2024年12月31日火曜日

恐怖の殺人養成所 Hitler’s children 1943

エドワード・ドミトリク監督、米、82分。戦時中の米国製の反ナチス映画。題にあるヒトラーの子供とは、ドイツでは子供は国家のために産んでいる、という意味である。

ベルリンのアメリカン・スクールで働いている女はナチスの軍人が来て、何人かの子供たちと連れていかれる。同僚のアメリカ人教師が問うても答えがない。女はアメリカ人なのだが、親がドイツ人なのでドイツ人とみなされ、ドイツの女としての「教育」を施すためである。連れて行ったナチス軍人は女の幼馴染であった。アメリカ人が女を取り戻そうと奔走するが、みんな恐れて協力してくれない。アメリカ人はナチスの司令部に出かける。会った軍人は女はドイツに協力的になっていると告げる。実際に女に会うと、女は満足していると答える。アメリカ人は去るが、アメリカ人を助けるための嘘を言ったのである。

幼馴染のナチス軍人は女と愛し合っており、女への鞭打ちを止めさせ、女を脱走させる。教会で女は捕まる。女を逃がした罪で軍人も裁判にかけられる。裁判は放送されるが軍人はナチス下のドイツを批判し、銃で撃たれ、女も同様に処刑される。戦時中の宣伝映画なので、ナチスが滅んだ後なら違った作り方もあったろう。

2024年12月30日月曜日

渡辺努『世界インフレの謎』講談社現代新書 2022

日銀出身の学者である著者が、世界でインフレが高進している理由や日本の状況を説明する。

近時の世界でインフレ率が上がっている理由は、圧倒的にウクライナ戦争と説明されている。しかしこれは誤りと著者は切り捨てる。ウクライナ戦争より前から物価が上昇しているからである。その前の新型コロナによる影響を重視する。コロナで人と人との接触に距離をとるよう指導された。これによって食堂や旅行などサービス部門の消費が著しく減退した。サービス消費は対面で享受するから避けられたのである。それに対して物の消費は増えた。長い間、サービス経済化が進んで来たのだが逆転した。また新型コロナの流行で在宅勤務が増えた。一度事業所から離れたら、コロナの深刻さが減っても、もう事業所勤務に戻らない者が多くなった。比較的高齢者では退職を早め、同様に仕事をする人間が減った。これらによって仕事の供給側が減少した。だから需要に対して供給が減ったので物価が上昇したのである。中央銀行は物価の安定化を使命とするが、金利引き上げは需要の抑制策で、供給の制約に対しては手段がない。

日本の状況は長年物価が低迷しデフレ状態にある点で世界と異なる。家計も企業も物価は上がらない、賃金も上がらない、を前提としていわば均衡状態にあった。それに最近の輸入物価の影響からエネルギー価格が上昇して、家計を苦しめるようになってきた。著者は物価と賃金の凍結状態という今の状況から抜け出すには、かつて安倍内閣でやったように政府が企業に賃金を引き上げるような勧告をしたらどうかと言っているようである。

わが心に歌えば With a song in my heart 1952

ウォルター・ラング監督、米、総天然色映画。実在の歌手、女優だったジェイン・フローマンをモデルにした映画。スーザン・ヘイワード主演。

フローマンは歌の応募に来て採用される。コマーシャルソングなどを歌っていた。応募で会った男と結婚する。戦争(第二次世界大戦)が始まる。フローマンは慰問で歌を歌いにあちこちに行く。イギリスに向かう飛行機はポルトガルを経由していったが、事故に会いフローマン自身も大怪我をする。脚を切断しなければならないのかと心配する。そこで会った看護婦と以降世話をしてもらう仲になる。更に飛行機の操縦士がすっかりフローマンに恋し、フローマン自身も惹かれるようになる。しかし夫がいる。夫と飛行士はフローマンを取り合う間になるが、結局のところ、夫婦仲は既に冷めているとして夫は相手に譲る。フローマンは脚に支障を抱えながら慰問を再開する。映画の最後の場面は慰問の場面で、アメリカがいかに素晴らしい国か、またアメリカの中の諸州を称える歌を歌って兵士らから喝采を浴びる。

2024年12月29日日曜日

山田風太郎『戦中派不戦日記』角川文庫 平成22年

小説家の山田風太郎が医学生だった昭和20年一年間の日記。

よく戦時下でこれだけ記録できたものだと、また戦後の混乱期も同様に書けたものだと感心する。特に戦争が終結した時の筆者も含めた当時の周りの人々の反応が興味深かった。負けるくらいなら、日本人が全員死んでも抵抗すべきだと。今までの、犠牲になった兵士らは全く浮かばれないではないか。だから敗戦などという屈辱的な選択肢は拒否すべきだと。もしそういった選択をしていたら、日本は完全に近い形で滅んでいただろう。現在の日本人はほとんど生まれていなかったはずである。戦争を何年もやってきたから、そういう気持ちになったのは、想像できないわけでない。どれほどの当時の人々が同様に感じたか、統計もないから分からない。

