2025年1月31日金曜日

佐木隆三『復讐するは我にあり』 1975(初版)

昭和38年秋以降に起きた西口彰(根津巌)による連続殺人、詐欺事件を記録した本。これを基にした今村昌平監督の映画は有名である。この原著では映画にしなかった事件等の記述もある。例えば北海道まで行って詐欺を働いたとかがそうである。映画では脚色が当然あり、父親と妻の関係などは目につく映画での創作である。

それにしても最初の福岡県で二人を殺害する強盗殺人が起きたのは10月であり、年内のうちに殺人だけでも浜松で二人、東京で一人を殺している。その間、多くの詐欺窃盗を全国で行なっている。熊本県で少女が見抜き、逮捕されたのは明くる年の正月である。3ヶ月弱という間に恐るべき連続殺人を起こした。

この昭和38年という年は、3月に吉展ちゃん事件、5月に狭山事件が起こり、重大な犯罪が頻発している。西口事件は犠牲者が多かったが、早く解決したと言える。それにしても昭和38年というオリンピック前年の年は、マス・メディアは白黒テレビ、新聞、ラジオ、雑誌、映画だけの時代であり、電話(もちろん固定)だって各家庭に行きわたっていなかった。個人のプライバシー(この言葉があったかどうかも不明)保護は今からすると、なかったような時代である。(文春文庫、2009(改訂新版))

2025年1月30日木曜日

ベッスリアの女王 Judith of Bethulia 1914

D・W・グリフィス監督、米、無声映画、50分。旧約聖書外典「ユディト記」にあるユディトによる敵の将軍ホロフェルネスの首斬りの挿話、カラヴァッジョその他の絵画で名高い、を元にした映画。

アッシリアから派遣されたホロフェルネス将軍はユダヤ人の町ベトリア(ベッスリア)を包囲する。城壁に囲まれ、なかなか陥落しない。将軍は持久戦に出て町を囲み、外にある井戸に住民が近づけないようにする。飢えなどで住民は倒れていく。

未亡人であるユディトは召使を連れてホロフェルネスの陣地に行く。そこで色仕掛けでホロフェルネスの気を引く。夜にホロフェルネスと二人きりになったところで、剣でもってホロフェルネスの首を斬る。何度かためらってユディトは剣を振り下ろそうと迷う。画面が変わるとホロフェルネスの首はギロチンで斬られたように下にころがる。召使と共にその首を密かに抱えてベトリアの町に戻る。敵の将軍の首を斬ったというので、住民の士気は上がり、敵勢に切り込む。将軍を失った敵は敗走していく。

2025年1月29日水曜日

福田和也『作家の値うち』飛鳥新社 2000

評論家の著者が現役の主要な作家百人(純文学、エンターテインメント系、五十人ずつ)を選び、その作家の作品について百点満点で点数をつけている。作品毎の評価だから作家の値打ちでなく、小説の値打ちである。しかも78点とか64点など一桁の単位まで数字で評価しているが、一体78点にして77点に、あるいは79点にしなかった理由が書いていない。90点以上、80点以上、などと10毎に区切ってその範囲の作品を世界文学の水準とか、一番下は人前で読むのが恥ずかしいとか書いてある。それなら甲乙丙では5段階しかないから、A、B、C、とかI、II、III、IV、などの区分で十分である。

純文学とエンターテインメントの違いをコラムで書いているが、納得できる理由でない。実際の夫々の作品の評価は読んでいないものが多く、それらについては何とも言えないが、読んだのに全くここの評価が違う物が結構ある。正しい評価というのがあるのか。ここの評価も読書感想文にしか思えなかった。専門家なら客観的な評価の仕方(そういうものがあれば)示してもらい、それに従って点数つけをするべきである。

この本の値打ちはいかほどか。文庫化されず、単行本も絶版か品切れのようである。これがこの本に対する四半世紀たってからの評価である。

2025年1月28日火曜日

西村京太郎『天使の傷痕』 昭和40年

主人公の新聞記者は婚約者と東京西部にデートでピクニックに行く。ところが野道を歩いていると悲鳴が聞こえる。崖の下に降りてみると男が短剣状の凶器が胸に刺さっており、「テン」と呟いて死ぬ。警察を呼ぶ。この男は後に人にたかって金をせしめる悪徳ジャーナリストと分かる。死に際のテンという言葉の意味は何か。テンとは天使を指すようだ。エンゼルという名のストリッパーやバーで天使のつくところなどが被害者と関係がある。その中の関係者を警察が追っていると事故死してしまう。

