較など新鮮な視点である。更に近代の政治思想の中でマルクス主義とキリスト教を正統と異端の議論の中で論じ、戦後の日本の政治体制についても議論する。新鮮で多岐に渡った議論であり、読んでいて面白い。何より読みやすいところが長所である。

2025年11月6日木曜日

ローズ家の戦争 The war of Roses 1989

ダニー・デヴィート監督、米、116分、マイケル・ダクラス、キャスリーン・ターナー出演。弁護士のデヴィートが過去の離婚騒動を話す。ダグラスとターナーは恋愛の末、結婚した。ダグラスの事業は順調に進み、ターナーお気に入りの屋敷を購入、内装を凡て自分の納得のいくよう変えた。二人の子供は大きくなり大学に入る歳頃になる。

ターナーはダグラスとの結婚を厭うようになってきた。しかしダグラスにはその気はなかった。特にターナーが屋敷を自分の物にしたいと言いだすと後に引けぬよう抵抗する。同じ家に住んで、建物の中で夫々の領域を決めた。お互いのにらみ合いは亢進していく。ターナーの飼っていた猫をダグラスが誤って轢き殺す。ターナーが家で料理会を催すと嫌がらせの極で妨害する。ターナーはダグラスの飼っていた犬を食事に出す。最後は落ちそうなシャンデリアの上で二人がにらみ合い、そのシャンデリアが落下して二人とも死ぬ。

板坂元『考える技術・書く技術』講談社現代新書 昭和48年

半世紀前に出てベストセラーになった本。当時読んでそれなりに感心した。半世紀経って再読するとやはり古いところを感じてしまう。読んでいると著者は収集癖があるようで、また発想を麻雀に例えたりしている。収集も麻雀も興味ない自分としてはやや縁が遠く感じた。

書く方についての議論は、パソコンもワープロもない時代である。これは考える方もそうで、インターネットなど夢にも思わなかった頃である。現代ではかつてほど感銘を与えない。それでももちろん読んでためになる部分もある。歴史的文書であろう。

2025年11月5日水曜日

宮島未奈『成瀬は天下を取りに行く』新潮文庫 2025

成瀬あかりとその友人である島崎ほかが出る、青春小説である。主人公の成瀬は極めてクール、だけではなくて、なんでも出来る、成績もよいというスーパーガールである。しかし変人というか他人を全く意識せず、どう思われようが気にせず、周りから敬遠されている。島崎は例外的に成瀬の友人となってきた。

短い挿話、短編の連作といった感じで成瀬を巡る、あるいは舞台である大津市に住む人らが出てくる。本作は大津市のご当地小説といった感じで、大津について西友が閉鎖される(実際の出来事)から始まって、色々な情報が分かる。

2025年11月4日火曜日

盲獣 昭和44年

増村保造監督、大映、84分、総天然色、出演は船越英二、緑魔子、千石規子の三人だけである。江戸川乱歩の『盲獣』を原作とあるが、乱歩の小説とはかなり違う。主人公が盲人で「触覚芸術」なるものが出てくるのが共通である。原作は主人公が殺人犯で、乱歩の小説の中でもエログロが甚だしく、著者が後に書き換えたのは有名。自分が最初読んだ講談社の全集や角川文庫はこの改作版だった。春陽文庫は元通りで有名だったし、創元推理文庫も元の版である。

さて本映画も原作とは違うとはいえかなり「ひどい」映画である。今なら作れないし、別の意味で当時も、よく作れたものだと思ってしまう。なぜこんな映画を作ったのか。自分の理解は次の通り。製作は昭和44年で、日本映画界はどん底にあった。テレビの普及で映画観客人口は激減、更に作り手本位の「アート」志向の難解な映画は普通の映画ファンも日本映画から遠ざけた。しかし映画は商売だから売れる物を作らなければいけない。それでテレビでは作れようもない、エログロ映画にしたのか。

なお石井輝男監督の『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』も本映画と同じ年の映画である。『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』を昔名画座で見た時、あまりの安っぽい作りに啞然としてしまった。しかし今ではカルト映画と評価されているらしい。本『盲獣』も昔、文芸坐地下か何かで見たが、女体を模した山を這っている場面くらいしか覚えていなかった。今ビデオで見直して、これほど過激な展開だったのかと改めて知った。

2025年11月3日月曜日

われら劣等生 昭和40年

佐藤雄三監督、東映配給、87分、白黒映画。田村正和、いしだあゆみ出演。高校生活を描いた映画。同じ組に、大学進学組と劣等生を自認し進学しない生徒がいる。田村は進学しない方である。これは田村の家が母子家庭で、母親の情人である男が田村の進学費用を出してくれると言っているのだが、田村はそれを嫌がっている。

いしだあゆみ他の女学生は、身だしなみに気を付けて生活を送っている。同じ学友に太田博之がいて、進学組のガリ勉である。学校祭で何かやろうとし、劣等生らの方が学校のミスを選ぶ投票をしようと言いだす。女学生たちは何とか自分に入れてもらおうと躍起になる。投票直前になって、教師らにこの学校ミス投票が発覚し、怒る教師が出てくる。指導役の教師、校長ほか教師の前で、田村は言い始めたことだから止められない、と答える。投票が行われる。

田村の母親は大学にやれないと言い出し詫びる。情人の男が関係を打ち切ったからだ。田村は男は最初から身体だけ目当てだったのだと言い、学校を辞める決心をする。ミス投票の開票の時が来た。校庭の真ん中に持ってきてぶちまけた投票用紙の山に、田村は火をつけて燃やす。その後、田村を学校に戻そうと学友らが言い出す。期末の数学の試験、その最中に田村は勤め先から学校の校庭に来ていた。試験が終わって外に出た生徒らは田村を見つける。声をかけると田村は逃げ出す。みんなで追う。田村は止めてあった小型トラックに乗って去っていった。

燃えつきた納屋 Les Granges brûlées 1973

ジャン・シャポー監督、仏、95分、アラン・ドロン、シモーヌ・シニョレ出演。雪深い田舎で車の傍に女の死体が発見される。大金が盗まれている模様。近くの農家、これが「燃えつきた納屋」と呼ばれる家で、女主人がシモーヌ・シニョレである。アラン・ドロンが予審判事としてやってくる。

シニョレの子供たちは成人だが不満が多い。都会に出たい、田舎で百姓などやりたくない。例えば次男の嫁は家におらず、ホテルで働いている。シニョレの、一家への締め付けが子供らを圧迫してきた。それがドロンの捜査により明らかになっていくのがこの映画である。子供らは親に内緒で屋敷の敷地の一部を売ろうと思っていた。

次男の持ち物から大金が発見された。シニョレが息子を問い詰めると車が止まっていて中に金があったので盗んだ。ただし殺人はやっていないと答える。後にドロンがこの屋敷の捜索に来ると、シニョレは金を自分の懐に隠す。更にその後、今度は長男が容疑者となった。実は長男は次男の嫁と結婚したかった。今ホテルで働いている次男の嫁と逢引するために来た件で容疑になった。シニョレが長男を問い詰めると、母親のシニョレの命令で好きでない女と結婚したのだと答える。殺人の犯人はあっけなく捕まる。ここと離れた場所で未成年者の犯行と分かった。これでシニョレの家の者の容疑は晴れた、最後にドロンがシニョレに別れの挨拶を告げに来ると、シニョレは次男が車から取った大金をドロンに渡す。

2025年11月1日土曜日

フロンティア Frontiers 2007

ザビエ・ジャン監督、仏スイス、108分。移民の五人の若者が銀行強盗し、外国へ逃げる計画を立てる。しかしそのうち一人は死に、後は二組に別れて逃げる。最初の男二人は怪しげな宿屋に着く。そこで娼婦から迫られ、関係を持つ。しかし宿屋の男どもが暴力をふるい、逃げ出すが車は崖から落ちる。そこから二人は何とか這い出し、洞窟のようなところに入るが入口で追手が待ち構えていた。

後の男女二人は前の者らから連絡のあった宿屋に着く。そこで宿の者から場所を変えたと言われる。二人がいる別の屋敷に連れていかれる。不気味な雰囲気である。男の方が部屋から出て屋敷内を探ると仲間が逆さ吊りになっているのを発見する。逃げようと部屋に戻って女に言うが、屋敷の者らは捕まえて檻に入れる。そこから何とか女は逃げ出すが、道の向こうから来たトラックに乗ると、それは屋敷の一員で連れ戻された。仲間の他の男らは残酷に殺される。

女は子供を産むために、長男と結婚させられる。ここの一家はナチスの残党か、ナチスの同調者たちだった。ただ若い女がいて、よそから連れてこられ、巨魁な次男と結婚させられている。この女は捕まった女に同情的である。女を家族の一員として迎える儀式で女は逃げ出し、屋敷の者らと戦いになる。最後に敵方を倒し、自動車で屋敷から逃げる。

2025年10月31日金曜日

月光仮面 怪獣コング 昭和34年

相野田悟監督、東映、59分、白黒映画。嵐の夜、囚人らが脱走し、科学者の博士が誘拐された。これは国際暗殺団による。同団は日本の政府首脳達を倒すつもりだった。次々と政府高官が殺される。次の標的は警視総監だった。総監が車に乗っていると、怪獣コングが現れる。怪獣というより普通の人間大で、顔つきが醜悪であるが、背広を着ている。そこに月光仮面が現れ、総監を救う。

コングは銃で撃たれても平気である。更にヘリコプターを運転し、そのヘリコプターが爆破されても死なずに再登場する。入院した総監を別の手で殺そうとする。祝探偵は国際暗殺団に変装して乗り込み、総監暗殺の手段を探ろうとしたが見つかり、以前攫われた博士と同室の檻に収監される。祝探偵と博士はそこから逃げ出す。総監の病室に探偵が行く。置いてあった花瓶の中に時限爆弾があり、寸前に止める。国際暗殺団の首領は怪獣コングに変身するが、月光仮面らの活躍で倒される。

ゴーガイルズ生きている怪獣 Gargayles 1972

B・W・L・ノートン監督、米、94分、総天然色。砂漠に考古学の博士は娘と一緒に行く。そこにいる老人からの連絡で何か興味をそそるものがあるらしい。着いてみると観光客向けのちゃちな博物館であったが、老人はゴーガイルズの骨の標本を見せる。これを見ても博士は感心しなかった。しかしその老人宅は何物かに襲われ火事になる。車で逃げる博士はその際、怪物の頭蓋骨を持って行った。車の屋根に何かが張り付いているらしい。ホテルに着くと車の屋根がギザギザに切られていた。

