金田一耕助ものでは『本陣殺人事件』に次ぐ作品である。
金田一は戦争から復員してくる。帰りの船で亡くなった友人の言伝をその故郷、獄門島に届けるためである。獄門島とは瀬戸内海にあり、岡山県の笠岡が一番近い離島である。友人は死に際に三人の妹が殺されるかもしれないと心配していた。獄門島に着く。友人は島一番の旧家で網元である屋敷の跡取りで、金田一の知らせは大打撃となった。張り合うもう一つの旧家がある。亡友の危惧のとおり、妹である娘三人は次々と殺されていく。金田一はいつもの無能ぶりを遺憾なく発揮し、ただ殺されていくのを傍観するばかりである。
さて種明かしを見るとあまりに非現実な動機に開いた口が塞がらない。偉い人間の遺言を実行するために何の恨みもない少女を殺す者など想像できない。しかも凝った殺し方をするのである。何の必要があるのか。殺人者がトップの地位の者であるのも全く納得できない。金持ちや地位のある者は殺人のような犯罪をするわけがない。もしばれた時あまりに損する度合いが大きいから。権力者は殺人を犯さないのである。する必要もない。現代に置き替えても、亡き権力者であった会長の遺言で、自分が恨みもない会長の孫娘を殺害する社長、副社長、専務がいると想像できるか。ばれたら自分も家族もおしまいである。
しかも生きていてもしょうがない連中だと言うのである。神奈川県の施設で起きた殺人事件の犯人と同じ発想である。同様に考える人はいるだろうが、実際に殺す人はごく稀である(いたらこわい)。この小説ではトップの位置にいる者が複数、そのような犯罪を実行するのである。発想の、現代の人権意識に照らして問題云々しているのではない。偏見の塊であったろう、この小説の当時でも、生きていてもしょうがないから、実際に殺してしまう人間が何人もいたとは思えない。殺人方法のトリックも全く期待していないので、何とも思わない。この小説に限って言うのではない。実際の殺人をする場合、物理的な抵抗の他に心理的な抵抗があるはずである。この小説では被害者が小娘だから物理的抵抗はないだろうが、心理的抵抗も何も感じなかったようだ。推理小説では殺す時間さえあれば殺せる、となっている。しかし人間の計画することは実際その通りできないものだし、実際に人を殺す際の(良心を言っているのでない)心理的なとまどいや躊躇は大きいはずである。ともかくこれほど非現実的な、ありえない推理小説は他になくそういう意味で驚く。
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