2025年4月5日土曜日

松岡圭祐『小説家になって億を稼ごう』新潮新書 2021

著者は小説家である。知らなかった。Amazonで調べたら自分の読む範囲とは全く異なる本を書く人だった。

書名は極めて刺激的である。これはもちろん売るためである。もし書名が「小説家になって稼ごう」だったら売れるにしてもそれほどでなかろう。実際「億を稼ごう」としたため、どれくらい多く売れたか想像もつかない。これは本というのは書名が極めて重要だと教えているのである。

もし自分の指導を受ければ必ず、オリンピックで金メダルを取れるようになります、とスポーツのトレーナーが言っても額面通りに受け取らないだろう。小説家の志望者はそう受け取るらしい。人気がある芸能人でも小説家でも、こうすれば必ずなれます、という秘訣は「原理的に存在しない」。なぜならそんな方法があれば、誰でも実行し他人と違わなくなるから。もう少し小説等の創作について言えば、モームが言っているように(『世界の十大小説』下、岩波文庫、1997、p.224あたり)、小説を書くには霊感と、組み立てる能力が必要である。うまく組み立てる、磨き上げ、読者を納得させ感動させる物語にする。これらは訓練や経験でものにできるかもしれない。当然だが、教えられることしか教えられないのである。霊感は教えられない。ここに書いてある「想造」といったように霊感を引き出す手助けくらいである。先ほどのスポーツのトレーナーに、全く運動神経の鈍い者が、自分が金メダル取れますか、と言ってくるとは思えない。小説家志望にはいるらしい。この本の中心は、作家と出版社から成る業界の実際が分かるという点だろう。

2025年4月4日金曜日

新井一樹『物語のつくり方』日本実業出版社 2023

題名のとおり物語の作り方を指南しようとする本である。著者はシナリオ・センターというところで講師をしている。それでこの本は講演をそのまま文字にしたような語りになっている。猫なで声の、ですます調で書いてある。正直なところ簡潔に書いてほしかった。どうしても、ですます体では冗長になる。講演ではそれが必要だろう。すぐ声は消えてしまうから冗長な説明の方がいい場合がある。それに対して文章で伝える場合は簡潔で明瞭であるべきである。

また本書には索引がない。こういった何かを説明する場合に索引は絶対必要である。物語を作る際には天地人を明らかにすべしとある。このうち地は舞台、人は人物とはすぐに連想できるが、天はこの本ではどう説明していたかを確かめようとしてもどこに書いてあるか、索引がないのですぐに見つけられない。桃太郎の話を例にとって説明を進めているのだが、桃太郎など面白くない。もっと洋の東西を問わず古典から素材をとった方がいいと思う。それにしてもこの本では有名な劇や小説などの例を例示していない。説明をしてこの作品ではこうやっていますなどとはない。なぜだろう。

更にストーリーでなく人物が重要であると強調している。これはストーリー主導と人物主導の二者択一を迫っているように見えるが、そういう話でなく、人間が描けていないと話が面白くないからである。人間を描いているのが近代小説の特徴である。シェイクスピアの悲劇も性格悲劇と言われるではないか。筋だけでは面白い話にならない。『オセロ』を歌劇化した『オテロ』を馬鹿みたいな話だと言った者がいた。確かに筋だけ聞けば、嘘による嫉妬で殺人を犯すなど馬鹿みたいである。しかしこれはオセロという人物の造形に重きがあるわけで、筋は二の次なのである。ストーリーはパターン化されているとある。装飾の部分が異なるだけで骨格は数種類あるだけである。実際の作成にあたっては起承転結で承の部分を圧倒的に長くすべきだとある。また書く順は転が初め、結が次、それから起承とすべきとある。

2025年4月2日水曜日

ダンウィッチの怪 The Dunwich horror

ダニエル・ホラー監督、米、90分。ラヴクラフトの原作を元に映画化。

大学教授のところへ稀覯書の閲覧を頼みに来た男がいる。教授は断る。もっともその男が知っている者の末裔と知り、食事を共にする。男は帰ろうとするがもう列車はない。秘書が車で送る。男の家に着くと、男は秘書を眠り薬で眠らせる。後に秘書の同僚が捜しに来るが、入ったや化物状の何かに襲われる。男は眠る秘書を横たえ、稀覯書のまじないで太古の霊を蘇らせようとしていた。それによる邪悪な霊は近隣の人々に被害を及ぼしていた。教授等が助けに来る。男は地獄に落ちる。秘書は助かった。

2025年4月1日火曜日

町山智浩『ブレの未来世紀』新潮文庫 平成29年

前著『〈映画の見方がわかる本〉ー2001年宇宙の旅から未知との遭遇まで』に続く、80年代の映画の見方を解説した本である。本書で取り上げられた映画は「ビデオドーム」「グレムリン」「ターミネーター」「未来世紀ブラジル」「プラトーン」「ブルーベルベット」「ロボコップ」「ブレードランナー」の諸作である。

いずれも以前より親しんできた映画であり、2回以上見ている作品が多い。これらが優れている映画、見るに値する映画とは思っていたが、本書でその意図するところを深く理解することができた。映画について書いてある本の中には著者は分かっているつもりでも、あるいは読者を煙に巻こうとしているのか、よく分からない本がある。本書はそれらと違って、いかにもよく分かったと思わせる本である。

2025年3月31日月曜日

冷たい水 L’eau froide 1994

オリヴィエ・アサイヤス監督、仏、92分。高校生の男女、好き合っている。レコード屋で男が万引きし、男は逃げるが女は捕まってしまう。

女は両親とも嫌っており、母親はアラブ人の男と一緒になり、父親の方ともうまくいっていない。女は父親に引き取られ、施設に入れられる。男は学校の教師からがみがみ言われる。後にダイナマイトを手に入れ知人に渡す。女は施設から逃げ出す。男ら学友が騒いでいるところに来て、男に一緒に逃げてくれと頼む。遠い地方に知り合いがいて芸術家の楽園がある、そこに行ってくれるか。男は承知する。後で女友達に、芸術家の楽園とかそこに知り合いがいるとかは嘘だと言う。男に一緒にいてもらいたいからだと。母親とその恋人が逃げた女を捜しに来るが見つからない。

女は男と逃避行の旅に出る。ヒッチハイクで遠くまで行く。その後歩きになる。川のそばの野宿で、女は裸になり男のそばで寝る。男が起きると女はいない。川の傍に女の書置きが残っていて男はそれを読む。そこで終わり。

2025年3月30日日曜日

エラリー・クイーン『エラリー・クイーンの国際事件簿』 1964

クイーンが書いた三つの犯罪実話集を収録。『私の好きな犯罪実話』(1956)、『エラリー・クイーンの国際事件簿』(1964)、『事件の中の女』(1966)であり、以上の訳が本書である。

犯罪実話と言っても、事件の記録そのままというより、事件を元に脚色し小説化しているようである。例えば初めに『エラリー・クイーンの国際事件簿』があり、これは20話あって名の通り、世界各国の事件を扱っている。第2話に「東京の大銀行強盗」とあって、これは題からすぐに想像できないかもしれないが帝銀事件を元に書いている。自分が名をつけるなら「東京の大量殺人事件」とか「東京の毒殺大事件」とかにする。

犯人は平沢でなくキヨシ・シムラと変えてあるが、帝国銀行椎名町支店とか安田銀行品川支店などはそのまま使っている。事件の内容はかなり自由に、というかデフォルメ、茶化して書いている。帝銀事件は日本の犯罪史上の重要事件であり、これまで多くの本や映画、ドラマがある。インターネットでも情報は多くある。それをここの記述は、まるである事ない事を、読者が面白ろおかしく読めるように脚色した、風俗雑誌を読んでいるようである。

実際の犯罪は事実ということで、こさえ物の推理小説より面白く読める場合が少なくない。しかしここの立場は手を入れなくてはならない、あるいは入れたい、という考えのようだ。第5話「アダモリスの詐欺師」はルーマニアが舞台で、寒気のするほど陳腐な犯罪が書いてある。今までドラマなどで何百回使われたか分からない手口である。これで読む気が失せた。(飯塚勇三訳、創元推理文庫、2005)

海獣の霊を呼ぶ女 The she-creature 1956

エドワード・L・カーン監督、米、77分、白黒映画。小屋で見世物にしている催眠術師には女の助手がいた。海岸近くの家で夫婦の死体を、心霊学の博士が見つける。警察が調べるとおかしな足跡がある。心霊学博士は顔見知りの催眠術師が、その家から出ていくところを見ていた。催眠術師は警察から尋問されるが、人間のしたことでないと意味不明の事しか言わない。

この催眠術を見世物にして儲けようと、心霊学博士が下宿している実業家は思い立つ。催眠術師の助手である女が海獣を呼び起こす女で、術をかけられ眠ると海から海獣が出てくる。殺人をしていたのは海獣で、女の祖先であるから雌である。助手は心霊学博士と相思の仲になり、催眠術師から逃げたがっている。

公開で行われた催眠術では、女はなかなか術にかからないが、海獣は海から出てきて刑事を殺し、更に実業家、また催眠術師まで殺す。海獣が海に帰ろうとするところを警官たちが銃撃するが、果たして死んだか。疑問符が出て映画は終わる。

2025年3月29日土曜日

影なき狙撃者 The Manchurian candidate 1962

ジョン・フランケンハイマー監督、米、126分、白黒映画。フランク・シナトラ、ローレンス・ハーヴェイ出演。朝鮮戦争の場面から始まる。戦闘があって、負傷者等はヘリコプターで運ばれる。アメリカの基地に着陸した飛行機からハーヴェイが降りてくる。大歓迎ぶりでカメラマンなども多い。勲章を貰ったので母親と義理の父親が来る。一緒に写真を撮られる。義父は政治家で選挙に利用する気でいる。ハーヴェイは両親とも嫌っている。

過去の場面になる。中国やソ連の軍人らに囲まれている。ハーヴェイは言われるがまま仲間の兵士を殺す。ハーヴェイは洗脳されているのである。ハーヴェイの同僚軍人にシナトラがいる。シナトラも悪い夢を見る。シナトラはハーヴェイが大した戦功もないのに勲章を貰ったと知っている。戦友を助けたとされているが、実際は殺しているのである。シナトラはハーヴェイがおかしいと知りなんとか助けようとする。ハーヴェイに相思の仲で結婚したいと思っている女がいた。その父親が義父と反対の、革新派議員なので母親は反対する。後に好き合う二人は結婚する。

しかしトランプのクイーンの札を見ると、洗脳された状態になるハーヴェイは自分の意識のないまま結婚したばかりの妻とその父親を射殺する。更に大統領選の候補者を決める大会に行ってライフルを構える。シナトラは気づき、止めに駆け上るが間に合わず射殺する。ただし大統領候補でなく義父の政治家だった。シナトラが部屋に入るとハーヴェイはライフルを自分に向けて撃つ。

2025年3月28日金曜日

ゲットアウト Get out 2017

ジョーダン・ピール監督、米、103分。白人女性を恋人に持った黒人が災難に会う映画。黒人青年は白人の彼女と共に田舎にある彼女の実家に車で行く。そこの両親は暖かく迎えてくれる。黒人の使用人がいる。

黒人は彼女の母親から催眠術をかけられ、悪夢のような体験をする。やがてその家のパーティに、知り合いの家族らが多くやって来る。中に一人だけ黒人の青年がいた。年上の白人女性の恋人である。その黒人にスマートフォンで写真を撮ると驚愕される。正常でなくなる。黒人は警察にいる友人(黒人)に連絡し、またその写真を送る。警官はその黒人青年が失踪した有名人と知る。

ことの真相は、黒人からその健康な身体をもらうために、恋人とされていたのである。恋人は過去にも黒人の彼氏を多く持っていて、身体を取っていたのである。黒人は気づくと椅子に縛り付けられ、その眼などを盲目の白人に移植される予定だった。黒人は連れに来た男を倒し、その他の家族を殺していく。車で逃げるが木に衝突し、あの彼女が殺しにくる。何とか相手を押さえる。その時パトカーが来る。女は救助を求めるが、出て来た警官は黒人の友人だった。黒人は友人とパトカーで去る。