夜になって怪物、ゴーガイルズがホテルに襲いに来る。あの頭蓋骨を取り返しに来たらしい。気づいた博士は怪物の一匹を倒す。後になってその仲間の死体を取り返しに来たゴーガイルズに博士の娘はさらわれる。今度は博士の娘を取り戻しに警察その他が繰り出す。娘を救い出し、怪物の卵を焼き、怪物らを大空に追い払う。

2025年10月30日木曜日

大蜥蜴の怪 The giant gila monster 1959

レイ・ケロッグ監督、米、74分、白黒映画。原因不明の車の事故が多発する。しかも乗員は見つからない。地元の保安官など調べるが、不明である。これは大蜥蜴が現れ、それに押されるか、あるいは驚愕してハンドルを切り損ね、事故になったのである。

更に大蜥蜴は鉄道の橋を壊し、それによって列車を脱線転覆させる。大蜥蜴は散乱した列車に向かう。多くの人が会場に集まっていたところに、大蜥蜴は現れ、恐怖のどん底に陥れる。ニトログリセリンがあったことを思い出した男がニトロを車に積み込み、その車から飛び降りて大蜥蜴に衝突させ爆破、炎上して怪物を倒す。実写の蜥蜴をミニチュアのそばで大きく見せさせている。

地獄の逃避行 Bad lands 1973

テレンス・マリック監督、米、95分。1958年に起きたスタークウェザー事件からヒントを得て作成された映画。マーティン・シーンとシシー・スぺイシクが二人の男女を演じる。

実際の事件より犯罪を少なくし残虐な場面もない。ともかくスペイシクは好きになったシーンに付いて行くだけで、原野のようなアメリカの大地を逃げるだけの生活にうんざいしてしまう。警察が見つけると、早めにスペイシクは降参、自首する。シーンはその後も車でパトカーをまこうとするが、最後は警官に降伏する。捕まってから軍隊の施設でのシーンとスペイシクの会話などがある。

2025年10月29日水曜日

女王蜂の怒り 昭和33年

石井輝男監督、新東宝、75分、原則的に総天然色だが夜の場面は白黒になる。久保菜穂子ほか出演。港町で久保の率いる組と天知茂率いる新興組が争う。映画の冒頭は港祭りで踊り子たちが踊っている場面であるが、新興組の連中が騒ぎ出す。久保が子分を引き連れ現れる。

そこに宇津井健演じる風来坊がやってきて収める。宇津井は新興組の組長の娘、星輝美に好かれ、組のキャバレーに行く。天知の手下の菅原文太が星と踊っているところを、宇津井は星を横取りして踊りだす。宇津井は天知の前で拳銃の腕を見せ、雇われる。襲名披露で親分衆が集まっている際に、仕切る天知は久保のところに招待状を出さなかった。久保が怒って現れ、天知を衆人環視の中でなじる。

天知は久保の組がやっている荷物を夜中に強奪する。それで弁償金を払わなければならなくなった久保は金に詰まる。博打で取り戻そうとするが、逆に天知に負ける。同席していた宇津井が後に天知のいかさまを久保の組の佐々木孝丸に教える。佐々木は天知に掛け合い、いかさま黙殺と引換で弁償金を取り戻そうとするが、天知の奸計にひっかかる。久保の組は堅気になる代わりに島を天知に引き渡し、金を受け取る予定だった。だが眠り薬を飲まされ、久保は天知の毒牙にかかる。久保と天知の組は波止場で決闘となる。そこにあの宇津井が海上保安官の制服を着て現れ、天知を逮捕する。久保は堅気の社長になって港祭りで踊りを見ながらで映画は終わり。

2025年10月28日火曜日

ベーオウルフ Beowulf

副題に「中世イギリス英雄叙事詩」とあるように、英雄ベーオウルフが怪物及びその母親を退治し、後に王となるが、最後にはやはり相手方と戦い、自分も死ぬという内容。イギリスの叙事詩であるが、舞台は今のデンマークやスカンジナビア南部である。今のデンマークの地の王は毎夜、怪物グレンデルに襲われ被害を出していた。親戚のベーオウルフが救援に来て怪物を倒す。後にそのグレンデルの母親が来る。この母親もベーオウルフは倒す。ベーオウルフは王になる。ベーオウルフの従者が盗みをし、それを取り返しに来た敵と戦い、老いているベーオウルフは敵を倒すものの、自分も致命傷を負い、死ぬ。

物語の成立は8、9世紀頃らしい。後の写本も火事に会い、写本の転記も十分でなく、学者で成立期、主題等について論争が続いてきた。(岩波文庫、忍足欣四郎訳、1990年)

ウィキッド ふたりの魔女 Wicked 2024

ジョン・M・チュウ監督、米、160分、ミュージカル映画で2部作の第1部。オズの国では悪い魔女が死んだのでお祭り騒ぎである。魔女グリンダに、悪い魔女はどんなだったか聞く者がいて、過去の話に移る。

悪い魔女は緑色の赤ん坊として生まれ、両親は驚き呆れ、その後の人生も疎んじられてきた。緑色の妹は色は普通だが、脚が悪く車椅子生活である。その妹が大学に入る。入学式で後の魔女グリンダも現れ、人気者になっている。緑色は妹の世話について来ただけだが、魔法をひょんなことから使い、女学部長に見染められ、一緒に入学する。人気者のグリンダと緑色は同室になる。初めは仲が悪く、お互い嫌っていた。転校生でいかにもプレイボーイといった男学生がやってくる。グリンダと仲良くなる。緑色はその魔法故、オズの国の偉大な魔法使いから招待が来る。グリンダに学部長を通じて魔法の杖を、緑色が贈ったので、グリンダと緑色は仲良くなる。

動物の教授がいるが、大学の方針か、迫害排除される。緑色は怒る。あのプレイボーイとも緑色は仲良くなる。オズの魔法使いへ行く列車に、緑色はグリンダも乗せ一緒に連れていく。オズの魔法使いに会う。女学部長も来ていた。魔術の本を見せられ、緑色が魔法を使うと従者等が変身する。実はオズの魔法使いは魔術が使えず、それで緑色を呼んだのである。オズの魔法使いや学部長は実は動物を虐待する張本人だった。緑色は対決する。グリンダが止めようとするが、戦いになり、緑色は箒にまたがり空に去る。

2025年10月27日月曜日

丸山眞男書簡集1 1940~1973  みすず書房 2003

 政治学者の丸山眞男が書いた書簡を集めている。全5巻で、この第1集には津田左右吉あての昭和15年6月21日付け書簡から始まり、昭和48年12月16日付けの書簡まで171通を収める。

終戦までの書簡は6通。昭和21、23、24年の書簡は一通もない。丸山は昭和46年に定年まで5年を残し、東大を辞職している。書簡から学園紛争の心労が影響していると分かる。丸山は自伝を書いていないが、この書簡集は、自伝のある程度の代わりとなりうる。ドストエフスキーの書簡がそう読まれているように。

ゴーストライター The ghost writer 2010

ロマン・ポランスキー監督、仏独英、124分。自叙伝の代筆をするゴーストライターであるユアン・マクレガーは、元英首相、ピアース・ブロスナンの自伝を引き受ける。前任者は事故死していた。ブロスナンと家族等は米の島にいる。かつてテロ容疑者を米CIAに引き渡したとして、ブロスナンを非難する勢力があった。

マクレガーは前任者の死に疑問を抱き、残された前任者が書いた自伝を読み、謎を探ろうとする。自分自身も狙われるようになった。最後にブロスナンの妻がCIAの一員であったと突き止める。ブロスナンは暗殺され、それで出た自叙伝はベストセラーになった。マクレガーは出版記念会で、ブロスナンの妻に自分が調べた事実を伝える。その会から出たマクレガーは自動車にはねられ自伝の原稿はあたり一面に四散する。

2025年10月25日土曜日

天使の顔 Angel face 1953

オットー・プレミンジャー監督、米、91分、白黒映画。ジーン・シモンズ、ロバート・ミッチャム出演。ミッチャムは救急車の運転手をしていた。ある日、事故があってシモンズと会う。シモンズの父は作家で、再婚した義母をシモンズは嫌っている。シモンズはミッチャムを好きになるが、ミッチャムには恋人がいる。いかにも悪い女よろしくミッチャムを恋人から奪おうとする。ミッチャムも美人のシモンズにつれなくしない。

シモンズの口利きでミッチャムは運転手を辞め、シモンズの家で働くようになる。シモンズが義母を嫌っており、家の雰囲気が悪いのでミッチャムは辞めようとした。シモンズは引き留めようとする。またシモンズは嫌いな義母を車に仕掛けをして殺そうとした。ところが父親が同乗し、シモンズは大好きな父親まで殺してしまう。

シモンズだけでなくミッチャムに殺しの容疑がかかる。親を殺してシモンズと結婚し財産を奪おうとしたと思われた。辣腕弁護士の提案でミッチャムとシモンズは結婚させられる。そうすると陪審員の同情を買い、無罪になるだろうと。実際、判決は無罪だった。ミッチャムは釈放されてすぐにシモンズに離婚しようと言いだす。しかし元の恋人のところに戻ってももう相手はミッチャムを拒む。ミッチャムはシモンズにメキシコに行くつもりだと言う。車で送ると言い、シモンズはミッチャム諸共、両親のように車を暴走させ崖から転落する。

2025年10月21日火曜日

管賀江留郎『冤罪と人類』ハヤカワ文庫 2021

副題に「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」とあり、冤罪についての本なのだが669ページもある大冊である。まず最初は静岡県で昭和25年に起きた有名な冤罪事件である二俣事件で、警察内での拷問を内部告発したため、干されたではすまない扱いを受け、その家族まで辛酸な目に会わされた山崎刑事の記述から始まる。次いで戦後に多くの冤罪を引き起こした有名な紅林麻雄刑事について書いてある。

そもそも紅林刑事が有名になった、真珠湾攻撃前後に静岡県で起きた連続殺人事件、いわゆる浜松事件に関して何か著書はないかと捜してこの本を知ったのだが、もちろん浜松事件についての記述もあるが、それに留まらない、膨大な論考がある。この事件に関わった警察庁の吉川澄一技師は日本で最初にプロファイリングを行なった先駆者であり、非常に優秀であったとある。更に浜松事件で有名になった紅林刑事の名声には当時の司法省と内務省の確執があったからと当時の官庁の事情が延々とある。