昔読んだ『よみがえる日本』という中央公論の日本の歴史の本では著者の蠟山政道が、戦争をやってきたのだから負けたのは悔しいが、国民は戦争が終わってほっとした気分になったのではないか、といった趣旨の記述があったと覚えている。ほっとしたのではなく、ここの記述では切歯扼腕してありえない選択だと怒り狂ったとある。

2024年12月28日土曜日

運命の饗宴 Tales of Manhattan 1942

デュヴィヴィエ監督、米、118分。燕尾服の持ち主が変わっていき、燕尾服にまつわる挿話がオムニバス形式で描かれる。有名な俳優が多く出ている。

最初の話では、シャルル・ボワイエが人妻のリタ・ヘイワースと浮気をしていて、夫に見つかり銃で脅され撃たれるが、逸れていた、自分は俳優だから撃たれたまねをしていただけたと言い、去るが実は撃たれていたというもの。次の話は今夜結婚する予定の男女が、服に入っていた別の女からの手紙がもとで仲がおかしくなり、女は夫の友人と意気投合し好き合う。幾つかの話があって、最後の話は盗んだ大金を飛行機から落としてしまい、拾った黒人の部落でそれを分け合う。いかにも最後を締めくくる話になっている。戦時中の映画らしく映画の終わりに戦時国債を買えという広告がある。

2024年12月25日水曜日

闇の波止場 The mob 1951

ロバート・パリッシュ監督、米、83分、白黒映画。潜入捜査官の映画。

主人公の刑事は恋人に宝石を買うため店にいた時、外で銃声がする。男が倒れ、そばに撃ったと思われる男が立っている。刑事は銃で撃った男に尋ねると警官だと言う。警官バッジを投げて寄こす。警察に電話すると言って店にその男は行く。巡回中のパトカーなど警察官が来る。分かったのは、警官と称する男は殺した警官のバッジを奪って、主人公の刑事に投げたのである。店に行くがもちろん男はいない。

刑事は犯人を取り逃がしたので休職になる。部長の部屋に行くと男を捕まえろと命令される。港の方にいるらしいので、刑事は港湾労働者に化け、潜り込む。余所者を歓迎しない、疑う労働者たちから散々嫌がらせを受ける。警察の方から手を回してくれたので、働けるようになるが、それがまた疑惑を持たせる。ここで仕切るボスとの確執、また最後に全体を牛耳るボスのところに仕事があるからと言われ行く。そこには恋人が捕らえられていた。刑事は銃撃戦となって恋人を助け出すがボスには逃げられる。病院に恋人の見舞いに行くと、医師に化けたボスから銃を突き付けられる。向かいの窓から警官がボスを狙撃して倒す。

2024年12月24日火曜日

新ドラキュラ/悪魔の儀式 The Satanic Rites of Dracula 1973

アラン・ギブソン監督、英、87分。怪しい研究所に潜り込んでいた捜査員が逃げ出すところから始まる。

追手を倒したものの、捜査組織に戻って報告してから死ぬ。黒ミサのようなものだけでなく、政府の高官が関与する、かなりの悪事をしているらしい。オカルト関係に詳しい教授に意見を聞く。教授の知り合いが研究所に関わっているようで、その知人の学者を訪ねる。その知人学者はペスト菌の研究をしていた。教授も危なかったが、知人は殺される。研究所に忍び込んだ捜査員らは地下で女吸血鬼に会い、からくも逃げる。教授は研究を支配している企業の社長に会う。その社長とはドラキュラだった。ドラキュラは教授を黒ミサの場所に案内する。そこでは教授の孫娘が生贄にされようとしていた。捜査員らが乗り込み、悪人どもと格闘になる。孫娘を助け出し、ドラキュラは教授に柵の杭を胸に打たれ死んで灰になる。

アイリッシュ『幻の女』 Phantom lady 1942

主人公は恋人がいるので今の妻と離婚したい。しかし妻は離婚しないと言う。腹が立って家を出た主人公は初めにバーで会った女に声をかけ、劇場に行く。南瓜型の派手な帽子を被った女である。舞台で歌っている南米出身の女歌手はあからさまに女に敵意を示す。男が女の名も聞かず別れて帰宅すると妻が殺されていた。

容疑は主人公にかかる。主人公が女といたという自分のアリバイを証明しようとするが、バーの店員や運転手、劇場の担当など男は一人で来たとしか言わない。全く女は消えてしまい誰もその女がいたと言わない。アリバイが証明できない主人公は死刑宣告を受ける。何とか無実を証明したい。それをしてくれる友人は仕事で南米にいる。呼ぶと来てくれる。友人や、主人公の有罪に疑問を持った刑事、また恋人は主人公のアリバイを確かめようとする。証言した者たちに当たっていく。手がかりがつかめたと思ったら、その者は殺されてしまう。死刑の日が近づいてくる。最後の日になって真相が分かった。奔走している友人が犯人だったのである。