2025年3月27日木曜日

アンダー・ザ・スキン 種の捕食 Under the skin 2013

ジョナサン・グレイザー監督、英米スイス、108分。スカーレット・ヨハンソン主演。宇宙からやってきた異星人が地球人をものにしていく。その方法は地球人の美人(ヨハンソン)になり、男たちに声をかけてその気にさせ、ものにする。

スコットランドの田舎でヨハンソンは車を運転し、男を物色する。ものにするとは具体的には、暗い中、ヨハンソンの身体に魅入られた男たちが、近づいていくと沼のような地下に沈んでしまう、という風である。もっともヨハンソンは人間の女の皮膚をかぶっているだけなので、男とは交わうわけにいかず、最後は暴行を働こうとした男によって皮膚を裂かれ、燃えてなくなる。

2025年3月25日火曜日

E・C・ベントリー『トレント最後の事件』 Trent’s last case 1913

トレントは画家で素人探偵である。今まで犯罪事件を解決してきたので、アメリカ人の富豪実業家の殺人事件に駆り出される。被害者は美人の妻とうまくいっていなかった。秘書は二人いてアメリカ人は事業上の、イギリス人は雑務をこなす仕事である。

小説半ばでトレントは事件を解決したと思い、自分を雇った新聞社宛てに事件の真相なるものを報告する文章を書く。イギリス人の秘書が犯人で美人の妻に恋慕していたと書く。実はトレント自身もその妻に恋していて、報告を書き終わった後、事件の場所から離れる。後半になって時間をおいた後、トレントは未亡人となった妻に会い、自分の恋を打ち明ける。

またトレントが犯人と断じた秘書から真相なるものを聞く。実は実業家は自殺したのだと。なぜ自殺したかというと、秘書に罪を被せるためだと。実業家は妻と秘書の間を疑い、なんとしても秘書を陥れるため、自殺したというのである。自分の殺人の犯人として、秘書が捕まり処罰されるだろうと計算してやったというのである。更に最後になって本当の真理を聞く。妻には叔父がいてトレントの旧友だった。その叔父が実業家を殺したのだと。死んだ実業家を見て秘書は自殺したのだと思ったのだ。

瀧井敬子『漱石が聴いたベートーヴェン』中公新書 2004

森鷗外、幸田露伴、島崎藤村、夏目漱石、永井荷風といった近代を代表する小説家が西洋のクラシック音楽とどう接したか、を書いている。書名の漱石は近代の文学者の代表として、またベートーヴェンはクラシック音楽の代名詞として使っているのであろう。今はどうか知らないが、自分の子供の頃、昭和時代のある時までベートーヴェンは西洋音楽の中で絶対的に抜きんでた存在のように見えた。西洋美術ならルネサンスとか19世紀のフランスとか何人もの有名な画家等がいる。それに対してクラシック音楽ではベートーヴェンの存在が圧倒的に大きかった。だからベートーヴェンを代表としていてもおかしくない。

ただ副題に「音楽に魅せられた文豪たち」とあるのは異議を感じる。文豪らはクラシックを好きになっていたようには見えない。あくまで西洋の高尚で難解な芸術として接していたと思える。例外は藤村と荷風の一時期で、好いていたと言ってもおかしくないが。鷗外はドイツでオペラを鑑賞し、その訳本を試みているが、オペラを好きになったと言うより高尚な芸術として日本に紹介を考えていたように見える。また自分の作品に利用していた。ここに引用されている短編『藤棚』でもクラシックの音楽会に、当時の上流階級が理解してもいないのに、西洋の高尚な芸術ということで聴きにいっている様が描かれ、これは長い間、日本人のクラシック音楽への接し方だった。

小林秀雄の『モオツァルト』は終戦直後に出ており、頭でっかちな観念的議論である。人から聞いたが、戦前の音楽会には楽譜を持ってきて、見ながら聴く人がいたとか。見栄の手段としてクラシック音楽を使っていたのか。今はそんなことは全くなくなったが。

2025年3月23日日曜日

池亀彩『インド残酷物語』集英社新書 2021

著者は社会人類学者でインド南部で暮らし、その経験からインドの社会の実態を書いている。最近のインドは経済の躍進として語られる場合が多いが、ここでは現代なお息づくインド社会の問題点の幾つかを洗い出している。

インドといえばカーストと誰でも思うだろう。ただこのような捉え方だけではインドの実際は分からない。インドのカーストと聞けば、バラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラと答えるだろう。このような身分制は「ヴァルナ制」というそうである。これとは別の切り口で職業別とも言うべきジャーティという区分がある。土地持ち農民のカースト、商人・金貸しのカースト、職人カーストなどがその例である。またこのカーストに属さない、ダリト(不可触民)、アーディーヴァシー(山岳地域の部族民)という身分がある。

特にこのダリトと呼ばれる不可触民は、交わると穢れるという意識が持たれている。新書の初めにある挿話には、上級層の娘が好きになって結婚した相手がいた。それが後になって夫は不可触民と分かった。すると妻の家族がその夫を殺してしまったのである。不可触民とはそのように扱われているのである。同じ国民なのに驚くべき発想と実際である。

ただ本書にはそのような事例ばかりでなく、より下の層がどうやって上昇していくか、といった例もある。ともかく才覚と実行力がなければ全くどうにもならない社会である。インドの成長の中での変化が書いてある。

2025年3月21日金曜日

モスキート Mosquito 1994

ゲイリー・ジョーンズ監督、米、92分、総天然色。異星から来た宇宙船が沼に墜落し、そこが蚊の繁殖地だったため、影響を受けて巨大化した蚊が人間を襲うという恐怖・SF・アクション映画。

主人公の若い男女が運転する車に蚊がぶつかり車は故障、蚊はペシャンコになる。この巨大化した蚊は人間を襲い、血を吸う。吸うための蚊の吸取り管が人間の身体に突き刺さるところは見物。主人公たちは他に科学者、公園管理人、更には悪党と一緒になって蚊の襲来に立ち向かう。蚊に刺され血を吸うと目が飛び出てミイラになるところも見物である。

最後に閉じこもった屋敷が実は蚊の繁殖用の基地だったため、蚊の大群が押し寄せる。ここで地下に卵の大群があったので、屋敷もろとも蚊を吹っ飛ばす。先に逃げた主人公の男女の他、科学者が大爆発した屋敷の中に隠れていたため、助かったで終わる。

2025年3月20日木曜日

保坂正康『六十年安保闘争』講談社現代新書 昭和61年

本書は60年の安保改定を巡る騒動を解説した書。闘争に挑んだ英雄たちの物語といった叙述ではなく、どうして安保騒動があれほどまでに大きいものになったかの経緯、説明を目指している。以下では本書の要約でなく、本書を元にして安保騒動への自分の理解を書いた。

まず60年は安保条約の改定であった。それでは改定されるまでの安保条約があったはずだ。それは1951年サンフランシスコで調印された日本の独立時に、アメリカと結ばれた条約である。日本は独立した。しかし当時の日本は今の自衛隊にあたるような防衛組織は何もなかった。それでアメリカが日本を保護するために結んだのが安保条約である。もちろんこれはソ連を敵においた条約である。サンフランシスコでの独立調印にはソ連等は参加しなかった。この時点ではソ連は日本の独立を認めていない。米ソ対立の中で日本は米側についた。それでソ連を敵とみなす軍事条約、アメリカが軍隊のない日本を保護するのが安保条約であった。この条約を日米対等の形で条約し直す、それが60年安保条約改定であった。
しかしこれはもし米ソが戦争を起こした際、日本が巻き込まれる。それが嫌だ、避けたいという気持ち、意見が安保条約改定への国民的規模の反対運動を生んだのである。
反対運動を指導したのは、既成政党である社会党、共産党を中心とした国民会議(安保条約改定阻止国民会議)と学生自治会の連合である全学連(全日本学生自治会総連合)である。全学連の思想は共産党とは離れていた。共産党が体制内での共産主義化を目指すのに、全学連の主流はブント(共産主義同盟、同盟のドイツ語がブント)であり、共産革命を目指していた。つまり安保条約改定阻止では一致するが、ブントは究極的には革命を意図し、学生であるから過激な行動をとった。
1959年11月27日には全学連は警備を破り、国会の構内に突入する行動に出た。これは安保阻止運動で象徴的な出来事であった。
明くる1960年6月に当時のアメリカ大統領アイゼンハワーが来日することとなった。この来日の前に安保条約を成立させたい、これは自民党にとって至上命令となった。5月19日に自民党は衆議院で強行採決した。これで全国民的な反発、怒りを招き全国民的な反対運動が展開された。ただひと月経てば自動成立してしまう。だからなんとしても阻止しようと、学生らの国会への突入行動が6月15日に起きた。この時に死んだのがブントの活動家であった東大生の樺美智子である。しかし6月19日に安保改定は自動成立。
これで大いなる挫折感を抱いた者もあれば、ともかく政治への大衆行動を起こせたと意義を強調する者もいた。ここから安保改定で大いに活動したが、その後は小市民的に生きていく層と、より過激な政治運動に走る層が出た。後者がその後紆余曲折あって、12年後に起こる連合赤軍事件の当事者の、遠い源流になる。

2025年3月19日水曜日

クリーピング・テラー The creeping terror 1964

アーサー・ネルソン監督、米、76分、白黒映画。主人公は最近結婚した保安官補佐。空から宇宙船のような物が墜落した。

保安官の伯父とそれを確かめていく。宇宙船の中に伯父が入ると悲鳴や銃声が聞こえ、そのままになった。主人公の男は連絡し、兵士たちが来て宇宙船の内部を調べる。この調査はイギリスから来た男が担当することになった。宇宙船から出て来た怪物はゴミのようなものに覆われた蝸牛状の形。恋人たちを襲い、食う。女が食われ、脚が身体の下の方についた口に吸い込まれる様子の場面が何度も出てくる。その他に若い母親、一緒に釣りに来ていた親子も犠牲になる。何組かの恋人たちが集まっていた場所へ怪物は来て、オープンカーの上からのしかかり恋人たちを襲い、車をひっくり返して中の者を餌食にする。更にダンス・ホールにもやってきて、何人もやられる。兵士たちが銃で攻撃しても平気で殺される兵士もいる。指揮官は生け捕りにしたかったが、無理のようである。最後は手榴弾で倒した。

指揮官は宇宙船の方へ車で急ぐ。宇宙船の中にはもう一体、怪物がいた。共に宇宙から地球を探りに送り込まれてきた。指揮官が怪物にやられそうになったので、後から来た保安官補佐は車で衝突させ怪物を倒す。宇宙船の中の通信機器を壊す。既に情報は宇宙に発信されているだろう、それを受けて地球に攻撃に来るかもしれない。それまでに地球人が発達して迎え撃てるようになればいい、と指揮官が言って終わり。

2025年3月18日火曜日

伴野準一『全学連と全共闘』平凡社新書 2010

かつての学生運動を指導し、また大きな影響を社会に及ぼした全学連と全共闘の解説を意図して書いているようである。かつての学生指導者を務めた人たちにインタヴューをし、当時の想いなども書かれている。だから本書は当時の学生運動を担った者の視点で記述されている。

しかしながら安保騒動から半世紀経ち、終戦から65年も経った時点での総括であれば、もう少し歴史の中での、その位置づけをする書き方がありえたし、そういった記述を希望した。当時の学生たちはなぜ学生運動をしたのか。その答えは本書の中にある。学生らの国会構内乱入のニュースを聞いて、九州のある学生運動家は次のように思ったという。「ヤッターッていう感じだったね。どうしてかと聞かれても困るけど、やっぱり騒乱状態というのが夢ですからね、(以下略)」(本書p.88)これが本書中、最も感心した文章である。ともかく騒ぎたかったのである。青春でエネルギーを持て余しその捌け口にしたのである。

もちろんその目的は革命にあった。運よく革命は成就しなかった。日本史上、最大の僥倖は日本で革命が生じなかった、という事実である。もし日本が共産主義国家になっていたら今の北朝鮮のように最低、最悪の国家になっただろうから。

2025年3月17日月曜日

バリンジャー『赤毛の男の妻』 The wife of the red-haired man 1957

刑務所から脱獄してきた男はかつての妻のところに行く。妻は別の男と結婚していた。妻は男が戦争で死んだと思っていたのである。男は妻の今の夫と争い、銃を相手が出したので撃ち殺してしまう。今の夫を嫌い、昔の男を今でも愛している妻は男と一緒に逃げる。