戦後になってから警察が、国家警察と自治体警察と二重になり、その実態について書いている。内務省の解体問題や、戦前から戦後の憲法改正に関わった政治家であり、冤罪事件の弁護士も務めた清瀬一郎について長々と書かれている。また法医学で権威であり、今では多くの冤罪を引き起こしたと記憶されている古畑種基教授、裁判官の実際などを述べ、460ページも経ってから再び山崎刑事や紅林刑事の記述に戻る。その後は冤罪がなぜ起こるかの論考である。ここで副題にある道徳感情(アダム・スミス)や精神病質について議論してある。ともかくあまりに議論の話題の幅が大きく、読み通すのは非常に疲れる。

2025年10月20日月曜日

丸山眞男書簡集2 1974-1979 みすず書房 2004

本集の中では1975年11月6日の小尾俊人(みすず書房創業者)あての書簡が有名だろう。丸山はプリンストンの高等研究所に1975年10月から明くる年まで滞在した。そのプリンストン滞在時に、知り合い、世話になった志村五郎教授(プリンストン大学数学科)を評している文がある。そこには次の様に書かれている。

プリンストンの数学者は日本人が多く、「・・・志村[五郎]教授はプリンストンの看板教授です。(中略)先日も志村教授のカクテル・パーティに招かれて(中略)志村教授とダべりましたが、非常に趣味と関心が広い反面、自信過剰で、政治=社会問題について平気でピントの狂ったことをいい、「第一級の専門家でも、一たび専門以外のことを発信する場合は一言も信用してはいけない」というレーニンの言葉を思い出しました。(以下略)(本書p.62~63)

ここを読んで怒り心頭に発した志村がその著『鳥のように』(2015)で、丸山の無知蒙昧ぶりを嘲り攻撃している。もっとも丸山は志村宛の書簡を書いており、1976年6月18日付けではバークレイに移った後にプリンストンで世話になったお礼とバークレイの様子を伝えている。更に帰国後、1977年7月27日付けでは、信州に来ていたらしい志村宛ての書簡で、音楽関係と贈答品の謝礼と話題、招待されていたらしい信州行きについて触れている。

蜂女の恐怖 The wasp women 1959

ロジャー・コーマン監督、米、73分、白黒映画。蜂を集めて研究している学者は勤務していた会社から解雇される。女社長率いる化粧品会社は最近業績が低下している。あの学者が社長に面会を求める。学者の開発した女王蜂からとれるローヤルゼリーを使えば若返りが出来ると。動物で効果を見た社長は学者に研究室を与えて研究させる。

希望により、社長自身に薬を注射して人体実験を始める。なかなか効果が現れない。会社の幹部たちは学者を胡散臭く思っている。ある日外出した学者は交通事故に会う。社長らは病院で学者をようやく見つける。社長は体の不調を感じていた。学者がいなくなったので、社長は自ら薬を注射する。目覚めた学者は知らせるべきことがあるが思い出せないと言う。その間、会社では幹部や警備員が行方不明になっていた。

思い出した学者は、社長が狂暴化すると言いだす。社長の元に行っていた秘書は社長が怪物に変身したので逃げ回る。他の社員と学者が助けに行く。蜂の怪物となった社長と社員の格闘。最後は椅子で押された怪物化した社長は窓から落ちて死ぬ。秘書は無事だった。

2025年10月17日金曜日

マルケータ・ラザロヴァー Marketa Lazarova 1967

フランチシエク・ヴラーミル監督、チェコスロヴァキア、166分、白黒映画。13世紀のボヘミアを舞台にし、王と地域の部族、部族間の争い、キリスト教を巡る話などがあり、初見では筋が掴めない。

映画の題は出てくる若い女の名で、敵方の若い男に攫われ、妊娠する。昔の東欧の冬の幻想的な映像だけでも見る価値はあるかもしれないが、内容については勉強しないと分からない映画。

2025年10月16日木曜日

カメラを止めるな! 平成29年

上田慎一郎監督、96分。ホラー映画で、後半はその映画をどうして作ったかのメイキングとなっている。映画はゾンビ映画を撮影しているところから始まる。途中で本物のゾンビが出てくる。ゾンビと出演者たちの戦い、あるいはゾンビからの逃走になる。監督はカメラを止めるなと言い、その状況を撮影していく。最後はゾンビになってしまった者とならなかった者の戦いとなり、勝ち残る者を映して終わり。

と思ったら、実はここからが本筋で、今まで映してきたゾンビ映画をどのようにして撮影したか、つまりメイキングを映す映画なのである。恐ろしくつまらない。ゾンビ映画部分は大した事なかったが、ゾンビ物なんてあんなものだろう。それをどうやって撮影したかなど、輪をかけてつまらない出来になっている。非常に評判がいい、フランスで再映画化したとかそんな前評判を聞いて見ると、その落差が大きいので、生まれてから最低最悪の映画としか思えない。

評判がいいのはなぜかといえば、これは楽屋物で、映画撮影それ自体を映画にしているので、映画関係者は喜ぶからである。これほどつまらない映画といえば、かすかに「ブレアウィッチ・プロジェクト」という評判だけで盛り上がっていて、中身は何もなしの映画を思い出すくらいである。

2025年10月13日月曜日

殺人者 The killers 1946

シオドマク監督、米、103分、白黒映画。エヴァ・ガードナー、バート・ランカスター出演。田舎町のガソリンスタンドで働いているランカスターはいつも行く食堂に、その日は行かなかった。殺し屋二人がそこに来てランカスターを待っていた。それを知らせにランカスターの同僚はランカスターに知らせるが、ランカスターはどうでもいいといった態度だった。後に殺し屋が来てランカスターを殺す。

ランカスターは自分が死んだ場合の保険金を昔いた下宿屋の世話係に払うよう指示していた。保険員がその下宿屋に行き、昔のランカスターについて調べる。係りはランカスターが自殺しそうだったと答える。女に逃げられたかららしい。映画は昔に戻る。ランカスターは酒場でエヴァ・ガードナーに会い、一目ぼれする。後にガードナーが盗品を身に着けていて、刑事(ランカスターの幼馴染)に逮捕されそうになると、自分が盗んだと嘘をつき、刑務所に入る。

ランカスターが刑務所から出てくると給料を強奪する計画が持ち上がっていた。その会合の場で、ランカスターは久しぶりにガードナーに会う。盗んだ金をランカスター抜きで山分けしようとしていたら、ランカスターが現れ、金を攫って行く。ランカスターはガードナーに教えられ、自分抜きで山分けが行われると知ったのである。しかしガードナーは金を持ち逃げする。下宿屋でランカスターが女に逃げられたと絶望していたのはその時である。数年経ってランカスターの居所を突き止めた泥棒が殺し屋を送って殺させたのである。

金はどこにあるのか。ガードナーが持っているはずである。実は泥棒を計画した首謀者とガードナーは夫婦で、それでランカスターが持ち逃げしたようにし、真相が分かるといけないので、他の仲間やランカスターを殺してきた。首謀者は虫の息で警察に告白するが、ガードナーを無実と言わずに死んでしまったので、ガードナーは逮捕される。

2025年10月12日日曜日

カビリア Cabiria 1914

ジョヴァンニ・パストロ-ネ監督、伊、無声映画、123分。古代ローマとカルタゴの戦争を背景とした映画。カビリアは娘の名であるが、主人公ではない。攫われたので、救助に行く者たちが主で、カビリア自身はあまり画面に出てこない。

カビリアが幼い日、火山の噴火で町は打撃を受ける。カビリアの屋敷も倒壊し、親たちはカビリアが死んだと思っていた。実は乳母と逃げられたが、海賊につかまりカルタゴに売られていく。ローマの軍人とその大男の従者がカルタゴに潜入していた。乳母はたまたま会ったその二人にカビリアの救出を頼む。二人は生贄にされそうになっていたカビリアを助けるが、相手方は追ってくる。軍人は海に飛び込んで逃げた。従者はカビリアを連れて逃げ、たまたま会った若い女にカビリアを託す。自分は捕まり、粉引きにされる。託された若い女はカルタゴの高官の娘であった。カビリアはその女の侍女として成長する。

ローマとカルタゴやシラクサとの戦いの場面がある。ハンニバルのアルプス越えや、シラクサでアルキメデスが反射鏡でローマの船を燃やすとか。あの軍人も従軍していた。長年の後再びカルタゴに来る。粉引きにされていた従者を助ける。二人はカビリアを捜すが分からない。あの高官の娘は政略結婚に利用されていた。軍人らは敵方に捕まり牢に入れられる。侍女にされていたカビリアは捕虜に水をやる際に二人に会う。高官の娘はかつての恋人が敵になっており、その恋人から送られてきたのは毒であった。もうこちらはローマ軍に征服される。娘は毒を飲んで、あれこれ指示し、死んでいく。カビリアは助けられ、軍人らと故郷に帰る。

2025年10月9日木曜日

将基面貴巳『日本国民のための愛国の教科書』百万年書房 2019

著者はニュージーランドの大学教授をしている政治思想史研究者。愛国心には2種あり、もともとはpatriotismであるが、これ以外にもnationalismがあると言う。前者は共通善をめざす考えである。後者は後に出てきたもので、特にフランス革命時に大きく成長した概念である。nationalismは国民や民族にこだわる。著者は共通善を目指すpatriotismが望ましい愛国心だと言っているようである。

この本では事実の認識と、著者のこうあるべきという主張が混在していてどうも読みにくい。もちろん著者の主張は結構だが、まず正しい認識を開設して、それから著者の主張をしてもらいたかった気がする。また文中で読者への問いかけや普通こうなっているという説明で、自分としてはそこで前提とされている日本人の普通の回答に同意できなかったので気になった。

2025年10月8日水曜日

泉鏡花『外科室』 明治28年

伯爵夫人の手術がある。その模様を参観している画家が語る。伯爵夫人は麻酔をなんとしても拒む。周囲の者が説得しても無駄である。うわ言で何か言うのを恐れているのである。手術をする医師の名を確認する。実は元から知り合い以上の仲だったのである。夫人は自分を知らないだろうと言うが、医師は知っていると答える。手術で夫人は死ぬ。

後半の部分は昔に戻る。医師がまだ若かった頃、後の伯爵夫人に小石川植物園で会った。それから詳述はないが、二人は相思となり、またこれも明示的に書いていないが、医師は手術で夫人が死んだ後、自殺した模様。本編は短編だが、泉鏡花の代表作の一とされている。

志村五郎『鳥のように』筑摩書房 2015

前著『記憶の切絵図』に続く本である。前著は著者の自叙伝といった感じで、特に最初の100ページ(文庫)ほどは少年期を書いている。戦前の東京では、生活がどんなであったか書いてあり、戦前の東京の実際の一例として面白い。それに対して本書は著者の関心の赴くままの随筆である。

