2025年11月12日水曜日

ヨーヨー Yoyo 1965

ピエール・エテックス監督、仏、98分、白黒、一部無声。1925年から始まる。当時の映画は無声だったので、無声である。富豪の生活が描かれる。恋人がいたが今は会っていない。恋人はサーカスで働いており、息子ヨーヨーがいる。富豪はこれは自分の息子かと尋ねる。大恐慌の時代となる。富豪も破産した。

富豪は妻と息子の三人で車に乗って巡業サーカスをする。チャップリンやフェリーニの映画を模した場面や写真が出てくる。グルーチョ・マルクスの写真の向こうにカール・マルクスの写真がある。時代が変わり、映画は無声から発声になる。息子のヨーヨーは成人してピエロになっている。親の富豪をやった役者が大人になったヨーヨーを演じる。テレビの時代が来る。ヨーヨーはかつて父の住んだ邸宅を求める。今では廃墟である。そこを入手し、芸などやらせる。

2025年11月11日火曜日

稲盛和夫『ガキの自叙伝』日本経済新聞社 2002

京セラの創業者、稲盛和夫の自叙伝である。稲盛は昭和7年、鹿児島に次男として生まれた。内弁慶の泣き虫だったそうだ。ガキ大将だったが、肺炎にかかった。治ったが戦争で家は焼失。闇商売に精を出した。兄弟の中で和夫だけ高校から大学を目指せた。阪大医学部を受けたが不合格。鹿児島大学の工学部に入った。

卒業後、入れてもらえたのは京都の会社。家族の期待を背負って入ると、潰れかけの会社だった。一緒に入った連中は辞め、最後の一人となった。そこで研究に打ち込み、松下電器から注文があったセラミックによる部品を開発する。後に仲間と共に京都セラミックを作った。後はいかにして会社を成功させたかの話である。全く休みも何もかも犠牲にして仕事を続け、それが会社を成長させたとある。

モンスター・パニック/怪奇作戦 El hombre que vino de unno 1970

トゥリオ・デミケリ監督、西、独、伊、87分。地球征服のため送りこまれた宇宙人博士は地球の怪物を復活させて、目的を果たそうとする。死んだ学者を甦らせ、吸血鬼、狼男、フランケンシュタインなどを復活させる。博士の陰謀を知った刑事は恋人と共に探る。怪物どもを復活させたものの、言うことを聞かず、怪物同士の戦いなど始めて、最後はアジトだった城ともども宇宙人博士らは滅び、炎上する。

2025年11月8日土曜日

原武史『日本政治思想史』新潮選書 2025

政治思想史となっているが、歴史を追って思想家やある思想を解説していく形式でない。例えば「空間と政治」とか「時間と政治」という切り口で日本の政治を捕えていく。また徳川の政治体制を朝鮮との比較で論じる。天皇が日本の政治でどういう意味を持ってきたのか、現在までその意味を考える。

江戸時代の本居宣長や平田篤胤を論じるなどは標準的な話題だが、鉄道がもった政治思想とか東京と大阪の比較など新鮮な視点である。更に近代の政治思想の中でマルクス主義とキリスト教を正統と異端の議論の中で論じ、戦後の日本の政治体制についても議論する。新鮮で多岐に渡った議論であり、読んでいて面白い。何より読みやすいところが長所である。

2025年11月6日木曜日

ローズ家の戦争 The war of Roses 1989

ダニー・デヴィート監督、米、116分、マイケル・ダクラス、キャスリーン・ターナー出演。弁護士のデヴィートが過去の離婚騒動を話す。ダグラスとターナーは恋愛の末、結婚した。ダグラスの事業は順調に進み、ターナーお気に入りの屋敷を購入、内装を凡て自分の納得のいくよう変えた。二人の子供は大きくなり大学に入る歳頃になる。

ターナーはダグラスとの結婚を厭うようになってきた。しかしダグラスにはその気はなかった。特にターナーが屋敷を自分の物にしたいと言いだすと後に引けぬよう抵抗する。同じ家に住んで、建物の中で夫々の領域を決めた。お互いのにらみ合いは亢進していく。ターナーの飼っていた猫をダグラスが誤って轢き殺す。ターナーが家で料理会を催すと嫌がらせの極で妨害する。ターナーはダグラスの飼っていた犬を食事に出す。最後は落ちそうなシャンデリアの上で二人がにらみ合い、そのシャンデリアが落下して二人とも死ぬ。

板坂元『考える技術・書く技術』講談社現代新書 昭和48年

半世紀前に出てベストセラーになった本。当時読んでそれなりに感心した。半世紀経って再読するとやはり古いところを感じてしまう。読んでいると著者は収集癖があるようで、また発想を麻雀に例えたりしている。収集も麻雀も興味ない自分としてはやや縁が遠く感じた。

書く方についての議論は、パソコンもワープロもない時代である。これは考える方もそうで、インターネットなど夢にも思わなかった頃である。現代ではかつてほど感銘を与えない。それでももちろん読んでためになる部分もある。歴史的文書であろう。

2025年11月5日水曜日

宮島未奈『成瀬は天下を取りに行く』新潮文庫 2025

成瀬あかりとその友人である島崎ほかが出る、青春小説である。主人公の成瀬は極めてクール、だけではなくて、なんでも出来る、成績もよいというスーパーガールである。しかし変人というか他人を全く意識せず、どう思われようが気にせず、周りから敬遠されている。島崎は例外的に成瀬の友人となってきた。

短い挿話、短編の連作といった感じで成瀬を巡る、あるいは舞台である大津市に住む人らが出てくる。本作は大津市のご当地小説といった感じで、大津について西友が閉鎖される(実際の出来事)から始まって、色々な情報が分かる。

2025年11月4日火曜日

盲獣 昭和44年

増村保造監督、大映、84分、総天然色、出演は船越英二、緑魔子、千石規子の三人だけである。江戸川乱歩の『盲獣』を原作とあるが、乱歩の小説とはかなり違う。主人公が盲人で「触覚芸術」なるものが出てくるのが共通である。原作は主人公が殺人犯で、乱歩の小説の中でもエログロが甚だしく、著者が後に書き換えたのは有名。自分が最初読んだ講談社の全集や角川文庫はこの改作版だった。春陽文庫は元通りで有名だったし、創元推理文庫も元の版である。

さて本映画も原作とは違うとはいえかなり「ひどい」映画である。今なら作れないし、別の意味で当時も、よく作れたものだと思ってしまう。なぜこんな映画を作ったのか。自分の理解は次の通り。製作は昭和44年で、日本映画界はどん底にあった。テレビの普及で映画観客人口は激減、更に作り手本位の「アート」志向の難解な映画は普通の映画ファンも日本映画から遠ざけた。しかし映画は商売だから売れる物を作らなければいけない。それでテレビでは作れようもない、エログロ映画にしたのか。

なお石井輝男監督の『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』も本映画と同じ年の映画である。『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』を昔名画座で見た時、あまりの安っぽい作りに啞然としてしまった。しかし今ではカルト映画と評価されているらしい。本『盲獣』も昔、文芸坐地下か何かで見たが、女体を模した山を這っている場面くらいしか覚えていなかった。今ビデオで見直して、これほど過激な展開だったのかと改めて知った。

2025年11月3日月曜日

われら劣等生 昭和40年

佐藤雄三監督、東映配給、87分、白黒映画。田村正和、いしだあゆみ出演。高校生活を描いた映画。同じ組に、大学進学組と劣等生を自認し進学しない生徒がいる。田村は進学しない方である。これは田村の家が母子家庭で、母親の情人である男が田村の進学費用を出してくれると言っているのだが、田村はそれを嫌がっている。

いしだあゆみ他の女学生は、身だしなみに気を付けて生活を送っている。同じ学友に太田博之がいて、進学組のガリ勉である。学校祭で何かやろうとし、劣等生らの方が学校のミスを選ぶ投票をしようと言いだす。女学生たちは何とか自分に入れてもらおうと躍起になる。投票直前になって、教師らにこの学校ミス投票が発覚し、怒る教師が出てくる。指導役の教師、校長ほか教師の前で、田村は言い始めたことだから止められない、と答える。投票が行われる。

田村の母親は大学にやれないと言い出し詫びる。情人の男が関係を打ち切ったからだ。田村は男は最初から身体だけ目当てだったのだと言い、学校を辞める決心をする。ミス投票の開票の時が来た。校庭の真ん中に持ってきてぶちまけた投票用紙の山に、田村は火をつけて燃やす。その後、田村を学校に戻そうと学友らが言い出す。期末の数学の試験、その最中に田村は勤め先から学校の校庭に来ていた。試験が終わって外に出た生徒らは田村を見つける。声をかけると田村は逃げ出す。みんなで追う。田村は止めてあった小型トラックに乗って去っていった。

燃えつきた納屋 Les Granges brûlées 1973

ジャン・シャポー監督、仏、95分、アラン・ドロン、シモーヌ・シニョレ出演。雪深い田舎で車の傍に女の死体が発見される。大金が盗まれている模様。近くの農家、これが「燃えつきた納屋」と呼ばれる家で、女主人がシモーヌ・シニョレである。アラン・ドロンが予審判事としてやってくる。

シニョレの子供たちは成人だが不満が多い。都会に出たい、田舎で百姓などやりたくない。例えば次男の嫁は家におらず、ホテルで働いている。シニョレの、一家への締め付けが子供らを圧迫してきた。それがドロンの捜査により明らかになっていくのがこの映画である。子供らは親に内緒で屋敷の敷地の一部を売ろうと思っていた。

次男の持ち物から大金が発見された。シニョレが息子を問い詰めると車が止まっていて中に金があったので盗んだ。ただし殺人はやっていないと答える。後にドロンがこの屋敷の捜索に来ると、シニョレは金を自分の懐に隠す。更にその後、今度は長男が容疑者となった。実は長男は次男の嫁と結婚したかった。今ホテルで働いている次男の嫁と逢引するために来た件で容疑になった。シニョレが長男を問い詰めると、母親のシニョレの命令で好きでない女と結婚したのだと答える。殺人の犯人はあっけなく捕まる。ここと離れた場所で未成年者の犯行と分かった。これでシニョレの家の者の容疑は晴れた、最後にドロンがシニョレに別れの挨拶を告げに来ると、シニョレは次男が車から取った大金をドロンに渡す。

2025年11月1日土曜日

フロンティア Frontiers 2007

ザビエ・ジャン監督、仏スイス、108分。移民の五人の若者が銀行強盗し、外国へ逃げる計画を立てる。しかしそのうち一人は死に、後は二組に別れて逃げる。最初の男二人は怪しげな宿屋に着く。そこで娼婦から迫られ、関係を持つ。しかし宿屋の男どもが暴力をふるい、逃げ出すが車は崖から落ちる。そこから二人は何とか這い出し、洞窟のようなところに入るが入口で追手が待ち構えていた。

後の男女二人は前の者らから連絡のあった宿屋に着く。そこで宿の者から場所を変えたと言われる。二人がいる別の屋敷に連れていかれる。不気味な雰囲気である。男の方が部屋から出て屋敷内を探ると仲間が逆さ吊りになっているのを発見する。逃げようと部屋に戻って女に言うが、屋敷の者らは捕まえて檻に入れる。そこから何とか女は逃げ出すが、道の向こうから来たトラックに乗ると、それは屋敷の一員で連れ戻された。仲間の他の男らは残酷に殺される。

女は子供を産むために、長男と結婚させられる。ここの一家はナチスの残党か、ナチスの同調者たちだった。ただ若い女がいて、よそから連れてこられ、巨魁な次男と結婚させられている。この女は捕まった女に同情的である。女を家族の一員として迎える儀式で女は逃げ出し、屋敷の者らと戦いになる。最後に敵方を倒し、自動車で屋敷から逃げる。

2025年10月31日金曜日

月光仮面 怪獣コング 昭和34年

相野田悟監督、東映、59分、白黒映画。嵐の夜、囚人らが脱走し、科学者の博士が誘拐された。これは国際暗殺団による。同団は日本の政府首脳達を倒すつもりだった。次々と政府高官が殺される。次の標的は警視総監だった。総監が車に乗っていると、怪獣コングが現れる。怪獣というより普通の人間大で、顔つきが醜悪であるが、背広を着ている。そこに月光仮面が現れ、総監を救う。

コングは銃で撃たれても平気である。更にヘリコプターを運転し、そのヘリコプターが爆破されても死なずに再登場する。入院した総監を別の手で殺そうとする。祝探偵は国際暗殺団に変装して乗り込み、総監暗殺の手段を探ろうとしたが見つかり、以前攫われた博士と同室の檻に収監される。祝探偵と博士はそこから逃げ出す。総監の病室に探偵が行く。置いてあった花瓶の中に時限爆弾があり、寸前に止める。国際暗殺団の首領は怪獣コングに変身するが、月光仮面らの活躍で倒される。

ゴーガイルズ生きている怪獣 Gargayles 1972

B・W・L・ノートン監督、米、94分、総天然色。砂漠に考古学の博士は娘と一緒に行く。そこにいる老人からの連絡で何か興味をそそるものがあるらしい。着いてみると観光客向けのちゃちな博物館であったが、老人はゴーガイルズの骨の標本を見せる。これを見ても博士は感心しなかった。しかしその老人宅は何物かに襲われ火事になる。車で逃げる博士はその際、怪物の頭蓋骨を持って行った。車の屋根に何かが張り付いているらしい。ホテルに着くと車の屋根がギザギザに切られていた。

夜になって怪物、ゴーガイルズがホテルに襲いに来る。あの頭蓋骨を取り返しに来たらしい。気づいた博士は怪物の一匹を倒す。後になってその仲間の死体を取り返しに来たゴーガイルズに博士の娘はさらわれる。今度は博士の娘を取り戻しに警察その他が繰り出す。娘を救い出し、怪物の卵を焼き、怪物らを大空に追い払う。

2025年10月30日木曜日

大蜥蜴の怪 The giant gila monster 1959

レイ・ケロッグ監督、米、74分、白黒映画。原因不明の車の事故が多発する。しかも乗員は見つからない。地元の保安官など調べるが、不明である。これは大蜥蜴が現れ、それに押されるか、あるいは驚愕してハンドルを切り損ね、事故になったのである。

更に大蜥蜴は鉄道の橋を壊し、それによって列車を脱線転覆させる。大蜥蜴は散乱した列車に向かう。多くの人が会場に集まっていたところに、大蜥蜴は現れ、恐怖のどん底に陥れる。ニトログリセリンがあったことを思い出した男がニトロを車に積み込み、その車から飛び降りて大蜥蜴に衝突させ爆破、炎上して怪物を倒す。実写の蜥蜴をミニチュアのそばで大きく見せさせている。

地獄の逃避行 Bad lands 1973

テレンス・マリック監督、米、95分。1958年に起きたスタークウェザー事件からヒントを得て作成された映画。マーティン・シーンとシシー・スぺイシクが二人の男女を演じる。

実際の事件より犯罪を少なくし残虐な場面もない。ともかくスペイシクは好きになったシーンに付いて行くだけで、原野のようなアメリカの大地を逃げるだけの生活にうんざいしてしまう。警察が見つけると、早めにスペイシクは降参、自首する。シーンはその後も車でパトカーをまこうとするが、最後は警官に降伏する。捕まってから軍隊の施設でのシーンとスペイシクの会話などがある。

2025年10月29日水曜日

女王蜂の怒り 昭和33年

石井輝男監督、新東宝、75分、原則的に総天然色だが夜の場面は白黒になる。久保菜穂子ほか出演。港町で久保の率いる組と天知茂率いる新興組が争う。映画の冒頭は港祭りで踊り子たちが踊っている場面であるが、新興組の連中が騒ぎ出す。久保が子分を引き連れ現れる。

そこに宇津井健演じる風来坊がやってきて収める。宇津井は新興組の組長の娘、星輝美に好かれ、組のキャバレーに行く。天知の手下の菅原文太が星と踊っているところを、宇津井は星を横取りして踊りだす。宇津井は天知の前で拳銃の腕を見せ、雇われる。襲名披露で親分衆が集まっている際に、仕切る天知は久保のところに招待状を出さなかった。久保が怒って現れ、天知を衆人環視の中でなじる。

天知は久保の組がやっている荷物を夜中に強奪する。それで弁償金を払わなければならなくなった久保は金に詰まる。博打で取り戻そうとするが、逆に天知に負ける。同席していた宇津井が後に天知のいかさまを久保の組の佐々木孝丸に教える。佐々木は天知に掛け合い、いかさま黙殺と引換で弁償金を取り戻そうとするが、天知の奸計にひっかかる。久保の組は堅気になる代わりに島を天知に引き渡し、金を受け取る予定だった。だが眠り薬を飲まされ、久保は天知の毒牙にかかる。久保と天知の組は波止場で決闘となる。そこにあの宇津井が海上保安官の制服を着て現れ、天知を逮捕する。久保は堅気の社長になって港祭りで踊りを見ながらで映画は終わり。

2025年10月28日火曜日

ベーオウルフ Beowulf

副題に「中世イギリス英雄叙事詩」とあるように、英雄ベーオウルフが怪物及びその母親を退治し、後に王となるが、最後にはやはり相手方と戦い、自分も死ぬという内容。イギリスの叙事詩であるが、舞台は今のデンマークやスカンジナビア南部である。今のデンマークの地の王は毎夜、怪物グレンデルに襲われ被害を出していた。親戚のベーオウルフが救援に来て怪物を倒す。後にそのグレンデルの母親が来る。この母親もベーオウルフは倒す。ベーオウルフは王になる。ベーオウルフの従者が盗みをし、それを取り返しに来た敵と戦い、老いているベーオウルフは敵を倒すものの、自分も致命傷を負い、死ぬ。