明くる日、死体が発見される。妻がいない。妻の犯行だろうと警察は考え、妻の行方を追う。小説は逃避行を続ける妻と元の男、それを追う刑事の話が交互に出てくる構成になっている。刑事は逃げる者の心理を推理し、それによって追っていく。逃げる側は男の方は精神がやや正常でなくなり、追手の警察を恐れている。妻は冷静になってどうすればよいか考慮して男を励ます。刑事は追う先で、ここに追っている犯罪者がいるのではないかと直感し、男の方も自分を追っている警察の眼を感じる。からくも追手をくらますが、最後にアイルランドに渡って、二人で暮らせると思った家に警察がやってくる。銃の撃ち合いとなり、男は倒れる。それを希望していたと知っていた妻の企みがあった。

追う刑事が最後に台詞で自分が黒人だと明かすのがこの小説の有名なところらしい。ある一行で伏せられていた事情を明かすというのが推理小説では好まれているらしい。(大久保康雄訳、創元推理文庫、1961)

2025年3月16日日曜日

山田風太郎『人間臨終図巻』 昭和53年~62年

過去の有名人の臨終の様子、また人によってはそれまでの生き方の叙述を900人以上も書いている。死んだ歳の若い順に書いてあり、十代、二十代、百代はまとめてあるが、それ以外の年齢は1歳ごとに分けている。

死に方で自分の知識と違う記述があった。そもそもどういう人か、知らない人もいる。インターネットですぐに調べられる。勉強になった。死ぬ様は人夫々だが、随分周りに、特に配偶者(妻)に散々迷惑をかけて死んだ人がそれなりにいる。生涯に亙ってそういう関係だったのだろう。妻が死ぬと夫も死ぬ、夫が死ぬと妻は長生きできる、と言うが、まさにそれの実証のような例が幾つもある。それまでの生き方、人生の過ごし方と死に方は関係ないと(当然であるが)改めて感じた。(角川文庫、上中下3冊)

2025年3月15日土曜日

宇宙船の襲来 I married a monster from outer space 1958

ジーン・フォウラー・Jr監督、米、78分、白黒映画。結婚を控えている若い男女がいる。男の方が車で帰る途中、道に倒れている者を発見し、止まる。すると宇宙人が現れ、男に発光し煙が出て男は消える。明くる日は結婚式の日なのに男は遅れてやって来る。結婚する。

1年経つ。女の方は結婚した相手に不審を抱いている。まるで昔の男と違ってしまった。妊娠もしない。医者に診てもらうが問題はないと。結婚一周年なので女は男に贈り物として犬を買ってくる。男は犬が嫌いだと言って、後にその犬を殺してしまう。女はますます男に疑念を抱く。宇宙人に乗っ取られていたのは他にも警官などいた。女は昔から知っている警察署長に相談に行くが、その署長も宇宙人に乗っ取られていた。

女はある夜、外出する男の後をつける。林で男の身体の中から光る宇宙人が現れ、隠してある宇宙船に入っていく。女が男に近づくと男は倒れ、まるで死体だった。女は周りに分かってもらえなかったが、最後に女の言うことを信じた捜索隊が宇宙船のある林に行く。現れた宇宙人に銃は効かなかったが、犬が飛び掛かると食い殺される。捜索隊が宇宙船の中に入ると、乗っ取られていた人間たちの元の身体が吊るされていた。その下にある装置を壊すと乗っ取った宇宙人が死んでいく。元の人間たちを宇宙船から助け出す。女の夫になっていた男も消え、元の男が女のそばにやって来た。地球人を乗っ取る気でいた宇宙人は母船に連絡し、宇宙船群は地球から離れていく。

2025年3月14日金曜日

ヴァン・ダイン『グリーン家殺人事件』 The Greene murder case 1928

イースト川に面した、ニューヨークの東53番街にあるというグリーン家の古い屋敷で起こる連続殺人事件。現代までの推理小説に親しんでいる者であれば犯人はすぐに見当がつき、いつまでも悩んでいる探偵たちがもどかしく思えるだろう。

中学生の時読んで、それ以来の再読。犯人は分かっている(覚えている)し、改めてファイロ・ヴァンスの衒学癖に驚くというか辟易する。グリーン家の2階の見取り図があって各人の部屋の配置がある。なぜこの人間がこの部屋になっているか、これは小説に出てくる事件の都合上、作者が決めたのであろう。それを離れ、各人の部屋の配置について色々考えてしまう。本小説に現在では感心する者がいるか不明であるが、この小説の設定というか枠組みがクイーンの『Yの悲劇』(1932)に影響を与えたと思われる。

2025年3月9日日曜日

恐怖の火星探検 It! The terror from beyond space 1958

 エドワード・L・カーン監督、米、69分、白黒映画。火星探検隊が隊長を除いて凡て死亡した。隊長が殺したのだろうと思われた。

救助隊のロケットが火星に向かい、生存者の隊長を連れて帰る。隊長は自分が殺したのではない、いつの間にか次々と隊員が何物かによって殺されたのだと主張する。誰も信用しない。ところがいつの間にかこのロケットに火星の怪物(火星人)が乗り込んでいた。ロケットの乗組員を殺していく。隊長が無実と分かったが、この怪物をどう退治するのか。通常の方法では死なない。火炎放射器を浴びせても死なない。放射能を浴びせかけても生きている。乗組員は宇宙服を着、最後に酸素をゼロにしてやっつけた。

2025年3月8日土曜日

鉄路の闘い La bataille de rail 1946

ルネ・クレマン監督、仏、82分、白黒映画。第二次世界大戦中、占領下のフランスにあって鉄道員などによる対独抵抗運動を描いた映画。

占領下、ドイツ軍は鉄道を使って戦闘用の兵器などを輸送していた。その鉄道輸送にフランス側の妨害工作がある。汽車の運行妨害をしたり、レールをはずすなどの行為で独の輸送を邪魔する。途中では独軍の戦車、軍人を乗せた汽車をレールを外して止め、銃撃戦を挑む。独側も機銃や戦車などを使って応戦する。多くの仏抵抗勢力が殺される。映像的に圧巻はノルマンディへ戦車を多く搭載してゆく列車を脱線させるところか。貨車の横転、多くの戦車が転落していく。最後はドイツが逃げ出し、フランスの国旗をかざした列車が運行され人々が喜んで迎える。いかにも戦争直後の勝利感に溢れている時代の作品に見える。

2025年3月7日金曜日

ハウスシャーク House shark 2017

ロン・ボンク監督、米、111分。家の中に巨大な鮫が現れ、人間を襲う(食う)という映画。

家を売るため客を案内していると鮫が現れ、客を襲う。トイレに座っている若い女が便器に吸い込まれ(下に鮫がいるという設定)、血まみれの便器になる。鮫は巨大な頭しか出てこない。それが家のあちこち扉の向こう、人間の後ろから現れる。この鮫退治に男が三人立ち向かう。若い男はルーズベルトと言い、鮫退治に来た一人はエイブラハム・リンカーンという男である。あと一人が鮫退治専門というザカリーなる男。この三人が鮫退治に挑むのだが、無駄な場面の連続。最後にリンカーンが飲み込まれアル中なので銃で撃て、そうすればアルコールに引火し爆発する、といってその方法でバラバラにする。

悪魔の調教師 Nightmare circus 1974

アラン・ルドルフ監督、米、83分。ラス・ベガスに行く若い三人の女が途中で車がエンコし、男に声を掛けられ、そこの家に電話を借りに乗せてもらう。ところが荒野の一軒家の納屋に閉じ込められる。しかも既に監禁されている他の女らがいた。サーカスに出すために調教しようと言うのである。男の父親が放射能を浴びて廃人狂人化しており、最後にはこの父親に男もやられる。知り合いが警官と共に助けに来て助かった者もいるが、殺された者もいる。

2025年3月6日木曜日

ストーリー・オブ・ラブ The story of us 1999

ロブ・ライナー監督、米、95分。ブルース・ウィリス、ミシェル・ファイファー出演。二人は結婚して15年になる。少年と幼い娘の子供がいる。

夫婦仲は悪化しており、なにかと言い合いになる。子供たちの前では仲の良い夫婦を演じているが、ウィリスは別居を決心する。ファイファーは料理教室で出会った離婚している男に好感情を持つ。ウィリスは自分のこれまでの言いたい放題の問題を友人と話し合い、妻との仲を戻そうとする。ウィリスが家に行ってファイファーに話そうとしたら、奥から料理を作っている男の声が聞こえてきていっぺんに気が変わる。

子供たちがキャンプに行っている。終わって車で迎えに行く。どう子供たちに自分らの離婚を切り出そうか、迷う。キャンプ場に着く。子供たちに再会できて二人とも子供たちも喜ぶ。ファイファーはウィリスに言う。素晴らしい子供たちを作って来た自分たちの間を元に戻したい。ウィリスもファイファーを抱きしめる。

五月の七日間 Seven days in May 1964

ジョン・フランケンハイマー監督、米、118分、白黒映画。バート・ランカスター、カーク・ダグラス、フレデリック・マーチ他出演。軍人が米国をクーデターで乗っ取ろうとする話。

映画制作より数年先、近未来の設定。支持率の低い大統領はソ連と軍縮条約を結んだ。これに対し、空軍の最高司令官であるバート・ランカスターは大反対をする。条約などで平和は保てない。条約など守ったことのない相手である。真珠湾攻撃も条約があったところで防げたはずもない。ランカスターの部下がカーク・ダグラスである。そのダグラスは偶然、秘密の作戦やそのための措置があると知る。なぜ自分が知らされていないのか。調べていくうちに上司ランカスターが仕組んでいるクーデター計画のようだ。大統領に話す。大統領は部下たちにその証拠を集めるよう指示する。本当だった。

大統領はランカスターを部屋に呼ぶ。大討論になる。ランカスターは大統領のやり方では米国を守れない、自分が指令者になるつもりだと主張する。部屋を出てランカスターは計画を進めるが、大統領の方もランカスターを排除すべく手はずを勧める。最後の記者会見で大統領は、いつか国家間のもめごとを平和に処理できる日が来るだろうと希望を述べる。

2025年3月5日水曜日

クロフツ『樽』 The cask 1920

イギリスの推理作家クロフツの処女作。現実的な推理小説として名高い。犯人当てでなく、アリバイ崩しを主眼にした推理小説である。

イギリスにある樽が届く。重いので船から吊り下げて下ろす際に縄が切れてしまい落下した。そのため少しだけ中が分かるようになった。人間の手のような物が見えた。それで警察に行く。連絡を受けて警察がやって来ると誰かが持ち去ったらしい。それは樽の受取人であったから渡したと。警察はこの樽の行方を追う。受け取ったのは郊外に住んでいるある画家のようだ。その男に確かめる。フランスで買った宝くじが当たって、相棒がその賞金の金貨を送って来たと言う。開けてみると確かに若干の金貨が出て来たが、女の死体も入っていた。男は驚愕し、女の名を叫んで気を失う。その後も精神が正常でなくなり入院のはめになる。

フランスから送られてきた樽だから警察はフランスに調べに行く。以前の事件で知り合った友人の警部と共に、樽が来た経緯を探る。まず女の死体が誰か分かる。その主人に会いに行く。妻は行方不明になっている。イギリスに妻かどうか確かめに行って確認する。犯人は誰か。端折って書くと、女の主人かイギリスで受け取った男か、どちらかではないかとなる。主人のアリバイを調べる。問題はなさそうだ。イギリスの男の方が怪しい。イギリスの男は女の情人であったようだ。イギリスで受取人を逮捕する。逮捕された男の友人らがその無実を証明するため弁護士を雇う。女の主人しかいないが、アリバイは鉄壁である。そのアリバイ崩しに行なっていく。(大久保康雄訳、創元推理文庫、1965)

2025年3月4日火曜日

火山湖の大怪獣 Crater lake monster 1977

ストロンバーグ監督、米、83分。田舎にある湖に流星が落ちる。それによって怪獣が孵化したという設定。洞窟の奥で太古に書かれた恐竜の絵を発見する。湖では不思議な出来事が発生する。貸ボート屋をしている男らがいて、そこでボートを借りたアベックは湖から現れた恐竜を見て逃げ出す。ボート屋の男らはアベックを見つけるが事情は分からない。