著者は学者というものは大抵そうなのだろうが、お山の大将、と言って悪ければ一国一城の主で、恐ろしく自信家である。そうでなければ学者などやっていけないのだろう。

本書では丸山眞男について書かれた章が特に有名(?)であるようなので、それについて自分なりの要約をする。政治学者の丸山は東大を辞めた後、1975年にプリンストンの高等研究所に来た。プリンストンにいた志村あてに丸山の世話を頼む依頼が数通来たとのこと。丸山は志村より15歳ほど年上で、戦後を代表する政治学者として既に有名だった。しかしながら志村と丸山は全く合わなかったようだ。丸山がいかに無知であるか、丸山の自分自身の無知に対して素直でない態度を盛んに揶揄している。中国の古典や成句に関しての無知を、これは丸山は江戸の思想を研究対象の一つとしていたから、それを知らないとはと呆れている。丸山の音楽好きは有名だが、その音楽についてもろくに知らないので、嘲るといった口吻である。志村は前著でも、権威とされている数学者を遠慮なく批判している。これは同業者だからその気になるとは推測できる。しかし政治学者と数学者などは関係ないから、攻撃する必要もない気がした。これは途中に書いてある事情で分かった。丸山が書簡で志村を話題にし、自信過剰で、知らないことを大言壮語していると書いてあるから。これを読んだ志村は怒り心頭に発し、本書でいかに丸山が無知のつまらない人間か、やっつけているのである。

2025年10月6日月曜日

吸血怪獣のヒルゴンの襲来 Attack of the giant leeches 1959

バーナード・L・コワルスキー監督、米、62分、白黒映画。フロリダの田舎町の沼に棲む、放射能によって巨大化した蛭が人間を襲うという映画。舟に乗っている男がヒルゴンらしきものを見て驚き、みんなに話すが信用されない。後に沼に舟で出た男たちが餌食になる。行方不明になって捜索するが見つからない。後になって見つかった死体は血が吸い取られていたと分かる。

酒場の親爺には若い妻がいて、店で働いている男といい仲になっている。沼のそばで逢引していると夫の親爺が見つけて、銃で脅す。男は命乞いをする。沼から現れたヒルゴンに男も女も捕えられる。親爺は警察に言っても信用されず、牢屋で首吊りする。実はヒルゴンに捕えられた連中はすぐに殺されずに沼の中のヒルゴンの棲み処に横たわっていた。ヒルゴンが必要に応じて血を吸うのである。沼の中を捜索する。水中撮影がある。ダイナマイトで沼の底を爆破する。捕えられていた女の死体が浮かび上がるだけでんく、ヒルゴンの死体も浮いてくる。

2025年10月5日日曜日

プルート・ナッシュ The adventure of Pluto Nash 2002

ロン・アンダーウッド監督、米、95分。エディ・マーフィ主演。21世紀後半、月には人類が居住するようになっていた。その中のリトル・アメリカという都市で、マーフィは流行らない店を買い取る。ギャングに借金返済が出来ない主人から、借金を肩代わりし返済し、その店を改造し所有主となった。

数年後、大いに繁盛している。若い歌手志望の女がやってくる。勤める予定だった店がなくなっていた、使ってもらえないかと。マーフィは女給として雇う。この店を買い取りたいと言って来る者が来た。断ると店に爆弾を仕掛け、爆破してしまう。その犯人をマーフィ、女、マーフィが使っている用心棒のロボットで追いかける。派手な立ち回りがある。

相手側はマーフィを消そうと殺し屋を雇う。殺し屋一党はマーフィたちを狙うが、マーフィらはマーフィのファンに助けられる。マーフィは殺し屋の背後にいるボスを突き止めようとする。そこに行く。するとマーフィと瓜二つの者がいた。マーフィのクローンで、今は月世界のボスとなっている。マーフィは自分のクローンと戦う。同じ見た目なので、見ている子分など区別がつかなくなる。最後はマーフィはクローンを倒し、店は再び繁盛する。

2025年10月3日金曜日

狂った一頁 大正15年

衣笠貞之助監督、79分、無声映画。芸術的な映画を作ろうとする衣笠の計画に、横光利一や川端康成などが協力して作成された。実験的、表現主義的映画である。

精神病院が舞台である。豪雨の中、映画は始まり、踊り続ける女が出てくる。ここで働くこ使いの妻が入院している。こ使いはかつて妻子を顧みなかった。妻子は自殺した。妻は自分のみ助かったので悔いて、精神がおかしくなった。後に娘が現れ、結婚しようとする。こ使いは自分の妻を病院から出させようとするが、失敗する。こ使いは病院の医師と格闘し、倒す。これらは幻想であったか。ともかく字幕が全くついておらず、単に画面だけを追っていても筋はよく分からない。筋を確認してから見るべき映画である。

2025年10月2日木曜日

西部戦線異状なし All quiet on the western front 1930

ルイス・マイルストン監督、米、136分。レマルクの同名の小説の映画化。アメリカ制作なのでドイツの登場人物達は英語を話す。フランス娘のみ仏語。

第一次世界大戦が始まり、ドイツの学校では教師が生徒らに戦争へ駆り立てる講義をしている。仲間らと入隊する。教育訓練役は以前は郵便配達夫であった男である。気楽に話しかけると上官だと𠮟り飛ばされる。しごきのような訓練をする。戦線に出る。最初の戦闘から、仲間の一人が死ぬ。後に戦闘をする度に仲間は犠牲になっていく。フランス娘たちとの付き合いもあった。

数年後、主人公は一時帰郷する。家族は喜ぶ。かつての学校に行くと相変わらず教師は生徒らに戦争賛美の話をしている。主人公が来たので英雄扱いし、何か話せと言う。主人公は悲観的な話しかしないので、生徒らは怒る。軍隊に戻る。かつての仲間と再会し喜ぶが、その仲間は戦死する。主人公も最後に狙撃されて映画は終わり。

2025年10月1日水曜日

昆虫怪獣の襲来 Monster from green hell 1958

ケネス・G・クレイン監督、米、71分、白黒映画。宇宙ロケットに虫などを入れて発射し、影響を調査していた。そのうち蜂を入れたロケットがアフリカに落ちた。アフリカでは怪物が出て、環境、動物に被害を及ぼしていた。当地の医師は一隊を引き連れ調べに出かける。しかし巨大蜂に襲われる。

アフリカに落ちたロケットを調べに、アメリカの科学者が来る。そのアフリカ横断がかなりの尺を占める。怪獣映画かと思ったらアフリカ探検映画かと思うほどである。ここの部分は他の映画からフィルムを借用して作ったらしい。苦難の道中で、科学者は病気になる。気が付いたら目的地に着いていた。医師の娘に会う。父親がまだ帰ってこないので心配している。連れて行った黒人が帰ってきて医師が殺されたと告げる。怪物に、である。調べると蜂の毒で死んだらしい。

科学者らは調査に出かける。医師の娘も同行する。途中で村人全員が死んでいる場所があり、運搬役の現地人はみんな逃げる。後は科学者らだけで行くと、巨大な蜂の群れを見つける。手榴弾でも死なない。襲われそうになり洞窟に逃げる。入口は爆弾が破裂し塞がってしまったので、奥に進む。ようやく地上に出られた。その時火山が噴火し、溶岩が流れる。その溶岩によって巨大蜂群は絶滅した。

2025年9月30日火曜日

宇野浩二『世にも不思議な物語』 昭和28年

これは昭和24年に起きた松川事件の裁判に著者が関わり、有罪判決の出ていた被告らや現場など訪れ、事件と判決に対して著者の意見を書いたものである。

松川事件は東北本線の福島市の南にある、松川駅の手前で起きた汽車脱線転覆事故である。乗車員の3名が亡くなった。昭和24年8月の出来事で、先月7月に下山総裁怪死事件、三鷹事件が起こり、国鉄に怪奇な事件が相次いで発生したので、戦後史の中でも注目を集めてきた。松川事件では線路を外す工作がされており、犯罪と分かった。捜査の結果、未成年を逮捕し、その供述から東芝と国鉄の労組員が容疑者として逮捕される。25年の第一審では死刑5名を含み20名全員有罪となった。

宇野は知り合いの作家広津和郎らと被告ら、事件の関係者に会い、現場を訪れる。それで第二審判決の直前に、この『世にも不思議な物語』を発表した。宇野は本書で被告らに会い、その眼が澄んでいるので犯罪者ではないと断じている。今読んでも、眼が澄んでいるかどうかだけで、犯罪者であるかどうか判断できないと誰もが思うだろう。実際、当時、マスメディアから散々嘲笑されたという。広津和郎の発表した文も叩かれた。直後に出た第二審では数名無罪が増えたが、やはり死刑その他有罪判決が主であった。最終的には昭和36年に全員無罪の判決が出た。(宇野浩二全集第12巻、中央公論)

志村五郎『記憶の切絵図』ちくま学芸文庫 2021

数学者の志村五郎(1930~2019)の自叙伝。書名の切絵図とは志村の家が、江戸時代に切絵図を作っていて、自分の生まれ育った場所もその切絵図内にあるところから来ているようだ。

後にアメリカに渡り、有名な数学者になった。これを読むと志村は非常に自信家で自ら思ったことをはっきり言う。それがこの著書全体にも良く表れている。学者だから当然そうで、そうでなければ学者になれないだろうと思われる。それが学問の世界以外にも志村の生き方に現れている。最初の百頁くらいは戦前の東京がどんな感じであったかの一例として面白い。そこにも書いてあるように当たり前のことは誰も書かないから、時代が変わると後代の者は全く知らない、思いもよらない事柄が多くあると思う。(2008年、筑摩書房刊が初出)

2025年9月28日日曜日

土と兵隊 昭和14年

田坂具隆監督、118分、日活。火野葦平の小説を映画化したもの。戦時中に実際に戦っている中国で撮影されているため、後年の戦争映画には真似ができない迫真性がある。

中国大陸を行く日本の兵隊たち。戦闘で倒れる者もいる。雑談などの平和な時もある。最後の方の戦闘では敵のトーチカから激しい銃撃があり、兵士らの苦戦が描かれる。敵の兵士は見えない。なんとかトーチカに近づき、手榴弾を投げ込み勝利する。国策映画なので、いかに日本兵が勇敢に戦うか、また兵士たちが和気藹々として仲が良いか、美化されているのは当然である。

