2025年1月6日月曜日

恋のページェント The scarlet empress 1934

スタンバーク監督、米、104分、マレーネ・ディートリッヒ主演。ロシヤの女帝エカチェリーナ二世の伝記映画である。ディートリッヒがドイツの貴族の娘からロシヤの大公の妃となり、後にエカチェリーナ二世となるまでの映画である。

まずディートリッヒ演じるドイツの貴族の娘のところに、ロシヤから求婚の使いがやって来る。結構美男子の使節に皇帝はどんな男か尋ねると、この上なく立派な男子であると答えが返ってくる。ロシヤまで赴く。実際に会うと大公は痴愚に近いようなおかしな男だった。大公の母である皇太后がロシヤを仕切っていて、ディートリッヒにあれこれ指図命令をする。ディートリッヒは臣下の男たちに惹かれ、大公には愛人がいる。皇太后が亡くなる。後を継いでピョートル三世となった大公は悪政の限りを尽くす。愛人と一緒になりディートリッヒを追い出すつもりでいる。ディートリッヒも臣下たちを引き連れ、ピョートル三世を倒してエカチェリーナ二世となるところで映画は終わる。

フィルポッツ『赤毛のレドメイン家』 Red Redmaynes 1922

フィルポッツのこの作品は必ず江戸川乱歩の称賛が引用される。

この文庫の扉にも掲載されている。この乱歩の言葉はいつ言われたか。解説に1935(昭和10)年とある。(解説、p.434)原作の発表も1922年と非常に古い。ヴァン・ダインのベンスンが1926年、エラリー・クイーンのローマ帽子が1929年であり、それらより古い。何を言いたいかというとこの作品は百年以上前の古い時代の作品で、乱歩の評価も昔にされた。現在、この作品を読んでもそれほど感心しない読者は多かろう。物語の初めの方で二人の人間が失踪すると、一方が他方を殺したようだ、死体がまだ発見されない、などと出てくる。発見されていないのに死体となぜ言えるのか。登場人物についても、この人物が怪しいとわざわざ強調して書いているのかと思うほどである。本作品で使われている設定やトリックはその後の多くの推理小説でお馴染みになっている。

我々が乱歩よりも勝っているのは、現在までのより多くの推理小説に親しんでいるという点である。推理小説のトリックなどは大して多くないから、若干の変更等で使い回ししている。推理小説を読んで似ている、別の作品を思い浮かぶのは珍しくないだろう。だから今の我々が90年前の乱歩ほど感心しないのは当たり前である。また解説に今ではフィルポッツが推理小説界で評価されていないと書いてあるが、現在ではもっと積極的に、フィルポッツは人として否定されているとインターネットに書いてある。まさに現代的な理由である。

フィルポッツと言えば『闇からの声』に言及したい。昔、中島河太郎という、推理小説専門の評論家(当時はこの人くらいだった)がいて、解説などをよく書いていた。随分自分の好き嫌いを前面に出して書いていて、自分は好きではなかった。この人が『Yの悲劇』の解説だったか、古今の推理小説のベスト3として『Yの悲劇』『黄色い部屋の謎』『闇からの声』を挙げ、特にYの悲劇を絶賛していた。欧米では今では全く言及されない『Yの悲劇』が、わが国では今だにNO.1扱いされているのは、この人の影響があるのかと自分には思えるほどである。『闇からの声』についてどう書いていたか忘れた。『闇からの声』は犯人捜し、トリックものの推理小説でなく、サスペンスなのだが、この『赤毛のレドメイン家』と非常に構成が似ている。久しぶりに『赤毛のレドメイン家』を読み直してそう思った。(武藤崇恵訳、創元推理文庫、2019)

2025年1月4日土曜日

モンパルナスの夜 La tete d’un homme 1933

デュヴィヴィエ監督、仏、92分。シムノンの『男の首』の映画化。原題は小説と同じだが映画の邦題は表記のようになっている。映画では若干筋を変えている。小説のように事件の謎を解くのではなく、倒叙物のように犯罪の順に従って映画にしている。映画の筋は次の様。

男は金がないのに金使いが荒い。金持ちの米人の叔母がいて死ねば財産が入る。その男にメモが届く。叔母を殺してやる。その代わりに大金を寄こせと。男はためらうが結局これをのむ。叔母の家に泥棒が入る。それも指示に従っての犯罪だった。部屋に入ると老婦人が死んでいる。泥棒の前に指示した男が現れ、何も言うな、警察に捕まっても出してやると命令する。泥棒は逃げるが警察に捕まり、殺人の犯人にされる。メグレ警視は男が犯人でないと睨み、護送中わざと逃がす。