保安官は不思議な出来事を調べているうちに、殺人強盗犯を見つけ追いかける。犯人は湖のほとりまで逃げるが恐竜に食われる。保安官は巨大な足跡を見て教授に相談に行く。後に保安官も恐竜に遭遇する。対策案を村人を集め協議する。貴重な観光資源ではないかという意見や危険だから退治すべきと、まとまらない。そこに襲われた村人が来るので、恐竜のところに行く。観光にしようと言っているボート屋の一人は恐竜にかまれ投げられ死ぬ。保安官はブルドーザーで恐竜に立ち向かい身体を傷つけ倒す。

2025年3月3日月曜日

平野啓一郎『本の読み方』PHP文庫 2019

小説家の平野啓一郎が2006年に出した書の文庫化。副題に「スロー・リーディングの実践」とあるように速読ではなく、ゆっくり読めと説く。熟読、精読と言い換えてもいいと言う。つまり量でなく質の読書にすべき。現在多くの本を読めるようになったが、昔に比べ知的になっているのだろうか。魅力的な誤読はするべきである。

第2部では具体的な本を取り上げ、その読み方を説明する。取り上げている本は『こころ』『高瀬舟』『橋(カフカ)』『金閣寺』『伊豆の踊子』『蛇にピアス』『葬送』『性の歴史 Ⅰ 知への意志(フーコー)』である。これらの書でその読み方を例示する。

また書き手として小説の執筆についても書いてある。一日4、5枚書ければよく書いたと思えると。他の作家も同様らしい。それに休憩をとる。30分程度書いたら、3~5分は休むそうだ。これの繰り返しで10時間以上机に向かっていられると。執筆はマラソンでなく、短距離ダッシュの繰り返しとある。

2025年3月2日日曜日

島田荘司『占星術殺人事件』改訂完全版 2013

1981年にデビュー作として発表された推理小説の改訂完全版とある。内容は戦前、2・26事件当時に起きた殺人事件を、小説の発表された頃、つまり1980年頃に名探偵が解くという話である。

最初に殺された画家の手記なるものがある。その画家がアトリエで密室殺人される。後に娘など身内の大量殺人、しかも猟奇殺人が起こる。その後、40年間警察などが捜査してきたが、謎のままだった。評価が高いので期待して読んだが、全く小説として面白くない。冗長で読んでいるうち飽き、最後の方は真相などどうでもいいから早く終わってくれと思った。

最初にある手記は昭和11年(1936)に書かれたとあるが納得のいかない記述がある。どう考えても間違いじゃないかと思ったところを以下に書く。p.24に「妙は 現在都下保谷に私が買い与えた家で」とある。東京都が出来たのは昭和18年で、それ以前は東京府。昭和11年に「都下」などという言葉はない。

更に日本帝国の北南東西、それぞれの端が書いてある。p.44に「 幌延もオンネコタンも日本領土と考える者は多いが、(中略)ハルムコタン以南を日本領域と考えるべきである。」とある。領土はどこからどこまで厳密に決まっており、個人の考えで決まるものではない。(戦後日本の領土問題は例外である)手元に昭和9年の「帝国地図」の復刻版があるが、東端は「北海道占守郡占守島東端」とある。占守島はしゅむしゅとうと読む。北端は「北海道占守郡阿頼度島北端」とある。阿頼度島はあらいどとうと読む。占守島、阿頼度島ともにカムチャッカ半島に近い千島列島の島である。いずれも当然、春牟古丹(ハルムコタン)島より北である。他に幾つも同様に北にある島がある。更に西端が与那国島とあるのは噴飯物である。当時の西端は台湾の西にある澎湖諸島である。先の帝国地図の西端を見ると「台湾高雄州澎湖郡花嶼西端」とある。明治当初の日本の領土を基本に考えた、と書いてあるならまだしも、日本帝国と書いてあるのである。まるで戦前の日本の領土を全く知らない、戦後の出来の悪い人間が書いたようなものである。もちろんこれは中心線を東経138度48分とするための推理小説ならではのご都合主義の極みである。

2025年2月28日金曜日

日本の夜と霧 昭和35年

大島渚監督、松竹、107分、総天然色。安保騒動とそれ以前の左翼運動での意見の対立を描いた、討論劇と言うべき作品。

本映画は安保騒動のあった年に制作され、会社上層部はこの映画自体に反対していたので、上映後4日間で不入りを理由に上映中止になった。制作自体も妨害しようとし、制作中止を阻止するために大急ぎで作られた。そのためセリフをとちっても撮り直しをせず、ともかく大至急で完成させた。そんな大島になぜ撮らせたかというと、これ以前の大島作品がヒットし、会社は大島に期待をかけていたからである。

この映画で何を言っているのか、どういう対立があるのか、今の人間が見て分かる者は少ないだろう。共産党とその指導、やり方に反対する意見の対立である。映画中、党とか党員という言葉が出てくるが、これらは共産党、共産党員という意味である。戦後15年くらいまで共産党は今では信じられないくらい権威があった。マルクス主義は絶対の真理と左翼陣営では信じられていた。マルクス主義国家、ソ連は真理を体現した国家であり、そこからの指令は絶対的であった。日本共産党はその指示通り動いていた。それを党員に従わせていた。映画中、渡辺文雄や小山明子の旦那の眼鏡男は共産党員である。ソ連の権威で有無を言わせず反政府の連中を従わせていた。津川雅彦はそれに対して、これまでの共産党絶対主義に対する批判者である。共産党が主に指導した安保騒動では条約改正を阻止できず、敗北したのではないか。これに対し、条約改定阻止はできなかったが、民衆を動員できたのは意味があったと反論する意見は、当時の左翼陣営の多数であったろう。また映画で描かれるそれ以前のスパイ騒動も共産党が絶対的であるから、反共産党的行為は許されないとしている。映画の最後で、眼鏡の共産党員が演説をする。あれが共産党の綱領であり、共産党に従わなければいけないと言っているのである。共産党はその後権威を低下し、後の学生運動は反共産党系の革マルとか中核派などが中心になってくる。

坂口安吾『不良少年とキリスト』新潮文庫 令和元年

作家坂口安吾の掌編と評論、座談が収められている。内容は次の通り。

復員(掌篇小説)/恋愛論/欲望について―プレヴォとラクロ/二合五勺に関する愛国的考察/詐欺の性格/ヤミ論語/敬語論/呉清源論/座談会 現代小説を語る(坂口安吾・太宰治・織田作之助・平野謙)/座談会 歓楽極まりて哀情多し(太宰治・坂口安吾・織田作之助)/大阪の反逆―織田作之助の死/不良少年とキリスト(追悼 太宰治)

最初の『復員』は文庫で2ページ、見開きで読める。戦争から幅員してきた。片手、片足を失っていた。家族は最初の一日だけ珍しがっていたが、明くる日からは厄介者扱いである。婚約していた娘は結婚していて子供もできていた。行って女の間の悪そうな顔で、初めて頬の暖かいものを受け止めてきた感じがして満足して帰った、とある。戦争後の復員兵が家に戻ってもかえって不幸な目にあったとは昔のドラマにもよく使われた。大部分は評論で、『ヤミ論語』で幸田露伴をやっつけているのは痛快だし、座談会では戦後間もない時期の無頼派の面々の発言が面白い。

小峰隆夫『私が見てきた日本経済』日本経済新聞社 2023

本書は官庁エコノミストとして名高い著者が、公務員生活の中で携わった経済分析や政策決定について回顧的に述べており、役所の仕事の実際が分かるようになっている。もちろんエコノミストなのでどのように経済を見たか、それを役所の文書として出す際、どういう工夫をしたかの記述もあって部外者に情報を与えている。

実際エコノミストとして経済の現状分析や見通しを発表している人はそれなりにいるが、公務員だと時の政府の政策にたてつくことはできず、なるべくそれを支持する方向で取りまとめなくてはならない。全く中立的な立場であれば、別の書き方をした、あるいは結構異なる意見を出していただろうものでも、組織人としての制約がある。金融機関のエコノミストは多いが、金融機関ならではの制約があるかもしれないが、誰もそれを書かないので分からない。ともかく経済分析の知識に加え、役所の中ではどのように作業が進められていくのか、その実際が書いてあるので有用な書である。

2025年2月27日木曜日

ヘルボーイ Hellboy 2019

ニール・マーシャル監督、米、120分。前作から時間をおいて作成された新しい映画。昔イギリスのアーサー王が魔女王を倒し、体をバラバラにしてイギリス各地に隠した。ところが、現代になってその体を各地で発見し、つなぎ合わせる作業が悪魔たちによって進んでいる。

完全な体に戻ると魔女王は復活し、全世界を破滅に導くという。ヘルボーイは仲間たちとそれを阻止すべく活躍する。復活した魔女王はヘルボーイに向かってなぜ自分たちを化け物扱いにする人間を助けるのだ、自分と一緒になって世界を我が物にしようと言う。ヘルボーイは魔女王を倒すには、エクスカリバーを石から抜けと言われる。しかしそうすると世界を破滅させる夢を見て躊躇する。最後はエクスカリバーを抜き、魔女王に協力するかに見えたが、育ての親がヘルボーイに呼びかけ、魔女王を倒す。

中野雄『丸山眞男 人生の対話』文春新書 2010

前著『丸山眞男 音楽の対話』に続く続編である。社会人となってからも丸山真男との交流を続けた筆者により、丸山の思い出が色々書いてある。

前書同様、音楽談議が続き、またオーディオに関しての丸山の関心ぶりも書いてある。丸山は好奇心が強く、何でも徹底的に調べて臨んだという。機器の説明書は隅から隅まで読み、病院に入った時は自分の病気を詳しく調べ、医者に尋ねる。

本書の著者は大学卒業後、日本開発銀行に入った。それで開銀の下村治について随分書いてある。周知のように下村は日本経済の成長力を見抜き、国民所得倍増計画(1960年以降)を政府が策定する前に、同様の日本経済の将来の姿を示した。それで下村が同計画の発案者であるかのように言われてきた。また後になって下村が今度はゼロ成長を言い出し、その際も若干は注目を浴びたが、当時は批判が多かった。それをこの著者は自分がいた開銀の有名人であった下村を高く評価し、このゼロ成長論も将来を見抜いていたと書いてある。高度成長を予言したのは有名だが、ゼロ成長論は一般にはあまり評価されていない気がするが。

なぜこんな話題があるかと言うと丸山が政治学を廃業したのは高度経済成長を見抜けなかったから、と書いてあるのである。しかし日本経済の高度成長はほとんどの人が予想できなかったので、だからこそ下村の名が今でも残っているのである。丸山の予想が外れたのは、日本が豊かになればもっと労働組合が活動的になり、左翼路線が活発になると期待していたのに、日本が保守的になったという点だろう。丸山の大いなる失望でもあった。

2025年2月25日火曜日

スーパーマン リターンズ Superman returns 2006

ブライアン・シンガー監督、米、154分。スーパーマンが地球を五年間離れ、戻って来たという設定である。

恋人は他の男と結婚しており、幼い息子までいた。スーパーマンが刑務所に送った悪人(ケヴィン・スペイシー)は、出所しており、スーパーマンの弱点であるクリプトナイトを北極のスーパーマンの隠れ家から盗み出す。スーパーマンは帰還後、墜落する飛行機を助けるなどの救助をした。結婚した恋人とその息子は悪人に囚われる。夫が助けに小型飛行機で助けに行くが、妻子共々沈む中に閉じ込められる。スーパーマンは救助する。

その後スーパーマンはクリプトナイトを使う悪人によってやられ落ちていく。このスーパーマンを今度は元恋人とその夫が助ける。 病院でスーパーマンは治療を受ける。治ったスーパーマンは元恋人とその息子に会いに行く。息子はスーパーマンの子供らしい。スーパーマンは元恋人から去っていく。

ホフマン『ネコのムル君の人生観』 Lebensansichten des Katers Murr 1819

書名となっている猫ムルの自伝の他、並行して音楽家クライスラー及びそれにまつわる人々の記録がある。ムルの自伝とクライスラーの話が交互に出てくる。これはムルが吸い取り紙に使っていたクライスラーの伝記が、誤って共に印刷されたという弁解が書いてある。正式な書名にはクライスラーの反故の伝記の断片というのも付されている。