2024年12月23日月曜日

鮮血の美学 The last house on the left 1972

ウェス・クレイブン監督、米、85分。ベルイマンの『処女の泉』の粗筋を元に、現代のアメリカを舞台に移して映画化。

医師と妻の娘は友人とコンサートに行く。町で友人が薬物を買おうと声をかけたら、家に連れ込まれ、しかも居た連中は殺人犯の脱獄者らであった。二人の女は捕まって車で運ばれる。車が故障して脇の林に入る。そこは娘の家に近い場所だった。両親は娘が帰ってこないので、警察に連絡する。女二人は脱獄者らと共に林の中にいた。娘の友人は隙を見て逃げ出し、曲者らは追う。娘はその間に男を説得し逃げ出だそうとする。逃げた友人は男らに捕まり刺殺される。娘もその男らと会ってしまい、友人が殺されたと知って驚愕する。男らは娘に暴行し娘が池の中に入ると銃で射殺する。男らは車もないので近くの家に行き、泊めてもらう。そこは娘の家だった。夜中に男が娘の物を付けていると知り、娘を捜し遺体を発見する。両親は男らに復讐し皆殺しにする。

2024年12月22日日曜日

センチメンタル・アドベンチャー Honkytonkman 1982

クリント・イーストウッド監督、主演、米、123分。大恐慌時代、イーストウッドは酒場のピアノ弾きで歌手を目指している。大酒のみである。

ナッシュビルでオーディションが開かれるのでそこに行く。途中で妹夫婦の家に着くが、イーストウッドの運転ぶりが危ないので、息子を運転手として一緒に行かせる。祖父は故郷で過ごしたいと言い、同行する。途中で借金を取り返すために立ち寄った家で、そこにいた娘が歌手を志望しており、秘密に車に隠れ乗り込む。車の調子が悪くなり、バスで目的地に向かう。

オーディションではイーストウッドは咳き込み、歌が続けられない。結核で本人も知っていた。たまたまオーディションを聞きに来ていたレコード会社の連中が、イーストウッドにレコード録音しないか持ち込む。録音が始まるが、やはり途中から咳で歌えない。他の者が代わりに歌う。イーストウッドは寝込む。医者に来てもらうが余命いくばくもないと言われる。イーストウッドは死に、甥と娘は墓を後にする。すれ違った車ではイーストウッドの歌を流していた。

2024年12月21日土曜日

田中康夫『なんとなく、クリスタル』河出文庫 1983

1980年に大学在学中の田中康夫によって書かれた小説。

東京の真ん中に住む女子大学生の語りで毎日の生活を書いている。この本は半分が注(notes)で、発表当時、小説そのものより注の方が話題になっていた。感想、評では注に対してつっこみを入れていた。書いた意図を1983年の文庫で著者は語っている。これまでの日本の小説は人生いかに生きるかなどと堅苦しい話をしてきたが、1980年のクリスタルな生き方をする若者が現れる小説を書きたかったと。この小説の主人公らは当然、当時「普通にいた」若者ではない。当時、こんな生活ができたらいいなという願望を具体化した小説である。

またこれは「バブル」期を舞台にした小説ではない。文庫の裏表紙にも「バブル経済に沸く直前、」と書いている。バブルは1987年以降である。バブルとの間に7年もある。27歳の直前を20歳とは言わないだろう。正直今となっては1980年(昭和55年)というのはここ数十年の日本の時代でも最も良かった時代に思える。日本経済とその将来にすごく自信があった。米の学者が21世紀をジャパンアズナンバーワンと言ったのはこの直前である。日本は先進国の中でも優等生だった。石油危機では狂乱物価となったが、その経験から第二次石油危機(1970年代末期)はうまく乗り切り、先進国の模範だった。当時、どうして日本はこのようにうまく対応しているのだろうと不思議に思ったのを覚えている。バブルとは文字通り泡、泡沫のインチキ景気だった。だ頃から泡と消えたのである。当時は浮かれていて、懐かしく思う人がいるかもしれないが、言ってみれば薬物、ドラッグで恍惚状態によって幸せな気分になっていただけである。バブルの崩壊は今にまで影響を及ぼしている。バブルがなければ、もっと今の日本は良いはずと言ってもしょうがないが。小説の舞台の1980年は今とどう違うのか。すぐ思いつくのは外国へ行くことはほとんどできず、日本には外国人なんて珍しかった。日本とアメリカが経済では二大国で、ヨーロッパはEUを作って追いつこうとし、ソ連は末期で話題にならず、中国は鎖国状態のようなもので情報は入らず、韓国は70年代からの岩波新書の『韓国からの通信』によって独裁国家で韓国民は虐げられているというイメージしかなかった。半世紀前は本当に夢のように感じる。その頃、雰囲気的に最先端のまちがこの小説の舞台である六本木だった。今は全く日本も六本木も変わってしまった。古き良き時代の一つの記録である。