メグレ警視は酒場で飲んでいるチェコ人を知る。無銭飲食だったが警察に連れていかれると札束を持っている。メグレ警視はこの男を怪しみ、尾行させる。叔母が死んで遺産を相続した男のところに、チェコ人は来て約束の金を要求する。メグレらが来て、相続人とチェコ人の関係をただす。みんなで酒場に行く。チェコ人は相続人の情婦を連れ出し、自分のものにしたい気でいる。相続人はもはや自分の関わり合いが分かると判断し、酒場で銃でもって自殺する。メグレらがチェコ人を捕まえに行くと待っていたチェコ人に部下が刺される。チェコ人は街中を逃げるがバスに轢かれ死ぬ。

2025年1月3日金曜日

ノアの箱船 Noah’s arrk 1928

マイケル・カーチス監督、米、99分、無声と発声の混交。聖書の有名な逸話だけの映画化ではない。現代の戦争(第一次世界大戦)も主要な舞台である。聖書の警句が引用される。

オリエント急行のような列車に人々が乗っている。嵐で橋が崩れ、列車は谷底へ転落する。米人の二人の男は若い女を助ける。宿屋で休息をとる。女はドイツ人で米人の男は好きになる。粗暴なロシヤ人から女を守る。戦争が始まる。米人の友人は直ちに志願する。米人はドイツ人の女と結婚する。パリで戦争に向かう兵隊らを見て、その中に友人も見出す。男も参戦しようと気になる。女は止めるがきかない。戦闘で友人に会う。その時に友人は死ぬ。女は踊り子をしながら夫を捜していた。あのロシヤ人が女を見つける。自分の思い通りにしないとスパイと告発するぞと脅す。女は逃げようとするが、ロシヤ人に捕まり裁判で死刑を宣告される。兵隊らが銃を女に構える。兵士の中に自分の妻を見出した男がいた。自分の妻だ、スパイのはずがないと叫ぶ。ロシヤ人は命令されていると言うが、その時、敵から攻撃を受け刑場は破壊される。

そこにいた牧師がノアの箱船の話を始める。聖書の挿話以外にも話がある。ノアの息子の嫁が邪教を信じる悪徳王に捉えられて生贄にされそうになる。助けにいった息子は目を潰され臼回しにされる。雷が鳴り響き、大雨で洪水となり、王の町や宮殿を破壊する。ノアの息子は妻を捜しに行く。妻を抱え、箱船にたどり着く。また雷で息子の眼は開いた。このように神の力によって救われたと牧師が言うと、その時、休戦の知らせが届いた。

シムノン『ある男の首』 La tete d’un homme 1931

死刑囚が刑務所から出てくる(脱走する)ところから始まる。実はこれは警察側が仕組んだもので、逮捕したメグレ警視は犯人でないと感じていた。ある夫人とその同居人が殺された。その犯人とされた。出た囚人はパリ中をさまよい歩く。警察が期待したほど真相は良く分からない。

夫人の財産を相続した金遣いの荒い甥がいる。また謎のチェコ人がいる。後に甥は自殺する。チェコ人は盛んにメグレをからかう。お前などに真相は分からないと。このチェコ人が犯人だったわけである。自分の頭の良さを試したく、またひけらかしかった男である。(石川湧訳、世界推理小説大系第7巻、昭和48年)

2025年1月2日木曜日

ショーペンハウアー『幸福について』 Aphorismen zur Lebensweisheit 1851

哲学者ショーペンハウアーの幸福論である。

ショーペンハウアーは人間の差異を決定するものを3つに分けている。1はその人がどんな者か、2何を持っているか、3その人が与える印象。このうち幸福にとって重要なものは、1の本人がどんな人間であるかである。2や3の何を持っているかとか他人にどう映るかなどは関係ない。しかし世の人はどんな物を所有しているか、や他人にどう自分が映るなどに拘泥している。自分自身が満ち足りた意識を持たない限り、幸福になれない。(鈴木芳子訳、光文社古典新訳文庫、2018)

2025年1月1日水曜日

ボヴァリイ夫人 Madame Bovary 1934

ルノワール監督、仏、98分。フローベールの有名作の映画化。

医師と結婚したエンマは退屈な日常に耐えられず浮気を重ねる。また借金で首が回らなくなり、最後に自殺する。自ら招いた窮地なのに、自分ほど不幸な者はいないと嘆いている。自業自得なのであるが本人は全くそう思っていない。正直なところエンマのような人間は、自殺まで至らないにしても、世の中結構多いのではないか。お金を使わないと(贅沢をしないと)幸福になれないと思っている。贅沢とは自分が自由になる以上のお金を使うことである。エンマの夫、医師であるシャルルは全く鈍感で呆れる。これが写実小説と言われるのは良く分からない。

映画は戦前の作で、今より小説の舞台である19世紀の前半に近かっただろうから、当時の風俗の再現は比較的容易だったろう。昔のフランスの田舎の風景の一例として映画を観られる。