ムルの飼い主が学者のアブラハム先生で、楽長クライスラーの知り合いでもある。ムルの自伝の部分はムルの意見表明、生い立ちなどが書いてある。人間の青年が猫になって、その意見を聞いているような文である。これに対しクライスラーの伝記部分は普通の話である。

クライスラーの伝記部分の荒いあらすじでは次の通り。クライスラーは音楽家で、ある領主の公の楽長を勤めている。著者のホフマンは作曲家でもあるので、本書は音楽の記述が多い。公にはやや精神に支障があるイグナチウス公子と娘のヘドヴィガー公女という子供がいる。ヘドヴィガー公女の親友で、姉妹のように仲の良いユーリアという娘(宮廷顧問官夫人の子)がいる。この二人は出番が多い。クライスラーが現れた時に公女は拒否反応を示すが、ユーリアは音楽の才能があるので、好意的になる。またヘクトール公子なる若い男が現れ、公女への求婚者なのだがクライスラーと衝突し、更にユーリアに気があるようである。クライスラーは後に公の元から修道院に入る。ムルは最後に死ぬ。本小説は作者ホフマンの死によって未完に終わった。(鈴木芳子訳、光文社古典新訳文庫、2024)

2025年2月23日日曜日

坂口安吾『青鬼の褌を洗う女』 昭和22年

若い女の一人称形式の小説である。戦争中に母親を空襲で亡くした。この母親は娘をなんとか高く売ろうと考えていた。そのために娘を心配していた。娘の方は何人かの男と既に関係している。娘がつきあってきた男の話がある。女のたくましさ、現実的なところ、つまりふてぶてしさを描いている小説である。

2025年2月21日金曜日

菊池幽芳『探偵叢話』

菊池幽芳が『秘中の秘』に先立って大阪毎日新聞に連載していた探偵小説である。退職する辣腕刑事を祝う場で、各人が過去に経験した失敗談、成功談などを話す、短編の連作。

初めにある、犯人に逃げられた話は解説にあるように乱歩の長編を思い出す。郵便切手を使った殺人方法、富豪が誘拐されて脅迫状が来るがその真相、客船で貴重品が盗まれる事件が続発する。その手口は思いつく人が多かろう。他にも殺人を予告する話を盗み聞き、被害予定者に知らせるがその真相、金粉を盗み出す担当者の手口などあり、これらは推理小説そのものであり、各話は短く読みやすい。(菊池幽芳探偵小説選、論創社、2013年)

2025年2月20日木曜日

菊池幽芳『秘中の秘』 明治35~36年

明治3年生まれの菊池幽芳が20世紀の初め、大阪毎日新聞に発表した翻案小説である。書名の初めに「宝庫探検」とあるように宝さがしの物語で、推理小説的要素を持つ冒険小説である。

翻案の元となった原作は不明である。ロンドンを倫敦を書き、イギリスが舞台であるから原作は英の作品であろう。その他の地名や人名は黒岩涙香ばりに日本名のような漢字表記であり、地名は富嶋町、軽琴村、木挽町など、人名は堀彦市、萩原辰蔵、梅田花子など。また婆娑妙と書いてバアソロミュー、六斤腿と書いてロッキンハムと読ませている。原書の音に漢字をあてはめたのであろう。

大まかな筋は次の様である。語り手の青年医師は友人の船長の船で航海している時、漂流する何百年も前の船を発見する。そこで船員らの骸骨の他、金貨が入った箱、記録書、更に精神がおかしくなった唖の老人を見つける。帰港後、老人は病院に入れ、記録書の解読を試みる。すると金銀財宝がいずこかに隠してあるらしい。そこで宝捜しが始まる。田舎にある化物屋敷と呼ばれている古い屋敷がありかではないか。その屋敷を借りようとすると、他にも借り手がいたと判明する。この宝捜しはライバルがいたのである。そのライバルは後に悪党と分かる。また謎の美人が現れる。どのような素性の者か。青年医師は惹かれる。後になって怪美人はライバルと関係があるらしく、医師は混乱する。

本筋に何も関係ないが怪美人に恋する語り手の間に、邪魔をしようと元の婚約者夏子が現れ、黒岩涙香『幽霊塔』の秀子とお浦を思い出してしまった。解説にも引用されているように江戸川乱歩の回想で知られているが、本作品の書籍化は戦後初だそうだ。小説の過半を占める会話は口語で現代の小説と同じであるが、地の文が文語でやや抵抗があるかもしれない。冒頭は次のように始まる。

余は極めて不思議なる物語を諸君に語るべし。そはたしかに諸君の好奇心を満足せしめ得るならんと信ず。

菊池幽芳は児童文学の分野ではマロの『家なき子』の本邦初訳で知られ、また本書以外では『乳姉妹』(明治文学全集第93巻「家庭小説集」筑摩書房)、『己が罪』(大衆文学大系第2巻、講談社)が有名。

2025年2月18日火曜日

坂口安吾『風と光と二十の私と』 昭和21年

著者の自伝的私小説風の作品。旧制中学を落第等によって20歳に出た。大学に行くつもりはなかった。それで下北沢にある小学校の分校の代用教員となった。大正14年のことである。

当時は全くの武蔵野で農家などもあまりなく、原始林などがある原野が広がっていたという。小田急が走って開発の始まる前である。分校に通う児童たちについて書いてある。子供たちの方が大人より深刻に悩んでいるとあるのはその通りだと思う。また女子では問題がある、というか不憫な境遇にある者がいた。ここに出てくる子供たちは大正初期の生まれであろうから、もう亡くなっているだろう。昔の話である。

2025年2月17日月曜日

坂口安吾『狂人遺書』 昭和30年

秀吉が死の床にあって最近起きた出来事をあれこれ回想する一人称小説。かつては国民的英雄と見なされていた豊臣秀吉であるが、現在では以前ほどの人気はないようだ。

特に晩年の朝鮮征伐が悪く言われている。ここでは秀吉は大口を叩きたい、大言壮語が抑えられない人物と描かれており、朝鮮遠征は割に合わないと承知の上で、暴挙に出たことになっている。また養子の秀次を死に追いやった経緯もある。まだこの作品が書かれた頃は太閤崇拝が普通だった筈だが、安吾は先を見通した秀吉像を書いている。

インランド・エンパイア Inland empire 2006

デイヴィッド・リンチ監督、米波、179分。ローラ・ダーン主演。

ダーンは映画の中でも女優でジェレミー・アイアンズが監督を勤める映画に出ている。撮っている映画はかつて配役が死んだことがあると言う。映画の中での相手役と、ダーンは現実でも恋愛関係になる。全般的にかなり難解で、解説が必要な映画である。映画と現実の交錯があり、映画の場面か実際か混乱する。娼婦の女たちが出てきてその中の一人にダーンは刺される。通りを走って最後は路上生活者のところで倒れる。路上生活者は関係のない話を始める。映画が終了し、最後の方では多くの女たちが出てきて踊りを始める。普通に観ていて理解できない映画である。

2025年2月13日木曜日

中野雄『丸山眞男 音楽の対話』文春新書 平成11年

著者は丸山眞男のゼミ生(昭和6年生まれ、昭和29年卒)で、卒業後はサラリーマンとなったが、丸山と付き合いというか交流を続け、音楽談議にふけった。その経験から丸山の音楽への態度が述べられている。

丸山の著書、思想に若干なりとも親しんだ者であれば、丸山の音楽好きは知っているだろう。ただ丸山の音楽への傾倒ぶりは専門の思想史へのそれと劣らないほど熱心であったという。単なる趣味に留まらない。専門知識があり楽譜を読み込んでいた。それでも丸山の好みは日本の多くのクラシックファンの多数意見と変わらないように見える。例えば指揮者ではフルトヴェングラーを称揚し、カラヤンをけなす。自分が若い時会ったクラシック・ファンはみんなカラヤンを嫌っていた。当時の「有力な」音楽評論家も同様だった。フルトヴェングラーの演奏やドイツ音楽がどういうものかの意見も、ほとんど「定型化」された通説を聞いているようである。演奏家の好みではケンプを挙げていて(自分は知らなかった)、これは多数意見と違うのではないか。日本のファンは同名のバックハウスのファンが圧倒的で、ケンプファンなんてあまり多くないと思っていた。なおバックハウスを評価しているのは今では日本だけで、ドイツなどではケンプの方が評価されているらしい。そういう意味で丸山は国際標準的である。もちろん外国の評価が正しく、日本のそれが劣るなどというものではない。

フルトヴェングラーの戦争責任については、やはりあると言っている。いくら本人はその気がなく誠実であろうが、政治責任は結果責任だから本人の意思に関わりなく、ナチスに協力したので責任は生じる。政治責任はあるが、フルトヴェングラーを批判する気にはなれない。

トーマス・マンについても書いてある。他のところでも読んだし、ここでも著者が説明しているようにドイツからアメリカに亡命して、アメリカという安全地帯からドイツを批判していたマンをドイツ人は怒っていた。ただマンも亡命せずドイツに留まるべきだったか。マンは市民権を剝奪されているが、それがなかったらどうすべきか。ドイツにいて同胞と苦難を共にすれば非難は受けなかったかもしれないが、どうだろうか。マンは亡命中に『ヨゼフとその兄弟』を完成し、『ワイマルのロッテ』『ファウストゥス博士』『選ばれし人』などの傑作群をものしている。20世紀の文学者でマンに匹敵するのはプルーストくらいではないか。これらの作品が亡命しているから書けたというなら亡命は望ましかった。どうも評価軸が色々あってうまく言えない。

2025年2月11日火曜日

裁きは終わりぬ justice est faite 1950

アンドレ・カイヤット監督、仏、102分。安楽死を施した女医師を裁く陪審員たち、仏版「怒れる12人の男たち」。

情人である所長は癌で苦しんでいる。安楽死を望みそれを叶えた女医師。殺人罪で裁けるか。この陪審員たちの私生活が映画の主要部分である。自分らの信条、経験から無罪、有罪を述べる各陪審員たち。結果は有罪多数となった。これで被告は五年の刑となった。正しかったかどうか、いずれにせよ裁きは下された。

2025年2月7日金曜日

マックィーンの絶対の危機 The blob 1958

アービン・S・イヤワース・jr監督、米、86分、総天然色、スティーヴ・マックィーン主演。マックィーンはこの映画時、28歳だが、もっと若い年齢の役をしている。ともかく若いが見た目は後年とほとんど変わっていない。

田舎町に隕石が落ちてきてそこから怪物が出現し、人間どもを餌食にしていくという、今ではパターン化された筋。怪物はゼリー状の赤い物体で地面を這っていく。人間を餌食にすると巨大化していく。マックィーンとその彼女、またマックィーンの悪友らがこの危機をみんなに知らせるが警官は相手にしない。当然だろう。しかし警察のボスはなぜかマックィーンに好意的で、信じる。怪物が出現したと言われ、信じる者などは現実にいない筈だが。

この怪物の弱点は寒さで、それは映画の途中で冷凍室に逃げ込んだら怪物は退いたので、観客は分かる。それにしてもH・G・ウェルズの原作『宇宙戦争』では地球の細菌に、この映画では寒さに弱い、と火器では退治できない宇宙からの侵略者を、身近なもので撃退するのは定型化している。予告編が面白い。当時は映画館での鑑賞が一般的だったから、映画館に怪物が現れ観客がパニックになり逃げだすところを使っている。歩くのではなく走って逃げろ、と出るが、当時の標語の逆でもいったか。

タイム・トラベラーズ The time travelers 1964

イブ・メルキオール監督、米、106分、総天然色。大学の研究室でタイム・マシンの研究をしている学者たち。

失敗したかと思ったが、ディスプレイに殺風景な岩だらけの風景が映っている。運よく未来が映ったのだ。しかしそこは百年後の現在地で大学はどうなったのかと疑問が出る。一人がディスプレイのそばで腕を中に入れると入る、つまりディスプレイの向こう側に行けると発見する。そこで向こう側に行く。『リング』でテレビから出てくるのと反対である。呼び寄せるが帰ってこない。他の者たちも向こう側に行く。男3人、女一人の研究者たちは岩だらけの中にいる。出て来た画面(枠)が消えてしまい、帰れなくなる。不思議な連中から攻撃を受ける。更に助ける者たちもいる。後者に連れられその基地に行く。