新聞記者は独自に捜査していたが、警察が見つけた証拠の一部を見て、それが婚約者に関係があると知り、愕然とする。自分の婚約者が犯人ではないか。デートに連れ出したのもそこで殺人を行ない、偽装するためではなかったのか。婚約者は白状し逮捕される。しかし新聞記者は納得がいかない。その動機が理解できない。更にそれを探っていくと婚約者の姉につきあたる。姉は結婚している。しかし表向きは死んだとなっている幼い子供がいて、サリドマイド児なため施設に入れていた。それをネタにゆすっていた男を殺したのである。(講談社文庫、2015年)

2025年1月27日月曜日

宮部みゆき『火車』 平成4年

主人公は怪我で休職中の刑事である。身内の若い男から婚約者が失踪したので見つけてほしいとの依頼で捜し始める。女の過去は不明だった。以前勤めていた会社を訪ねても身元が分からない。刑事は捜していくうちに、失踪した女は自称して周囲が信じていた名前の持ち主でないと知る。しかもその名の実在の女はいた。その女はどうなったのか。また失踪した女の正体は何か、を探る。

結局のところ、失踪した女は親の住宅ローンが焦げ付き、親がサラ金を利用したためその債務に苦しんだだけでなく、娘まで暴力団の魔の手が伸びてきたので、自分の戸籍を抹消し、他人の女の戸籍を利用するため、その女を殺したというのが真相だった。それにしても殺す必要はあったかどうか。殺さず、何らかの方法で新たな戸籍を獲得する方法を考えるべきではなかったのか。それよりこの悲劇はサラ金業者の暴力団が、映画のターミネーター顔負けに徹底的に、債務者の子供まで悪魔の如く取りつくのが元々の原因である。サラ金問題は覚えているが、ここまでひどいことをサラ金側はできたのか。警察があてに出来なくとも容疑者は非常な美人という設定で、若い男が二人も結婚したいと思ったほどだから、しかも自分に罪はないのだから、協力してもらえなかったのか。親のせいでひどい目に会っている女が殺人をして本当の罪人になってしまい、それで幸せが手に入ると思ったのか。運よく結婚できてもいつ警察に自分の犯罪がばれるかと、残りの一生を心配しながら過ごすことになる。

ともかくサラ金問題は規制法が出来て過去の話となった。この小説で知識が増えたのは、大阪球場(こういう球場があったこと自体知らなかったが)が球場としての役割を終えたのち、グランドに住宅展示場を作っていたという事実で、今ではインターネットでその当時の写真を見れるから見て面白いと思った。(新潮文庫、平成24年改版)

2025年1月26日日曜日

殿方は嘘吐き Gli uomini, che mascalzoni… 1932

マリオ・カメー二監督、伊、62分。主演は若き日のヴィットリオ・デ・シーカが演じている。青年は街で見かけた若い女の後をつける。自転車に乗り、女が路面電車に乗ってからも追っかける。女の勤め先に着いてからも追うが、自動車でないとだめと店員らから言われる。

青年は仕える主人の自動車に用があると言われるが、故障していると言い、その車で女の店まで行き女を誘う。家まで送ると言って同乗させたのだが、郊外の湖までドライブに行く。そこのレストランで休憩していた。車を見に外に行くと丁度主人の妻が友人らといて、声をかけられ自宅まで送る羽目になる。急いで湖に戻ろうとして途中で事故を起こす。女はおいてけばりになり、レストランで泊めてもらう。明くる日青年が娘の店に行っても無視される。また今度は青年が無視されるなどのやりとりがあって最終的にはまるく収まる。

2025年1月25日土曜日

ミラノの奇蹟 Miracolo a Milano 1951

ヴィットリオ・デ・シーカ監督、伊、92分、白黒映画。

婦人は畑の中に赤ん坊を見つける。育てる。まだその男の子が小さいうちに婦人は亡くなる。男の子は孤児院に行かされる。成人して孤児院を出る。愛想のよい積極的な青年になる。貧しい人々が郊外に集落を作る。バラックのような家ばかりである。青年もそこに住む。ある日、集落の真ん中から水が噴き出し、更に原油が噴出する。土地の所有権者がやって来る。住んでいる人々を追い出そうとする。青年は亡くなった育ての母親が天国からやってきて願いが叶う鳩を渡す。これで青年は集落の人々の願いを次々と叶えてやる。人々は追立をくらい何台かの護送車で運ばれる。ミラノの中心地まで来た時、願いをして護送車は分解する。青年は恋人と、また他の人々も箒にまたがり、空中に飛び立ち、みんな雲の中に消えていく。

