フィルポッツのこの作品は必ず江戸川乱歩の称賛が引用される。
この文庫の扉にも掲載されている。この乱歩の言葉はいつ言われたか。解説に1935(昭和10)年とある。(解説、p.434)原作の発表も1922年と非常に古い。ヴァン・ダインのベンスンが1926年、エラリー・クイーンのローマ帽子が1929年であり、それらより古い。何を言いたいかというとこの作品は百年以上前の古い時代の作品で、乱歩の評価も昔にされた。現在、この作品を読んでもそれほど感心しない読者は多かろう。物語の初めの方で二人の人間が失踪すると、一方が他方を殺したようだ、死体がまだ発見されない、などと出てくる。発見されていないのに死体となぜ言えるのか。登場人物についても、この人物が怪しいとわざわざ強調して書いているのかと思うほどである。本作品で使われている設定やトリックはその後の多くの推理小説でお馴染みになっている。
我々が乱歩よりも勝っているのは、現在までのより多くの推理小説に親しんでいるという点である。推理小説のトリックなどは大して多くないから、若干の変更等で使い回ししている。推理小説を読んで似ている、別の作品を思い浮かぶのは珍しくないだろう。だから今の我々が90年前の乱歩ほど感心しないのは当たり前である。また解説に今ではフィルポッツが推理小説界で評価されていないと書いてあるが、現在ではもっと積極的に、フィルポッツは人として否定されているとインターネットに書いてある。まさに現代的な理由である。
フィルポッツと言えば『闇からの声』に言及したい。昔、中島河太郎という、推理小説専門の評論家(当時はこの人くらいだった)がいて、解説などをよく書いていた。随分自分の好き嫌いを前面に出して書いていて、自分は好きではなかった。この人が『Yの悲劇』の解説だったか、古今の推理小説のベスト3として『Yの悲劇』『黄色い部屋の謎』『闇からの声』を挙げ、特にYの悲劇を絶賛していた。欧米では今では全く言及されない『Yの悲劇』が、わが国では今だにNO.1扱いされているのは、この人の影響があるのかと自分には思えるほどである。『闇からの声』についてどう書いていたか忘れた。『闇からの声』は犯人捜し、トリックものの推理小説でなく、サスペンスなのだが、この『赤毛のレドメイン家』と非常に構成が似ている。久しぶりに『赤毛のレドメイン家』を読み直してそう思った。(武藤崇恵訳、創元推理文庫、2019)