真相を知る。地球は核戦争で破滅してしまった。残っているのはわずかである。また攻撃してくるミュータントたちがいる。もう地球はあまり持たない。他の惑星にロケットで移住する計画を立てている。もうすぐ出発だと。元の世界に戻れなくなった4人は同乗させてもらうよう頼む。後になって搭乗員は一杯で余計な者を乗せる余裕はないと言われる。だったらタイム・マシンを作って元に戻ったらとなり、未来人の協力の下、作業を進める。ロケット発射の日、ミュータントが攻めてきて、ロケットは緊急に発射しようとするが失敗炎上する。

ミュータントらとの闘いの中でタイム・マシンは完成したかと見え、直ちに過去に戻る。時間設定に失敗し、初めの時に戻るが、自分と同じ人間はほとんど静止状態に見える。そこで映画の初めと同じようにタイム・マシンによって未来に行き、また戻り・・が早送りで再生され、更に速度を上げた同じ経過が再生、それの繰り返しとなる。

2025年2月5日水曜日

人類SOS! トリフィドの日 The day of the Triffids 1962

スティーヴ・セクリー監督、英、94分、総天然色。流星雨が降り、人々は盲目になる。主人公の海軍軍人は、目の治療で包帯をしていたので失明を免れた。また植物トリフィドは巨大で動き、人々を餌食にする。軍人は少女及び若い女を助け、トリフィドからの襲撃を逃げる。また孤島の灯台に住む夫婦は同様に失明を免れたが、トリフィドは襲いかかってくる。灯台のてっぺんに登り、上がってくるトリフィドに海水を放水すると萎びていく。海水がトリフィド殲滅の方法と分かった。これで平和は再び戻った。

2025年2月4日火曜日

ソルジャー Soldier 1998

ポール・W・S・アンダーソン監督、米、98分。カート・ラッセル主演。戦争をしている未来社会が舞台。戦士になる者は子供のうちから教育される。脱落しなかった者だけが戦士になれる。ラッセルは成果をあげて来た戦士だった。ところが新型の戦士が開発される。ラッセルら旧戦士と対決して次々と旧兵士を倒す。ラッセルも闘い相手に傷を負わせるが、墜落して死んだと思われた。

はるかかなたのゴミ捨ての惑星に運ばれ、捨てられる。しかし目を覚ましたラッセルは、起き上がり廃棄から免れる。その惑星に住む人々がいて助けられる。ラッセルは記憶をなくしていた。ラッセルの戦士としての習性から人々は危険と感じ、ラッセルは住居地区から追い出される。戦士を開発していた者がこの惑星に来る。戦士を使い住民を抹殺するつもりでいる。次々と住民は殺される。ラッセルは単身、来た戦士らと闘い、倒していく。司令官はこの惑星全体を爆破させるつもりで爆弾をしかける。ラッセルはそれら司令官たちを宇宙艇から放り出し、残った住民たちと宇宙艇で星を逃げ出す。司令官らは自分たちで仕掛けた爆弾が爆破し星もろとも吹っ飛ぶ。

2025年2月2日日曜日

怪獣ウラン X the unknon 1956

レスリー・ノーマン監督、英、79分、白黒映画。軍隊が原野で放射能測定の訓練をしている。ある場所で異様に放射能を観測した。するとそこに音響と共に大きな裂け目ができる。更にそばにいた兵士は負傷をする。病院に運ばれるが後に死ぬ。原因究明を研究所の博士に依頼した。また子供が二人づれで林の中に入ろうとして一人が負傷する。後に死んだ。

何が原因か分からない。博士が放射能を食べる生物が地下から現れたのではないかというとみんな呆れる。しかしそれは本当で、放射能を吸収し肥大していく。どろどろの塊で地を這っていく。博士は放射能を破壊する装置を完成した。実用化し、怪物が潜んでいる裂け目のそばに放射能発生装置を置くと、怪物は裂け目から出てくる。破壊装置で爆破する。ドラキュラ物その他で有名なハマー・フィルムの制作で、怪獣映画というよりSF恐怖映画といった感じ。

2025年1月31日金曜日

佐木隆三『復讐するは我にあり』 1975(初版)

昭和38年秋以降に起きた西口彰(根津巌)による連続殺人、詐欺事件を記録した本。これを基にした今村昌平監督の映画は有名である。この原著では映画にしなかった事件等の記述もある。例えば北海道まで行って詐欺を働いたとかがそうである。映画では脚色が当然あり、父親と妻の関係などは目につく映画での創作である。

それにしても最初の福岡県で二人を殺害する強盗殺人が起きたのは10月であり、年内のうちに殺人だけでも浜松で二人、東京で一人を殺している。その間、多くの詐欺窃盗を全国で行なっている。熊本県で少女が見抜き、逮捕されたのは明くる年の正月である。3ヶ月弱という間に恐るべき連続殺人を起こした。

この昭和38年という年は、3月に吉展ちゃん事件、5月に狭山事件が起こり、重大な犯罪が頻発している。西口事件は犠牲者が多かったが、早く解決したと言える。それにしても昭和38年というオリンピック前年の年は、マス・メディアは白黒テレビ、新聞、ラジオ、雑誌、映画だけの時代であり、電話(もちろん固定)だって各家庭に行きわたっていなかった。個人のプライバシー(この言葉があったかどうかも不明)保護は今からすると、なかったような時代である。(文春文庫、2009(改訂新版))

2025年1月30日木曜日

ベッスリアの女王 Judith of Bethulia 1914

D・W・グリフィス監督、米、無声映画、50分。旧約聖書外典「ユディト記」にあるユディトによる敵の将軍ホロフェルネスの首斬りの挿話、カラヴァッジョその他の絵画で名高い、を元にした映画。

アッシリアから派遣されたホロフェルネス将軍はユダヤ人の町ベトリア(ベッスリア)を包囲する。城壁に囲まれ、なかなか陥落しない。将軍は持久戦に出て町を囲み、外にある井戸に住民が近づけないようにする。飢えなどで住民は倒れていく。

未亡人であるユディトは召使を連れてホロフェルネスの陣地に行く。そこで色仕掛けでホロフェルネスの気を引く。夜にホロフェルネスと二人きりになったところで、剣でもってホロフェルネスの首を斬る。何度かためらってユディトは剣を振り下ろそうと迷う。画面が変わるとホロフェルネスの首はギロチンで斬られたように下にころがる。召使と共にその首を密かに抱えてベトリアの町に戻る。敵の将軍の首を斬ったというので、住民の士気は上がり、敵勢に切り込む。将軍を失った敵は敗走していく。

2025年1月29日水曜日

福田和也『作家の値うち』飛鳥新社 2000

評論家の著者が現役の主要な作家百人(純文学、エンターテインメント系、五十人ずつ)を選び、その作家の作品について百点満点で点数をつけている。作品毎の評価だから作家の値打ちでなく、小説の値打ちである。しかも78点とか64点など一桁の単位まで数字で評価しているが、一体78点にして77点に、あるいは79点にしなかった理由が書いていない。90点以上、80点以上、などと10毎に区切ってその範囲の作品を世界文学の水準とか、一番下は人前で読むのが恥ずかしいとか書いてある。それなら甲乙丙では5段階しかないから、A、B、C、とかI、II、III、IV、などの区分で十分である。

純文学とエンターテインメントの違いをコラムで書いているが、納得できる理由でない。実際の夫々の作品の評価は読んでいないものが多く、それらについては何とも言えないが、読んだのに全くここの評価が違う物が結構ある。正しい評価というのがあるのか。ここの評価も読書感想文にしか思えなかった。専門家なら客観的な評価の仕方(そういうものがあれば)示してもらい、それに従って点数つけをするべきである。

この本の値打ちはいかほどか。文庫化されず、単行本も絶版か品切れのようである。これがこの本に対する四半世紀たってからの評価である。

2025年1月28日火曜日

西村京太郎『天使の傷痕』 昭和40年

主人公の新聞記者は婚約者と東京西部にデートでピクニックに行く。ところが野道を歩いていると悲鳴が聞こえる。崖の下に降りてみると男が短剣状の凶器が胸に刺さっており、「テン」と呟いて死ぬ。警察を呼ぶ。この男は後に人にたかって金をせしめる悪徳ジャーナリストと分かる。死に際のテンという言葉の意味は何か。テンとは天使を指すようだ。エンゼルという名のストリッパーやバーで天使のつくところなどが被害者と関係がある。その中の関係者を警察が追っていると事故死してしまう。

新聞記者は独自に捜査していたが、警察が見つけた証拠の一部を見て、それが婚約者に関係があると知り、愕然とする。自分の婚約者が犯人ではないか。デートに連れ出したのもそこで殺人を行ない、偽装するためではなかったのか。婚約者は白状し逮捕される。しかし新聞記者は納得がいかない。その動機が理解できない。更にそれを探っていくと婚約者の姉につきあたる。姉は結婚している。しかし表向きは死んだとなっている幼い子供がいて、サリドマイド児なため施設に入れていた。それをネタにゆすっていた男を殺したのである。(講談社文庫、2015年)

2025年1月27日月曜日

宮部みゆき『火車』 平成4年

主人公は怪我で休職中の刑事である。身内の若い男から婚約者が失踪したので見つけてほしいとの依頼で捜し始める。女の過去は不明だった。以前勤めていた会社を訪ねても身元が分からない。刑事は捜していくうちに、失踪した女は自称して周囲が信じていた名前の持ち主でないと知る。しかもその名の実在の女はいた。その女はどうなったのか。また失踪した女の正体は何か、を探る。

結局のところ、失踪した女は親の住宅ローンが焦げ付き、親がサラ金を利用したためその債務に苦しんだだけでなく、娘まで暴力団の魔の手が伸びてきたので、自分の戸籍を抹消し、他人の女の戸籍を利用するため、その女を殺したというのが真相だった。それにしても殺す必要はあったかどうか。殺さず、何らかの方法で新たな戸籍を獲得する方法を考えるべきではなかったのか。それよりこの悲劇はサラ金業者の暴力団が、映画のターミネーター顔負けに徹底的に、債務者の子供まで悪魔の如く取りつくのが元々の原因である。サラ金問題は覚えているが、ここまでひどいことをサラ金側はできたのか。警察があてに出来なくとも容疑者は非常な美人という設定で、若い男が二人も結婚したいと思ったほどだから、しかも自分に罪はないのだから、協力してもらえなかったのか。親のせいでひどい目に会っている女が殺人をして本当の罪人になってしまい、それで幸せが手に入ると思ったのか。運よく結婚できてもいつ警察に自分の犯罪がばれるかと、残りの一生を心配しながら過ごすことになる。

ともかくサラ金問題は規制法が出来て過去の話となった。この小説で知識が増えたのは、大阪球場(こういう球場があったこと自体知らなかったが)が球場としての役割を終えたのち、グランドに住宅展示場を作っていたという事実で、今ではインターネットでその当時の写真を見れるから見て面白いと思った。(新潮文庫、平成24年改版)

2025年1月26日日曜日

殿方は嘘吐き Gli uomini, che mascalzoni… 1932

マリオ・カメー二監督、伊、62分。主演は若き日のヴィットリオ・デ・シーカが演じている。青年は街で見かけた若い女の後をつける。自転車に乗り、女が路面電車に乗ってからも追っかける。女の勤め先に着いてからも追うが、自動車でないとだめと店員らから言われる。

青年は仕える主人の自動車に用があると言われるが、故障していると言い、その車で女の店まで行き女を誘う。家まで送ると言って同乗させたのだが、郊外の湖までドライブに行く。そこのレストランで休憩していた。車を見に外に行くと丁度主人の妻が友人らといて、声をかけられ自宅まで送る羽目になる。急いで湖に戻ろうとして途中で事故を起こす。女はおいてけばりになり、レストランで泊めてもらう。明くる日青年が娘の店に行っても無視される。また今度は青年が無視されるなどのやりとりがあって最終的にはまるく収まる。