2024年12月20日金曜日

和辻哲郎『日本倫理思想史』 昭和27年

和辻による日本思想の通史で、神話時代から明治まで及ぶ。

和辻は倫理を個人の思考内の問題と考えずに、人との間柄の問題と捉えた。そのため倫理思想史と言いながら政治思想史と呼んでも差し支えない内容である。個々の叙述の、現在での妥当性に関する評価はできないが、ともかく読みやすく日本の思想史の全体像を掌握するのに良い著作である。他にも日本思想史と題する本は岩波新書やミネルヴァ書房のものなど読み始めたが、興味が続かず読むのを途中で止してしまった。(岩波文庫、4冊)

2024年12月19日木曜日

激流 昭和27年

谷口千吉監督、東宝、96分、白黒映画、三船敏郎主演。三船がダムの工事現場に着くところから始める。

岩手の花巻温泉の近くである。ダムの食堂で働いている久慈あさみに会う。ダムの工事によって村が水没する部落の反対派がいる。兄の借金のため芸者として働かされている女がいる。若山セツコは男に捨てられ、子を孕んでいて親から疎んじられている。三船の婚約者が都会から来るが工事の現場にかなり困惑する。

工事が早く済むと損する連中は工事を遅らせるため、工事現場に爆弾をしかけようとしている。それに使われたのが、若山が好きで結婚したい、そのための金が欲しい風来坊である。直前に分かり、三船が爆弾を消そうと現場に入る。全部消せずに爆破し三船は怪我をする。ダムが完成する。三船の婚約者から手紙が来て婚約を解消したいとある。本来は都会に戻り結婚する予定だったが、この手紙で他の連中と共に次の工事がある九州に向かうこととする。

2024年12月17日火曜日

ガードナー『ビロードの爪』 The case of the velvet claws 1933

自身が弁護士であったE・S・ガードナーのペリー・メイスンシリーズの第一作。

メイスンの元に女依頼人が来る。ある事件が起きた時、既婚者の自分と政治家が一緒にいた。それを赤新聞にゆすられている。なんとかして欲しい。女は自分のことは偽名で通している。秘書のデラ・ストリートは依頼人を嫌う。メイスンは調査に乗り出す。女の旦那は実力者で、実は陰で赤新聞を牛耳っていた。

夜中に女から電話がある。夫が殺されている。メイスンは女と会い、その家に行く。旦那が風呂場で銃で撃たれ死んでいる。狡猾な女は夫が誰かと一緒にいた、相手の声は聞こえた、その声はメイスンだと言う。ともかく嘘しか言わない女依頼人で、メイスンを事件に巻き込もうとする。秘書は女をビロードの下に爪を隠していると非難する。メイスンは実は夫を殺したのは女だったと見破る。女も認める。夫の残した財産は殺害者なら当然受け取れるはずもない。その後更にメイスンは事件のからくりを追い、最後に真相が明らかになる。ハードボイルド的な小説だが、犯罪の謎解きは普通の推理小説と変わらない。(山下諭一訳、世界推理小説大系、講談社、昭和47年)

2024年12月16日月曜日

幸田露伴『対髑髏』 明治23年

初めの題は『縁外縁』だった。大正五年に標記の題に変えた。

上州下州の境の山中、露伴は歩いているうちに日が暮れる。一軒家を見つける。問うと若い美人が出てきた。泊まらせてもらえないか、初めは断られたが、後に承諾する。こんな山の一軒家で稀な美人が一人住まいである。当然疑問が湧いてくる。布団を出してもらうと豪華な代物である。ますます露伴は驚く。それに寝ていると女はいつまでも起きているらしい。これは女の布団を自分が使っていると分かり、起きて女に布団を使ってくれと言う。女と露伴がお互いに布団を勧めあう。露伴は女の素性を尋ねる。

女は元は両親と暮らしていた。しかし父親が死に、後に母親も亡くなる。女はこの世に未練がなく、早く親の元に行きたいと思うようになる。女は非常に美人であったため、見染められた。華族の息子で将来が嘱望されている男である。しかし女は嫁に行く気はないと断る。ついに相手の男は恋煩いで病に伏せる。その家の使いが来て若様が危篤だから来てくれと頼まれる。女は行くが男は死んだ。女は家を出てこんな田舎に来た。明くる朝、露伴が起きてみると泊まった家などなく、髑髏が地面にあるばかりである。露伴が村に出て聞いてみると以前、癩病の女がこの地に来たと分かった。(新日本古典文学全集明治編第22巻、岩波書店、2002年)

2024年12月14日土曜日

真昼の暗黒 昭和31年

今井正監督、現代プロダクション、124分、白黒映画。八海事件を映画化した。二審判決で被告らに一審と同じ有罪判決を受けた後、弁護士の正木ひろしが著書『裁判官』を著した。この本を元に映画化した。そのため映画の最後は被告がまだ最高裁があると叫ぶところで終わっている。