怪奇 アッシャー家の惨劇 The fall of the house of Usher 1960

ロジャー・コーマン監督、米、79分。エドガー・アラン・ポーの『アッシャー家の崩壊』を元にした映画。アッシャー家にやってくる若い男。その家の若い娘と相思の仲である。二人は結婚したがっている。しかし娘の兄、家の主人であるロドリックは妹を屋敷から出させようとしない。

ロドリックと交渉、言い合いし、娘を連れ出そうとする若い男。娘は病弱で、娘だけでなく、このアッシャー家の人間は自分も身体が弱い。もう長くないと兄ロドリックは言うのである。死ぬ妹、兄は男にお前が殺したのだと言う。やがて蘇る妹。最後は屋敷が火事になり崩落する。原作のようにひびが入り、家が沼に沈むのではない。

2025年9月26日金曜日

血のバレンタイン My booldy valentine 1981

ジョー・ミハルカ監督、米、90分。小さな炭鉱町。20年ぶりにバレンタインを祝おうとしている。なぜ20年間バレンタイン・パーティが出来なかったか。20年前、パーティに行く炭鉱夫が安全を怠り、爆発で炭鉱にいた何人かの抗夫が生き埋めになった。ようやく助かった一人は気が狂っていた。精神病院に入り、その後、爆破を起こした抗夫たちを殺した。

それ以来バレンタイン・パーティはしていない。若者たちは過去を知らず、パーティが出来ないのを不思議で不満に思っていた。事件が起こって今年もパーティは中止となった。不満の若者らは炭鉱に行く。それで惨劇が相次ぐ。

『ドレの神曲』谷口江里也訳 2009年

ダンテの『神曲』は誰でも知っている古典ながら詩で書かれており、地獄、煉獄、天国を巡る旅が内容で正直、読みやすい作品ではなかろう。

本書は『神曲』そのものは一部の訳で、売りはギュスターヴ・ドレが描いた挿画が134点収録されているところである。ドレの絵を見て、その絵に該当する文章が載っているという本である。これで『神曲』全体を読んだとはならないが、全体を見通すには都合がよい。ドレの絵を見て『神曲』の雰囲気を会得できる。『神曲』への最初の接近としては悪くない。(宝島社、317頁)

2025年9月22日月曜日

北京の55日 55 days at Peking 1963

ニコラス・レイ監督、米、160分、チャールストン・ヘストン、エヴァ・ガードナー、デイヴィッド・ニーヴン出演。1900年の北清事変を背景にした映画。

史実はお構いなしの欧米先進諸国が暴戻な清を懲らしめる映画。義和団を利用して欧米勢力(日本もあるが)を排撃しようとした西太后に対して連合諸国が反撃する。歴史では日本軍が活躍したことになっているが、英米等が中心である。さすがに歴史に少しは合わせるため、日本軍の将校として伊丹十三を登場させているが、ほんの脇役である。米の将校ヘストンと英の公使ニーヴンが大活躍し、露の未亡人貴族としてガードナーがヘストンの恋人役で出る。義和団騒乱の中、ヘストン、ガードナーの恋愛、ニーブンが外交官として苦悩するという話である。

2025年9月17日水曜日

マスク The mask 1994

チャールズ・ラッセル監督、米、101分、ジム・キャリー主演。ジム・キャリーは気が弱い銀行員だった。ある日客としてキャメロン・ディアスに会い、一目惚れする。たまたま手に入れた木で出来たマスクをかぶると変身し、超人的な能力を発揮する。

ディアスは悪党のボスの愛人だったが、そのボスに嫌気がさしていた。変身したキャリーと強烈なダンスをする。キャリーは金を稼ぐため銀行破りをする。一歩遅れてきた悪党のボスは金を取り返すべくキャリーを追う。警察はキャリーが怪しいと睨んで付け回していた。捕まったキャリーは愛犬の助けで拘置所を脱出する。マスクをつけて変身し、悪党をやっつけディアスを助ける。ディアスはマスクのキャリーより本当のキャリーが好きだというのでマスクを川に捨てる。犬が取りに行く。

2025年9月16日火曜日

処刑山-デッド・スノウ Død snø 2009

トミー・ウィルコラ監督、諾、91分。冬山に医学生仲間に出かける。昔ナチスの軍隊がいた場所という。そこでナチスの財宝を見つけるが、ナチスのゾンビが押し寄せ次々と学生らは犠牲になっていく。

ナチスゾンビに対してチェーンソーや機関銃などで応戦し、多くのゾンビを倒すが、相手はゾンビなので倒したところでまた立ち上がり、襲ってくる。最後は全員ナチスゾンビに殺される。全体としては『死霊のはらわた」のような映画である。

2025年9月15日月曜日

伯林-大都会交響楽 Berlin: Die Sinfonie der Großstadt 1926

ヴァルター・ルットマン監督、独、65分、無声映画。ベルリンの一日を撮影した記録映画。最初は線などの模様が出る。次いで疾走する汽車。郊外の単線を走っている。やがてベルリンに入る。初めはやや家屋がまばらだがそのうち建物が増え、列車は駅に到着する。

五幕で構成され、ベルリンの夜明けから夜までの一日の様子をカメラは捕えていく。朝になり、家屋の窓が開けられる。人々が仕事に出かける。街の道路、走る列車や馬車、二階建てバスがある。工場での製造の現場が映される。昼になれば食事をとる。喧嘩をしている人がいる。遊びをする人々がいる。夜になれば演奏会やラインダンスなどの娯楽が出てくる。こうやってベルリンの一日が終わっていく。

2025年9月14日日曜日

必殺!恐竜神父 Velocipaster 2018

ブレンダン・スティアー監督、米、70分。神父は両親が目の前で殺される。ただしそれは車が爆破して、傍にいた両親が死んだというわけであるが、映画の場面は何も映らない。舗道があるだけ。ただ字幕で爆発とでるのである。つまり映画なら何らかの方法で車が爆発した様子を映すわけだが、予算がなかったのか、文字だけでごまかしているのである。これには驚いた。

神父は中国に行く。キリスト教に縁のない国というのことで。そこで逃げる若い女から、竜の牙を渡される。手に持って傷つけたら竜の精が入ったらしい。帰国して神父は恐竜に変身でき、悪人どもをやっつける。まず告解に来た男から、そいつがとんでもない悪人で、神父の両親を殺したのもその男と分かる。神父はその男を殺す。この男に支配されていた娼婦(医学生で法学生だが金稼ぎで娼婦をしている)から、いたく感謝される。その娼婦と神父は仲良くなり、悪人どもを倒していく。

以下、悪漢忍者やそれを操る中国人の男などとの対決の下らない場面が延々と続く。つまらない映画を評価したい人間向きの映画。

2025年9月13日土曜日

町の人気者 The human comedy 1943

クレランス・ブラウン監督、米、118分、ミッキー・ルーニー主演。サローヤンの小説『人間喜劇Human comdedy』を、発表された同年に映画化した。戦争の最中である。ほぼサローヤンの原作をなぞっているが、省略の他にも一部の改変はある。

例えば電信局の局長の結婚に関しては、映画の方が長く尺を取っている。また末っ子のユリシーズが新型製品に捕まり、そこから抜け出す挿話はない。更に戦争に行っている兄が戦死したという電報を受け取る。ルーニーはどうやって家に届けたらいいのか迷う。自宅の前で兄の戦友に会う。その後、戦友とルーニーが家に入り事情を話すよう、小説ではなっているが、映画の方では一緒に家に入るところで終わっている。

2025年9月12日金曜日

ファイナル・デッドブリッジ Final destination 5 2011

スティーヴン・クォーレ監督、米、92分。Final destinationシリーズであり、枠組みはこれまで通り。

主人公らは旅行会社の社員でバスで研修旅行に出かける。橋にかかったところで地面にひびが入り、バスや車が転落し次々と人が落ちていく。ここまでが主人公の予知夢で、目が覚めた男は恋人その他の同僚にバスから逃げ出すようせかす。何人かは助かったが、多くの社員はバスもろとも転落死した。その後、生き延びた社員は次々と死んでいく。

体操の練習中に平行棒から落ちて死ぬ女。中国マッサージの券を見つけ、そこに行くが火事に会い逃げたと思ったら上から像が落下して死ぬ男。また目を治療に行った女は目をレーザーで焼かれ、窓から落下して死ぬ。工場では上司が飛んできた工具が顔に当たり死ぬ。恋人を体操練習中に失った男は、誰か殺せば自分の寿命が長くなるだろうと主人公やその恋人を殺そうとするが逆に殺される。主人公は認められて、パリに料理の修行に行くことになり、恋人も一緒に行くよう説得する。空港を飛び立つ前に高校生が騒ぎ出し、降りた。そのパリ行きの飛行機は事故を起こす。連れの女は飛行機から飛び去り翼に衝突して死に、男も炎に包まれる。落下した飛行機の一部でバーにいた同僚が死ぬ。

2025年9月8日月曜日

坂牛卓『教養としての建築入門』中公新書 2023

著者は大学教員であり、建築家である。新書で建築を扱ったものは幾つかある。特徴的な建築物や日本建築等についての歴史を説明するものが目につく。

本書は一般読者が建築について一通りのことが分かる本を目指したという。三つの接近法をとる。「使用者・鑑賞者」の視点、建築家の視点、建築が存在する社会の視点である。これらの観点から建築というものを論じる。建築が哲学や思想でどう見なされてきたか、扱われてきたかの記述もある。更に建築家が建築を設計、造る際の実際について書かれており、ためになる。建築に関心のある者なら一読に値する書である。

2025年9月7日日曜日

地獄へつづく部屋 House on haunted hill 1959

ウィリアム・キャッスル監督、米、75分、白黒映画。金持夫婦はある幽霊屋敷に5人の客を招く。客らはその屋敷に一晩過ごせば、1万ドルをもらえるという約束である。一人の客はその屋敷の過去を知っており自分の知り合いが、この屋敷で多く死んだという。客の前に招いた夫婦も現れる。扉等凡て締まり誰も屋敷から出られなくなる。金持夫婦も同様に閉じ込められた。シャンデリアが落ちてきて危うくつぶされそうになる。

各人は部屋にこもり、拳銃を持って、誰か入って来たら殺すと決めて別れる。女の首吊り死体が階段の上にぶら下がっていた。金持夫婦の妻だった。他殺にしか思えない。後に若い女の客は、窓の外に死んだ妻の幽霊を見て恐怖におののく。女は地階にいる時、金持夫婦の夫が急に現れたので銃で撃つ。倒れた夫を客の一人である医師が来て、床に空いた穴に放りこもうとするがいきなり画面が真っ暗になる。死んだ筈の夫婦の妻が現れる。骸骨が空を彷徨い、恐怖に怯えた女は床の穴に落ち込む。そこに落ちると溶解液で体が溶けてしまう。