バート・I・ゴードンの恐竜王 King dinosaur 1955

バート・I・ゴードン監督、米、63分、白黒映画。

地球の近くに未知の惑星が現れた。その探検用のロケットが打ち上げられる。乗組員は男女2名ずつ計4人。惑星に着く。といっても草叢が茂る、どこか地球の未踏の孤島か場所のようなところ。宇宙服を着ているがすぐに脱ぐ。湖がある。そこに巨大な爬虫類、鰐やイグアナ、アルマジロ、蜥蜴が出現する。乗組員を襲うので洞穴に隠れる。爬虫類同士の闘いが始まる。それを避けて逃げ地球に帰還する。恐竜王でなく爬虫類王といった方が正確な映画である。

2025年1月22日水曜日

横溝正史『獄門島』 昭和22年

金田一耕助ものでは『本陣殺人事件』に次ぐ作品である。

金田一は戦争から復員してくる。帰りの船で亡くなった友人の言伝をその故郷、獄門島に届けるためである。獄門島とは瀬戸内海にあり、岡山県の笠岡が一番近い離島である。友人は死に際に三人の妹が殺されるかもしれないと心配していた。獄門島に着く。友人は島一番の旧家で網元である屋敷の跡取りで、金田一の知らせは大打撃となった。張り合うもう一つの旧家がある。亡友の危惧のとおり、妹である娘三人は次々と殺されていく。金田一はいつもの無能ぶりを遺憾なく発揮し、ただ殺されていくのを傍観するばかりである。

さて種明かしを見るとあまりに非現実な動機に開いた口が塞がらない。偉い人間の遺言を実行するために何の恨みもない少女を殺す者など想像できない。しかも凝った殺し方をするのである。何の必要があるのか。殺人者がトップの地位の者であるのも全く納得できない。金持ちや地位のある者は殺人のような犯罪をするわけがない。もしばれた時あまりに損する度合いが大きいから。権力者は殺人を犯さないのである。する必要もない。現代に置き替えても、亡き権力者であった会長の遺言で、自分が恨みもない会長の孫娘を殺害する社長、副社長、専務がいると想像できるか。ばれたら自分も家族もおしまいである。

しかも生きていてもしょうがない連中だと言うのである。神奈川県の施設で起きた殺人事件の犯人と同じ発想である。同様に考える人はいるだろうが、実際に殺す人はごく稀である(いたらこわい)。この小説ではトップの位置にいる者が複数、そのような犯罪を実行するのである。発想の、現代の人権意識に照らして問題云々しているのではない。偏見の塊であったろう、この小説の当時でも、生きていてもしょうがないから、実際に殺してしまう人間が何人もいたとは思えない。殺人方法のトリックも全く期待していないので、何とも思わない。この小説に限って言うのではない。実際の殺人をする場合、物理的な抵抗の他に心理的な抵抗があるはずである。この小説では被害者が小娘だから物理的抵抗はないだろうが、心理的抵抗も何も感じなかったようだ。推理小説では殺す時間さえあれば殺せる、となっている。しかし人間の計画することは実際その通りできないものだし、実際に人を殺す際の(良心を言っているのでない)心理的なとまどいや躊躇は大きいはずである。ともかくこれほど非現実的な、ありえない推理小説は他になくそういう意味で驚く。

2025年1月20日月曜日

正木ひろし『首なし事件の記録』講談社現代新書 昭和48年

著者が戦時中に関わった事件で、著者の弁護士としての人生行路を変えた事件という。

茨城県の炭鉱のある町で鉱夫が警察署で死んだ。警察に暴行を受けたからではないか、疑問を持った炭鉱主が来て調べてもらいたいとのこと。最初は軽い気持ちで検事に会いに行って調べて欲しいと頼んだが、返事は遅く、非常に気にしているようだった。それで著者は本格的に乗り出す気になった。