まず映画は事件後、警察が現場を調べ、このような事件は単独犯では無理だと判断するところから始まる。犯人が遊郭にいるところを捕まる。警察の取り調べで犯行までの状況を供述する。警察は共犯者を言えと迫る。最初は否認していたが。知人の容疑者たちが捕まる。警察は拷問で自白させる。家人や恋人らの心配がある。裁判では二審で検事の糾弾の後、弁護士が弁護を始める。いかにこれまでの事件の経過というものが非現実か弁じる。判決に先立ち、家人らは無罪判決がとれるものと思い裁判所に出かける。ところがやはり有罪判決だった。被告の一人が母親に会い、母親が泣き崩れ、被告はまだ最高裁があると叫ぶ。

2024年12月12日木曜日

岸本佐知子『ねにもつタイプ』ちくま文庫 2010

翻訳家の岸本佐知子が書いた随筆である。

少女時代の空想妄想から現在の色々な感想を述べていて興味がある。普通なら気にしないもの、事柄へのこだわりを書いている。改めて考えると世の中おかしな、理解できないことは多い。それらを軽妙で読みやすい文で綴る。文章が読みやすく面白いと思わせるのが本として一番重要であると信じる。

2024年12月11日水曜日

海の牙 Les maudits 1947

ルネ・クレマン監督、仏、105分。第二次世界大戦の末期、オスロからドイツの潜水艦が南米に向けて出発した。戦局悪化の中、南米にナチの新拠点を作るつもりだった。

乗り込んでいるのは雑多な人々であった。イタリア人の富豪と結婚している女は潜水艦の将校の情人だった。その女が事故で怪我をする。医者は同乗していない。フランスに一時的に上陸し、近所の医師を拉致する。この医者が主人公で、映画は元の故郷に戦後戻ってきたところから始まる。医者は女の治療をする。もう潜水艦は潜航を始めていた。これで医者は否応なく潜水艦の一員となった。

そのうちにドイツが降伏したという情報が入る。南米に着き、現地の工作員に連絡するが何の返事もない。複数の者が上陸してその連絡員に会う。もうドイツの時代でないと言われる。その男を殺し、潜水艦は再び出航する。燃料がもうない。ドイツの船に連絡がとれ、給油してもらうこととなった。給油後、敵方に渡さないため船を破壊する。潜水艦の中では乗組員が反乱を起こし、潜水艦を捨ててボートで逃げ出す。医師は捉えられていたため、潜水艦に一人残される。後に米軍に助けられる。

If もしも・・・・ If…. 1969

リンゼイ・アンダーソン監督、英、111分、マルコム・マクダウェル主演。イギリスのパブリック・スクール。学校の教育やその他の出来事が描かれる。

マクダウェル扮する反抗的な不良生徒は、他の者らとつるみ問題を起こしていた。学外でも販売店からオートバイを店の者の前で盗み出し、郊外に行く。そこで働いていた女子を乱暴に引き寄せ、恋人にする。軍事教練があって、神父に模擬用でなく銃で脅し怪我をさせる。校長に呼ばれ油を搾られる。学校の記念行事の日、父兄だけでなく、先輩の軍人が来ている中、マクダウェルらはあの女子も加え、屋根の上から機関銃を浴びせかける。校長をはじめ多くの者を餌食にする。

異邦人 Lo straniero 1967

ルキノ・ヴィスコンティ監督、仏伊、104分、マルチェロ・マストロヤンニ主演。カミュの小説の映画化。

仏の植民地時代のアルジェ。マストロヤンニは母が死んだ知らせを受ける。葬式でも特に感慨はない。同僚の女と遊びに行く。泳いで、喜劇映画を観る。友人がアラブ人の女といざこざを起こす。女の兄らから友人は脅迫を受ける。銃を用意した。マストロヤンニはその銃を預かる。海岸を暑い日差しの中を歩いていたマストロヤンニ。友人を脅迫したアラブ人がいた。マストロヤンニは銃を出し、何発も撃つ。裁判になる。なぜ殺したか聞かれ、太陽のせいだと答える。検察は被告は母親が死んだのに、女と喜劇映画を観ていたと非難する。死刑の判決が下る。ギロチンによる死刑である。執行の前、神父が現れるが論争する。

トーマス・オーウェン『黒い玉』創元推理文庫 2006

ベルギーの小説家トーマス・オーウェンによる怪奇短編集。

副題に「十四の不気味な物語」とあるように14の短編から成る。不気味と言えばそうだが、気味の悪い話と言ってもいいかもしれない。必ずしも日常の中にある不気味だけでなく、超常的な話もある。14の短編の中、例えば読んで記憶に残っているのは『公園』という話。公園で女が襲われた事件があった。主人公の少女はある老人を危険視していた。その老人が近づいて来た時、少女はナイフで刺した。崩れる老人。しかしその際に誰か他の者によって公園の中に引きずり込まれていた。あるいは『売り別荘』では語り手はある別荘をそこの老人に建物の中を案内される。盛んに老人はかつての妻についてしゃべる。最上階まで連れてこられる。ある箪笥の前に陣取り、それを開けさせない。語り手は死んだ妻の死体が入っていると思い込む。老人は部屋から逃げ出し、そこには妻の死体などない。老人はこうやっておびき寄せたのはお前で何人目だと扉の外から叫ぶ。こんな話が14続く。