謎解きは次のようだった。客の医師と夫婦の妻は不倫関係にあり、夫婦の夫を殺す計画だった。偽の首吊り死体でまず妻は死人とさせておき、客の女に銃で夫を殺させる。しかしこれは空砲だった。医師が死んだと思っていた夫を穴に落とそうとした時、逆に医師を夫は穴に突き落とした。映画で暗くなった場面のところである。これで自分を殺そうとしていた妻と不倫相手の医師を夫は片づけたわけである。

サローヤン『ヒマン・コメディ』 The human comedy 1943

カリフォルニアにあるイサカという町が舞台で、そこのマコーリー家の子供たち、長男のマーカスは戦争に行っている。次男のホーマーは14歳だが郵便局で働いている。家計を助けるため。父親は死んでいない。末っ子のユリシーズはやんちゃでみんなから好かれている。

ユリシーズとホーマーが中心人物である。戦争中のアメリカのある町のスケッチ。最後にマーカスが戦死したという電報が来る。(光文社古典新訳文庫、小川敏子訳、2017)

2025年8月31日日曜日

安田武『昭和青春読書私史』岩波新書 1985

1923年(大正12年)生まれの著者による青春時代の読書史。まず『モンテ・クリスト伯』から始まる。昭和初年の円本時代の新潮社の全集で2巻本であったという。既に黒岩涙香の『あゝ無情』の時代ではなかったらしい。著者は漱石について、読書を漱石から始めるというのは常套過ぎて、陳腐の感があると言っているが、漱石が読書初め、というのは常套的とも思わない。自分などは、芥川龍之介の方が短編で読みやすく、早く親しんだ。

以下、読んだ本の概要や感想があるが、自分とは随分違った読み方をしていると思った。漱石では『行人』に関心があったらしい。また漱石の女の登場人物に惹かれたとある。その他、話題にしている文学は、『銀の匙』『桑の実』『ピエールとジャン』、田山花袋、『愛の妖精』『生活の探求』『父と子』水上瀧太郎、ジイド、『墨東綺譚』『雪国』『西部戦線異状なし」である。

この中でジイドが昭和10年頃の岩波文庫の『パリゥウド』や『狭き門』で有名になったとあり、勉強になった。ここで挙げられている作家や作品のうち、例えば水上瀧太郎とか『生活の探求』など今はどのくらい読まれているのだろうと思ってしまう。また最後にあるレマルクの『西部戦線異状なし』は昭和4年に出て、発禁になった。昭和17年に田舎の古本屋で見つけた時の感激が書いてある。今では簡単に読める小説であるが、これなどを読むともっと謹んで読まなければいけないかと思ってしまった。

2025年8月29日金曜日

千野栄一『外国語上達法』岩波新書 1986

著者は東京外語大で教授をしていた言語学の専門家。ここで出版年を見ると1986年、つまり昭和61年でバブル直前、まだ現在のようなグローバル化の時代でない。この前年、プラザ合意で円の価値が倍になり、猫も杓子も外国に行くようになっていた時代である。しかし本の執筆はまだ日本人が外国になじみがなく、外国人(西洋人)などほとんど日本では見かけなかった時代である。またソ連崩壊の3年前である。本の中でロシヤ語は世界の半分にとって重要な言語だから学ぶ価値があると言っている。まだそういう時代である。

それでも本書に書いてある外国語の上達法は今でも通用する。外国語の学習法は大体どの本でも同じようなことを言っている。本書を読めば十分である。まず学ぶ目的をはっきりさせよとある。今なら誰でも英語を喋れるようになりたいと思っている。この本の時代では趣味でなんとなく外国語を学ぼうとする人がいて、そういった者も想定しているらしい。

外国語の習得に必要なもの、金と時間とある。金を惜しんではならない。覚えるべきは基礎的な語彙、千くらいの語と文法である。学習書は薄い方がいい。良い先生、それは熱心な先生である。発音は最初に正しく教えるべき。だから日本人には発音しにくい言葉は弱点になっている。最後にその国の文化、広い意味で、の習得が重要である。やはり一番ためになったのは、外国語はすぐに忘れるものだ、だから何度も何度も繰り返しの勉強が必要という点である。

十八歳、海へ 昭和54年

藤田敏八監督、にっかつ、110分、森下愛子、永島敏行、小林薫出演。森下と永島は予備校生。森下は成績がトップで永島は最下位。湘南の海に二人で行った時に小林薫を知る。やはり予備校生だが夜はホテルでバイトをしている。森下は小林に興味を持つ。森下と永島は二人で海に入っていき、溺れそうになる。自殺の真似事だった。たまたま小沢栄太郎の実業家に助けられ助けられる。小沢は二人に小切手を書いてやる。

森下には姉がいる。小林はその姉が森下を捜している時に会い、姉から森下に渡してくれるよう頼まれる。森下は拒否する。その後、小林と姉は関係を持つ。小林の父親は有名な医師で、偶然小林を見つける。長い間、小林は家から出て行方不明になっていた。会った父親は小林にバイトなど辞めろと言う。ホテルを指定しそこに泊まれと小林に言う。小林はそのホテルの宿泊を森下と永島に譲る。二人はホテルの庭の木で首吊りの真似をしていた。最後は死体安置所で小林は遺体となっている森下と永島を見つける。

2025年8月26日火曜日

宇宙からの暗殺者 Killers from space 1954

W・リー・ワイルダー監督、米、71分、白黒映画。核実験を砂漠の真ん中でやる。みんな黒眼鏡をかけて見ている。ジェット機が突っ込む。搭乗員は死んだかと思ったら、なぜか同乗していた、実験に関わってきた博士のみ生きて戻ってくる。

しかし精神、挙動不審。病院に入れるが博士は逃げ出す。核実験の資料を盗み出している模様。警察から追われる。最後に捕まるが、なぜおかしな行動をしたのか。本人は喋らないので、告白薬を注射して真相を言わせる。

博士は核実験の後、宇宙人に捕まっていた。地球への侵略を考えている。爬虫類や虫を巨大化させている。その宇宙人(目玉が飛び出している)が博士に核実験の資料を持ってこいと命じた。みんなは聞いても信じられない。博士は病院から発電所に逃げる。それで発電を止めさせる。すると爆発が起こる。宇宙人は死んだ。電源を止めると宇宙人は生きていられないらしい。どうだと博士はみんなに偉そうにする。

2025年8月25日月曜日

祭りの準備 昭和50年

黒木和雄監督、ATG配給、117分。昭和30年代前半の四国中村市が舞台である。主人公の青年は信用金庫に勤めている。父親のハナ肇は他に女を作って暮らし、母親と祖父と三人で住んでいる。友人に原田芳雄がいて、奔放な原田に振り回されている。原田の兄は刑務所にいて、その妻と原田はいい仲になっている。主人公には竹下景子という憧れの女がいる。

この町の出身の、原田のきょうだいの女が都会から帰ってくる。薬のせいで頭がおかしくなっている。町の男たちとみんな寝ている。主人公も寝ようとしたところ、祖父に横取りされる。女は妊娠する。父親は祖父だと言う。祖父は大いに女を可愛がり、一緒に住み始める。しかし女が出産すると正気を取り戻し、祖父を毛嫌いするようになる。絶望した祖父は首をくくる。

竹下は左翼のオルグが都会からやってきて、その勉強会に出ているうちにその男と関係した。それを後に主人公と話しているうちに涙ながらに告白し、主人公と寝る。主人公が信用金庫の宿直で寝ている時にも来る。その晩、火事が起き、主人公は上司からさんざん絞られる。主人公は元よりシナリオライター希望で、それを叶えるべく、母親に内緒で家を出て駅に向かう。そこで原田に会う。原田は強盗殺人犯で警察に追われていた。原田にせがまれ金を渡すが、主人公が東京に行くつもりと知るとその金を返そうとする。最後は駅で列車が出て、原田が主人公に何度も手を振って見送る。

2025年8月24日日曜日

熱いトタン屋根の猫 Cat on a hot tin roof 1958

リチャード・ブルックス監督、米、108分、ポール・ニューマン、リズ・テイラー出演。テネシー・ウィリアムズの戯曲の映画化。ニューマンが夜中、運動場でハードル跳びをしている場面から始まる。途中で失敗する。ニューマンとテイラーは夫婦であるが、ニューマンはアル中で夫婦仲はあまり良くない。跳びで失敗したニューマンは松葉杖をついている。今日は父親の誕生日で、入院していた父親が戻ってくる。

ニューマンには、子供が沢山いる兄夫婦がいる。ニューマンとテイラーには子供がいない。父親の財産を兄夫婦は狙っており、テイラーも関心がある。なげやりなニューマンはどうでもいいようである。父親を大歓迎する兄夫婦とその子供たち。兄とニューマンは父が先が長くないと医者から聞いていた。父親と母には嘘をつき死なないと言っていた。

戻ってきた父親は、元からニューマンが贔屓で、ニューマンと話をする。ニューマンは話したくないようだ。なぜニューマン夫婦はしっくりいっていないのか。父とニューマンの話の中で少しづつ真相が明らかになっていく。それはニューマンがかつて尊敬していた友人とテイラーの仲を疑っていたからであった。激しい言い争いの中で、ニューマンは父がもう長くないと言ってしまう。父が家族にしてきたこと。金はあったが愛情がなかったのではないかと。父親は自分が長くないと知るが、財産を狙っている兄夫婦の前では長生きするような口をきき、その野望を打ち砕くような口ぶりである。ニューマンは最後にテイラーを自室に呼び、仲を取り戻した。

2025年8月23日土曜日

怪談生娘吸血魔 Atom age vampire 1960

アントン・ジュリオ・マジャノ監督、伊仏、86分、白黒映画。踊り子をしている女主人公のところへ恋人が来て、別れようと告げられ、女は半狂乱になる。車に乗り猛スピードで飛ばす。事故になる。女が入院している病院。女は事故で顔に醜い怪我を負った。絶望に暮れる女のところに別の女がやって来て、治す方法はあると言う。女はこれまでやった方法が凡てだめだったので信用しない。しかし他に手はない。後日、その女が助手をしている医者、博士宅に来る。