2025年1月25日土曜日

ミラノの奇蹟 Miracolo a Milano 1951

ヴィットリオ・デ・シーカ監督、伊、92分、白黒映画。

婦人は畑の中に赤ん坊を見つける。育てる。まだその男の子が小さいうちに婦人は亡くなる。男の子は孤児院に行かされる。成人して孤児院を出る。愛想のよい積極的な青年になる。貧しい人々が郊外に集落を作る。バラックのような家ばかりである。青年もそこに住む。ある日、集落の真ん中から水が噴き出し、更に原油が噴出する。土地の所有権者がやって来る。住んでいる人々を追い出そうとする。青年は亡くなった育ての母親が天国からやってきて願いが叶う鳩を渡す。これで青年は集落の人々の願いを次々と叶えてやる。人々は追立をくらい何台かの護送車で運ばれる。ミラノの中心地まで来た時、願いをして護送車は分解する。青年は恋人と、また他の人々も箒にまたがり、空中に飛び立ち、みんな雲の中に消えていく。

バート・I・ゴードンの恐竜王 King dinosaur 1955

バート・I・ゴードン監督、米、63分、白黒映画。

地球の近くに未知の惑星が現れた。その探検用のロケットが打ち上げられる。乗組員は男女2名ずつ計4人。惑星に着く。といっても草叢が茂る、どこか地球の未踏の孤島か場所のようなところ。宇宙服を着ているがすぐに脱ぐ。湖がある。そこに巨大な爬虫類、鰐やイグアナ、アルマジロ、蜥蜴が出現する。乗組員を襲うので洞穴に隠れる。爬虫類同士の闘いが始まる。それを避けて逃げ地球に帰還する。恐竜王でなく爬虫類王といった方が正確な映画である。

2025年1月22日水曜日

横溝正史『獄門島』 昭和22年

金田一耕助ものでは『本陣殺人事件』に次ぐ作品である。

金田一は戦争から復員してくる。帰りの船で亡くなった友人の言伝をその故郷、獄門島に届けるためである。獄門島とは瀬戸内海にあり、岡山県の笠岡が一番近い離島である。友人は死に際に三人の妹が殺されるかもしれないと心配していた。獄門島に着く。友人は島一番の旧家で網元である屋敷の跡取りで、金田一の知らせは大打撃となった。張り合うもう一つの旧家がある。亡友の危惧のとおり、妹である娘三人は次々と殺されていく。金田一はいつもの無能ぶりを遺憾なく発揮し、ただ殺されていくのを傍観するばかりである。

さて種明かしを見るとあまりに非現実な動機に開いた口が塞がらない。偉い人間の遺言を実行するために何の恨みもない少女を殺す者など想像できない。しかも凝った殺し方をするのである。何の必要があるのか。殺人者がトップの地位の者であるのも全く納得できない。金持ちや地位のある者は殺人のような犯罪をするわけがない。もしばれた時あまりに損する度合いが大きいから。権力者は殺人を犯さないのである。する必要もない。現代に置き替えても、亡き権力者であった会長の遺言で、自分が恨みもない会長の孫娘を殺害する社長、副社長、専務がいると想像できるか。ばれたら自分も家族もおしまいである。

しかも生きていてもしょうがない連中だと言うのである。神奈川県の施設で起きた殺人事件の犯人と同じ発想である。同様に考える人はいるだろうが、実際に殺す人はごく稀である(いたらこわい)。この小説ではトップの位置にいる者が複数、そのような犯罪を実行するのである。発想の、現代の人権意識に照らして問題云々しているのではない。偏見の塊であったろう、この小説の当時でも、生きていてもしょうがないから、実際に殺してしまう人間が何人もいたとは思えない。殺人方法のトリックも全く期待していないので、何とも思わない。この小説に限って言うのではない。実際の殺人をする場合、物理的な抵抗の他に心理的な抵抗があるはずである。この小説では被害者が小娘だから物理的抵抗はないだろうが、心理的抵抗も何も感じなかったようだ。推理小説では殺す時間さえあれば殺せる、となっている。しかし人間の計画することは実際その通りできないものだし、実際に人を殺す際の(良心を言っているのでない)心理的なとまどいや躊躇は大きいはずである。ともかくこれほど非現実的な、ありえない推理小説は他になくそういう意味で驚く。

2025年1月20日月曜日

正木ひろし『首なし事件の記録』講談社現代新書 昭和48年

著者が戦時中に関わった事件で、著者の弁護士としての人生行路を変えた事件という。

茨城県の炭鉱のある町で鉱夫が警察署で死んだ。警察に暴行を受けたからではないか、疑問を持った炭鉱主が来て調べてもらいたいとのこと。最初は軽い気持ちで検事に会いに行って調べて欲しいと頼んだが、返事は遅く、非常に気にしているようだった。それで著者は本格的に乗り出す気になった。

現地に赴き、仲間の炭鉱夫らから話を聞く。また検死した医師に会うと、脳溢血を起こして病死したと言う。納得できない著者は東京に戻り、東大の古畑教授に死体を診てもらえないか頼むと、民間からの要請には応じられないと答えがくる。別の教授を通じて診てもらえそうになったが、死体を東京まで運んで来るわけにもいかない。それで首だけ切って持ってくることになった。そのための助手までつけてくれた。現地のお寺に行って秘密裡に墓を掘り返し、首を切って東京まで持って帰った。古畑教授は診て、これは打撲によると言ってくれた。

それからの裁判が大変だった。告発した警察官が被告となったが、被告側に有利なように裁判が進んでいく。戦争激化で一旦裁判は中止になり、戦後になって新しい法体系の下でようやく警察官に有罪判決が出た。なお森谷司郎監督の映画『首』(昭和43年)は本事件を元にしているが、首の鑑定のところまでで、その後の裁判経過は映画では省かれている。

アイリッシュ『暁の死線』 Deadline at dawn 1944

ダンスホールの踊り子をしている女は、ある男に長時間相手をした。

切符を沢山持っているのに終わってから踊る気はなく、女にやろうとする。女はいらないと答える。男は切符を捨てる。女が帰ろうとすると男は後をつけてくる。自宅のあるアパートに戻り、窓の外を見るとあの男はまだいる。パトカーが近づいてくると男は慌てて隠れる。女は下に降りて行って、男を呼ぶ。自分の部屋に入れる。話し合っていると、なんと、二人は同郷で同じ町に住んでいたと分かる。町の思い出を語り合う。また自分らがニューヨークにやって来た訳を話す。男は告白する。犯罪で金を取ってきたのだ。工事をしていて金持ちの家に金庫があるのを偶然見つける。家の鍵がなぜか自分の持ち物に入っていた。金持ちはどこかに休暇に行く。家は空いている。鍵で難なく家に入る。金庫を見つけ壊して金を取る。大金である。レストランに入って前から憧れていた料理を注文する。来ても全く喉に入らない。レストランを出る。夜になってダンスホールに行き女に会う。

レストランのところまで来て我慢のdeadlineにぶち当たった。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。ストーカーの男を自分の部屋に入れる?それがたまたま同郷だった!ありえない。しかも男は泥棒に入り、大金を盗むのにそれを使おうにも食事が喉を通らない。いかに男が善人であったか、犯罪とはほど遠い人間であるかと言いたいらしいが、全く呆れた。こんな馬鹿馬鹿しい本はめったにない。(稲葉明雄訳、創元推理文庫、2016)

2025年1月19日日曜日

小林一三『逸翁自叙伝』 1990

逸翁とは、阪急電鉄、宝塚(少女)歌劇、東宝などを創業した小林一三の雅号。近代の実業家の中でも大物の一人である。

明治の初期に山梨県に生まれた。ただこの自伝の他と異なる点は、生まれた場所や幼少期について何も語っていない。慶応義塾に入るところから始まる。慶応を出て三井銀行に入る。三井銀行時代の思い出が延々と続く。なおこの自伝は昭和27年に出されたもので、今から70年以上前である。その時点で大昔の事と言って書いているのだから、今からすると想像もつかない時代である。明治時代の銀行員生活の一例が分かる。銀行は大阪支店に配属された。戦前の大阪は経済の中心で、東京は政治都市だけだった時代である。東京一極集中は戦後の話。上司や同僚などを率直に評価しているが、著者を含め鬼籍に入っている人たちである。銀行家からの引きで証券業を始めようとしたら日露戦争後の不況期になってしまい、結局のところ鉄道業に携わる。後半の記述は鉄道史や関西在住者には興味があろう。(図書出版社)

逃げる女 Woman in hidng 1950

マイケル・ゴードン監督、米、93分。車で逃げる女の場面から映画は始まる。スピードがあり、しかもブレーキが効かないので、車は川に落ちる。明くる日捜索隊が出るが、死体は見つからない。ここから過去に遡る。製材所の社長の娘が女主人公で、働く男と結婚の約束がある。父親はこの男を買っておらず結婚には反対である。社長が事故で死ぬ。女は男と結婚し、新婚旅行で別荘に行くと、男の情婦がいた。男に騙されたと言って去る。女は自分の夫に詰問するが夫は馬耳東風。後に隙を見て別荘から女は逃げる。

ここが冒頭の場面。ブレーキを夫が細工していたので川に落ちる。女は逃げる。死体が見つからず、女が死んでいないとみた夫は懸賞金を出して捜そうとする。女が逃げようとしていた待合所で、ある男が懸賞金つきの女と発見する。女に助けてやり親切そうに振る舞うが、夫に電話する。夫から逃げているという女の言を信用していなかった。夫が来て女を捕まえる。男はその後、女の言葉が本当だったと知り、女を助けるため奔走する。それからは色々あり、最後は夫は死に、女は男と一緒になる。

2025年1月18日土曜日

ウールリッチ『黒いアリバイ』 Black alibi 1942

南米が舞台の小説である。アメリカから来た人気の女の芸人がいる。マネージャーは豹を連れてきて、女と一緒にさせ、話題作りにしようと目論む。ところがレストランで豹が暴れ出し、女をひっくり返し逃亡する。豹の行方を追うが見つからない。その後、若い女の連続殺人事件が起きる。最初は貧しい家の娘で使いに行った帰りに襲われ、母親が扉に錠をしたため入れず殺される。次は恋人に会うため、墓参りと称して墓地に来た令嬢が殺される。友達同士の若い女二人が寂しい公園に行き、一人が殺される。殺人に至るまでの話が長々とある。

警察は豹の仕業というが、豹を連れてきたマネージャーの男は否定する。人間が豹を操っていると思っている。男は犯人を捕まえるため、最後の事件で生き延びた連れの女に囮になってくれと頼む。初めは嫌がったが承知する。公園で女が待っているが犯人らしき者は来ない。ここまで連れて来た馬車が女を迎えに来る。乗って行く。実は犯人は馬車の御者に化けていたのである。隠れていた男は追う。幸い、協力してくれた別の事件の犠牲者の恋人が犯人をやっつけた。豹を操る男は警察の警部だった。(稲葉明雄訳、世界推理小説大系第9巻、講談社、昭和47年)

ハメット『赤い収穫』 Red harvest 1929

探偵社の男が鉱山町に呼ばれて来る。依頼主は殺された。その父親が町を牛耳っており、ギャングらの抗争がある。一方のボスの女は金のことばかり頭にあるが、極めて印象的な女である。主人公の探偵は恐ろしく頭の切れる男で、ギャングの出方などを推理できる。警察のボスも食えない男で、主人公をいいように使おうとする。

ともかくギャングの抗争で登場人物のほとんどが殺されるというとんでもない小説である。主人公が生き延びるのは小説の主人公だからと思えるほどである。なにしろシカゴでカポネがいた当時の小説である。馬に乗っていない西部劇の連中が、撃ち合いでバタバタ死んでいくようなものである。(稲葉明雄訳、世界推理小説大系第9巻、講談社、昭和47年)

2025年1月16日木曜日

2ペンスの希望 Due soldi di speranza 1952

カステラ-二監督、伊、92分。田舎の町。息子が軍隊から帰ってくる。母親は大歓迎するが、きょうだいが多く、仕事がない。

相思の女がいる。花火屋の娘で、父親は文無しの男など眼中にない。坂を上る馬車を押すアルバイトを始める。バスを買おうと馬車の連中が言い出す。バスを買うが誰が仕切るかなどでもめ、バス運行は無くなる。ナポリへ行っても仕事のない者は居住できないと警察から言われる。教会で仕事をもらい働く。夜の間に密かにナポリに行き、朝帰ってくる。恋人の娘は後を追う。共産主義者の手伝いをしていると知る。だがこれが教会に知られ馘になる。男はナポリで映画のフィルムを映画館に届ける仕事に就く。ある日、病気の幼い子供に献血し、その母親から感謝される。男は映画の映写技師になる。女が追ってきて映写室に二人でいる時、子供の母親が来て二人を非難する。男は馘になる。男との付き合いを父親に禁じられた娘は絶望してやけになり、花火庫を爆破させ、時ならぬ花火の饗宴になる。