『江戸川乱歩座談』中公文庫 2024

江戸川乱歩が参加している座談、対談を集めている。

このうち戦前の座談会が2つある。戦前の有名な作家たちが参加している。最初の座談は昭和4年に行われている。我が国の探偵小説(推理小説)がまだ若かった時代であり、今ならできない、する気も起きない、探偵小説についてのそもそも論を話し合っている。後の「明日の探偵小説を語る」の座談会は昭和12年であり、本格的な戦争の始まった年でこれ以降、終戦まで探偵小説が逼塞状態に置かれたのは周知のとおり。

話し合っている内容を見ると探偵小説をどう捉えるか、が前提となっている。巻末の参考資料「論なき理論」(p.437~)で大下宇陀児が、探偵小説はその定義をいつまでも議論している、と言っている。自分の理解を書けば、例えば事件(犯罪)が起こり、探偵が現れ、謎解きが最後にある、といった総論的な話をしてもしょうがなく、読者がそれを探偵小説と見るか、の話である。例として『アクロイド殺害事件』に対して小林秀雄は怒っている。(p.365~)アンフェアだと。読者に詐欺を働いていると。この小説、本当に感心したので、小林の意見には驚いた。しかしそういう反応もありうるとは思った。花森安治や作家の海野十三、小栗虫太郎も同様の意見らしい。(p.413、p.108)本書で盛んに議論している探偵小説の在り方について、ここの時点から遠い将来に、東野圭吾の『超・殺人事件』という小説がある。これは現在の推理小説界の戯画化、つまり茶化した本なのであるが、現在の推理小説を読んでこれが推理小説なの、と思っていた自分には腑に落ちたところがあった。真面目に議論している本書のような時代から、東野本のような物が出る時代になっている。

戦後では乱歩の還暦祝い(昭和29年)を木々高太郎、城昌幸らがしている。芸者が入る席で、個人的恋愛観なども書いてある。「探偵小説新論争」(昭和31年)は木々高太郎、角田喜久雄、中島河太郎、大坪砂男らの座談会。こういう論を好きなのが推理小説好きなのだろう。本書中興味を感じたのは「文壇作家「探偵小説」を語る」(昭和32年)で、普通の小説家、梅崎春生、曾野綾子、中村真一郎、福永武彦、松本清張の座談会。探偵小説の創作家でなく、読者である一級の小説家の議論。松本清張は『眼の壁』の発表時期である。「「新青年」歴代編集長座談会」(昭和32年)は、あの時あの人とどこそこで会った、といった類の回想が多い。

以下は対談で「E氏との一夕」(昭和23年)は稲垣足穂との同性愛を巡る議論。「幽霊インタービュウ」(昭和28年)は長田幹彦(戦前からの作家で戦後は心霊学に関心を持った)との心霊実験に関する対談。乱歩は心霊実験に懐疑的否定的である。「問答有用」(昭和29年)は徳川無声(無声映画時代の弁士で後、俳優になった)との対談、軽妙洒脱で読んでいて一番楽しい。乱歩はこの時点で自作のうち『心理試験』『陰獣』『押絵と旅する男』『パノラマ島奇談』『鏡地獄』をベストとして挙げている。「幸田露伴と探偵小説」(昭和32年)は文豪の娘で自身も小説家である幸田文との対談。露伴が探偵小説に興味があり、私生活でシャーロック・ホームズもどきの推理をしていたなどと知り、乱歩と同様全く驚いた。「ヴァン・ダインは一流か五流か」(昭和32年)は小林秀雄との対談。先にアクロイドの評価を書いたが、将棋が機械では人間に勝てない、という主張は時代のせいもあるだろう。また題になっているヴァン・ダインは探偵ファイロ・ヴァンスが嫌いらしい。探偵小説に心理的な要素を入れたのを否定しているが、議論のあるところと思われる。「樽の中に住む話」(昭和32年)は佐藤春夫、城昌幸との対談。乱歩は推理小説を書き始めた当時、谷崎潤一郎、芥川龍之介と並んで佐藤春夫に影響を受けたとある。「本格ものの不振打開策について」(昭和33年)は花森安治(雑誌「暮らしの手帖」の編集者で昭和時代は結構有名な文化人だった)との対談。回顧談の他、題にあるようにいかにして本格推理小説を盛んにするか、を聞いている。

本書を読んで世の中推理小説好きは多いと改めて知り、なぜこんなに推理小説は読まれているのだろうかと思った。なお本書でアクロイドやYの悲劇などはネタバレが書いてあり、これらのような超絶有名作品は読んでいる読者が対象である。