物語の成立は8、9世紀頃らしい。後の写本も火事に会い、写本の転記も十分でなく、学者で成立期、主題等について論争が続いてきた。(岩波文庫、忍足欣四郎訳、1990年)

ウィキッド ふたりの魔女 Wicked 2024

ジョン・M・チュウ監督、米、160分、ミュージカル映画で2部作の第1部。オズの国では悪い魔女が死んだのでお祭り騒ぎである。魔女グリンダに、悪い魔女はどんなだったか聞く者がいて、過去の話に移る。

悪い魔女は緑色の赤ん坊として生まれ、両親は驚き呆れ、その後の人生も疎んじられてきた。緑色の妹は色は普通だが、脚が悪く車椅子生活である。その妹が大学に入る。入学式で後の魔女グリンダも現れ、人気者になっている。緑色は妹の世話について来ただけだが、魔法をひょんなことから使い、女学部長に見染められ、一緒に入学する。人気者のグリンダと緑色は同室になる。初めは仲が悪く、お互い嫌っていた。転校生でいかにもプレイボーイといった男学生がやってくる。グリンダと仲良くなる。緑色はその魔法故、オズの国の偉大な魔法使いから招待が来る。グリンダに学部長を通じて魔法の杖を、緑色が贈ったので、グリンダと緑色は仲良くなる。

動物の教授がいるが、大学の方針か、迫害排除される。緑色は怒る。あのプレイボーイとも緑色は仲良くなる。オズの魔法使いへ行く列車に、緑色はグリンダも乗せ一緒に連れていく。オズの魔法使いに会う。女学部長も来ていた。魔術の本を見せられ、緑色が魔法を使うと従者等が変身する。実はオズの魔法使いは魔術が使えず、それで緑色を呼んだのである。オズの魔法使いや学部長は実は動物を虐待する張本人だった。緑色は対決する。グリンダが止めようとするが、戦いになり、緑色は箒にまたがり空に去る。

2025年10月27日月曜日

丸山眞男書簡集1 1940~1973  みすず書房 2003

 政治学者の丸山眞男が書いた書簡を集めている。全5巻で、この第1集には津田左右吉あての昭和15年6月21日付け書簡から始まり、昭和48年12月16日付けの書簡まで171通を収める。

終戦までの書簡は6通。昭和21、23、24年の書簡は一通もない。丸山は昭和46年に定年まで5年を残し、東大を辞職している。書簡から学園紛争の心労が影響していると分かる。丸山は自伝を書いていないが、この書簡集は、自伝のある程度の代わりとなりうる。ドストエフスキーの書簡がそう読まれているように。

ゴーストライター The ghost writer 2010

ロマン・ポランスキー監督、仏独英、124分。自叙伝の代筆をするゴーストライターであるユアン・マクレガーは、元英首相、ピアース・ブロスナンの自伝を引き受ける。前任者は事故死していた。ブロスナンと家族等は米の島にいる。かつてテロ容疑者を米CIAに引き渡したとして、ブロスナンを非難する勢力があった。

マクレガーは前任者の死に疑問を抱き、残された前任者が書いた自伝を読み、謎を探ろうとする。自分自身も狙われるようになった。最後にブロスナンの妻がCIAの一員であったと突き止める。ブロスナンは暗殺され、それで出た自叙伝はベストセラーになった。マクレガーは出版記念会で、ブロスナンの妻に自分が調べた事実を伝える。その会から出たマクレガーは自動車にはねられ自伝の原稿はあたり一面に四散する。

2025年10月25日土曜日

天使の顔 Angel face 1953

オットー・プレミンジャー監督、米、91分、白黒映画。ジーン・シモンズ、ロバート・ミッチャム出演。ミッチャムは救急車の運転手をしていた。ある日、事故があってシモンズと会う。シモンズの父は作家で、再婚した義母をシモンズは嫌っている。シモンズはミッチャムを好きになるが、ミッチャムには恋人がいる。いかにも悪い女よろしくミッチャムを恋人から奪おうとする。ミッチャムも美人のシモンズにつれなくしない。

シモンズの口利きでミッチャムは運転手を辞め、シモンズの家で働くようになる。シモンズが義母を嫌っており、家の雰囲気が悪いのでミッチャムは辞めようとした。シモンズは引き留めようとする。またシモンズは嫌いな義母を車に仕掛けをして殺そうとした。ところが父親が同乗し、シモンズは大好きな父親まで殺してしまう。

シモンズだけでなくミッチャムに殺しの容疑がかかる。親を殺してシモンズと結婚し財産を奪おうとしたと思われた。辣腕弁護士の提案でミッチャムとシモンズは結婚させられる。そうすると陪審員の同情を買い、無罪になるだろうと。実際、判決は無罪だった。ミッチャムは釈放されてすぐにシモンズに離婚しようと言いだす。しかし元の恋人のところに戻ってももう相手はミッチャムを拒む。ミッチャムはシモンズにメキシコに行くつもりだと言う。車で送ると言い、シモンズはミッチャム諸共、両親のように車を暴走させ崖から転落する。

2025年10月21日火曜日

管賀江留郎『冤罪と人類』ハヤカワ文庫 2021

副題に「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」とあり、冤罪についての本なのだが669ページもある大冊である。まず最初は静岡県で昭和25年に起きた有名な冤罪事件である二俣事件で、警察内での拷問を内部告発したため、干されたではすまない扱いを受け、その家族まで辛酸な目に会わされた山崎刑事の記述から始まる。次いで戦後に多くの冤罪を引き起こした有名な紅林麻雄刑事について書いてある。

そもそも紅林刑事が有名になった、真珠湾攻撃前後に静岡県で起きた連続殺人事件、いわゆる浜松事件に関して何か著書はないかと捜してこの本を知ったのだが、もちろん浜松事件についての記述もあるが、それに留まらない、膨大な論考がある。この事件に関わった警察庁の吉川澄一技師は日本で最初にプロファイリングを行なった先駆者であり、非常に優秀であったとある。更に浜松事件で有名になった紅林刑事の名声には当時の司法省と内務省の確執があったからと当時の官庁の事情が延々とある。

戦後になってから警察が、国家警察と自治体警察と二重になり、その実態について書いている。内務省の解体問題や、戦前から戦後の憲法改正に関わった政治家であり、冤罪事件の弁護士も務めた清瀬一郎について長々と書かれている。また法医学で権威であり、今では多くの冤罪を引き起こしたと記憶されている古畑種基教授、裁判官の実際などを述べ、460ページも経ってから再び山崎刑事や紅林刑事の記述に戻る。その後は冤罪がなぜ起こるかの論考である。ここで副題にある道徳感情(アダム・スミス)や精神病質について議論してある。ともかくあまりに議論の話題の幅が大きく、読み通すのは非常に疲れる。

2025年10月20日月曜日

丸山眞男書簡集2 1974-1979 みすず書房 2004

本集の中では1975年11月6日の小尾俊人(みすず書房創業者)あての書簡が有名だろう。丸山はプリンストンの高等研究所に1975年10月から明くる年まで滞在した。そのプリンストン滞在時に、知り合い、世話になった志村五郎教授(プリンストン大学数学科)を評している文がある。そこには次の様に書かれている。

プリンストンの数学者は日本人が多く、「・・・志村[五郎]教授はプリンストンの看板教授です。(中略)先日も志村教授のカクテル・パーティに招かれて(中略)志村教授とダべりましたが、非常に趣味と関心が広い反面、自信過剰で、政治=社会問題について平気でピントの狂ったことをいい、「第一級の専門家でも、一たび専門以外のことを発信する場合は一言も信用してはいけない」というレーニンの言葉を思い出しました。(以下略)(本書p.62~63)

ここを読んで怒り心頭に発した志村がその著『鳥のように』(2015)で、丸山の無知蒙昧ぶりを嘲り攻撃している。もっとも丸山は志村宛の書簡を書いており、1976年6月18日付けではバークレイに移った後にプリンストンで世話になったお礼とバークレイの様子を伝えている。更に帰国後、1977年7月27日付けでは、信州に来ていたらしい志村宛ての書簡で、音楽関係と贈答品の謝礼と話題、招待されていたらしい信州行きについて触れている。

蜂女の恐怖 The wasp women 1959

ロジャー・コーマン監督、米、73分、白黒映画。蜂を集めて研究している学者は勤務していた会社から解雇される。女社長率いる化粧品会社は最近業績が低下している。あの学者が社長に面会を求める。学者の開発した女王蜂からとれるローヤルゼリーを使えば若返りが出来ると。動物で効果を見た社長は学者に研究室を与えて研究させる。

希望により、社長自身に薬を注射して人体実験を始める。なかなか効果が現れない。会社の幹部たちは学者を胡散臭く思っている。ある日外出した学者は交通事故に会う。社長らは病院で学者をようやく見つける。社長は体の不調を感じていた。学者がいなくなったので、社長は自ら薬を注射する。目覚めた学者は知らせるべきことがあるが思い出せないと言う。その間、会社では幹部や警備員が行方不明になっていた。

思い出した学者は、社長が狂暴化すると言いだす。社長の元に行っていた秘書は社長が怪物に変身したので逃げ回る。他の社員と学者が助けに行く。蜂の怪物となった社長と社員の格闘。最後は椅子で押された怪物化した社長は窓から落ちて死ぬ。秘書は無事だった。

2025年10月17日金曜日

マルケータ・ラザロヴァー Marketa Lazarova 1967

フランチシエク・ヴラーミル監督、チェコスロヴァキア、166分、白黒映画。13世紀のボヘミアを舞台にし、王と地域の部族、部族間の争い、キリスト教を巡る話などがあり、初見では筋が掴めない。

映画の題は出てくる若い女の名で、敵方の若い男に攫われ、妊娠する。昔の東欧の冬の幻想的な映像だけでも見る価値はあるかもしれないが、内容については勉強しないと分からない映画。

2025年10月16日木曜日

カメラを止めるな! 平成29年

上田慎一郎監督、96分。ホラー映画で、後半はその映画をどうして作ったかのメイキングとなっている。映画はゾンビ映画を撮影しているところから始まる。途中で本物のゾンビが出てくる。ゾンビと出演者たちの戦い、あるいはゾンビからの逃走になる。監督はカメラを止めるなと言い、その状況を撮影していく。最後はゾンビになってしまった者とならなかった者の戦いとなり、勝ち残る者を映して終わり。

と思ったら、実はここからが本筋で、今まで映してきたゾンビ映画をどのようにして撮影したか、つまりメイキングを映す映画なのである。恐ろしくつまらない。ゾンビ映画部分は大した事なかったが、ゾンビ物なんてあんなものだろう。それをどうやって撮影したかなど、輪をかけてつまらない出来になっている。非常に評判がいい、フランスで再映画化したとかそんな前評判を聞いて見ると、その落差が大きいので、生まれてから最低最悪の映画としか思えない。

評判がいいのはなぜかといえば、これは楽屋物で、映画撮影それ自体を映画にしているので、映画関係者は喜ぶからである。これほどつまらない映画といえば、かすかに「ブレアウィッチ・プロジェクト」という評判だけで盛り上がっていて、中身は何もなしの映画を思い出すくらいである。

2025年10月13日月曜日

殺人者 The killers 1946

シオドマク監督、米、103分、白黒映画。エヴァ・ガードナー、バート・ランカスター出演。田舎町のガソリンスタンドで働いているランカスターはいつも行く食堂に、その日は行かなかった。殺し屋二人がそこに来てランカスターを待っていた。それを知らせにランカスターの同僚はランカスターに知らせるが、ランカスターはどうでもいいといった態度だった。後に殺し屋が来てランカスターを殺す。

ランカスターは自分が死んだ場合の保険金を昔いた下宿屋の世話係に払うよう指示していた。保険員がその下宿屋に行き、昔のランカスターについて調べる。係りはランカスターが自殺しそうだったと答える。女に逃げられたかららしい。映画は昔に戻る。ランカスターは酒場でエヴァ・ガードナーに会い、一目ぼれする。後にガードナーが盗品を身に着けていて、刑事(ランカスターの幼馴染)に逮捕されそうになると、自分が盗んだと嘘をつき、刑務所に入る。

ランカスターが刑務所から出てくると給料を強奪する計画が持ち上がっていた。その会合の場で、ランカスターは久しぶりにガードナーに会う。盗んだ金をランカスター抜きで山分けしようとしていたら、ランカスターが現れ、金を攫って行く。ランカスターはガードナーに教えられ、自分抜きで山分けが行われると知ったのである。しかしガードナーは金を持ち逃げする。下宿屋でランカスターが女に逃げられたと絶望していたのはその時である。数年経ってランカスターの居所を突き止めた泥棒が殺し屋を送って殺させたのである。

金はどこにあるのか。ガードナーが持っているはずである。実は泥棒を計画した首謀者とガードナーは夫婦で、それでランカスターが持ち逃げしたようにし、真相が分かるといけないので、他の仲間やランカスターを殺してきた。首謀者は虫の息で警察に告白するが、ガードナーを無実と言わずに死んでしまったので、ガードナーは逮捕される。

2025年10月12日日曜日

カビリア Cabiria 1914

ジョヴァンニ・パストロ-ネ監督、伊、無声映画、123分。古代ローマとカルタゴの戦争を背景とした映画。カビリアは娘の名であるが、主人公ではない。攫われたので、救助に行く者たちが主で、カビリア自身はあまり画面に出てこない。

カビリアが幼い日、火山の噴火で町は打撃を受ける。カビリアの屋敷も倒壊し、親たちはカビリアが死んだと思っていた。実は乳母と逃げられたが、海賊につかまりカルタゴに売られていく。ローマの軍人とその大男の従者がカルタゴに潜入していた。乳母はたまたま会ったその二人にカビリアの救出を頼む。二人は生贄にされそうになっていたカビリアを助けるが、相手方は追ってくる。軍人は海に飛び込んで逃げた。従者はカビリアを連れて逃げ、たまたま会った若い女にカビリアを託す。自分は捕まり、粉引きにされる。託された若い女はカルタゴの高官の娘であった。カビリアはその女の侍女として成長する。

ローマとカルタゴやシラクサとの戦いの場面がある。ハンニバルのアルプス越えや、シラクサでアルキメデスが反射鏡でローマの船を燃やすとか。あの軍人も従軍していた。長年の後再びカルタゴに来る。粉引きにされていた従者を助ける。二人はカビリアを捜すが分からない。あの高官の娘は政略結婚に利用されていた。軍人らは敵方に捕まり牢に入れられる。侍女にされていたカビリアは捕虜に水をやる際に二人に会う。高官の娘はかつての恋人が敵になっており、その恋人から送られてきたのは毒であった。もうこちらはローマ軍に征服される。娘は毒を飲んで、あれこれ指示し、死んでいく。カビリアは助けられ、軍人らと故郷に帰る。

2025年10月9日木曜日

将基面貴巳『日本国民のための愛国の教科書』百万年書房 2019

著者はニュージーランドの大学教授をしている政治思想史研究者。愛国心には2種あり、もともとはpatriotismであるが、これ以外にもnationalismがあると言う。前者は共通善をめざす考えである。後者は後に出てきたもので、特にフランス革命時に大きく成長した概念である。nationalismは国民や民族にこだわる。著者は共通善を目指すpatriotismが望ましい愛国心だと言っているようである。

この本では事実の認識と、著者のこうあるべきという主張が混在していてどうも読みにくい。もちろん著者の主張は結構だが、まず正しい認識を開設して、それから著者の主張をしてもらいたかった気がする。また文中で読者への問いかけや普通こうなっているという説明で、自分としてはそこで前提とされている日本人の普通の回答に同意できなかったので気になった。

2025年10月8日水曜日

泉鏡花『外科室』 明治28年

伯爵夫人の手術がある。その模様を参観している画家が語る。伯爵夫人は麻酔をなんとしても拒む。周囲の者が説得しても無駄である。うわ言で何か言うのを恐れているのである。手術をする医師の名を確認する。実は元から知り合い以上の仲だったのである。夫人は自分を知らないだろうと言うが、医師は知っていると答える。手術で夫人は死ぬ。

後半の部分は昔に戻る。医師がまだ若かった頃、後の伯爵夫人に小石川植物園で会った。それから詳述はないが、二人は相思となり、またこれも明示的に書いていないが、医師は手術で夫人が死んだ後、自殺した模様。本編は短編だが、泉鏡花の代表作の一とされている。

志村五郎『鳥のように』筑摩書房 2015

前著『記憶の切絵図』に続く本である。前著は著者の自叙伝といった感じで、特に最初の100ページ(文庫)ほどは少年期を書いている。戦前の東京では、生活がどんなであったか書いてあり、戦前の東京の実際の一例として面白い。それに対して本書は著者の関心の赴くままの随筆である。

著者は学者というものは大抵そうなのだろうが、お山の大将、と言って悪ければ一国一城の主で、恐ろしく自信家である。そうでなければ学者などやっていけないのだろう。

本書では丸山眞男について書かれた章が特に有名(?)であるようなので、それについて自分なりの要約をする。政治学者の丸山は東大を辞めた後、1975年にプリンストンの高等研究所に来た。プリンストンにいた志村あてに丸山の世話を頼む依頼が数通来たとのこと。丸山は志村より15歳ほど年上で、戦後を代表する政治学者として既に有名だった。しかしながら志村と丸山は全く合わなかったようだ。丸山がいかに無知であるか、丸山の自分自身の無知に対して素直でない態度を盛んに揶揄している。中国の古典や成句に関しての無知を、これは丸山は江戸の思想を研究対象の一つとしていたから、それを知らないとはと呆れている。丸山の音楽好きは有名だが、その音楽についてもろくに知らないので、嘲るといった口吻である。志村は前著でも、権威とされている数学者を遠慮なく批判している。これは同業者だからその気になるとは推測できる。しかし政治学者と数学者などは関係ないから、攻撃する必要もない気がした。これは途中に書いてある事情で分かった。丸山が書簡で志村を話題にし、自信過剰で、知らないことを大言壮語していると書いてあるから。これを読んだ志村は怒り心頭に発し、本書でいかに丸山が無知のつまらない人間か、やっつけているのである。