現地に赴き、仲間の炭鉱夫らから話を聞く。また検死した医師に会うと、脳溢血を起こして病死したと言う。納得できない著者は東京に戻り、東大の古畑教授に死体を診てもらえないか頼むと、民間からの要請には応じられないと答えがくる。別の教授を通じて診てもらえそうになったが、死体を東京まで運んで来るわけにもいかない。それで首だけ切って持ってくることになった。そのための助手までつけてくれた。現地のお寺に行って秘密裡に墓を掘り返し、首を切って東京まで持って帰った。古畑教授は診て、これは打撲によると言ってくれた。

それからの裁判が大変だった。告発した警察官が被告となったが、被告側に有利なように裁判が進んでいく。戦争激化で一旦裁判は中止になり、戦後になって新しい法体系の下でようやく警察官に有罪判決が出た。なお森谷司郎監督の映画『首』(昭和43年)は本事件を元にしているが、首の鑑定のところまでで、その後の裁判経過は映画では省かれている。

アイリッシュ『暁の死線』 Deadline at dawn 1944

ダンスホールの踊り子をしている女は、ある男に長時間相手をした。

切符を沢山持っているのに終わってから踊る気はなく、女にやろうとする。女はいらないと答える。男は切符を捨てる。女が帰ろうとすると男は後をつけてくる。自宅のあるアパートに戻り、窓の外を見るとあの男はまだいる。パトカーが近づいてくると男は慌てて隠れる。女は下に降りて行って、男を呼ぶ。自分の部屋に入れる。話し合っていると、なんと、二人は同郷で同じ町に住んでいたと分かる。町の思い出を語り合う。また自分らがニューヨークにやって来た訳を話す。男は告白する。犯罪で金を取ってきたのだ。工事をしていて金持ちの家に金庫があるのを偶然見つける。家の鍵がなぜか自分の持ち物に入っていた。金持ちはどこかに休暇に行く。家は空いている。鍵で難なく家に入る。金庫を見つけ壊して金を取る。大金である。レストランに入って前から憧れていた料理を注文する。来ても全く喉に入らない。レストランを出る。夜になってダンスホールに行き女に会う。

レストランのところまで来て我慢のdeadlineにぶち当たった。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。ストーカーの男を自分の部屋に入れる?それがたまたま同郷だった!ありえない。しかも男は泥棒に入り、大金を盗むのにそれを使おうにも食事が喉を通らない。いかに男が善人であったか、犯罪とはほど遠い人間であるかと言いたいらしいが、全く呆れた。こんな馬鹿馬鹿しい本はめったにない。(稲葉明雄訳、創元推理文庫、2016)

2025年1月19日日曜日

小林一三『逸翁自叙伝』 1990

逸翁とは、阪急電鉄、宝塚(少女)歌劇、東宝などを創業した小林一三の雅号。近代の実業家の中でも大物の一人である。

明治の初期に山梨県に生まれた。ただこの自伝の他と異なる点は、生まれた場所や幼少期について何も語っていない。慶応義塾に入るところから始まる。慶応を出て三井銀行に入る。三井銀行時代の思い出が延々と続く。なおこの自伝は昭和27年に出されたもので、今から70年以上前である。その時点で大昔の事と言って書いているのだから、今からすると想像もつかない時代である。明治時代の銀行員生活の一例が分かる。銀行は大阪支店に配属された。戦前の大阪は経済の中心で、東京は政治都市だけだった時代である。東京一極集中は戦後の話。上司や同僚などを率直に評価しているが、著者を含め鬼籍に入っている人たちである。銀行家からの引きで証券業を始めようとしたら日露戦争後の不況期になってしまい、結局のところ鉄道業に携わる。後半の記述は鉄道史や関西在住者には興味があろう。(図書出版社)

逃げる女 Woman in hidng 1950

マイケル・ゴードン監督、米、93分。車で逃げる女の場面から映画は始まる。スピードがあり、しかもブレーキが効かないので、車は川に落ちる。明くる日捜索隊が出るが、死体は見つからない。ここから過去に遡る。製材所の社長の娘が女主人公で、働く男と結婚の約束がある。父親はこの男を買っておらず結婚には反対である。社長が事故で死ぬ。女は男と結婚し、新婚旅行で別荘に行くと、男の情婦がいた。男に騙されたと言って去る。女は自分の夫に詰問するが夫は馬耳東風。後に隙を見て別荘から女は逃げる。