2024年12月9日月曜日

正木ひろし『八海事件』

八海事件とは、昭和26年に山口県の東南部、瀬戸内海に近い八海という地区で起きた強盗殺人事件である。64歳の老夫婦が殺害され現金が盗まれた。

犯人は割と早く捕まり自供した。ところが司法側が単独犯行でないと思い込み、被疑者に共犯者の名を言うよう強要し、被疑者は知人ら5人の名を挙げた。これによってその者たちが逮捕された。裁判では全く関係ない者に死刑判決、犯人らに無期や有期の判決が下った。当然控訴する。犯人は二審で無期に服した。他の者らは当然さらに裁判を続け、最終的に無罪が最高裁で下されたのは19年近く経ってからだった。

弁護士の正木ひろしは無実で死刑判決を受けた被告から手紙をもらい弁護を頼まれる。事件を調べて、被告らの無実を信じるようになった。しかし一審も二審も有罪判決が出た。正木はこの八海事件の裁判を糾弾した著書『裁判官』を昭和30年、光文社のカッパ・ブックスで出す。更に翌年、同じカッパ・ブックスで『検察官』を出し検察が司法殺人を犯そうとしていると主張した。最終的に昭和43年に最高裁で、それまで争った被告全員に無罪判決が出て、裁判は終結した。正木はこれを受け中公新書で『八海事件』という書を出した。

事件が起きた当時二十代前半だった被告らは最終的な無罪判決が出た時には四十代になっていた。この事件を映画化した今井正監督による『真昼の暗黒』は『裁判官』をもとにしている。これら八海事件を扱った『裁判官』『検察官』『八海事件』は正木ひろし著作集第2巻(三省堂、1983年)に収められている。

2024年12月7日土曜日

ロジャー・コーマン デス・レース 2050 Death Race 2050

G・J・エクターンキャンプ監督、米、93分。未来のアメリカ。人口が増え続け、大陸横断の自動車レースでは、人をひき殺せば点数が上がるという規則であった。

数台の車の競争で、お互いをつぶそうと企む。またレジスタンスという組織がこのレースを妨害し、レーサーらを殺そうとする。フランケンシュタインというあだ名のレーサーは人気がある。同乗の補助員の女はレジスタンスからの回し者で、フランケンシュタインを殺そうとする。しかしフランケンシュタインに敵わなく、相手を知るうちに好意を抱くようになる。他の車は破壊され、フランケンシュタインの車のみゴールに入り優勝するが、仕切っている会長をひき殺し、会場は乱闘になる。

女奴隷船 昭和35年

小野田嘉幹監督、新東宝、83分、菅原文太主演。他に丹波哲郎、三ツ矢歌子ら。

第二次世界大戦末期、菅原は南方から使命を帯びて日本に向かうが、飛行機は撃墜される。ある船に救助される。その船は奴隷にする女を運ぶための貨物船だった。女ボスに三原葉子、また三ツ矢歌子は勘違いされてこの船に乗ったので、売られる運命になった。海賊船に襲われ、貨物船は沈没する。海賊の船長が丹波哲郎である。女たちは海賊船に移される。菅原は腕っぷしがいいので、丹波から一目置かれる。

海賊船は島に着き、女たちは競売にかけられる。焼き鏝を押されそうになるが抵抗して中止させる。買い主はアメリカの手先で、丹波らと争いを起こす。菅原は女たちを連れて逃げようと目論む。幾つかの争いがあって最後は菅原たちが勝ち、女たちと日本に向けて逃げ出す。

2024年12月5日木曜日

河村小百合『日本銀行 我が国に迫る危機』講談社現代新書 2023

著者は日本銀行に数年勤め、その後日本総合研究所に移った。黒田日銀体制による異次元金融緩和政策によって日銀や日本政府がどのような状態になっているかの分析である。

黒田日銀体制は物価増加率を2%に上げるべく、9年間、異次元金融政策を続けた。その結果はどうであったか。2%の目標は達成できなかった。ただ黒田前総裁等、担当者は日本経済は回復した、日銀の政策は正しかったと自画自賛のようである。ここでは達成できたかどうかの議論ではなく、異次元政策を長期に渡って続けた結果、日銀の資産負債状態はどうなったかに関心がある。発行される国債のほとんどを日銀が購入し、負債側では当座預金が圧倒的に多くなっている。かつて国債は負債の日銀券と同じ規模にするという決まりがあったが、現在では日銀券の4、5倍の国債を抱えている。

黒田前総裁は、出口戦略を問われても常に時期尚早と言うだけで具体的な回答はなかった。それは出口戦略はできないから、つまり予定通りに物価が上がり、金利が上がれば国債価格は暴落し、債務超過になる。その赤字は政府が補填補填する。各国中央銀行は一時的に異次元政策をとっても出口戦略を考えて対応してきた。それなのに日銀は全く頬かむりで知らん顔してきた。これを許してきたわが国のマス・メディアやエコノミスト(学者を含む)はどういうつもりだったのだろうか。

西野智彦『ドキュメント異次元緩和』岩波新書 2023

著者はジャーナリスト、時事通信、TBSに勤務した。

黒田日銀の金融政策の記録なのだが金融面からの分析というより、人事など下世話的な経緯を書いている。日銀にとどまらず、安倍政権など政治との関係の記述も詳しい。このような内容は関心があるだろうから、読者の期待に沿えるだろう。金融については啓蒙書が多く出ているが、ある程度の知識がないと細部まで理解できない。