2025年10月6日月曜日

吸血怪獣のヒルゴンの襲来 Attack of the giant leeches 1959

バーナード・L・コワルスキー監督、米、62分、白黒映画。フロリダの田舎町の沼に棲む、放射能によって巨大化した蛭が人間を襲うという映画。舟に乗っている男がヒルゴンらしきものを見て驚き、みんなに話すが信用されない。後に沼に舟で出た男たちが餌食になる。行方不明になって捜索するが見つからない。後になって見つかった死体は血が吸い取られていたと分かる。

酒場の親爺には若い妻がいて、店で働いている男といい仲になっている。沼のそばで逢引していると夫の親爺が見つけて、銃で脅す。男は命乞いをする。沼から現れたヒルゴンに男も女も捕えられる。親爺は警察に言っても信用されず、牢屋で首吊りする。実はヒルゴンに捕えられた連中はすぐに殺されずに沼の中のヒルゴンの棲み処に横たわっていた。ヒルゴンが必要に応じて血を吸うのである。沼の中を捜索する。水中撮影がある。ダイナマイトで沼の底を爆破する。捕えられていた女の死体が浮かび上がるだけでんく、ヒルゴンの死体も浮いてくる。

2025年10月5日日曜日

プルート・ナッシュ The adventure of Pluto Nash 2002

ロン・アンダーウッド監督、米、95分。エディ・マーフィ主演。21世紀後半、月には人類が居住するようになっていた。その中のリトル・アメリカという都市で、マーフィは流行らない店を買い取る。ギャングに借金返済が出来ない主人から、借金を肩代わりし返済し、その店を改造し所有主となった。

数年後、大いに繁盛している。若い歌手志望の女がやってくる。勤める予定だった店がなくなっていた、使ってもらえないかと。マーフィは女給として雇う。この店を買い取りたいと言って来る者が来た。断ると店に爆弾を仕掛け、爆破してしまう。その犯人をマーフィ、女、マーフィが使っている用心棒のロボットで追いかける。派手な立ち回りがある。

相手側はマーフィを消そうと殺し屋を雇う。殺し屋一党はマーフィたちを狙うが、マーフィらはマーフィのファンに助けられる。マーフィは殺し屋の背後にいるボスを突き止めようとする。そこに行く。するとマーフィと瓜二つの者がいた。マーフィのクローンで、今は月世界のボスとなっている。マーフィは自分のクローンと戦う。同じ見た目なので、見ている子分など区別がつかなくなる。最後はマーフィはクローンを倒し、店は再び繁盛する。

2025年10月3日金曜日

狂った一頁 大正15年

衣笠貞之助監督、79分、無声映画。芸術的な映画を作ろうとする衣笠の計画に、横光利一や川端康成などが協力して作成された。実験的、表現主義的映画である。

精神病院が舞台である。豪雨の中、映画は始まり、踊り続ける女が出てくる。ここで働くこ使いの妻が入院している。こ使いはかつて妻子を顧みなかった。妻子は自殺した。妻は自分のみ助かったので悔いて、精神がおかしくなった。後に娘が現れ、結婚しようとする。こ使いは自分の妻を病院から出させようとするが、失敗する。こ使いは病院の医師と格闘し、倒す。これらは幻想であったか。ともかく字幕が全くついておらず、単に画面だけを追っていても筋はよく分からない。筋を確認してから見るべき映画である。

2025年10月2日木曜日

西部戦線異状なし All quiet on the western front 1930

ルイス・マイルストン監督、米、136分。レマルクの同名の小説の映画化。アメリカ制作なのでドイツの登場人物達は英語を話す。フランス娘のみ仏語。

第一次世界大戦が始まり、ドイツの学校では教師が生徒らに戦争へ駆り立てる講義をしている。仲間らと入隊する。教育訓練役は以前は郵便配達夫であった男である。気楽に話しかけると上官だと𠮟り飛ばされる。しごきのような訓練をする。戦線に出る。最初の戦闘から、仲間の一人が死ぬ。後に戦闘をする度に仲間は犠牲になっていく。フランス娘たちとの付き合いもあった。

数年後、主人公は一時帰郷する。家族は喜ぶ。かつての学校に行くと相変わらず教師は生徒らに戦争賛美の話をしている。主人公が来たので英雄扱いし、何か話せと言う。主人公は悲観的な話しかしないので、生徒らは怒る。軍隊に戻る。かつての仲間と再会し喜ぶが、その仲間は戦死する。主人公も最後に狙撃されて映画は終わり。

2025年10月1日水曜日

昆虫怪獣の襲来 Monster from green hell 1958

ケネス・G・クレイン監督、米、71分、白黒映画。宇宙ロケットに虫などを入れて発射し、影響を調査していた。そのうち蜂を入れたロケットがアフリカに落ちた。アフリカでは怪物が出て、環境、動物に被害を及ぼしていた。当地の医師は一隊を引き連れ調べに出かける。しかし巨大蜂に襲われる。

アフリカに落ちたロケットを調べに、アメリカの科学者が来る。そのアフリカ横断がかなりの尺を占める。怪獣映画かと思ったらアフリカ探検映画かと思うほどである。ここの部分は他の映画からフィルムを借用して作ったらしい。苦難の道中で、科学者は病気になる。気が付いたら目的地に着いていた。医師の娘に会う。父親がまだ帰ってこないので心配している。連れて行った黒人が帰ってきて医師が殺されたと告げる。怪物に、である。調べると蜂の毒で死んだらしい。

科学者らは調査に出かける。医師の娘も同行する。途中で村人全員が死んでいる場所があり、運搬役の現地人はみんな逃げる。後は科学者らだけで行くと、巨大な蜂の群れを見つける。手榴弾でも死なない。襲われそうになり洞窟に逃げる。入口は爆弾が破裂し塞がってしまったので、奥に進む。ようやく地上に出られた。その時火山が噴火し、溶岩が流れる。その溶岩によって巨大蜂群は絶滅した。

2025年9月30日火曜日

宇野浩二『世にも不思議な物語』 昭和28年

これは昭和24年に起きた松川事件の裁判に著者が関わり、有罪判決の出ていた被告らや現場など訪れ、事件と判決に対して著者の意見を書いたものである。

松川事件は東北本線の福島市の南にある、松川駅の手前で起きた汽車脱線転覆事故である。乗車員の3名が亡くなった。昭和24年8月の出来事で、先月7月に下山総裁怪死事件、三鷹事件が起こり、国鉄に怪奇な事件が相次いで発生したので、戦後史の中でも注目を集めてきた。松川事件では線路を外す工作がされており、犯罪と分かった。捜査の結果、未成年を逮捕し、その供述から東芝と国鉄の労組員が容疑者として逮捕される。25年の第一審では死刑5名を含み20名全員有罪となった。

宇野は知り合いの作家広津和郎らと被告ら、事件の関係者に会い、現場を訪れる。それで第二審判決の直前に、この『世にも不思議な物語』を発表した。宇野は本書で被告らに会い、その眼が澄んでいるので犯罪者ではないと断じている。今読んでも、眼が澄んでいるかどうかだけで、犯罪者であるかどうか判断できないと誰もが思うだろう。実際、当時、マスメディアから散々嘲笑されたという。広津和郎の発表した文も叩かれた。直後に出た第二審では数名無罪が増えたが、やはり死刑その他有罪判決が主であった。最終的には昭和36年に全員無罪の判決が出た。(宇野浩二全集第12巻、中央公論)

志村五郎『記憶の切絵図』ちくま学芸文庫 2021

数学者の志村五郎(1930~2019)の自叙伝。書名の切絵図とは志村の家が、江戸時代に切絵図を作っていて、自分の生まれ育った場所もその切絵図内にあるところから来ているようだ。

後にアメリカに渡り、有名な数学者になった。これを読むと志村は非常に自信家で自ら思ったことをはっきり言う。それがこの著書全体にも良く表れている。学者だから当然そうで、そうでなければ学者になれないだろうと思われる。それが学問の世界以外にも志村の生き方に現れている。最初の百頁くらいは戦前の東京がどんな感じであったかの一例として面白い。そこにも書いてあるように当たり前のことは誰も書かないから、時代が変わると後代の者は全く知らない、思いもよらない事柄が多くあると思う。(2008年、筑摩書房刊が初出)

2025年9月28日日曜日

土と兵隊 昭和14年

田坂具隆監督、118分、日活。火野葦平の小説を映画化したもの。戦時中に実際に戦っている中国で撮影されているため、後年の戦争映画には真似ができない迫真性がある。

中国大陸を行く日本の兵隊たち。戦闘で倒れる者もいる。雑談などの平和な時もある。最後の方の戦闘では敵のトーチカから激しい銃撃があり、兵士らの苦戦が描かれる。敵の兵士は見えない。なんとかトーチカに近づき、手榴弾を投げ込み勝利する。国策映画なので、いかに日本兵が勇敢に戦うか、また兵士たちが和気藹々として仲が良いか、美化されているのは当然である。

怪奇 アッシャー家の惨劇 The fall of the house of Usher 1960

ロジャー・コーマン監督、米、79分。エドガー・アラン・ポーの『アッシャー家の崩壊』を元にした映画。アッシャー家にやってくる若い男。その家の若い娘と相思の仲である。二人は結婚したがっている。しかし娘の兄、家の主人であるロドリックは妹を屋敷から出させようとしない。

ロドリックと交渉、言い合いし、娘を連れ出そうとする若い男。娘は病弱で、娘だけでなく、このアッシャー家の人間は自分も身体が弱い。もう長くないと兄ロドリックは言うのである。死ぬ妹、兄は男にお前が殺したのだと言う。やがて蘇る妹。最後は屋敷が火事になり崩落する。原作のようにひびが入り、家が沼に沈むのではない。

2025年9月26日金曜日

血のバレンタイン My booldy valentine 1981

ジョー・ミハルカ監督、米、90分。小さな炭鉱町。20年ぶりにバレンタインを祝おうとしている。なぜ20年間バレンタイン・パーティが出来なかったか。20年前、パーティに行く炭鉱夫が安全を怠り、爆発で炭鉱にいた何人かの抗夫が生き埋めになった。ようやく助かった一人は気が狂っていた。精神病院に入り、その後、爆破を起こした抗夫たちを殺した。

それ以来バレンタイン・パーティはしていない。若者たちは過去を知らず、パーティが出来ないのを不思議で不満に思っていた。事件が起こって今年もパーティは中止となった。不満の若者らは炭鉱に行く。それで惨劇が相次ぐ。

『ドレの神曲』谷口江里也訳 2009年

ダンテの『神曲』は誰でも知っている古典ながら詩で書かれており、地獄、煉獄、天国を巡る旅が内容で正直、読みやすい作品ではなかろう。

本書は『神曲』そのものは一部の訳で、売りはギュスターヴ・ドレが描いた挿画が134点収録されているところである。ドレの絵を見て、その絵に該当する文章が載っているという本である。これで『神曲』全体を読んだとはならないが、全体を見通すには都合がよい。ドレの絵を見て『神曲』の雰囲気を会得できる。『神曲』への最初の接近としては悪くない。(宝島社、317頁)

2025年9月22日月曜日

北京の55日 55 days at Peking 1963

ニコラス・レイ監督、米、160分、チャールストン・ヘストン、エヴァ・ガードナー、デイヴィッド・ニーヴン出演。1900年の北清事変を背景にした映画。

史実はお構いなしの欧米先進諸国が暴戻な清を懲らしめる映画。義和団を利用して欧米勢力(日本もあるが)を排撃しようとした西太后に対して連合諸国が反撃する。歴史では日本軍が活躍したことになっているが、英米等が中心である。さすがに歴史に少しは合わせるため、日本軍の将校として伊丹十三を登場させているが、ほんの脇役である。米の将校ヘストンと英の公使ニーヴンが大活躍し、露の未亡人貴族としてガードナーがヘストンの恋人役で出る。義和団騒乱の中、ヘストン、ガードナーの恋愛、ニーブンが外交官として苦悩するという話である。

2025年9月17日水曜日

マスク The mask 1994

チャールズ・ラッセル監督、米、101分、ジム・キャリー主演。ジム・キャリーは気が弱い銀行員だった。ある日客としてキャメロン・ディアスに会い、一目惚れする。たまたま手に入れた木で出来たマスクをかぶると変身し、超人的な能力を発揮する。

ディアスは悪党のボスの愛人だったが、そのボスに嫌気がさしていた。変身したキャリーと強烈なダンスをする。キャリーは金を稼ぐため銀行破りをする。一歩遅れてきた悪党のボスは金を取り返すべくキャリーを追う。警察はキャリーが怪しいと睨んで付け回していた。捕まったキャリーは愛犬の助けで拘置所を脱出する。マスクをつけて変身し、悪党をやっつけディアスを助ける。ディアスはマスクのキャリーより本当のキャリーが好きだというのでマスクを川に捨てる。犬が取りに行く。

2025年9月16日火曜日

処刑山-デッド・スノウ Død snø 2009

トミー・ウィルコラ監督、諾、91分。冬山に医学生仲間に出かける。昔ナチスの軍隊がいた場所という。そこでナチスの財宝を見つけるが、ナチスのゾンビが押し寄せ次々と学生らは犠牲になっていく。

ナチスゾンビに対してチェーンソーや機関銃などで応戦し、多くのゾンビを倒すが、相手はゾンビなので倒したところでまた立ち上がり、襲ってくる。最後は全員ナチスゾンビに殺される。全体としては『死霊のはらわた」のような映画である。

2025年9月15日月曜日

伯林-大都会交響楽 Berlin: Die Sinfonie der Großstadt 1926

ヴァルター・ルットマン監督、独、65分、無声映画。ベルリンの一日を撮影した記録映画。最初は線などの模様が出る。次いで疾走する汽車。郊外の単線を走っている。やがてベルリンに入る。初めはやや家屋がまばらだがそのうち建物が増え、列車は駅に到着する。

五幕で構成され、ベルリンの夜明けから夜までの一日の様子をカメラは捕えていく。朝になり、家屋の窓が開けられる。人々が仕事に出かける。街の道路、走る列車や馬車、二階建てバスがある。工場での製造の現場が映される。昼になれば食事をとる。喧嘩をしている人がいる。遊びをする人々がいる。夜になれば演奏会やラインダンスなどの娯楽が出てくる。こうやってベルリンの一日が終わっていく。

2025年9月14日日曜日

必殺!恐竜神父 Velocipaster 2018

ブレンダン・スティアー監督、米、70分。神父は両親が目の前で殺される。ただしそれは車が爆破して、傍にいた両親が死んだというわけであるが、映画の場面は何も映らない。舗道があるだけ。ただ字幕で爆発とでるのである。つまり映画なら何らかの方法で車が爆発した様子を映すわけだが、予算がなかったのか、文字だけでごまかしているのである。これには驚いた。

神父は中国に行く。キリスト教に縁のない国というのことで。そこで逃げる若い女から、竜の牙を渡される。手に持って傷つけたら竜の精が入ったらしい。帰国して神父は恐竜に変身でき、悪人どもをやっつける。まず告解に来た男から、そいつがとんでもない悪人で、神父の両親を殺したのもその男と分かる。神父はその男を殺す。この男に支配されていた娼婦(医学生で法学生だが金稼ぎで娼婦をしている)から、いたく感謝される。その娼婦と神父は仲良くなり、悪人どもを倒していく。

以下、悪漢忍者やそれを操る中国人の男などとの対決の下らない場面が延々と続く。つまらない映画を評価したい人間向きの映画。

2025年9月13日土曜日

町の人気者 The human comedy 1943

クレランス・ブラウン監督、米、118分、ミッキー・ルーニー主演。サローヤンの小説『人間喜劇Human comdedy』を、発表された同年に映画化した。戦争の最中である。ほぼサローヤンの原作をなぞっているが、省略の他にも一部の改変はある。

例えば電信局の局長の結婚に関しては、映画の方が長く尺を取っている。また末っ子のユリシーズが新型製品に捕まり、そこから抜け出す挿話はない。更に戦争に行っている兄が戦死したという電報を受け取る。ルーニーはどうやって家に届けたらいいのか迷う。自宅の前で兄の戦友に会う。その後、戦友とルーニーが家に入り事情を話すよう、小説ではなっているが、映画の方では一緒に家に入るところで終わっている。

2025年9月12日金曜日

ファイナル・デッドブリッジ Final destination 5 2011

スティーヴン・クォーレ監督、米、92分。Final destinationシリーズであり、枠組みはこれまで通り。

主人公らは旅行会社の社員でバスで研修旅行に出かける。橋にかかったところで地面にひびが入り、バスや車が転落し次々と人が落ちていく。ここまでが主人公の予知夢で、目が覚めた男は恋人その他の同僚にバスから逃げ出すようせかす。何人かは助かったが、多くの社員はバスもろとも転落死した。その後、生き延びた社員は次々と死んでいく。