この博士は放射能を利用した皮膚の治療法を研究していた。広島に行って原爆症を見ていた。博士の使う治療法を女に試してみる。何日かして顔を調べるが、変わっていない。失敗だと博士は絶望する。しかししばらくすると顔の傷はなくなっていた。女を起こし、その結果を知らせる。女は狂喜する。女は美人であった。傷の治った女を見て博士は恋情を抱くようになる。しかし助手の女が博士の情人だった。助手はいたく嫉妬する。治ったと喜んでいたが、また女の首に傷が復活していた。治療するにももう薬がない。これは生きている女から採取するしかない。博士は助手を手始めに、連続女殺人犯となる。

映画の冒頭で女を振った男が外国から戻ってきて、行方不明になっている女を捜し始める。女は博士邸に閉じ込められている。出たくてたまらないが、博士から治療を完全にするためまだ手術が必要だと言われてやむなくいる。ある時逃げ出し、偶然に(偶然すぎる)かつての恋人、今は自分を捜している、に会う。抱き合う二人だが、博士と手伝いの唖の男が、恋人の男を海に突き落とし、女を連れて屋敷に戻る。連続殺人犯を追っている警察と元恋人の男は協力していた。元恋人は助けられる。博士は女たちを殺す場合、怪物に変身していた。(放射能の影響か、原子時代の吸血鬼)殺人犯を追う警察は博士が怪しいと見て、追跡し映画館に追いつめていた。しかし博士は逃げ出し、新しい女を襲うが飼い犬に女は助けられた。博士は逃げる。博士邸で怪物化した博士と元恋人は格闘する。博士は相手を倒し、女を温室に連れていく。唖の男(女に同情していた)に刺されて倒れる。女は元恋人と抱き合い去る。

サローヤン『パパ・ユーア クレイジー』新潮文庫 Papa, you’re cazy 昭和63年

『我が名はアラム』のサローヤンによる、10歳に満たない男の子の語りによる父親との交遊。原作は1957年の発表。正直なところ、こんなに仲の良い、理想的な父親と息子の関係があるのかと思ってしまう。御伽噺といってよい。こんな親子関係が実際にもあるのだろうか。あるだろう。少ないと思うが。

サローヤンの家庭の実際がこの話とは真逆というか、ひどいものだったそうだが、これは作り話であり、だからこそ理想の極を書ける、その特権を最大限生かした作品と言えるかもしれない。翻訳は伊丹十三が、その「哲学」に基づいた「直訳調」で(もちろん本人が書いているように失敗しているが)、この解説に書いてある翻訳に対する考えを、専門の翻訳業者に読ませ、意見を聞きたいものである。伊丹十三は典型的な「昭和オヤジ」で、欧米が圧倒的に優れており、その観点から日本に説教する、という人間だった。その考えに基づいた翻訳である。

2025年8月21日木曜日

悪魔のようなあなた Diaboliquement vôtre 1967

ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、仏、93分、アラン・ドロン主演。街道を疾走する車の中からの映像、その車が事故を起こす。病院でアラン・ドロンは目覚める。長い間、昏睡状態だったが妻は大丈夫と言われて困惑する。妻はいないはず。その妻と称する美人が来る。記憶障害になっていた。その妻と自宅である城館に帰る。中国人の召使がいる。また友人という医師に会う。

記憶が全く確かでない。自分の名も違う名が出てくる。妻に夫婦の営みを求めるが常に拒否される。この城館で静養するうち、危険な目に会う。納屋の二階に上るといきなり床が抜ける。下に落ちたら確実に死んでいた。前に飼っていたという犬も歯向かってくる。打合せの最中、シャンデリアが落ちてきて間一髪難を逃れる。夜な夜な暗示をかける声が聞こえてくる。気が狂う前に自殺しろと命令する。ある夜起きて調べると枕の下のテープレコーダーからと分かる。庭で犬に襲われそうになる。からくも逃げ、その犬が庭を掘っているのを見る。後で調べると死体らしい。妻を連れてきてその死体を見せようとするが、死体はなくなっていた。

最後に真相が分かる。妻と医師は妻の夫を殺していた。それで記憶喪失していたドロンを連れてきて事故に見せかけ殺し、その主人がなくなったことにすればよい。医師は妻がドロンにばらしたと分かるので怒って、絞め殺そうとしたが召使に刺され死ぬ。召使も妻の愛人だった。召使を妻は銃で殺し、医師と召使の相撃ちに見せかけた。警察が来てそう説明する。ドロンはどうか。この家の主人だと答える。医師の暗示のテープレコーダーが発見され、それを聞い聞いている場面で終わり。

2025年8月20日水曜日

恐怖城 White zombie 1932

ヴィクター・ハルぺリン監督、米、67分。ハイチに結婚に来た若い男女は途中気味の悪い集団に出くわす。招かれた屋敷にいると聖職者から早く去った方がいいと忠告される。招いた屋敷の主人は花嫁に恋していた。

それで自分のものにすべくその手段をゾンビを操る男(ベラ・ルゴシ)に相談に行く。ここでゾンビとは後の映画に出てくるような死人の蘇りではなく、仮死状態になっている人間を指す。ルゴシは花嫁をゾンビにして自分の城に連れてくる。花婿の方は花嫁を取り返しに城に来る。ゾンビ化した花嫁は最初は命じられ、花婿を殺そうとするが、ルゴシ他は崖から海に落ちて死に、結婚する二人も元通りになる。

2025年8月19日火曜日

大アマゾンの半魚人 Creature from the black lagoon 1954

ジャック・アーノルド監督、米、79分、白黒映画。アマゾンの奥地で化石の手を見つける。水かきがついている。帰国して報告し、より詳しく調べるために調査団を派遣する。留守を守っていた現地人は殺されていた。半魚人のせいである。

川を進む船、泳ぐため同行している若い女が水に入る。その女の泳ぐ下を、半魚人が並行して水中を泳いでいる。半魚人を見つけた一行は捕まえるべく、痺れ薬を流す。半魚人は一旦捕まったが、逃げその際に博士を襲った。半魚人のせいで調査団は何人もの犠牲を出していた。この半魚人は女に興味があり、女を襲って奪っていく。棲み処に連れていく。後から調査団の者たちがやって来て女を奪い返し、半魚人に発砲する。半魚人は水の底深くに逃げていく。

2025年8月18日月曜日

美しき生首の禍 The brain that wouldn’t die 1962

ジョゼフ・グリーン監督、米、92分、白黒映画。若き医者は野心家で人造の身体を作ることに情熱を燃やしている。電話があり、医者の実験室のある城館に恋人と一緒に行く。

途中で事故を起こす。医者はなんともなかったが、恋人は燃え盛る車の中で瀕死となり、医者は背広でその身体の一部(頭部)のみ持って城館に着く。そこで恋人の首は実験室の、浅い容器の液に入れられ頭を線で繋ぎ、生きている状態になる。恋人は目が覚めて変わり果てた自らの姿を見て、死なせてくれと懇願する。

医者は恋人の胴体を物色に行く。つまり適当な身体を持った若い女を捜して、恋人の胴体にしようと計画する。実験室の扉の向こうからドンドンたたく音が聞こえる。医者がかつて行なった人造人間の出来損ないがいるのである。また医者に協力する男も手を実験にされ、不自由な身体である。医者は車で街の通りを走らせながら、道行く若い女の身体をなめまわしている。会った知り合いにファッションショーに行くよう勧められる。ファッションショーで出てくる女よりも身体がいいのは、医者の知っているモデルをしている女だと言われる。モデルとして写真撮影がされているスタジオに行く。医者は眠り薬で女を眠らせ自分の家に運ぶ。

実験室では医者に恨みがある扉の向こうの怪物を、首だけ女がけしかけ、医者の仲間の男を殺す。医者はモデルの女を連れて実験室にやってくるが、怪物にやはり殺される。火事が起こる。怪物は気を失っているモデルを担ぎ上げ逃げていく。火事の中、首だけ女は周りを見ている。

宇宙戦争 The war of the worlds 1953

バイロン・ハスキン監督、米、85分。火星の生物は住めなくなった故郷の星を離れて、移住先を捜している。地球は最適だった。その火星人の宇宙船が田舎に着陸する。

見に行った三人の男は光線砲で蒸発した。軍隊等が出動してくる。火星人と和睦に出かけた牧師も光線砲でやられる。軍隊がありったけ動員されるが、火星人には歯が立たない。最後の手段として核兵器を使った。それでも火星人の宇宙船には効かない。宇宙船は世界各国にやってきて破壊を尽くす。しかしなぜか急に宇宙船が落下、墜落した。中から現れた火星人も倒れる。音声の解説が入る。地球上の細菌によって火星人は倒れたのだと。

2025年8月17日日曜日

ゴア・ゴア・ガールズ The gore gore girls 1972

ハーシェル・ゴードン・ルイス監督、米、85分。ストリッパーばかり狙う連続殺人が起こる。私立探偵は若い女の記者と共に犯人を捜そうとする。

それでも新たに別のストリッパーたちが殺されていく。殺しの場面はゴードン・ルイスばりの血を沢山使う残酷描写になっている。最後に犯人を突き止める。ストリップ・バーの女給で、主人の気が他の女に移ったので、それを根に持ち女を次々と殺していったのだった。

2025年8月15日金曜日

去年マリエンバートで L'Année dernière à Marienbad 1961

アラン・レネ監督、仏、94分、白黒映画。宮殿のようなホテルに多くの男女が集まっている。その中の一人の男がある女に向かい、去年会った。どこかは覚えていない。それに対し、女は知らないという。男は去年の女との邂逅を語ってみせる。他に女には夫がいる。全編、幻想のような雰囲気の映画である。

丸谷才一『文学のレッスン』新潮選書 2017

丸谷が2008年から明くる年にかけてインタビューを受け、それが本の大半を占めている。聞き手は編集者を経て、大学教授になった者。ジャンル別に論じている。短編小説、長編小説、伝記、批評、歴史、エッセイ、戯曲、詩、である。

短編はなぜアメリカで発達したのか、雑誌が多かったせいらしい。ポーなども雑誌の編集者だった。イギリスでなぜ長編小説が発達したのか。これは18世紀からで、19世紀の小説は有名なものが多いが、18世紀でも『パミラ』とか『クラリッサ』とか『トリストラム・シャンディ』がある。この理由については「識字率の高い中流階級が長編小説を買う余裕があり、また読むのが好きだったということでしょう。」(p.43)とあって、あまり大したことを言っていない。丸谷の言では『アンナ・カレーニナ』を高く買っていない、という意見が目についた。それは登場人物が魅力的でないからという。これは賛成するかどうかは別にして、考えさせられた。『戦争と平和』も丸谷はナポレオンは魅力的だが、それ以外は登場人物を魅力的だと思っていないらしい。ドストエフスキーは登場人物が魅力的でそこがいいらしい。