男は娘と一緒になりたく娘の伯母に父親を説得してもらう。二人を家に寄こせと父親は言う。二人が父親宅に着くと荷物を二人に投げ出し、出ていけと言う。男は抗議する。娘は潔白だ。父親にもらった物などいらないと言って娘を裸にする。靴も投げ出し裸足にする。街の連中が服などを与え、つけで買うと男は言う。街は二人を立派な身なりをさせ、見送る。

2025年1月15日水曜日

暴君ネロ The sign of the cross 1932

セシル・B・デミル監督、米、125分。キリスト教徒が迫害されていたローマ帝政期、ネロはローマに火を放ちキリスト教徒の仕業と言いふらす。女主人公はキリスト教徒だった。たまたまローマ長官マーカスが目に止め、恋する。何くれと女の手助けをする。マーカスに恋するネロの妃はマーカスがキリスト教徒の女に惹かれていると知り嫉妬の炎を燃やす。

女の家にいる少年に使いを出すと、少年が女の名を言ったため、ローマ兵に捉えられる。拷問を受け、キリスト教徒の集会の場を吐いてしまう。キリスト教徒が集会を開いていると、ローマ兵がやって来て矢を射って次々と殺される。マーカスが来て殺戮を止めるが教徒は捕まる。コロセウムで見世物を兼ね、様々な催し物が開催される。キリスト教徒を引き出しライオンの餌食にしようとする。マーカスは牢にやって来て女に逃げようと勧めるが、女は他の者たちと同様にする、マーカスに天国に行けると言う。それならばと女と手を取ってマーカスも刑場に歩む。

罠 Pièges 1939

シオドマク監督、仏、107分。新聞求人欄を利用した、女の連続失踪事件が起きる。ダンサーである主人公の友人も消えた。主人公の女は警察に頼まれ、囮捜査に協力する。次々と求人に応じるが、手がかりがつかめない。

そのうちにプレイボーイで金持ちのモーリス・シュヴァリエが女に目を止める。シュヴァリエは女をいたく気に入り、何とかしてものにしようと求婚する。女も承諾した。しかし結婚が決まってから、シュヴァリエの引き出しに、失踪した友人も含めその他の女、更に自分の写真等が入っていた。これはシュヴァリエが犯人の証拠だと思う。警察に連絡し刑事に来てもらう。最終的には、シュヴァリエの雇人が犯人でシュヴァリエを陥れるため、細工をしていたと分かる。女はシュヴァリエと結婚する。

2025年1月13日月曜日

大下宇陀児『昆虫男爵』 昭和13年

昆虫の中には胎生の虫がいると主張する奇人の学者がいて、昆虫男爵とあだ名されている。友人の学者とその胎生昆虫を捜しに銀座に行く。いきなり通行人に襲い掛かり、瀕死の重傷を負わせ、これが昆虫だと言う。友人は男爵の精神状態がまともでないとして、高原の別荘で安静治療させる。

女芸人で昆虫の鳴き真似をする者がいたので、友人は別荘に連れてくる。もう治療を長くしているので治ったのではないかと、女芸人に虫の鳴き真似をさせて反応を診る。その場ではそれほどではなかったが、夜中に惨劇が起こる。女芸人は残虐極まりない方法で殺されているのを朝発見し、男爵は外の木で首をくくっている。男爵が女芸人を殺し、自殺したかと見えた。真相はそうでない。たまたま休暇に来ていた杉浦良平探偵と助手の影山が居合わせ、事件が解決される。これも読者宛ての犯人捜しの質問状が途中にある。

大下宇陀児『蛇寺殺人』 昭和12年

杉浦良平という探偵が活躍する。もう老人で無声映画『カリガリ博士』の同名の主人公に似ているという。影山という若い助手がいる。女から助けを求める電話がかかってきて、途中で切れる。そこの場所を捜すとお寺であった。女などいない、男ばかりの寺であり電話の件は不明である。寺で蛇に嚙まれた若い女を助ける。芸妓であった。後日、その寺の経堂が火事になり全焼、焼け跡から黒焦げの死体が見つかった。

種明かしは寺の住職や若い僧が実は悪党で、二人の芸妓と関係があった。焼死体はそのうちの一人であった。これも途中で読者への犯人当ての質問状が入っている。

2025年1月12日日曜日

大下宇陀児『風船殺人』 昭和10年

風船が大好きな金持ちの未亡人がいる。ある日、人の顔をしたおかしな風船が仏帰りの画家から贈られてきた。夫人の部屋は風船で一杯である。後に夫人が部屋で殺されているのが発見された。更に怪奇な風船を贈った画家も居合わせたのであるが、この画家も土蔵の中で殺されていた。犯人は誰かという短篇推理文庫である。途中で犯人は誰かという、エラリー・クイーンばりの著者から読者への質問状が入っている。

大下宇陀児『蛭川博士』 昭和4年

江ノ島近くの海岸で若い女が刺殺される。怪しい男を見たという情報は、男の恰好がかなり違う証言になった。被害者と一緒にいた婦人は蛭川博士という男の妻であった。刑事が蛭川博士宅を訪ねると魁偉な唖の男に邪魔される。蛭川博士の夫人が現れる。唖は家来と言い、蛭川博士は癩病で会えないと断られる。

不良グループがいてその長は合いの子、混血児である。この男が探偵役となる。仲間の一人は海岸殺人事件の現場にいて警察に嘘の証言をしていた。話はある指環を巡って、そのため複数の殺人が起こる。また最大の謎である蛭川博士は途中で殺されたとなるが、その真相が小説の最大の核心である。(論創ミステリ叢書第52巻、2012年)

2025年1月11日土曜日

偽りの果て Non coupable 1947

アンリ・ドコアン監督、仏、94分。主人公である中年の医師は今ではすっかり飲んだくれになっている。飲んだ帰りに妻と一緒に車を飛ばしていると、向こうから来たオートバイと衝突する。乗っていた男は死んだ。医師はこれをオートバイだけの事故のように見せかけて去る。明くる日の警察の調べでもオートバイの単独事故とみなしている。

車の修理に出す。しかしこの車屋が怪しい。妻と通じているのではないか、疑いを医師は持つ。後に車屋は殺された。また自分が往診でみている患者について他の医師の医師の意見を聞くこととなった。この医師は主人公に対して好意的でなく、主人公に不利な行為をしていた。この医師も死体で見つかる。主人公は妻を信じていない。その妻を罠にかけ、死ぬような工夫をする。ところが直前になって考え直し、妻を助けようとするが間に合わない。妻は死ぬ。主人公は自首しようとするのだが、警察は相手にしない。車屋や医師の殺人は妻だと思っているからである。何が真相か。

2025年1月6日月曜日

恋のページェント The scarlet empress 1934

スタンバーク監督、米、104分、マレーネ・ディートリッヒ主演。ロシヤの女帝エカチェリーナ二世の伝記映画である。ディートリッヒがドイツの貴族の娘からロシヤの大公の妃となり、後にエカチェリーナ二世となるまでの映画である。

まずディートリッヒ演じるドイツの貴族の娘のところに、ロシヤから求婚の使いがやって来る。結構美男子の使節に皇帝はどんな男か尋ねると、この上なく立派な男子であると答えが返ってくる。ロシヤまで赴く。実際に会うと大公は痴愚に近いようなおかしな男だった。大公の母である皇太后がロシヤを仕切っていて、ディートリッヒにあれこれ指図命令をする。ディートリッヒは臣下の男たちに惹かれ、大公には愛人がいる。皇太后が亡くなる。後を継いでピョートル三世となった大公は悪政の限りを尽くす。愛人と一緒になりディートリッヒを追い出すつもりでいる。ディートリッヒも臣下たちを引き連れ、ピョートル三世を倒してエカチェリーナ二世となるところで映画は終わる。

フィルポッツ『赤毛のレドメイン家』 Red Redmaynes 1922

フィルポッツのこの作品は必ず江戸川乱歩の称賛が引用される。

この文庫の扉にも掲載されている。この乱歩の言葉はいつ言われたか。解説に1935(昭和10)年とある。(解説、p.434)原作の発表も1922年と非常に古い。ヴァン・ダインのベンスンが1926年、エラリー・クイーンのローマ帽子が1929年であり、それらより古い。何を言いたいかというとこの作品は百年以上前の古い時代の作品で、乱歩の評価も昔にされた。現在、この作品を読んでもそれほど感心しない読者は多かろう。物語の初めの方で二人の人間が失踪すると、一方が他方を殺したようだ、死体がまだ発見されない、などと出てくる。発見されていないのに死体となぜ言えるのか。登場人物についても、この人物が怪しいとわざわざ強調して書いているのかと思うほどである。本作品で使われている設定やトリックはその後の多くの推理小説でお馴染みになっている。

我々が乱歩よりも勝っているのは、現在までのより多くの推理小説に親しんでいるという点である。推理小説のトリックなどは大して多くないから、若干の変更等で使い回ししている。推理小説を読んで似ている、別の作品を思い浮かぶのは珍しくないだろう。だから今の我々が90年前の乱歩ほど感心しないのは当たり前である。また解説に今ではフィルポッツが推理小説界で評価されていないと書いてあるが、現在ではもっと積極的に、フィルポッツは人として否定されているとインターネットに書いてある。まさに現代的な理由である。

フィルポッツと言えば『闇からの声』に言及したい。昔、中島河太郎という、推理小説専門の評論家(当時はこの人くらいだった)がいて、解説などをよく書いていた。随分自分の好き嫌いを前面に出して書いていて、自分は好きではなかった。この人が『Yの悲劇』の解説だったか、古今の推理小説のベスト3として『Yの悲劇』『黄色い部屋の謎』『闇からの声』を挙げ、特にYの悲劇を絶賛していた。欧米では今では全く言及されない『Yの悲劇』が、わが国では今だにNO.1扱いされているのは、この人の影響があるのかと自分には思えるほどである。『闇からの声』についてどう書いていたか忘れた。『闇からの声』は犯人捜し、トリックものの推理小説でなく、サスペンスなのだが、この『赤毛のレドメイン家』と非常に構成が似ている。久しぶりに『赤毛のレドメイン家』を読み直してそう思った。(武藤崇恵訳、創元推理文庫、2019)

2025年1月4日土曜日

モンパルナスの夜 La tete d’un homme 1933

デュヴィヴィエ監督、仏、92分。シムノンの『男の首』の映画化。原題は小説と同じだが映画の邦題は表記のようになっている。映画では若干筋を変えている。小説のように事件の謎を解くのではなく、倒叙物のように犯罪の順に従って映画にしている。映画の筋は次の様。

男は金がないのに金使いが荒い。金持ちの米人の叔母がいて死ねば財産が入る。その男にメモが届く。叔母を殺してやる。その代わりに大金を寄こせと。男はためらうが結局これをのむ。叔母の家に泥棒が入る。それも指示に従っての犯罪だった。部屋に入ると老婦人が死んでいる。泥棒の前に指示した男が現れ、何も言うな、警察に捕まっても出してやると命令する。泥棒は逃げるが警察に捕まり、殺人の犯人にされる。メグレ警視は男が犯人でないと睨み、護送中わざと逃がす。

メグレ警視は酒場で飲んでいるチェコ人を知る。無銭飲食だったが警察に連れていかれると札束を持っている。メグレ警視はこの男を怪しみ、尾行させる。叔母が死んで遺産を相続した男のところに、チェコ人は来て約束の金を要求する。メグレらが来て、相続人とチェコ人の関係をただす。みんなで酒場に行く。チェコ人は相続人の情婦を連れ出し、自分のものにしたい気でいる。相続人はもはや自分の関わり合いが分かると判断し、酒場で銃でもって自殺する。メグレらがチェコ人を捕まえに行くと待っていたチェコ人に部下が刺される。チェコ人は街中を逃げるがバスに轢かれ死ぬ。