体操の練習中に平行棒から落ちて死ぬ女。中国マッサージの券を見つけ、そこに行くが火事に会い逃げたと思ったら上から像が落下して死ぬ男。また目を治療に行った女は目をレーザーで焼かれ、窓から落下して死ぬ。工場では上司が飛んできた工具が顔に当たり死ぬ。恋人を体操練習中に失った男は、誰か殺せば自分の寿命が長くなるだろうと主人公やその恋人を殺そうとするが逆に殺される。主人公は認められて、パリに料理の修行に行くことになり、恋人も一緒に行くよう説得する。空港を飛び立つ前に高校生が騒ぎ出し、降りた。そのパリ行きの飛行機は事故を起こす。連れの女は飛行機から飛び去り翼に衝突して死に、男も炎に包まれる。落下した飛行機の一部でバーにいた同僚が死ぬ。

2025年9月8日月曜日

坂牛卓『教養としての建築入門』中公新書 2023

著者は大学教員であり、建築家である。新書で建築を扱ったものは幾つかある。特徴的な建築物や日本建築等についての歴史を説明するものが目につく。

本書は一般読者が建築について一通りのことが分かる本を目指したという。三つの接近法をとる。「使用者・鑑賞者」の視点、建築家の視点、建築が存在する社会の視点である。これらの観点から建築というものを論じる。建築が哲学や思想でどう見なされてきたか、扱われてきたかの記述もある。更に建築家が建築を設計、造る際の実際について書かれており、ためになる。建築に関心のある者なら一読に値する書である。

2025年9月7日日曜日

地獄へつづく部屋 House on haunted hill 1959

ウィリアム・キャッスル監督、米、75分、白黒映画。金持夫婦はある幽霊屋敷に5人の客を招く。客らはその屋敷に一晩過ごせば、1万ドルをもらえるという約束である。一人の客はその屋敷の過去を知っており自分の知り合いが、この屋敷で多く死んだという。客の前に招いた夫婦も現れる。扉等凡て締まり誰も屋敷から出られなくなる。金持夫婦も同様に閉じ込められた。シャンデリアが落ちてきて危うくつぶされそうになる。

各人は部屋にこもり、拳銃を持って、誰か入って来たら殺すと決めて別れる。女の首吊り死体が階段の上にぶら下がっていた。金持夫婦の妻だった。他殺にしか思えない。後に若い女の客は、窓の外に死んだ妻の幽霊を見て恐怖におののく。女は地階にいる時、金持夫婦の夫が急に現れたので銃で撃つ。倒れた夫を客の一人である医師が来て、床に空いた穴に放りこもうとするがいきなり画面が真っ暗になる。死んだ筈の夫婦の妻が現れる。骸骨が空を彷徨い、恐怖に怯えた女は床の穴に落ち込む。そこに落ちると溶解液で体が溶けてしまう。

謎解きは次のようだった。客の医師と夫婦の妻は不倫関係にあり、夫婦の夫を殺す計画だった。偽の首吊り死体でまず妻は死人とさせておき、客の女に銃で夫を殺させる。しかしこれは空砲だった。医師が死んだと思っていた夫を穴に落とそうとした時、逆に医師を夫は穴に突き落とした。映画で暗くなった場面のところである。これで自分を殺そうとしていた妻と不倫相手の医師を夫は片づけたわけである。

サローヤン『ニューマン・コメディ』 The human comedy 1943

カリフォルニアにあるイサカという町が舞台で、そこのマコーリー家の子供たち、長男のマーカスは戦争に行っている。次男のホーマーは14歳だが郵便局で働いている。家計を助けるため。父親は死んでいない。末っ子のユリシーズはやんちゃでみんなから好かれている。

ユリシーズとホーマーが中心人物である。戦争中のアメリカのある町のスケッチ。最後にマーカスが戦死したという電報が来る。(光文社古典新訳文庫、小川敏子訳、2017)

2025年8月31日日曜日

安田武『昭和青春読書私史』岩波新書 1985

1923年(大正12年)生まれの著者による青春時代の読書史。まず『モンテ・クリスト伯』から始まる。昭和初年の円本時代の新潮社の全集で2巻本であったという。既に黒岩涙香の『あゝ無情』の時代ではなかったらしい。著者は漱石について、読書を漱石から始めるというのは常套過ぎて、陳腐の感があると言っているが、漱石が読書初め、というのは常套的とも思わない。自分などは、芥川龍之介の方が短編で読みやすく、早く親しんだ。

以下、読んだ本の概要や感想があるが、自分とは随分違った読み方をしていると思った。漱石では『行人』に関心があったらしい。また漱石の女の登場人物に惹かれたとある。その他、話題にしている文学は、『銀の匙』『桑の実』『ピエールとジャン』、田山花袋、『愛の妖精』『生活の探求』『父と子』水上瀧太郎、ジイド、『墨東綺譚』『雪国』『西部戦線異状なし」である。

この中でジイドが昭和10年頃の岩波文庫の『パリゥウド』や『狭き門』で有名になったとあり、勉強になった。ここで挙げられている作家や作品のうち、例えば水上瀧太郎とか『生活の探求』など今はどのくらい読まれているのだろうと思ってしまう。また最後にあるレマルクの『西部戦線異状なし』は昭和4年に出て、発禁になった。昭和17年に田舎の古本屋で見つけた時の感激が書いてある。今では簡単に読める小説であるが、これなどを読むともっと謹んで読まなければいけないかと思ってしまった。

2025年8月29日金曜日

千野栄一『外国語上達法』岩波新書 1986

著者は東京外語大で教授をしていた言語学の専門家。ここで出版年を見ると1986年、つまり昭和61年でバブル直前、まだ現在のようなグローバル化の時代でない。この前年、プラザ合意で円の価値が倍になり、猫も杓子も外国に行くようになっていた時代である。しかし本の執筆はまだ日本人が外国になじみがなく、外国人(西洋人)などほとんど日本では見かけなかった時代である。またソ連崩壊の3年前である。本の中でロシヤ語は世界の半分にとって重要な言語だから学ぶ価値があると言っている。まだそういう時代である。

それでも本書に書いてある外国語の上達法は今でも通用する。外国語の学習法は大体どの本でも同じようなことを言っている。本書を読めば十分である。まず学ぶ目的をはっきりさせよとある。今なら誰でも英語を喋れるようになりたいと思っている。この本の時代では趣味でなんとなく外国語を学ぼうとする人がいて、そういった者も想定しているらしい。

外国語の習得に必要なもの、金と時間とある。金を惜しんではならない。覚えるべきは基礎的な語彙、千くらいの語と文法である。学習書は薄い方がいい。良い先生、それは熱心な先生である。発音は最初に正しく教えるべき。だから日本人には発音しにくい言葉は弱点になっている。最後にその国の文化、広い意味で、の習得が重要である。やはり一番ためになったのは、外国語はすぐに忘れるものだ、だから何度も何度も繰り返しの勉強が必要という点である。

十八歳、海へ 昭和54年

藤田敏八監督、にっかつ、110分、森下愛子、永島敏行、小林薫出演。森下と永島は予備校生。森下は成績がトップで永島は最下位。湘南の海に二人で行った時に小林薫を知る。やはり予備校生だが夜はホテルでバイトをしている。森下は小林に興味を持つ。森下と永島は二人で海に入っていき、溺れそうになる。自殺の真似事だった。たまたま小沢栄太郎の実業家に助けられ助けられる。小沢は二人に小切手を書いてやる。

森下には姉がいる。小林はその姉が森下を捜している時に会い、姉から森下に渡してくれるよう頼まれる。森下は拒否する。その後、小林と姉は関係を持つ。小林の父親は有名な医師で、偶然小林を見つける。長い間、小林は家から出て行方不明になっていた。会った父親は小林にバイトなど辞めろと言う。ホテルを指定しそこに泊まれと小林に言う。小林はそのホテルの宿泊を森下と永島に譲る。二人はホテルの庭の木で首吊りの真似をしていた。最後は死体安置所で小林は遺体となっている森下と永島を見つける。

2025年8月26日火曜日

宇宙からの暗殺者 Killers from space 1954

W・リー・ワイルダー監督、米、71分、白黒映画。核実験を砂漠の真ん中でやる。みんな黒眼鏡をかけて見ている。ジェット機が突っ込む。搭乗員は死んだかと思ったら、なぜか同乗していた、実験に関わってきた博士のみ生きて戻ってくる。

しかし精神、挙動不審。病院に入れるが博士は逃げ出す。核実験の資料を盗み出している模様。警察から追われる。最後に捕まるが、なぜおかしな行動をしたのか。本人は喋らないので、告白薬を注射して真相を言わせる。

博士は核実験の後、宇宙人に捕まっていた。地球への侵略を考えている。爬虫類や虫を巨大化させている。その宇宙人(目玉が飛び出している)が博士に核実験の資料を持ってこいと命じた。みんなは聞いても信じられない。博士は病院から発電所に逃げる。それで発電を止めさせる。すると爆発が起こる。宇宙人は死んだ。電源を止めると宇宙人は生きていられないらしい。どうだと博士はみんなに偉そうにする。

2025年8月25日月曜日

祭りの準備 昭和50年

黒木和雄監督、ATG配給、117分。昭和30年代前半の四国中村市が舞台である。主人公の青年は信用金庫に勤めている。父親のハナ肇は他に女を作って暮らし、母親と祖父と三人で住んでいる。友人に原田芳雄がいて、奔放な原田に振り回されている。原田の兄は刑務所にいて、その妻と原田はいい仲になっている。主人公には竹下景子という憧れの女がいる。

この町の出身の、原田のきょうだいの女が都会から帰ってくる。薬のせいで頭がおかしくなっている。町の男たちとみんな寝ている。主人公も寝ようとしたところ、祖父に横取りされる。女は妊娠する。父親は祖父だと言う。祖父は大いに女を可愛がり、一緒に住み始める。しかし女が出産すると正気を取り戻し、祖父を毛嫌いするようになる。絶望した祖父は首をくくる。

竹下は左翼のオルグが都会からやってきて、その勉強会に出ているうちにその男と関係した。それを後に主人公と話しているうちに涙ながらに告白し、主人公と寝る。主人公が信用金庫の宿直で寝ている時にも来る。その晩、火事が起き、主人公は上司からさんざん絞られる。主人公は元よりシナリオライター希望で、それを叶えるべく、母親に内緒で家を出て駅に向かう。そこで原田に会う。原田は強盗殺人犯で警察に追われていた。原田にせがまれ金を渡すが、主人公が東京に行くつもりと知るとその金を返そうとする。最後は駅で列車が出て、原田が主人公に何度も手を振って見送る。

2025年8月24日日曜日

熱いトタン屋根の猫 Cat on a hot tin roof 1958

リチャード・ブルックス監督、米、108分、ポール・ニューマン、リズ・テイラー出演。テネシー・ウィリアムズの戯曲の映画化。ニューマンが夜中、運動場でハードル跳びをしている場面から始まる。途中で失敗する。ニューマンとテイラーは夫婦であるが、ニューマンはアル中で夫婦仲はあまり良くない。跳びで失敗したニューマンは松葉杖をついている。今日は父親の誕生日で、入院していた父親が戻ってくる。

ニューマンには、子供が沢山いる兄夫婦がいる。ニューマンとテイラーには子供がいない。父親の財産を兄夫婦は狙っており、テイラーも関心がある。なげやりなニューマンはどうでもいいようである。父親を大歓迎する兄夫婦とその子供たち。兄とニューマンは父が先が長くないと医者から聞いていた。父親と母には嘘をつき死なないと言っていた。

戻ってきた父親は、元からニューマンが贔屓で、ニューマンと話をする。ニューマンは話したくないようだ。なぜニューマン夫婦はしっくりいっていないのか。父とニューマンの話の中で少しづつ真相が明らかになっていく。それはニューマンがかつて尊敬していた友人とテイラーの仲を疑っていたからであった。激しい言い争いの中で、ニューマンは父がもう長くないと言ってしまう。父が家族にしてきたこと。金はあったが愛情がなかったのではないかと。父親は自分が長くないと知るが、財産を狙っている兄夫婦の前では長生きするような口をきき、その野望を打ち砕くような口ぶりである。ニューマンは最後にテイラーを自室に呼び、仲を取り戻した。

2025年8月23日土曜日

怪談生娘吸血魔 Atom age vampire 1960

アントン・ジュリオ・マジャノ監督、伊仏、86分、白黒映画。踊り子をしている女主人公のところへ恋人が来て、別れようと告げられ、女は半狂乱になる。車に乗り猛スピードで飛ばす。事故になる。女が入院している病院。女は事故で顔に醜い怪我を負った。絶望に暮れる女のところに別の女がやって来て、治す方法はあると言う。女はこれまでやった方法が凡てだめだったので信用しない。しかし他に手はない。後日、その女が助手をしている医者、博士宅に来る。

この博士は放射能を利用した皮膚の治療法を研究していた。広島に行って原爆症を見ていた。博士の使う治療法を女に試してみる。何日かして顔を調べるが、変わっていない。失敗だと博士は絶望する。しかししばらくすると顔の傷はなくなっていた。女を起こし、その結果を知らせる。女は狂喜する。女は美人であった。傷の治った女を見て博士は恋情を抱くようになる。しかし助手の女が博士の情人だった。助手はいたく嫉妬する。治ったと喜んでいたが、また女の首に傷が復活していた。治療するにももう薬がない。これは生きている女から採取するしかない。博士は助手を手始めに、連続女殺人犯となる。

映画の冒頭で女を振った男が外国から戻ってきて、行方不明になっている女を捜し始める。女は博士邸に閉じ込められている。出たくてたまらないが、博士から治療を完全にするためまだ手術が必要だと言われてやむなくいる。ある時逃げ出し、偶然に(偶然すぎる)かつての恋人、今は自分を捜している、に会う。抱き合う二人だが、博士と手伝いの唖の男が、恋人の男を海に突き落とし、女を連れて屋敷に戻る。連続殺人犯を追っている警察と元恋人の男は協力していた。元恋人は助けられる。博士は女たちを殺す場合、怪物に変身していた。(放射能の影響か、原子時代の吸血鬼)殺人犯を追う警察は博士が怪しいと見て、追跡し映画館に追いつめていた。しかし博士は逃げ出し、新しい女を襲うが飼い犬に女は助けられた。博士は逃げる。博士邸で怪物化した博士と元恋人は格闘する。博士は相手を倒し、女を温室に連れていく。唖の男(女に同情していた)に刺されて倒れる。女は元恋人と抱き合い去る。

サローヤン『パパ・ユーア クレイジー』新潮文庫 Papa, you’re cazy 昭和63年

『我が名はアラム』のサローヤンによる、10歳に満たない男の子の語りによる父親との交遊。原作は1957年の発表。正直なところ、こんなに仲の良い、理想的な父親と息子の関係があるのかと思ってしまう。御伽噺といってよい。こんな親子関係が実際にもあるのだろうか。あるだろう。少ないと思うが。

サローヤンの家庭の実際がこの話とは真逆というか、ひどいものだったそうだが、これは作り話であり、だからこそ理想の極を書ける、その特権を最大限生かした作品と言えるかもしれない。翻訳は伊丹十三が、その「哲学」に基づいた「直訳調」で(もちろん本人が書いているように失敗しているが)、この解説に書いてある翻訳に対する考えを、専門の翻訳業者に読ませ、意見を聞きたいものである。伊丹十三は典型的な「昭和オヤジ」で、欧米が圧倒的に優れており、その観点から日本に説教する、という人間だった。その考えに基づいた翻訳である。

2025年8月21日木曜日

悪魔のようなあなた Diaboliquement vôtre 1967

ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、仏、93分、アラン・ドロン主演。街道を疾走する車の中からの映像、その車が事故を起こす。病院でアラン・ドロンは目覚める。長い間、昏睡状態だったが妻は大丈夫と言われて困惑する。妻はいないはず。その妻と称する美人が来る。記憶障害になっていた。その妻と自宅である城館に帰る。中国人の召使がいる。また友人という医師に会う。

記憶が全く確かでない。自分の名も違う名が出てくる。妻に夫婦の営みを求めるが常に拒否される。この城館で静養するうち、危険な目に会う。納屋の二階に上るといきなり床が抜ける。下に落ちたら確実に死んでいた。前に飼っていたという犬も歯向かってくる。打合せの最中、シャンデリアが落ちてきて間一髪難を逃れる。夜な夜な暗示をかける声が聞こえてくる。気が狂う前に自殺しろと命令する。ある夜起きて調べると枕の下のテープレコーダーからと分かる。庭で犬に襲われそうになる。からくも逃げ、その犬が庭を掘っているのを見る。後で調べると死体らしい。妻を連れてきてその死体を見せようとするが、死体はなくなっていた。

最後に真相が分かる。妻と医師は妻の夫を殺していた。それで記憶喪失していたドロンを連れてきて事故に見せかけ殺し、その主人がなくなったことにすればよい。医師は妻がドロンにばらしたと分かるので怒って、絞め殺そうとしたが召使に刺され死ぬ。召使も妻の愛人だった。召使を妻は銃で殺し、医師と召使の相撃ちに見せかけた。警察が来てそう説明する。ドロンはどうか。この家の主人だと答える。医師の暗示のテープレコーダーが発見され、それを聞い聞いている場面で終わり。

2025年8月20日水曜日

恐怖城 White zombie 1932

ヴィクター・ハルぺリン監督、米、67分。ハイチに結婚に来た若い男女は途中気味の悪い集団に出くわす。招かれた屋敷にいると聖職者から早く去った方がいいと忠告される。招いた屋敷の主人は花嫁に恋していた。

それで自分のものにすべくその手段をゾンビを操る男(ベラ・ルゴシ)に相談に行く。ここでゾンビとは後の映画に出てくるような死人の蘇りではなく、仮死状態になっている人間を指す。ルゴシは花嫁をゾンビにして自分の城に連れてくる。花婿の方は花嫁を取り返しに城に来る。ゾンビ化した花嫁は最初は命じられ、花婿を殺そうとするが、ルゴシ他は崖から海に落ちて死に、結婚する二人も元通りになる。