21世紀に入ってからの経済の実態についてはほとんど金融面からの分析であり、良く理解できない人もいたと思われる。これは実名を出してそれらの者がどう思ったか、反応したか、の記述で読みやすい。

2024年12月4日水曜日

悪魔の受胎 Inseminoid 1981

ノーマン・J・ウォーレン監督、英、93分。宇宙が舞台で、宇宙人の子を受胎した女が巻き起こす悲劇。

某惑星で調査をしている一隊。事故が起き、二人が死ぬ。それを調査に行った者のうち、女は捉えられていつの間にか寝台に寝かせられ、女性器の中に管を入れられる。異星人が行なったのである。基地に戻ってきてから女は仲間を殺し始める。更に異星人を出産する。その後も隊員たちと戦い、とうとう殺される。女が産んだ新生児はその間、他の隊員を殺していた。後になって捜索隊がやって来る。なぜこのような大量の殺人が行なわれたか不明である。しかしいつの間にか、異星人はその捜索隊の宇宙艇に入り込んでいた。

フレッシュ・フォー・フランケンシュタイン/悪魔のはらわた Flesh for Frankenstein 1974

ポール・モリセイ監督、伊仏、92分。男爵は死体を集めて人造人間を作ろうとしていた。最も理想的な男女の人造人間を作る気でいた。頭が残っている。見栄えのよい男をさらってきてその頭を使う。

さらわれた男には男の愛人がいた(同性愛であった)。この愛人の男が男爵の妻兼姉に雇われる。この男も見栄えが良く、妻は自分の情人にもしている。その情人となった男が男爵が作った人造人間を見ると顔はさらわれた友人にそっくりである。女の人造人間をつくり男のそれと娶わせとするが、男の方は全く反応しない。同性愛者だったから。女の人造人間は助手が壊してしまう。また男爵も自分の作った男の人造人間に殺される。

2024年12月2日月曜日

愛欲の魔神島 Tower of evil 1972

ジム・オコノリー監督、英、89分。孤島に着いた船。上陸すると片腕が切られた男の死体、また首を切られた裸の女の死体が見つかる。ある部屋を開けたら、いきなり女が飛び出してきて、開けた男に剣を突き立てる。その女の精神は正常でなかった。

女の治療、過去の記憶を探る実験が行われる。催眠のようなもので過去、当該島で起きた残虐な殺しを思い出す。後になって、船で男女数人がその島に渡る。フェニキアの財宝があるかもしれないと期待してきた。島には人がいないはずだ。しかし再び、来た連中を襲う殺人が起こる。この島で死んだ夫婦、その赤ん坊も死んだと思われていたのだが、実は生きていた。その成人した男が島に来た人間を殺していたと分かる。

2024年12月1日日曜日

アン・ラドクリフ『森のロマンス』 The romance of the forest 1791

ラドクリフの出世作で1791年に出された。『ユドルフォ城の怪奇』の3年前である。

簡単なあらすじは以下の通り。17世紀、パリからラ・モット夫妻は夜逃げする。途中の宿で拘禁されていた少女アドリーヌを助ける。アドリーヌは実父からひどい仕打ちを受けていた模様。一行は森の中で見捨てられた館を見つけそこに住む。ラ・モットの息子ルイが来る。アドリーヌに気があるようである。後にこの館の所有者であるモンタルト侯爵が現れる。侯爵はいい歳だがアドリーヌを見染める。侯爵の部下であるテオドールとはアドリーヌは相思の仲になる。しかし侯爵はラ・モット夫妻にアドリーヌを我が物にせんとする手助けを要請する。館を提供されている夫妻は抵抗しにくい。アドリーヌは従者ピーターの手引きでその故郷サヴォワに逃げる。そこで神父ラ・ルック師の保護を受ける。テオドールは侯爵からアドリーヌを守るため、公然と反抗していたので窮地に陥る。最後の方は刻一刻と迫るテオドールの破滅に、アドリーヌ一派は救助できるか、といった映画的手法による展開である。

まず『ユドルフォ城の怪奇』に比べ、短いので読みやすい。少女が主人公であるのはユドルフォ城と同じ。ゴシック小説の一つであろうが、題名とおりロマンスといった感じの作品である。(三馬志伸訳、作品社、2023)

大岡昇平『現代小説作法』ちくま学芸文庫 2014

小説家の大岡昇平が昭和33年から翌年にかけて雑誌に公表したのが最初で、その後手を入れてきた。

ここでは小説を書く際には
、良い主題を持つ、さらに何が主題であるか、はっきりつかむ、これが重要であると述べる。これ以降は小説についての分析であり、作法の話でない。どう書き出すべきか、ストーリーとプロットの違い、主人公についてなど、小説を読んだり、分析する参考となる事柄を述べている。読み物として面白くいかにもためになるといった書物である。