伝記のところでは例として文学者の伝記をよく挙げている。伝記は社会に名を成した者が対象になるので、政治家や軍人、あるいは実用的な貢献をした学者、下っては実業家の伝記が多く書かれていると思ったが、自分が文学者なので文学者の伝記が気になるのか。次に歴史だが、一般人は歴史を読むとき、物語を読むように読んでいるのではないかと話は始まる。これを読んでまず思うのは、西洋語、例えばフランス語やドイツ語は歴史と物語が同じ言葉である。英語にしたってhistoryとstoryで似ている。歴史を物語のように読むなどという言い方、その発想自体が仏語や独語ではありえない。これにどう触れるのかと思ったら何にも書いていない。なんだと思った。

最後に詩を扱っているが、ここで詩と酒の話になって酒が好きな人はいいが、全く酒を飲まない、嫌いな人も多いはずで、こういった酒のことなど持ち出すべきでない。昭和時代にオヤジ連中がすぐプロ野球の話を始め、野球など興味のない者はうんざりした。文学の話をしているのだから文学だけで話をしてほしい。

2025年8月14日木曜日

筒井康隆『創作の極意と掟』講談社文庫 2017

筒井による小説作法の本である。小説をこれから書こうとする人、また既に職業小説家になっている人も対象に書いたとある。

項目は、凄味、色気、揺蕩、破綻、濫觴、表題、迫力、展開、会話、語尾、省略、遅延、実験、意識、変化、薬物、逸脱、品格、電話、羅列、形容、細部、蘊蓄、連作、文体、人物、視点、妄想、諧謔、反復、幸福、と分かれ、各品目について筒井の考え、理解を述べる。これだけ良く書いたものだと思う前に知らない単語がある、揺蕩など。品目を並べるだけでなく、それについていちいち書いているのだから感心せざるを得ない。

2025年8月12日火曜日

立花隆、佐藤優『ぼくらの頭脳の鍛え方』文春新書 2009

二人の知識人による、読書でいかに頭を鍛えるかの対談とそれぞれが推薦する図書の一覧。二人は多くの書を物している文筆家であるが、かなり異なった志向を持つ。佐藤はいわゆる人文系の知識人で、立花は多くの自然科学書を挙げている。

例えばマルクスやカントに対する評価は全く異なる。佐藤がマルクスを「今こそ、教養としてのマルクス主義、マルクス経済学の意義は大きいと思う」と言っているのに対し、立花は「マルクス思想については、もう学ぶべき対象ではないでしょう」(以上p.39)と述べる。佐藤でよくわからないのは『価値と資本』を新自由主義を把握するのに一番総合的じゃないかと言っているが、自由主義なら立花の挙げているハイエク以外ならミルトン・フリードマンあたりにしたらどうか。『価値と資本』は分析の本であって主義主張の本ではない。また経済学では『価値と資本』と並び古典視されているケインズの『一般理論』の解説では、ケインズのあまりにも常識的な話をしているだけである。本当にこれらを読んでいるのかと思いたくなる。立花のマルクス理解については、p.191以下の『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を論じているところを読むといい。マルクスの礼賛文はよく見るが、マルクスをてんから無視している者は、論じる価値なしとして何も言わない。この立花の文はマルクス批判をちゃんとしているので珍しい。

さらにカントの評価が面白い。立花は『純粋理性批判』をナンセンスと断じ、その根拠として時間と空間をアプリオリとしているが、現代の時間空間概念は変わってしまった、前提がもう今では通じないから砂上の楼閣になっている、と。立花の論がどの程度説得性を持つかどうか、ただ佐藤も反論で論破できているとは思えない。

2025年8月6日水曜日

魔の谷 Beast from haunted cave 1959

モンテ・ヘルマン監督、米、72分、白黒映画。スキー場に来ている悪漢集団。そこで山男なる者に出会い、集団のボスの情婦となっている女は惹かれる。悪漢どもは金塊を奪うため、目くらましに爆破を起こし犠牲者が出る。女は山男と一緒に逃げるつもりだった。

しかしこの近所の洞窟の中で別の女が怪物に襲われた。その後も怪物は山小屋にやってきて人を攫っていく。山男と逃げた女は吹雪を避けるため洞窟に入る。そこは怪物の住処だった。先に怪物に攫われた人らが囚われている。逃げた情婦を追って洞窟に来た悪漢のボスは怪物にやられる。その仲間が怪物を火炎放射器(?)か何かで怪物を焼き殺す。怪物の恰好は、布にたくさんの紐がからまっているようななりである。

川北稔『砂糖の世界史』岩波ジュニア新書 1996

「世界商品」砂糖の取引を中心にした世界史。世界商品とはそれを求めて各国で競争が生じる物。砂糖以外に茶とコーヒー、チョコレートなどがある。いずれも世界の経済の中心であった欧州では栽培できない。それで熱帯等の植民地でそれらを栽培した。

その際、労働力が必要である。その労働力はアフリカから黒人を奴隷として調達し、従事させた。奴隷の貿易と工業製品など欧米での産品との貿易が盛んに行われた。

2025年8月3日日曜日

齋藤孝『読書力』岩波新書 2002

現代は読書しなくていいといった風潮があるが、とんでもない、読書は必要だと著者は力説する。著者はいかに読書が人生に必須か、熱く語る。最近の物分かりの良いおじさんとは全く意識的にか、違う態度をとっている。著者はいかに読書が読む人に効用をもたらすかをいろんな点を挙げ、説明する。

書名の「読書力」という言葉は普通使わないだろう。どういう意味で使っているかを見ていると、読書力があるとは文庫百冊、新書五十冊読んだというものである、とある(p.8)。本書の多くの読者はもっと読んでいるだろう。改めて本書がこれから読書をしようという、普通は若い人であろう、読者を対象としていると分かる。本を読むのはそもそも読書が好きな人が多い。それで同好の士と語るのは楽しいから読書に関する本は売れる。少なくとも海辺で拾った石ころを楽しむ、というような題の本よりかは。(実はAmazonで見たらこのような本が出ていて、それなりの読者がいるとは驚いた。人間の関心は広い)

ただし、既に読書好きになっている人でなく、本書の想定する読者に、どの程度本書が届くか、本書を読む気にさせるか。そのために本書は若い人の読書の指導をする教師(役)にも向けられていると思った。最後に文庫百選として著者が勧める本の紹介がある。これを見てなぜこの本にしたのか、自分なら同じ作者のあの本にする、といったように楽しめばよい。

2025年8月2日土曜日

目玉の怪物 The eye creatures 1967

ラリー・ブキャナン監督、米、78分、総天然色映画。テレビ用の映画らしい。田舎町に空飛ぶ円盤が降りてくる。軍は調べるがパニックを避け、何も一般に知らせない。

カップルが乗っている車は何物かに衝突する。人を轢いたかと思って調べると怪物である。警察に知らせるが相手にされない。されないだけでなく、別の事故の容疑者にされてしまう。別の若者が来て、怪物が倒れているところを見ているうちに、生きている怪物が襲い、若者を殺してしまう。この若者殺しの容疑者ではないかとカップルは言われる。轢いたのは怪物でなく、若者だろうと警察は思っている。否定しても信用されない。

隙を見て警察から逃げ出し、死んだ若者の友人宅に行き、その友人を事故現場に連れていく。怪物たちが多く現れる。友人は怪物にやられそうになる。車のヘッドライトを当てると怪物は蒸発して消えてしまう。カップルはたくさんのカップルの友人を集め、車を連ねて現場に向かう。初めは暗くしておいて、怪物らが現れるとヘッドライトをつけ、怪物どもを退治する。怪物に襲われた先の友人を助ける。

題名は目玉の怪物となっており、原題もそうだが目玉の怪物でなく、全身が多くのできもの、突起物、イクラの寿司のようないでたちの怪物である。

2025年7月31日木曜日

ゴーストキラー 令和7年

園村健介監督、ライツキューブ配給、104分、高石あかり主演。ある殺し屋が殺される場面から始まる。高石はバイトをしている大学生。ある日ころんだ階段で薬莢を見つける。その薬莢は殺された殺し屋の物で、高石がそれを拾ったところから死んだ殺し屋の霊が見え、会話できるようになる。更に殺し屋の霊が乗り移り、高石の体を使って殺し屋が自分の体のごとく使えるようになる。

親友のとんでもない恋人を懲らしめ、また殺し屋が自分を殺した者を殺さない限り成仏できない、といい協力を頼まれる。結局のところ、高石は殺し屋をつけ狙う反社会組織と対決することになる。女の子と悪人の体が入れ替わる映画があったし、ミッシェル・ロドリゲスの映画で女の体に男が乗り移る映画があった。それらと枠組みは同じだが面白い映画になっている。

2025年7月30日水曜日

鴻上尚史『人間ってなんだ』講談社+α文庫 2022

演出家の鴻上が雑誌に連載したエッセイの中から「人間ってなんだ」という観点の文を集めたもの。著者は演出家だから人と付き合わざるを得ない。それでいつも相手の立場になって考える練習をしてきたそうだ。またシンパシーの他にエンパシーという言葉が出てくる。相手の立場になってその考えを推察するというか。相手に感情移入する必要はない。

エッセイの部ではイギリスの演劇学校に行った。そこでの体験がある。また無意識の差別感情を指摘する文もある。更に著者が学生時に黒澤明の『影武者』のオーディションを受けた経験。演出家蜷川幸雄の思い出もある。

2025年7月29日火曜日

金星怪獣の襲撃 新・原始惑星への旅 Voyage to the planet of the prehistoric women 1968

デレク・トーマス監督、米、79分。金星に向けて飛び立ったロケットから通信が途絶える。新しいロケットを飛ばし救出とできれば探検。

金星には白人の若い女たちが何人かいてそれらが金星人である。救出隊は行方不明になっていた先人たちを助ける。金星には守り神テラという怪獣がいて、翼竜である。海に浮かんだ探検艇を襲うが、銃で退治する。死んだテラを見て金星人らは復讐を神に祈る。火山が噴火し溶岩が流れる。大雨が降る。探検隊のロボットが何とか隊員たちを溶岩から救うがロボットは倒れ、溶岩流に流される。助かった隊員たちはロケットで金星を脱出する。

金星人は自分たちの神テラは復讐も出来なかった、だめな神だと言って破壊する。代わりに溶岩で溶けた地球人らがおいていったロボットの残骸を新しい神として崇める。