2025年8月19日火曜日

大アマゾンの半魚人 Creature from the black lagoon 1954

ジャック・アーノルド監督、米、79分、白黒映画。アマゾンの奥地で化石の手を見つける。水かきがついている。帰国して報告し、より詳しく調べるために調査団を派遣する。留守を守っていた現地人は殺されていた。半魚人のせいである。

川を進む船、泳ぐため同行している若い女が水に入る。その女の泳ぐ下を、半魚人が並行して水中を泳いでいる。半魚人を見つけた一行は捕まえるべく、痺れ薬を流す。半魚人は一旦捕まったが、逃げその際に博士を襲った。半魚人のせいで調査団は何人もの犠牲を出していた。この半魚人は女に興味があり、女を襲って奪っていく。棲み処に連れていく。後から調査団の者たちがやって来て女を奪い返し、半魚人に発砲する。半魚人は水の底深くに逃げていく。

2025年8月18日月曜日

美しき生首の禍 The brain that wouldn’t die 1962

ジョゼフ・グリーン監督、米、92分、白黒映画。若き医者は野心家で人造の身体を作ることに情熱を燃やしている。電話があり、医者の実験室のある城館に恋人と一緒に行く。

途中で事故を起こす。医者はなんともなかったが、恋人は燃え盛る車の中で瀕死となり、医者は背広でその身体の一部(頭部)のみ持って城館に着く。そこで恋人の首は実験室の、浅い容器の液に入れられ頭を線で繋ぎ、生きている状態になる。恋人は目が覚めて変わり果てた自らの姿を見て、死なせてくれと懇願する。

医者は恋人の胴体を物色に行く。つまり適当な身体を持った若い女を捜して、恋人の胴体にしようと計画する。実験室の扉の向こうからドンドンたたく音が聞こえる。医者がかつて行なった人造人間の出来損ないがいるのである。また医者に協力する男も手を実験にされ、不自由な身体である。医者は車で街の通りを走らせながら、道行く若い女の身体をなめまわしている。会った知り合いにファッションショーに行くよう勧められる。ファッションショーで出てくる女よりも身体がいいのは、医者の知っているモデルをしている女だと言われる。モデルとして写真撮影がされているスタジオに行く。医者は眠り薬で女を眠らせ自分の家に運ぶ。

実験室では医者に恨みがある扉の向こうの怪物を、首だけ女がけしかけ、医者の仲間の男を殺す。医者はモデルの女を連れて実験室にやってくるが、怪物にやはり殺される。火事が起こる。怪物は気を失っているモデルを担ぎ上げ逃げていく。火事の中、首だけ女は周りを見ている。

宇宙戦争 The war of the worlds 1953

バイロン・ハスキン監督、米、85分。火星の生物は住めなくなった故郷の星を離れて、移住先を捜している。地球は最適だった。その火星人の宇宙船が田舎に着陸する。

見に行った三人の男は光線砲で蒸発した。軍隊等が出動してくる。火星人と和睦に出かけた牧師も光線砲でやられる。軍隊がありったけ動員されるが、火星人には歯が立たない。最後の手段として核兵器を使った。それでも火星人の宇宙船には効かない。宇宙船は世界各国にやってきて破壊を尽くす。しかしなぜか急に宇宙船が落下、墜落した。中から現れた火星人も倒れる。音声の解説が入る。地球上の細菌によって火星人は倒れたのだと。

2025年8月17日日曜日

ゴア・ゴア・ガールズ The gore gore girls 1972

ハーシェル・ゴードン・ルイス監督、米、85分。ストリッパーばかり狙う連続殺人が起こる。私立探偵は若い女の記者と共に犯人を捜そうとする。

それでも新たに別のストリッパーたちが殺されていく。殺しの場面はゴードン・ルイスばりの血を沢山使う残酷描写になっている。最後に犯人を突き止める。ストリップ・バーの女給で、主人の気が他の女に移ったので、それを根に持ち女を次々と殺していったのだった。

2025年8月15日金曜日

去年マリエンバートで L'Année dernière à Marienbad 1961

アラン・レネ監督、仏、94分、白黒映画。宮殿のようなホテルに多くの男女が集まっている。その中の一人の男がある女に向かい、去年会った。どこかは覚えていない。それに対し、女は知らないという。男は去年の女との邂逅を語ってみせる。他に女には夫がいる。全編、幻想のような雰囲気の映画である。

丸谷才一『文学のレッスン』新潮選書 2017

丸谷が2008年から明くる年にかけてインタビューを受け、それが本の大半を占めている。聞き手は編集者を経て、大学教授になった者。ジャンル別に論じている。短編小説、長編小説、伝記、批評、歴史、エッセイ、戯曲、詩、である。

短編はなぜアメリカで発達したのか、雑誌が多かったせいらしい。ポーなども雑誌の編集者だった。イギリスでなぜ長編小説が発達したのか。これは18世紀からで、19世紀の小説は有名なものが多いが、18世紀でも『パミラ』とか『クラリッサ』とか『トリストラム・シャンディ』がある。この理由については「識字率の高い中流階級が長編小説を買う余裕があり、また読むのが好きだったということでしょう。」(p.43)とあって、あまり大したことを言っていない。丸谷の言では『アンナ・カレーニナ』を高く買っていない、という意見が目についた。それは登場人物が魅力的でないからという。これは賛成するかどうかは別にして、考えさせられた。『戦争と平和』も丸谷はナポレオンは魅力的だが、それ以外は登場人物を魅力的だと思っていないらしい。ドストエフスキーは登場人物が魅力的でそこがいいらしい。

伝記のところでは例として文学者の伝記をよく挙げている。伝記は社会に名を成した者が対象になるので、政治家や軍人、あるいは実用的な貢献をした学者、下っては実業家の伝記が多く書かれていると思ったが、自分が文学者なので文学者の伝記が気になるのか。次に歴史だが、一般人は歴史を読むとき、物語を読むように読んでいるのではないかと話は始まる。これを読んでまず思うのは、西洋語、例えばフランス語やドイツ語は歴史と物語が同じ言葉である。英語にしたってhistoryとstoryで似ている。歴史を物語のように読むなどという言い方、その発想自体が仏語や独語ではありえない。これにどう触れるのかと思ったら何にも書いていない。なんだと思った。

最後に詩を扱っているが、ここで詩と酒の話になって酒が好きな人はいいが、全く酒を飲まない、嫌いな人も多いはずで、こういった酒のことなど持ち出すべきでない。昭和時代にオヤジ連中がすぐプロ野球の話を始め、野球など興味のない者はうんざりした。文学の話をしているのだから文学だけで話をしてほしい。

2025年8月14日木曜日

筒井康隆『創作の極意と掟』講談社文庫 2017

筒井による小説作法の本である。小説をこれから書こうとする人、また既に職業小説家になっている人も対象に書いたとある。

項目は、凄味、色気、揺蕩、破綻、濫觴、表題、迫力、展開、会話、語尾、省略、遅延、実験、意識、変化、薬物、逸脱、品格、電話、羅列、形容、細部、蘊蓄、連作、文体、人物、視点、妄想、諧謔、反復、幸福、と分かれ、各品目について筒井の考え、理解を述べる。これだけ良く書いたものだと思う前に知らない単語がある、揺蕩など。品目を並べるだけでなく、それについていちいち書いているのだから感心せざるを得ない。

2025年8月12日火曜日

立花隆、佐藤優『ぼくらの頭脳の鍛え方』文春新書 2009

二人の知識人による、読書でいかに頭を鍛えるかの対談とそれぞれが推薦する図書の一覧。二人は多くの書を物している文筆家であるが、かなり異なった志向を持つ。佐藤はいわゆる人文系の知識人で、立花は多くの自然科学書を挙げている。

例えばマルクスやカントに対する評価は全く異なる。佐藤がマルクスを「今こそ、教養としてのマルクス主義、マルクス経済学の意義は大きいと思う」と言っているのに対し、立花は「マルクス思想については、もう学ぶべき対象ではないでしょう」(以上p.39)と述べる。佐藤でよくわからないのは『価値と資本』を新自由主義を把握するのに一番総合的じゃないかと言っているが、自由主義なら立花の挙げているハイエク以外ならミルトン・フリードマンあたりにしたらどうか。『価値と資本』は分析の本であって主義主張の本ではない。また経済学では『価値と資本』と並び古典視されているケインズの『一般理論』の解説では、ケインズのあまりにも常識的な話をしているだけである。本当にこれらを読んでいるのかと思いたくなる。立花のマルクス理解については、p.191以下の『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を論じているところを読むといい。マルクスの礼賛文はよく見るが、マルクスをてんから無視している者は、論じる価値なしとして何も言わない。この立花の文はマルクス批判をちゃんとしているので珍しい。

さらにカントの評価が面白い。立花は『純粋理性批判』をナンセンスと断じ、その根拠として時間と空間をアプリオリとしているが、現代の時間空間概念は変わってしまった、前提がもう今では通じないから砂上の楼閣になっている、と。立花の論がどの程度説得性を持つかどうか、ただ佐藤も反論で論破できているとは思えない。

2025年8月6日水曜日

魔の谷 Beast from haunted cave 1959

モンテ・ヘルマン監督、米、72分、白黒映画。スキー場に来ている悪漢集団。そこで山男なる者に出会い、集団のボスの情婦となっている女は惹かれる。悪漢どもは金塊を奪うため、目くらましに爆破を起こし犠牲者が出る。女は山男と一緒に逃げるつもりだった。

しかしこの近所の洞窟の中で別の女が怪物に襲われた。その後も怪物は山小屋にやってきて人を攫っていく。山男と逃げた女は吹雪を避けるため洞窟に入る。そこは怪物の住処だった。先に怪物に攫われた人らが囚われている。逃げた情婦を追って洞窟に来た悪漢のボスは怪物にやられる。その仲間が怪物を火炎放射器(?)か何かで怪物を焼き殺す。怪物の恰好は、布にたくさんの紐がからまっているようななりである。

川北稔『砂糖の世界史』岩波ジュニア新書 1996

「世界商品」砂糖の取引を中心にした世界史。世界商品とはそれを求めて各国で競争が生じる物。砂糖以外に茶とコーヒー、チョコレートなどがある。いずれも世界の経済の中心であった欧州では栽培できない。それで熱帯等の植民地でそれらを栽培した。

その際、労働力が必要である。その労働力はアフリカから黒人を奴隷として調達し、従事させた。奴隷の貿易と工業製品など欧米での産品との貿易が盛んに行われた。

2025年8月3日日曜日

齋藤孝『読書力』岩波新書 2002

現代は読書しなくていいといった風潮があるが、とんでもない、読書は必要だと著者は力説する。著者はいかに読書が人生に必須か、熱く語る。最近の物分かりの良いおじさんとは全く意識的にか、違う態度をとっている。著者はいかに読書が読む人に効用をもたらすかをいろんな点を挙げ、説明する。

書名の「読書力」という言葉は普通使わないだろう。どういう意味で使っているかを見ていると、読書力があるとは文庫百冊、新書五十冊読んだというものである、とある(p.8)。本書の多くの読者はもっと読んでいるだろう。改めて本書がこれから読書をしようという、普通は若い人であろう、読者を対象としていると分かる。本を読むのはそもそも読書が好きな人が多い。それで同好の士と語るのは楽しいから読書に関する本は売れる。少なくとも海辺で拾った石ころを楽しむ、というような題の本よりかは。(実はAmazonで見たらこのような本が出ていて、それなりの読者がいるとは驚いた。人間の関心は広い)

ただし、既に読書好きになっている人でなく、本書の想定する読者に、どの程度本書が届くか、本書を読む気にさせるか。そのために本書は若い人の読書の指導をする教師(役)にも向けられていると思った。最後に文庫百選として著者が勧める本の紹介がある。これを見てなぜこの本にしたのか、自分なら同じ作者のあの本にする、といったように楽しめばよい。

2025年8月2日土曜日

目玉の怪物 The eye creatures 1967

ラリー・ブキャナン監督、米、78分、総天然色映画。テレビ用の映画らしい。田舎町に空飛ぶ円盤が降りてくる。軍は調べるがパニックを避け、何も一般に知らせない。

カップルが乗っている車は何物かに衝突する。人を轢いたかと思って調べると怪物である。警察に知らせるが相手にされない。されないだけでなく、別の事故の容疑者にされてしまう。別の若者が来て、怪物が倒れているところを見ているうちに、生きている怪物が襲い、若者を殺してしまう。この若者殺しの容疑者ではないかとカップルは言われる。轢いたのは怪物でなく、若者だろうと警察は思っている。否定しても信用されない。

隙を見て警察から逃げ出し、死んだ若者の友人宅に行き、その友人を事故現場に連れていく。怪物たちが多く現れる。友人は怪物にやられそうになる。車のヘッドライトを当てると怪物は蒸発して消えてしまう。カップルはたくさんのカップルの友人を集め、車を連ねて現場に向かう。初めは暗くしておいて、怪物らが現れるとヘッドライトをつけ、怪物どもを退治する。怪物に襲われた先の友人を助ける。

題名は目玉の怪物となっており、原題もそうだが目玉の怪物でなく、全身が多くのできもの、突起物、イクラの寿司のようないでたちの怪物である。

2025年7月31日木曜日

ゴーストキラー 令和7年

園村健介監督、ライツキューブ配給、104分、高石あかり主演。ある殺し屋が殺される場面から始まる。高石はバイトをしている大学生。ある日ころんだ階段で薬莢を見つける。その薬莢は殺された殺し屋の物で、高石がそれを拾ったところから死んだ殺し屋の霊が見え、会話できるようになる。更に殺し屋の霊が乗り移り、高石の体を使って殺し屋が自分の体のごとく使えるようになる。

親友のとんでもない恋人を懲らしめ、また殺し屋が自分を殺した者を殺さない限り成仏できない、といい協力を頼まれる。結局のところ、高石は殺し屋をつけ狙う反社会組織と対決することになる。女の子と悪人の体が入れ替わる映画があったし、ミッシェル・ロドリゲスの映画で女の体に男が乗り移る映画があった。それらと枠組みは同じだが面白い映画になっている。

2025年7月30日水曜日

鴻上尚史『人間ってなんだ』講談社+α文庫 2022

演出家の鴻上が雑誌に連載したエッセイの中から「人間ってなんだ」という観点の文を集めたもの。著者は演出家だから人と付き合わざるを得ない。それでいつも相手の立場になって考える練習をしてきたそうだ。またシンパシーの他にエンパシーという言葉が出てくる。相手の立場になってその考えを推察するというか。相手に感情移入する必要はない。

エッセイの部ではイギリスの演劇学校に行った。そこでの体験がある。また無意識の差別感情を指摘する文もある。更に著者が学生時に黒澤明の『影武者』のオーディションを受けた経験。演出家蜷川幸雄の思い出もある。

2025年7月29日火曜日

金星怪獣の襲撃 新・原始惑星への旅 Voyage to the planet of the prehistoric women 1968

デレク・トーマス監督、米、79分。金星に向けて飛び立ったロケットから通信が途絶える。新しいロケットを飛ばし救出とできれば探検。

金星には白人の若い女たちが何人かいてそれらが金星人である。救出隊は行方不明になっていた先人たちを助ける。金星には守り神テラという怪獣がいて、翼竜である。海に浮かんだ探検艇を襲うが、銃で退治する。死んだテラを見て金星人らは復讐を神に祈る。火山が噴火し溶岩が流れる。大雨が降る。探検隊のロボットが何とか隊員たちを溶岩から救うがロボットは倒れ、溶岩流に流される。助かった隊員たちはロケットで金星を脱出する。

金星人は自分たちの神テラは復讐も出来なかった、だめな神だと言って破壊する。代わりに溶岩で溶けた地球人らがおいていったロボットの残骸を新しい神として崇める。

2025年7月27日日曜日

勢古浩爾『定年後に見たい映画130本』平凡社新書 2022

市井人なのだが、なぜか多くの本を出している人。映画好きには古典映画が好きな人と、新しい映画を主に鑑賞の対象とする人がいる。著者は後者である。

最後の章に著者のベスト15がある。その前に北野武のベスト10が書いてあるのだが、北野の選択した映画をコケにしているのは納得できない。北野は古典的定番映画を多く挙げており、「天井桟敷の人々」「2001年宇宙の旅」「時計じかけのオレンジ」 「七人の侍」などがある。この著者は北野のベスト映画の多くを見ていないと言い、「2001年宇宙の旅」「時計じかけのオレンジ」を愚作ではないかと断じる。愚作と感じるのは個人の勝手だが、理由を書いていない。嫌いな物を好きになる必要はないが、愚作と書くならその理由を書くべきではないか。本にして出版しているのだから。北野のベスト10の最後に「鉄道員」とあるが、ピエトロ・ジェルミか高倉健の出ている映画か明記してないのも不親切ではないか。

著者のベスト15は次のようである。「七人の侍」「切腹」「逃亡地帯」「夜の大捜査線」「セント・オブ・ウーマン/夢の香り」「カリートの道」「アポロ13」「ブラス!」「グリーンマイル」「リトル・ダンサー」「アトランティスのこころ」「冒険者たち」「ワールド・オブ・ライズ」「ジャンゴ 繋がれざる者」「ラ・ラ・ランド」。「カリートの道」の階段場面で「アンタッチャブル」もその基の「戦艦ポチョムキン」についても言及がない。「冒険者たち」ではジョアンナ・シムカスが好きだと言っているのに、「若草のもえる頃」について何も述べていないのはなぜか。もし見ていないのなら、こんな本を出すべきではない。

2025年7月26日土曜日

安部公房、三島由紀夫、大江健三郎『文学者とは何か』中央公論 2024

標記三人の作家による、鼎談及びそのうち二人に対談を集める。

内容は「文学者とは」三人、1958、「現代作家はかく考える」三島、大江、1964、「短編小説の可能性」安部、大江、1965、「二十世紀の文学」安部、三島、1966、「対談」安部、大江、1990、である。

ともかく三島の頭の切れるのには感心する。最初の鼎談は本当に面白い。他の対談は理解できていないところがある。一番長いのは安部、三島による「二十世紀の文学」であるが、これなど特に難しく感じた。最後1990年の安部、大江の対談で安部が三島の思想は嫌いだが人格は好きだと言っているのが心に残る。

2025年7月25日金曜日

勢古浩爾『それでも読書はやめられない』NHK出版新書 2020

市井の読書人、勢古浩爾、なぜかやたらに本を出している(出せる)人。読書に関する本を沢山出している。本書は前半が著者の読書遍歴でそれが特徴。自伝は好きなのでこれも一種の自伝だからその点面白く読めた。今は読書人であるが、子供の時から本の虫だったわけではない。

子供時代は漫画を読んでいた、スポーツをやっていたとある。20歳を過ぎてからある日突然『チボー家の人々』を読み始めたという。その後、文芸評論、日本や世界の名作文学を読み、哲学にはまった。しかしながらほとんど全く哲学書は理解できなかった、読んでも分からかった、と書いてある。このあたり、多くの読書家も同じような経験があるのではないか。ともかく数千冊これまで読んだと書いてあるが、ある時期までは大した読書家ではない。読書歴だけでなく主張を書いている。

その後は有名な「読書人」を論じている。立花隆、丹羽宇一郎、出口治朗、齋藤孝、佐藤優、成毛眞、森博嗣、又吉直樹らである。あとは著者が勧める本の紹介である。

2025年7月23日水曜日

金星ロケット発進す First spaceship on Venus 1959

クルト・メーツィッヒ監督、東独、波蘭、78分、総天然色。制作当時より20年以上未来の時代。砂漠で発見された残骸。調べて金星から来た物らしい。中に録音機があったが何を言っているか専門家も不明。ロケットで金星まで行く。

乗組員は国際色豊か。紅一点の医者は谷洋子演じる日本人。途中で月基地からの連絡あり。流星群にぶつかり、これが途中の事故。金星に着く。探検車で探索。またオメガという戦車型の小型ロボットが電子頭脳で先導する。穴に落ちたり、小型の虫のような生物か、あるいはロボットか不明の物を発見。泥状の流体が乗組員を襲おうとする。電子銃で撃退。後にロケットに帰ってからこれはまずかったと言われる。

言語も解読できた。金星人は地球を襲うつもりだった。しかし事故が起きて自滅した。電子銃を撃ったため、爆破を引き起こすらしい。これを止めに行くが、その間、ロケットは制御がきかなくなり、発射してしまう。止めに行った3人は犠牲になる。地球に帰還して記者会見をする。

2025年7月20日日曜日

大岡昇平『無罪』小学館文庫 2016

大岡昇平が主にイギリスの、無罪となった裁判物語を13編書いている。当初の発表は1956年から1962年にかけての雑誌上である。原典は E. Villiers, Riddle of crime, 1928という、判決が無罪となった裁判読物だそうだ。原典の発表時期を見ても分かるように、かなり古い時代の事件が集められている。

知っていたのはここでは「黒い服の男」という題で収められている、マドレイン・スミスの事件と「サッコとヴァンゼッティ」事件だけである。古い時代の犯罪なので、事件そのものだけでなく、その当時の現在とは全く異なる時代状況が伺われ、それに興味を持つ。

廣松渉、五木寛之『哲学に何ができるか』Lecture books 1978

哲学者、東大助教授の廣松渉と小説家の五木寛之の対談である。哲学についてのそもそも論でもしているかと思ったら、意外と哲学史についての話が多い。普通、哲学を勉強しています、という場合と同様に、過去の哲学者はああだこうだという話である。書名のような哲学に何が出来るのか、といった議論が中心でない。

更に3部構成で、第3部は「マルクス主義の行方」である。この本が出た1978年当時はまだマルクス主義に希望あるいは幻想を持っている人が多かったのだろう。今でも幻想を持っている人はいるが、少数になっているとしか思えない。あるいは全く現実の変化を見てなく、自分の信念しか頭にない人だろう。現在ではマルクス主義は完全に破産している。だから3部に辿り着いたら読む気が失せ、止めた。この廣松渉という学者はマルクスが専門らしい。

2025年7月17日木曜日

地球最後の日 When worlds collide 1951

ルドルフ・マテ監督、米、83分、総天然色。惑星とその衛星が地球に向かっているので、ロケットを作って少数の人間が地球から脱出を図る映画。

観測した地球衝突の可能性を確かめるため、天文台の教授はニューヨークの博士にそのデータを送る。そのため飛行士を雇う。飛行士はデータを博士に渡す。博士は衝突が避けられないと確信する。博士の一人娘も父親を助けて研究しており、飛行士に惹かれる。元から婚約者の医師がいたが、そちらとは疎遠になる。

地球と他の天体の衝突という博士の発表は、当初はまるで信じてもらえなかった。しかし天体は近づいてくる。脱出用のロケットの建設には金がかかるが足りない。億万長者がお金を出すので乗組む者は自分が選ぶと言い出す。結局億万長者一人の搭乗は保証された。天体の地球接近で地震、津波その他の天災地変が起こる。ロケットの建設は全く遅れている。

発射間近になり、乗せろと群衆が襲ってくる。博士は億万長者に、若い者が乗るべきだと言い、自分らは乗り込まない。からくもロケットは発射し、その後地球は衝突で破滅する。ロケットは天体に近づき、降り立ってここに新天地を築くとなる。

第十一号監房の暴動 Riot in the cell block 11 1954

ドン・シーゲル監督、米、80分、白黒映画。刑務所での暴動を描く映画。某刑務所で第11号監房の囚人たちが複数の刑務官を捕える。刑務所長に待遇改善を訴える。刑務所長は以前より上に対し、刑務所の改善を要望していたが、予算や人員がないまま来ていた。

刑務所組織の長官が来て、強硬な手段をとるよう所長に言う。長官は囚人らと対面した時にナイフを投げつけられ、負傷した。他の監房でも暴動が起きる。刑務所側は州の警察組織に出動を要請する。警察が囚人らに催涙ガスを撃つ。一人の囚人は死亡した。囚人らは囚人を殺すなら捕えている刑務官を殺すと脅していた。囚人の代表が改善案を書き、広く知らせるため報道機関も呼ぶよう要望する。改善要求を受け入れるかどうかは所長の判断だけではできず、知事の同意も必要と言われる。

最終的に知事は同意し、捕まっていた刑務官たちは解放される。囚人たちの要求が通ったのは新聞でも報道された。しかしその後、首謀者の囚人は裁判にかけられることになり、30年の刑が下されるだろうと所長から告げられる。

2025年7月15日火曜日

誘拐報道 昭和57年

伊藤俊也監督、東映、134分、萩原健一、小柳ルミ子ほか。実際に関西で起きた誘拐事件を元に、読売新聞社が出した原作を、映画化した作品。誘拐報道という題だが犯人の萩原やその妻の小柳、更に被害者家族を巡る部分が主であり、特別報道機関に焦点をあてた作品でない。

私立の学校に通う幼い少年が誘拐される。3千万円寄こせと電話がある。犯人の萩原の家は金に窮していた。経営していた喫茶店を騙し取られた。更に娘を私立の学校に通わせている。この娘と誘拐された男子とは仲良しだった。萩原は誘拐した少年を車のトランクに入れあちこちに行く。海岸沿いの村にある実家に帰り、母親に会ったり昔の恋人と行為に及んだりする。電話をかけて金を用意させるが、警察が張り込んでいるようで萩原は逃げ、なかなか被害者家族とは会えない。最後の方でトランクにいれた男子が死んだではないかと驚き、顔をたたく。結局現実にそうであったように萩原は捕まる。萩原が犯人と知り、妻の小柳が自分が金のことばかり言っていて悪かったと泣く。また二人の娘も健気に振舞う。

2025年7月14日月曜日

大内秀明、野坂昭如『マルクスを読む』Lecture books 朝日出版社 1979

副題に「資本論講義」とあって資本論の内容を、経済学者の大内が作家の野坂に講義する書かと思った。何しろ難解な『資本論』であるから、講義形式の説明であれば分かりやすいかと期待したのである。

しかし期待は裏切られた。資本論についての議論でなく、ほとんどは野坂が疑問に思う経済の実際について質問する。それに対して大内の回答はマルクス経済学者であるから、きちんと答えられない。香港では製造業など無いのに香港ドルが強いのはなぜか、という野坂の質問に大内は、さて、難しい問題ですね、というだけで問題を逸らしている。野坂も質問するより、自分がよく喋りたいようで、戦後などの自分の経験を語ったりしている。途中で投げ出してしまった。

2025年7月11日金曜日

ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』福島正実訳、角川文庫 昭和50年

角川文庫の『不思議の国のアリス』は現在は河合祥一郎訳で出ているが、その前、昭和50年に出た福島正実訳のアリスである。一般的にいって挿絵は重要である。特にアリスについてはジョン・テニエルの挿絵が正典となっており、誰でもまず最初にこのテニエルの挿絵に親しむだろう。

しかし他の挿絵もある。本書、福島正実訳の角川文庫では、我が国の代表的な挿絵画家の和田誠が、表紙及び中の挿絵を描いている。それが本書の一大特徴である。なお福島正実訳の前の角川文庫版アリスは、岩崎民平訳であり(昭和27年のち改版)、テニエルの挿絵であった。ただ表紙絵は広みさおという人の絵であった。

なお『鏡の国のアリス』の訳も現在は河合祥一郎であるが、以前は岡田忠軒訳(昭和34年)だった。この岡田訳の挿絵はやはりテニエルだったが、表紙絵は広みさおであった。不思議の方は岩崎訳、福島訳、河合訳と変遷してきたが、鏡の方は岡田訳、河合訳と一度しか変わっていない。

福島訳の不思議の国のアリスが出た時であろうか、岡田訳の鏡の国のアリスも表紙絵だけ、和田誠のものに変えた。不思議の方は表紙も中身も和田誠の絵だが、鏡の方は表紙絵だけ和田で、中の挿絵はテニエルのままだった。訳が変わっていないせいだろう。

個人的には鏡の国のアリスは昔、岡田訳の角川文庫を買い、それで広みさおの表紙絵にずっとなじんできた。だから今でもそれが自分には懐かしい。それでわざわざ広みさおの表紙絵である、岩崎民平訳の不思議の国のアリスまで古本で購入した。

The witch 魔女 2018

パク・フンジョン監督、韓、125分。特殊研究所で超人少年少女を作っている。そこから脱走する子供たち。追うが一人の少女は追手をかわし、ある農家の夫婦に助けられる。そこの子供として育つ。大きくなる。

家は貧乏である。アイドルオーディションに出る。特技として魔術を見せる。それをテレビで見た研究所の者たちは逃げた少女だと分かった。実際には少女の方から研究所の連中をおびき寄せるため、わざと公開して見せたのだという。少女と一緒に育てられた少年、あるいは研究所の者らが戦う。少女は相手方を倒す。

2025年7月8日火曜日

女は二度生まれる 昭和36年

川島雄三監督、大映、99分、若尾文子主演。若尾は芸者である。山茶花究や山村聡といった馴染みの客がいる。寿司屋の板前のフランキー堺と好き合っている。その他、大学生の藤岡潤に時々、道で会い、惹かれている。若尾は芸者を辞め、バーに勤めるようになる。

山村の二号となり、アパート暮らしをする。山村が病気で入院すると妻子に隠れて見舞いに行く。山村が死ぬと山村の妻がやってきて指輪を返せとか百万円渡したろうとか、意味不明な文句を言うので喧嘩になる。社会人になった藤岡が客としてやってきて喜ぶが、自分に客の相手になってくれと言われがっかりする。

映画館で知り合った少年と信州に旅行に行く。列車の中で、結婚したフランキー堺が妻子を連れているのに出くわす。少年を好きなところに行かせてやり、若尾は一人で駅で佇む。

埴谷雄高、小川国夫『闇の中の夢想』Lecture books 朝日出版社 1982

小説家の埴谷と小川の映画対談である。普通このLecturee bookシリーズは専門家に素人が教えを乞うといったものが多いのだが、本書は例外的で、埴谷が昔みた映画の思い出を語り、時々、小川が自分の思い出や意見を言うという本である。映画の特色や映画の見方といった映画論の部分がないわけでもないが、ほとんど老人の思い出話である。

なぜこんな本になったのか。これは出版社の担当がぜひ埴谷と小川に対談をしてもらいたいとねばり、それで実現したのだそうだ。埴谷が昔どんな映画を見ていたのか、に興味があれば読む価値はあるのだろう。埴谷という人は昔はかなり大物というか、意見を聞きたがっている人が多かったらしい。

愛と殺意 Cronaca di un amore 1950

ミケランジェロ・アントニオーニ監督、伊、115分、白黒映画。富豪から妻の過去を洗ってくれと頼まれ、私立探偵が探る。妻は夫に飽きている。以前から好きだった男と一緒になりたく思う。ただ相手の男は貧乏で今の贅沢な生活は捨てられない。

探偵は妻の故郷で次の事実を知る。以前、隠れて会っている男は別の女と婚約中だった。ところがその婚約相手の女がエレベーター事故で死ぬ。その場に女と男は立ち会っていた。殺したのか、事故を助けなかったのか。今密会中の男と女は誰か付け回していると分かる。昔の事件を警察が調べているのか。恐れおののく。最後に探偵は富豪に妻は情事をしていると報告する。女は男と離れられない。しかし男は女から去っていく。

2025年7月6日日曜日

河野龍太郎『日本経済の死角』ちくま新書 2025

近年の日本経済はあまり好調とは言い難い。その原因は何か。本書によるとそれは実質賃金が上昇していないからだと言う。日本経済の生産性が1998年から2023年までに3割上がっている。それなのに実質賃金は横ばいのままである。つまり企業が内部留保を貯めこんで、労働者に回さない。それで賃金は上がらない。

これまではデフレで、賃金が上がらないのは正当化されていたが、企業は儲けているのに労働者に回さず、しかも近時はインフレになってきている。それで実質賃金は下がっている。日本全体が貧しくなっている。この主張が繰り返し語られ、日本経済が成長しなくなっている元凶と言っている。

2025年7月4日金曜日

山之内正『ネットオーディオのすすめ』講談社ブルーバックス 2024

著者はオーディオ評論家で、以前にもネットオーディオの入門書を書いているらしい。それは読んでおらず、本書が初めての本である。

書名はネットオーディオとあるが、むしろ最近の流行を反映してストリーム配信、定額音楽配信(よくsubscriptionの略だろうがサブスクなる言葉を見かけるが、この言葉を見ると、事前にまとまった金額を振り込むと雑誌や新聞が送られてくる制度を思い出す世代なので使いたくない。subscriptionとは事前に金を支払い、一定のサービスを受ける仕組みを指すのだろう)についての記述が主である。

書名のネットオーディオとは狭義のネットワークオーディオでなく、インターネットを利用したオーディオ全体を言っているようだ。狭義のネットワークオーディオとはNAS(音楽サーバー、外付けHDD)にCD等から音楽を放り込み(リッピング)、またはインターネットから音楽をダウンロードし、やはりNASに入れる。これをタブレット等にあるアプリで操作し、好きな音楽を選んで再生する。なりよりも簡単に音楽が聞け、ジュークボックスに例えた話があったがその通りである。後、PCオーディオなる言葉もあった。パソコンに入っている音楽を聞くのだが、そのままアンプにつないでも音が汚いので、DAC等を通してつなぎ、それからアンプで再生する。

随分昔から、先進国で音楽鑑賞の媒体としてCDがいまだに主流なのは、日本くらいだと言われていた。それでは外国では何が主流なのか。定額音楽配信らしい。そこでこの本では、今日本で聞ける「高音質」の定額音楽配信のうち、Amazon music unlimited、Apple music、Qobuzの説明が書いてある。世界的に定額音楽配信を流行させたのはSpotifyで、最初に簡単に触れているが低音質だとして一蹴である。それでこの三者の音楽配信を書いたのち、ROONについて、あと立体音楽(昔の4チャンネルもどき)や映像配信についても触れている。

2025年6月28日土曜日

海底から来た女 昭和34年

蔵原惟繕繕監督、日活、76分、白黒映画。海辺近くの別荘に帰った川地民夫はヨットに少女が乗っているのを見つける。水着姿で魚をとっているらしい。最近、海で死んだ者がいた。川地が少女に誘われて海底に潜ると死体があった。また鱶が遊泳している。そこの場所は誰にも言うなと少女の口止めで、川地はみんなに知らせるが、場所は忘れたと言うだけだった。少女を見た村人の中には怪しい目つきで眺める者がいた。

海に面した崖の上にある別荘に少女は上ってくる。同じ部屋で夜を明かす。崖の上から海に飛び降りて戻る。川地が友人らと山に行っている間、少女は別荘に来て、川地の兄に遭遇する。兄は放蕩者で、少女を口説き、明くる日海にヨットで連れていく。嵐になり兄は遭難する。川地は数日後、少女に再会する。村人たちは少女は鱶の化身だと言う。過去の災難時にも同じ少女が現れたという。川地は少女とヨットの上で再会を約束する。川地が寝すぎた間に村人たちが待っていて、現れた少女を銛で突く。川地が来た時はすでに血を船縁に残し少女は消えていた。川地は都会に帰る。帰る前に気を起こし、海に潜ってかつて少女と泳いだ場所を進んでいく。

2025年6月27日金曜日

養老孟司『バカの壁』新潮新書 2021

かつてのベストセラー、当時も読んだはずだが、再読。何でも自分で理解できる筈はない。理解できないのは、そこにはバカの壁があるから。書名は自分の知識、理解の限界を指すらしい。誰にでもバカの壁はある。だから話せば分かると思うのは間違い。分かるにしても夫々の個人毎に癖、制約がある。

個性を伸ばせという教育は誤り。他人との共通理解の方が重要。他人を理解できるようにすべき。意識と無意識がある。一元論と二元論がある。一元論は原理主義につながる。自分だけ、自分たちだけ、正しいは良くない。最後の方では経済のあり方、農業と加工業などを論じる。自然から離れている現在を批判しているように思える。正直言って十分理解できたと思えない。

2025年6月26日木曜日

妻は告白する 昭和36年

増村保造監督、大映、91分、白黒映画、若尾文子主演。若尾は夫殺しの容疑で裁判にかけられる。登山中、自分を含め落ちた者の中で、下にぶら下がっていた夫へのザイルをナイフで切り、転落死させたという疑いである。過去、夫(小沢栄太郎)と若尾は不仲だった。若尾が離婚したいと言っても小沢は聞いてくれない。

学者である小沢のところに出入りする製薬会社の川口浩は若尾と好き合うようになる。夫には巨額の生命保険がかかっており、夫を殺害したのではないかと告訴されているのである。川口には婚約者がいたが、若尾への同情、ひいては愛情から、婚約者と疎遠になる。

無罪判決が下る。若尾は釈放され、保険金も降りる。若尾からの連絡で川口が若尾の新宅に行くと豪華なアパートであった。調度品も新品を揃えている。驚く川口に若尾は保険金で買ったと言い、お祝いをしようと迫る。川口は拒絶する。若尾は小沢を殺すつもりでザイルを切ったと告白する。驚愕する川口は若尾を残してそこを去る。後日、川口の会社に若尾がやってくる。アパート関係は全部処分した。だから自分と会ってくれ、一年で一回でもとすがる若尾を振り切って去らせる。若尾は洗面所で毒薬による自殺を遂げる。

ロスト・ワールド The lost world 1925

ハリー・O・ホイト監督、米、68分、無声映画。コナン・ドイルの同名の小説を元に作られた。ロンドンでチャレンジャー教授は恐竜がまだ生存していると演説し、嘲笑を浴びる。以前、南米の台地に行った男は恐竜が現れ、そこに取り残された。その娘は父を捜しに南米に行きたいと言っている。娘のスケッチには恐竜が描かれてあった。費用は新聞社の記者が同行し、独占記事にするという条件で、その社が出す。

南米に着く。台地に上り、恐竜群を発見する。恐竜同士の戦いがある。娘の父親は亡くなっているようだ。猿人がいて邪魔をする。台地から降りる際に隊員を落とそうとするので銃で撃つ。動けなくなったブロントサウルスをロンドンに連れて帰る。劇場で見せる予定だった。恐竜を船から降ろす際、箱が落ちて壊れ、逃げ出す。ブロントサウルスは街中で暴れだす。建物を壊す。塔橋に来て橋の真ん中で橋が崩れ、ブロントサウルスも川に落ちる。そこで終わり。

スティーヴンソン短篇集(『マーカム・壜の小鬼』)岩波文庫 2011

『その夜の宿』A lodging for the night 1877  詩人で犯罪者でもあったフランソワ・ヴィヨンの物語。1456年のクリスマス、ヴィヨンは仲間が殺人騒ぎを起こし逃げる。入れてもらった家での老人との対話。『水車屋のウィル』Will O’ the mill 1878  山中に住む少年ウィルは平野に都会に出たくてたまらない。叶わぬまま成人し、牧師の娘を見染める。結婚するはずだった。しかしウィルは後に心を変え、結婚は取り止めになる。傷心の娘は他の者と結婚し、まもなく死ぬ。ウィルは生まれた場所に留まり、老年になると尊敬されるようになる。高齢で死ぬ。

『天の摂理とギター』Providence and the guitar 1878 旅回りの芸人夫婦がある町にやって来る。許可を与える警察署長から嫌がらせを受ける。その後、イギリス人の学生に会い、宿に行く。『ねじれ首のジャネット』Thrawn Janet 1881 村の牧師が若い時に遭遇した怪奇譚。みんなにいじめられているジャネットを牧師は助け、牧師館で使う。後に牧師は黒い大男に出会う。ジャネットが首を吊って死んでいた。ジャネットは魔女になり焼死する。黒い男は悪魔だった。なぜ牧師が悪魔に魅入られたか不明。

『マーカイム』 Markheim  マーカイムは骨董店に来て、店の主人を殺す。物色しようとしていたらある訪問者が来る。その男との会話が中心で、訪問者はマーカイム自身の分身、良心だった。マーカイムは後から来た女中に警察を呼ぶよう言う。『壜の小鬼』 The bottle imp 1891 はバルザックの『あら皮』やジェイコブズの『猿の手』と同列の作品。何でも願いが叶う、それには不幸が条件としてついてくる壜がある。本小説では主人公には婚約者がいて助けてくれる。

『声たちの島』The isle of voices 1893は『壜の小鬼』と同様の南海物。結婚した若者は魔術師である義父の手引きで、ある島に行く。そこではお金を入手できる。後に若者が行った島の人々は自分に親切にしてくれる。別の若い女と婚約する。その女が島の者は若者を食おうとしていると教える。逃げようとしたら声だけ聞こえる場所に行く。ここが以前、義父とお金を取りに来た場所だと知る。そこから初めに結婚した相手の家に魔法で戻る。「千夜一夜物語」に出てきそうな作品。

2025年6月24日火曜日

機動捜査班 昭和36年

小杉勇監督、日活、67分、白黒映画。覆面パトカーで街を回っている捜査班。キャバレーで暴力団の男が外から銃で撃たれる。担ぎ込まれた病院から逃げ出す。警察は暴力団同士の戦いであろうと推察する。

刑務所から釈放された男(内田良平)は一緒に出た丹波哲郎と共に妹のいる家に帰る。元いた暴力団に行くと今は勢力が落ちているらしい。病院から逃げ出した男もここの団員である。丹波がここで働きたいと言う。丹波は相手方の暴力団のところに行っても同様に、入れてもらいたいと言う。

相手方の暴力団は麻薬を扱っている男を捕まえる。ある会社の人間で、そこの会社に乗り込み、麻薬売買に関与し金をせしめようとする。最初に捕まえた会社員を殺す。警察は死体の銃弾から、暴力団が撃たれた際の物と同じと知る。暴力団はチンピラに罪を着せようと殺し、自殺に見せかけようとした。暴力団同士の対決が決まった。丹波は暴力団、警察に通報し、両者を衝突させようとしていた。警察は待機し銃撃が始まった時点で介入し、双方現行犯で逮捕する。これで暴力団は共に壊滅し、漁夫の利を得ようとしていた丹波も、双方から通報されており、警察に捕まる。

ブロードウェイ Babes on Broadway 1941

バークレイ監督、米、118分、白黒、ミュージカル映画。ミッキー・ルーニイ主演、相手役としてジュディ・ガーランドが出ている。ニューヨークのレストランでルーニイは仲間二人と歌や踊りで稼いでいる。その日来ていた女の客から大金をもらい、あくる日来いと言われる。行ってみると女は芸商売に関わっている者で、大物のプロデューサーのオーディションを受けろと言われる。内緒だと言われるが、芸能人志望が集まっている食堂で言いふらす。そのためオーディションは大勢押しかけだめになる。

食堂で泣いている女(ジュディ・ガーランド)に会う。慰め、お互いに惹かれ合う。ガーランドは貧しい子供たちの支援をしている。ルーニイは自分がデビューするのばかり考え、子供たちの支援を後回しにするので、ガーランドとやや不仲になりそうになる。ようやく古い劇場を借りて公演が出来ることになった。ところが消防法違反というので始まろうとするときに中止になる。あれやこれやで最後は大物プロデューサーにも認められ、大劇場で公演を行なう。

2025年6月23日月曜日

噓をつく男 L'homme qui ment 1968

アラン・ロブ=グリエ監督、仏伊チェコスロバキア、95分、白黒映画。舞台はチェコスロバキア、戦中と戦後が相互に入り混じる。

森の中を逃げている男。ナチスと思われる兵隊らが銃で撃つ。男は倒れる。まもなく起き上がり、ボリスと名乗る。村に着く。戦後という設定になっている。英雄ジャンの帰りを待っている。ボリスはジャンの情報を持っているという。ジャンの妻等身内のいる家に行く。そこで妻や女中といい中になろうとする。ジャンの行方は安全のために秘密にしていると当初は言っていたが、後にジャンをナチスから助け出し、匿おうとしたがジャンは殺されたと言う。映画は時間が前後する。最後にはジャンが現れ、ボリスを銃で撃つ。その後もボリスは生きているようだ。

2025年6月21日土曜日

内田舞、浜田宏一『うつを生きる』文春新書 2024

精神科医と経済学者の対談である。内田は若いうちにアメリカに渡り、今もそこで小児精神科医をしている。また浜田は経済学者として東大で教職の後、イェール大学、更に日本の経済政策にも関与した。ここで浜田は自分が鬱であり、これまでの病歴を語る。内田とは内田の母親との付き合い以来であり、通常の医師と患者よりもより親密な関係である。

浜田は有名な学者であり、日本の官庁で経済政策に携わった際に顔を知っていたが、鬱を病んでいるとは知らなかった。それだけでなく、息子が20代で鬱による自殺という不幸に見舞われているとは全く無知であった。ここで浜田が自分の病気を語り、医師である内田がそれに対して専門家として説明を加えるという形で対談は進む。医学も経済学も実際の治療、政策に不十分な知識で立ち向かう実践的な学問であるという話があった。

2025年6月20日金曜日

令嬢ジュリー Froken Julie 1951

シェーベルイ監督、瑞典、89分、白黒映画。ストリンドベリの有名な戯曲を元に映画化。19世紀のある貴族の娘ジェリー、館に仕える召使に男がいる。夏の祭りの際の踊りでジュリーは気まぐれに召使と踊ったりする。後にジュリーは召使と一夜を共にする。今後どうするか。外国に逃げてホテルでもしようかと計画を話したりする。

ジュリーの生い立ちの回想になる。父親は平民の娘と結婚した。母はかなり先端的な思想の持主だった。ジュリーは小さい時、男の子のように育てられた。館が火事で燃え、その費用の工面は母親がした。母親の金を貸してあった者から取り返したのである。母は貞淑な妻ではなかった。父親は自殺未遂をする。夜の間、夢想的な話をしていたジュリーと召使、もう夜が明け、父親が帰ってくる。もう妄想にふけっている暇はない。召使は召使に戻り、行き場のなくなったジュリーは自ら果てるしかなかった。

2025年6月19日木曜日

関心領域 The zone of interest 2023

ジョナサン・グレー監督、米英波蘭、105分。アウシュヴィッツ強制収容所に接して暮らす一家の日常が大きな割合を占める映画である。収容所に勤務する夫(ヘスという設定)を支える妻、また子供たちが多くいる家庭である。妻はここでの生活をいたく気に入っており、夫に転勤命令が出た時に抵抗する。

もっとも平和な家庭生活の描写ばかりでなく、収容所や別の場所での高官たちのユダヤ人処分を巡る会議の場面もある。映画の最後で収容所内部で、掃除する人の背後は死んだユダヤ人たちの靴などの遺物がぎっしり詰まっているなど、そういう意味で訴える場面もある。

壜の小鬼 The bottle imp 1891

ハワイの若い男がある壜を買い取る。その壜には悪魔が住んでいて、持ち主の願いを叶えてくれる。しかし不幸が訪れる。また手放す時は買った値段より安くしなければならない。壜の事情を話す必要もある。買い取った男は夢であった、立派な邸宅を手に入れる。しかしそれは叔父が死んだせいで土地がまず手に入り、更に叔父の遺産で邸宅を建てられたからであった。

男は若い女を見染める。相手も好きになってくれた。しかし男の体じゅうに斑点が多く出る。不死の病にかかったのだ。治す手だてはあの壜をまた見つけることだった。なんとか捜す。捜して治そうとするが、売り渡さなければ、不幸が襲う。しかも値段が既に最低の価格になっていた。絶望するが、妻はフランスなどではもっと低い貨幣の単位がある、そう言って仏領に渡る。

壜の悪魔で不幸になるのは嫌だから売れない。妻はある老人に頼んで低い値段で買ってもらい、自分がそれより低い値段で買い取る、という条件で夫から壜を買い取る。病気は治り、夫は狂喜する。しかし妻が今度は壜の所有者になった。他の者に売るが、その男は売らないというので、ようやく夫婦に幸せが訪れる。(岩波文庫、2011年)

2025年6月18日水曜日

霊魂の不滅 Körkarlen 1921

シェーストレーム監督、瑞典、93分、無声映画、ラーゲルレーヴの『幻の馬車』の映画化。大晦日の夜、救世軍に勤める若い女は死の床にあった。気にかかっていた男、デヴィッドを呼んでくれと頼む。デヴィッドは仲間と外で酒を飲んでいてふとした喧嘩で死ぬ。去年死んだ男の霊が、大晦日に死んだ者は一年間、死者の霊を集める馬車の御者をしなければならないと教える。その役がデヴィッドになる。

デヴィッドは放蕩者で、家族にもつらくあたっていた。死んだデヴィッドの霊は死の床にある若い娘の元に行く。娘はデヴィッドのために祈って死ぬ。デヴィッドの霊は我が家に行く。絶望した妻は自殺しようとしていた。デヴィッドの霊は妻には見えない。しかし奇蹟が起こり、デヴィッドは生き返り家族を抱きしめる。

2025年6月17日火曜日

歓喜に向かって Till Gradje 1950

ベルイマン監督、瑞典、101分、白黒映画。妻を失うところから始まり回想になる。オーケストラのヴァイオリン奏者の男と女が一緒になる。男の方は非常にひがみ根性がひどく、ともかく相手をけなさずにはおかない。指揮者の役は『不滅の霊魂』の監督、『野いちご』の俳優でもあるシェーストレームが演じる。

妻になる方はかつて結婚に失敗しており、結婚を望んでいるが、男はともかく攻撃的である。それでも一緒になる。その後、自己主張の強い夫は協奏曲で独奏をやるが間違いをやらかす。妻にあたる。また他に女を作っている。子供もできているのに、これでは夫婦生活が出来ないと言い、妻は子供を連れて出ていく。後によりが戻る。映画の最後は夫が妻の事故死の連絡を受け、その後、ベートーヴェンの第9交響曲の歓喜の合唱を演奏するところである。

2025年6月16日月曜日

女家族 昭和36年

久松静児監督、東宝、94年、総天然色。大阪郊外の家は五人の女家族である。母親が三益愛子、娘が三人で長女が新珠三千代、次女が久我美子、三女は知らない女優、更に未亡人である新玉には幼い娘がいる。

久我に見合い話がある。見合い当日、久我はどこかに失踪してしまい、ついていった三女が見合い相手の高島忠夫と意気投合し、ぜひ三女と結婚したいと高島の方から言ってくる。久我は既婚の男と恋愛関係にあった。相手は妻と別れるとこれまで口約束はあったが、全く誠意が見られない。見切りをつけた久我は男と別れ、妊娠していたので中絶する。

新玉は仕立ての仕事をしており、自分だけが家族の犠牲になっていると不満が大きい。たまたま知った若い男に口説かれ結婚して東京に行くことになる。高島は実は遊び人で、久我と三女が白浜温泉に行っていた時、芸者と戯れている高島に遭遇する。三女は高島が嫌になる。久我は高島がどんな男か見極めようとしてバーについていく。それから帰宅し、高島のような男はだめだと言明する。三女は会社の同僚から求婚され、相手が名古屋に転勤になるのでついていく。結局、家には三益と久我だけが残った。年金など全くなく年老いた親は、子供が面倒みなければならなかった時代の話である。

渇望 Torst 1949

ベルイマン監督、瑞典、85分、白黒映画。若い女が既婚の男と関係を持つ。女は最初、相手が既婚とは知らなかった。妊娠し、捨てられ中絶する。

若い男と結婚し、汽車で旅を続けている。女は昔、バレエをやっており、当時の仲間の女の話に移る。夫を亡くし、精神科医にいいようにされている。たまたま以前の別の仲間に会う。話し合い、その女の家に行く。相手が羨ましい生活を送っているように見えた。しかしすれ違いになり女は逃げる。夫と汽車の旅を続ける女は、常に夫と言い合いになる。夫が妻を絞め殺す夢を見たと言っても気にしないと答える。二人はうまくいくようである。

2025年6月15日日曜日

空飛ぶ生首 Tormented 1960

バート・I・ゴードン監督、米、75分、白黒映画。孤島の燈台の上から始まる。若い女が恋人のジャズ・ピアノ奏者に、自分を捨てて結婚しようとしているとなじる。手紙を元に脅迫できるはずだったが、燈台の手摺がはずれ女は落ちそうになる。助けてくれと手を差し伸べる女を見殺しにする。

この島で結婚式をあげる予定だが、奇妙な現象が次々と起こる。死んだ女の幽霊が男を脅かす。最後は結婚式で見えない力が式をぶち壊す。明くる日、燈台の上で事情を知っている、婚約者の妹にあたる少女まで殺そうとしたら、女の幽霊が現れ、男は落ちて死ぬ。後に男と以前殺した女の死体が同時に発見された。

2025年6月14日土曜日

岩井克人『資本主義の中で生きるということ』筑摩書房 2024年

経済学者の岩井克人がこれまでに書いた随筆や、論文といっていい文章を集めた本。最初の方は読みやすい内容の文章から成る。かつて著者が米のイェール大学で教えていた当時の学生から電子メールが来る。内容は著者の講義が面白かったので、それが学者になった理由の一端とあった。続いて幸福論では幸福とは金で買えない物とあって経済学者が言うだけ面白いと思った。続いて読書の話、『高慢と偏見』を初め、アガサ・クリスティや吉川英治の著書なども挙げてある。それも資本主義を考える上で参考になるものは、説明している。

更に著者の専門である貨幣についての分かりやすい説明がある。また会社の概念も、経済学の主流派の理解は全く間違っているとして、説明をする。後半になるとやや高度な文章も出てくるが、最後の方は著者が人生で出会った人や追悼文などがあって、これまでの経済学者としての人生の垣間が若干伺える。

2025年6月13日金曜日

灰色の男 Man in grey 1942

レスリー・アーリス監督、英、白黒映画。競売場で偶然出会った男女は惹かれ合うが、過去に映画は戻る。19世紀の寄宿女学校で女王のようにふるまっていたクラリッサは、教師になる予定でやってきた孤児のへスターを好きになる。そのへスターは軍人と駆け落ちして学校を去る。

クラリッサは卒業後、ジェームズ・メイソン演じる貴族と結婚する。メイソンは冷たい男だった。あのへスターに再会する。駆け落ちの相手に捨てられ、今は女優をしている。へスターと連れの俳優その他をやっている若い男がいる。クラリッサはへスターを自分の子供の家庭教師にして自宅に招く。メイスンとへスターは惹かれ合う。またクラリッサは連れの若い男と惹かれ合う。若い男は西インド諸島に不動産があり、そこに行こうとする。クラリッサは連れていくよう頼むが危険なので後から呼ぶと言う。

へスターはクラリッサを追い出し、自分がメイスンと結婚して後釜に座ろうとしていた。クラリッサが付いて行かなかったので、へスターはクラリッサを病気にさせ嵐の寒い夜、窓を開け放してクラリッサを死なせる。これでメイスンと結婚できるかとへスターは思ったが、嵐の夜の出来事を外の木から召使の子供が見ていた。真相を知ったメイスンはへスターを打擲する。現代に戻り、若い男は西インドに渡った男の子孫であり、若い女はクラリッサの子孫であった。二人は結ばれるであろう。

2025年6月12日木曜日

愛欲の港 Hamnstad 1948

ベルイマン監督、瑞典、100分、白黒映画。故郷に戻って来た若者は、海に身投げをした少女を助ける。後にダンス場で会い、二人は相思の仲になる。

少女は過去に施設に入っており、同居する母親ともうまくいっていない。少女は初めは自分の過去を隠していたが、若者に過去を打ち明ける。若者は悩む。少女の施設時代の知り合いの女が妊娠し、不法な治療を受け死ぬ。少女は警察から事情を話せと問い詰められる。最初は話さなかったが、刑務所に入れられると言われ、話す。若者は二人でやり直そうと外国に行く手筈をする。しかし最後は、ここで新しい人生を送ろうと言い、外国行きは取りやめる。

2025年6月10日火曜日

北村薫、宮部みゆき編『名短篇、ここにあり』ちくま文庫 2008年

以下の短編を含む。

となりの宇宙人 / 半村良 著/冷たい仕事 / 黒井千次 著/むかしばなし / 小松左京 著/隠し芸の男 / 城山三郎 著/少女架刑 / 吉村昭 著/あしたの夕刊 / 吉行淳之介 著/穴 / 山口瞳 著/網 / 多岐川恭 著/少年探偵 / 戸板康二 著/誤訳 / 松本清張 著/考える人 / 井上靖 著/鬼 / 円地文子 著

『となりの宇宙人』はアパートの隣に宇宙船が不時着し、乗っていた宇宙人をアパートの住人がみんなで助けるという話。下町の人情譚とも言うべき作品であるが、こういう助け合いがいつ頃まであったのか。今の日本では作り話の中にしか出てこない。『冷たい仕事』は冷蔵庫の中の霜取りを喜んでやるというこれまた古い時代の家電の話。『むかしばなし』は老婆が学生たちに昔の犯罪を話し怯えさせる。『隠し芸の男』はこれまた昔の会社の宴会で、腹を出して顔を描き、踊りをやるという昔の映画に出てくる芸をする男の話。『少女架刑』は死んだ少女が自分の死体がどう扱われていくかを語るという類のない話。『あしたの夕刊』は昔の新聞の夕刊は明日の日付になっていたということから始まり、不条理な展開になる。『穴』は庭にごみを捨てるために穴を掘るという話。『誤訳』はある国の作家が国際的な賞を取り、その賞金を寄付すると当初言ったが、後に撤回する。その理由をふとしたことから推測する話。『考える人』は僧侶のミイラの話で、以前、宿で見たミイラを捜しまわる。『鬼』は女に祟りついている鬼の話。

2025年6月8日日曜日

悩まし女王 Copacabana 1947

アルフレッド・E・グリーン監督、米、92分。マルクス兄弟のうちグルーチョだけ出ている。グルーチョとブラジル人の女芸人は仕事がなく宿代も払えない。ニューヨークの有名ナイトクラブ「コパカバーナ」に売り込みに行く。

支配人は全く興味がなさそうである。女芸人に妖艶な衣装を着せ、支配人の前で踊らせる。支配人は歌手が必要だと言うので、同じ女芸人に今度はベールで顔を隠し、歌い手として登場させる。雇われることとなったが二人とも必要となり出番が次々と出てくる。女芸人はしょっちゅう服装を変え、てんてこ舞いになる。

人気が出て、ハリウッドから契約をしたい男が来て、グルーチョに約束した額の10倍以上を映画で稼ぐつもりだった。後からグルーチョは分かり激怒する。女芸人の忙しさの対策で、グルーチョは会話の中で一人を殺すと言う。これを聞いた女が殺人が行われたと思い警察に連絡する。一人がいなくなっていた中、警察が来てグルーチョを容疑者として詰問する。最後には女芸人の一人二役と分かり大団円で終わる。

頭木弘樹『絶望名人カフカの人生論』新潮文庫 平成26年

小説家カフカの書簡や雑録からカフカの人生観を集め、それを解説した本。カフカは如何に自分が生きていく上でだめな人間かをこれでもかと繰り返し語っている。自分に自信が持てない者でもこれほど自分を悪し様に言う例は多くないだろう。悲観的か気が弱いかと言ったら、自分のだめさ加減を率直に語っているわけだから、気が弱いとも思えない。冷静に自分自身を観察し、言葉に出している。これでかなり気が済んだという効果を本人にもたらしたのではないかと思われる。

例えば現在の日本では太宰治はまさに国民的作家と言っていいほど人気がある。昔はこれほどの人気はなかったと思う。太宰の小説は『人間失格』に典型的に言えるようにだめ人間を描いている。それが読者の共感を呼ぶのだろう。太宰とカフカの小説は全く異なる。それでもだめな自分を語るという点は共通している。前者は小説の中で、後者は書簡等で自分自身の事柄として。(新潮文庫、平成26年)

2025年5月31日土曜日

赤い天使 昭和41年

増村保造監督、大映、95分、白黒映画、若尾文子主演。相手の軍医は芦田伸介。日中戦争の最中、若尾は中国の陸軍病院に従軍看護婦として派遣される。最初の病院では患者の兵士たちに暴行される。後に前線の野戦病院に赴く。ここで自分を暴行した兵士の一人が瀕死の重傷を負っており、軍医の芦田に頼み輸血してもらうが、兵士は死ぬ。

街の病院に戻り、両腕をなくした兵士を世話する。外出に連れ出し、旅館で相手をしてやる。これに感激した兵士は病院に戻ってから投身自殺をする。軍医の芦田は多くの傷病兵を、ただ腕や脚などを切り落としているだけだと自己嫌悪に陥っている。若尾は励まし、夜の相手をする。

激戦地に芦田が赴任する。若尾は頼んで同行させてもらった。その場所では敵との戦闘だけでなく、コレラが流行り次々と兵士は倒れていく。翌朝援軍が来る予定の夜明けに敵との激戦があった。芦田も軍医ながら戦闘を指揮した。明け方、援軍が来る前に味方は全滅した。若尾は死体を調べていく。芦田の死体も見つかり号泣する。

禁じられた遊び Jeux interdits 1952

ルネ・クレマン監督、仏、87分、白黒映画。第二次世界大戦初期のフランス。避難する人々に独軍の機銃掃射が浴びてせられ、少女の両親及び愛玩の子犬が死ぬ。助けられた者に子犬を川に投げ捨てられる。また空襲があり、少女は川に浮いた子犬を追っていく。

死んだ犬を抱いていると少年に会い、犬の埋葬について教えられる。一人(一匹)では寂しい、他の死んだ動物も埋めようとなる。また十字架を墓に植えると知り、きれいな十字架が欲しくなる。少女は少年の一家の世話になる。きれいな十字架を少女が欲しがっているので、少年はあちこちから十字架を盗んでくる。事故で死んだ少年の兄の墓からも持ってくる。少年の父親はてっきり仲の悪い隣家が死んだ息子の十字架をを盗んだと思い込み、喧嘩になる。最後に少年が盗んだ犯人と分かる。父親は少年を問い詰めるので、少年は隠れる。

警察がやってくる。十字架泥棒を捕まえに来たと思ったが、実は孤児の少女を保護に来たのだった。少年は少女を失いたくないので、条件で十字架のありかを教えると親に言う。しかし少女は連れていかれ、少年は激怒し、隠してあった多くの十字架を川に投げ捨てる。少女は人で混んでいる施設に連れていかれ、待っている。少年と同じ名を呼ぶ声が聞こえたので、自分も少年の名を呼んで人混みの中に消える。

2025年5月29日木曜日

マジカル・ガール Magical girl 2014

カルロス・ベルムト監督、西、127分。この映画を勧めたいのは、あまり類のない展開をするのでそういう映画を見たい人。勧めないのは楽しい結末を期待する人。次にどういう展開をするのか、興味を持って見られる。映画にはパターン化した筋でおおよその見当がつく物が結構ある。全部説明されておらず観客の想像に任せるところがある。

12歳の少女がいる。日本のアニメか何かの魔法少女なるものの大ファンである。白血病にかかっており余命僅かである。その父親は文学の教師であるが今は失業中の身。母親は出てこない。不治の病に侵された娘を父親は溺愛している。娘は父親にとって魔法ガールなのである。娘のノートを見たら好きな魔法少女の衣装、コスチュームを欲しがっているようだ。インターネットで調べるとかなり高額である、という設定になっている。金の工面をしようにも失業中で本を売るくらいでは追いつかない。

別の登場人物が出てくる。精神科医の夫を持つ女。身体も心の方も病んでいる。薬のせいか吐き気を催し、窓から下に向かって嘔吐する。ちょうどその時、下の街路に父親がいた。なぜいたかというと、金がないのでショーウィンドウにある品物を盗もうとして、今割らんとするところだったから。父親は汚物を浴び、女は駆け降りて来て謝り、部屋で服を洗濯して乾かせと勧める。二人は話しているうちに、父親は女を抱こうとする。女は初めは拒否するが、最後は一夜を共にする。後になって父親は自分が寝た女に恐喝をする。金を出せ、さもないと寝たと旦那にばらすぞと。女は金を工面するため、友人に頼み売春を世話してもらう。恐喝で手に入れた金で父親は娘に魔法少女の衣装を買ってやり、プレゼントとして渡す。少女はもらってから衣装の周辺で何か捜している。父親はまたインターネットで調べる。実はこの魔法少女はバトンのような物を持っており、それは別売りでべらぼうに高い、という設定である。この高額商品を買うため、また父親は女に要求する。女はそんな金は出来ないと言うが、父親はまた恐喝し、女は危険を承知で危ない橋をまた渡る。

更に別の登場人物が出てくる。刑務所に服役している眼鏡の中年男である。どんな罪を犯したのか。明示的な説明はない。女と過去に関係があり、女を愛しているので罪を犯した。女を純潔な存在と思っており、そのために刑務所に長年入っていたのである。眼鏡男にとって女は魔法ガールだったのである。出所した眼鏡男のところにけがをした女が助けを求めてやってくる。女はあなたしか頼れる相手はいないと言う。眼鏡男は病院に入れた上、女の夫の精神科医に連絡してやる。やってきた夫は眼鏡男に感謝する。女と眼鏡男が二人きりになってから、女は夫は過去を知らないから、といい自分がこんな目に会ったわけを話す。加害者はあの父親であった。眼鏡男は酒場で父親と対峙し、女との関係をただす。父親は、関係を持ったのは相手もその気だった、和姦だったと言うと眼鏡男は驚く。その後、男を射殺し、関係者を皆殺しにする。恐喝のねたに使われた、二人が寝た際の録音が入っているスマートフォンも奪う。女の病室に行く。しかし録音は渡さない。勝手に理想化していた女への幻滅のせいか。


2025年5月27日火曜日

上野千鶴子、小倉千加子、富岡多恵子『男流文学論』 1989~1990

この鼎談で俎上にのせられている作家、作品は以下のとおり。

吉行淳之介『砂の上の植物群』『驟雨』『夕暮まで』/島尾敏雄 『死の棘』/谷崎潤一郎『卍』『痴人の愛』/小島信夫『抱擁家族』/村上春樹『ノルウェイの森』/三島由紀夫『鏡子の家』『仮面の告白』『禁色』

一体この鼎談の意図は何か。どういう基準でこれらの作家、作品を取り上げたのか。あとがきで上野千鶴子が次のように言っている。これはフェミニズム批評の一つである。フェミニズム批評は一つには不当に忘れられた女性作家の発掘、他は不当に高く評価された男の作家の再検討がある。本書は後者の一つの試みである。二流、三流の作家の作品でなく、論じる値打ちのある作家だけを取り上げたいと思った、とある。上野と小倉はフェミニストだからそれでいいが、自ら作家でもある富岡は文学が時代の流れに追いついておらず、文学の内輪で評価が行われている。それへの疑問があったという。

具体的な批評の実際は読んでもらうしかない。しかし極めて男にとって面白い読み物であるのは確かである。いわば女の見方の一例が分かるから。どんなところに目をつけ、どう解釈するのか。

惜しむらくはこの鼎談自体がもう40年近く前で、取り上げられている作品も今でも読まれ、評価されているのかと思う物がある。『抱擁家族』なぞあまりに男の主人公がおかし過ぎて途中で読む気が失せた。女から見れば男はたいていおかしくて、また作品を批判するのが目的だから、おかしければ好都合なのだろう。名は昔から知っている『砂の上の植物群』も初めて読んだのだが、何しろ70年も前の作品で、ここに書かれている男女の関係などあまりに過去の話になっている。もっと新しい作品を対象にして、新しい鼎談等をしてもらいたいものだ。(筑摩書房、1992年)


2025年5月23日金曜日

ウィッカーマン The wicker man 1973

ロビン・ハーディ監督、英、88分。スコットランド西にある孤島に警官が水上飛行機でやってくる。この島で少女が行方不明になったと連絡がきた。その捜索だと言って写真を見せるが島民は誰もその少女を知らないと言う。

この島ではキリスト教でなく、古代の原始宗教が信じられている。警官はキリスト教徒でこの島の宗教や慣行を非難する。領主に会いに行く。行方不明で島民が知らぬ存ぜぬと言っている少女の墓が見つかったので、発掘の許可をもらう。墓を掘ったら棺桶の中には兎の死骸があっただけだった。警官は各家庭に乗り込み、捜索を続けるが見つからない。五月祭がある。水上飛行機が故障してこの島に留まらざるを得ない。

警官は五月祭の仮装の人物になりすまし、祭りに参加した。生贄として行方不明になっていた少女が現れる。警官は少女を保護しようと、一緒に逃げる。しかし少女が連れて来た所には領主を初め、島民がいた。実は生贄は少女でなく、警官だったのである。これまでそのための芝居を島を挙げてしてきたのである。警官は木を集めて作った巨大な人形に入れられ、人形ごと火炙りに処せられる。

吉行淳之介『驟雨』 昭和29年

主人公は大学を出て3年目の、サラリーマンをしている独身男。女との付き合いは、遊戯の段階からはみ出るようなものにしたくないと考えている。それで赤線街に行って女を買ってきた。ある女との付き合いが始まる。何回か会う。小説の最後では、女に会いに行ったら先客がいた。近くの飲み屋にいるうちに嫉妬を覚えた。

まだ赤線禁止法の前の時代、朝鮮動乱の終わった明くる年という時代である。これで吉行は芥川賞をとったそうである。

吉行淳之介『砂の上の植物群』 昭和38年

主人公の30代半ばの男は定時制高校の教師をしていたが、教え子と噂を立てられ、学校を辞める。化粧品のセールスマンになる。ある日、口紅を塗った女高生と関係を持つ。女高生から頼まれる。自分の姉を誘い、ひどい目に会わせてほしいと。妹に説教しているのに自分は男と会っていて不快だと言う。

その姉はバーに勤めていた。会い、親しくなり関係を持つ。頼まれ縄で縛ったりする。その現場に妹を連れてくる。姉妹とも驚く。主人公は知り合いの床屋から自分の父親が生ませた女子がいると聞かされる。名前があのバーに勤める姉と同じだ。主人公はもしかして腹違いの妹と関係したのかと恐れる。後に、そうでないと知る。