ここが冒頭の場面。ブレーキを夫が細工していたので川に落ちる。女は逃げる。死体が見つからず、女が死んでいないとみた夫は懸賞金を出して捜そうとする。女が逃げようとしていた待合所で、ある男が懸賞金つきの女と発見する。女に助けてやり親切そうに振る舞うが、夫に電話する。夫から逃げているという女の言を信用していなかった。夫が来て女を捕まえる。男はその後、女の言葉が本当だったと知り、女を助けるため奔走する。それからは色々あり、最後は夫は死に、女は男と一緒になる。

2025年1月18日土曜日

ウールリッチ『黒いアリバイ』 Black alibi 1942

南米が舞台の小説である。アメリカから来た人気の女の芸人がいる。マネージャーは豹を連れてきて、女と一緒にさせ、話題作りにしようと目論む。ところがレストランで豹が暴れ出し、女をひっくり返し逃亡する。豹の行方を追うが見つからない。その後、若い女の連続殺人事件が起きる。最初は貧しい家の娘で使いに行った帰りに襲われ、母親が扉に錠をしたため入れず殺される。次は恋人に会うため、墓参りと称して墓地に来た令嬢が殺される。友達同士の若い女二人が寂しい公園に行き、一人が殺される。殺人に至るまでの話が長々とある。

警察は豹の仕業というが、豹を連れてきたマネージャーの男は否定する。人間が豹を操っていると思っている。男は犯人を捕まえるため、最後の事件で生き延びた連れの女に囮になってくれと頼む。初めは嫌がったが承知する。公園で女が待っているが犯人らしき者は来ない。ここまで連れて来た馬車が女を迎えに来る。乗って行く。実は犯人は馬車の御者に化けていたのである。隠れていた男は追う。幸い、協力してくれた別の事件の犠牲者の恋人が犯人をやっつけた。豹を操る男は警察の警部だった。(稲葉明雄訳、世界推理小説大系第9巻、講談社、昭和47年)

ハメット『赤い収穫』 Red harvest 1929

探偵社の男が鉱山町に呼ばれて来る。依頼主は殺された。その父親が町を牛耳っており、ギャングらの抗争がある。一方のボスの女は金のことばかり頭にあるが、極めて印象的な女である。主人公の探偵は恐ろしく頭の切れる男で、ギャングの出方などを推理できる。警察のボスも食えない男で、主人公をいいように使おうとする。

ともかくギャングの抗争で登場人物のほとんどが殺されるというとんでもない小説である。主人公が生き延びるのは小説の主人公だからと思えるほどである。なにしろシカゴでカポネがいた当時の小説である。馬に乗っていない西部劇の連中が、撃ち合いでバタバタ死んでいくようなものである。(稲葉明雄訳、世界推理小説大系第9巻、講談社、昭和47年)

2025年1月16日木曜日

2ペンスの希望 Due soldi di speranza 1952

カステラ-二監督、伊、92分。田舎の町。息子が軍隊から帰ってくる。母親は大歓迎するが、きょうだいが多く、仕事がない。

相思の女がいる。花火屋の娘で、父親は文無しの男など眼中にない。坂を上る馬車を押すアルバイトを始める。バスを買おうと馬車の連中が言い出す。バスを買うが誰が仕切るかなどでもめ、バス運行は無くなる。ナポリへ行っても仕事のない者は居住できないと警察から言われる。教会で仕事をもらい働く。夜の間に密かにナポリに行き、朝帰ってくる。恋人の娘は後を追う。共産主義者の手伝いをしていると知る。だがこれが教会に知られ馘になる。男はナポリで映画のフィルムを映画館に届ける仕事に就く。ある日、病気の幼い子供に献血し、その母親から感謝される。男は映画の映写技師になる。女が追ってきて映写室に二人でいる時、子供の母親が来て二人を非難する。男は馘になる。男との付き合いを父親に禁じられた娘は絶望してやけになり、花火庫を爆破させ、時ならぬ花火の饗宴になる。

男は娘と一緒になりたく娘の伯母に父親を説得してもらう。二人を家に寄こせと父親は言う。二人が父親宅に着くと荷物を二人に投げ出し、出ていけと言う。男は抗議する。娘は潔白だ。父親にもらった物などいらないと言って娘を裸にする。靴も投げ出し裸足にする。街の連中が服などを与え、つけで買うと男は言う。街は二人を立派な身なりをさせ、見送る。

2025年1月15日水曜日

暴君ネロ The sign of the cross 1932

セシル・B・デミル監督、米、125分。キリスト教徒が迫害されていたローマ帝政期、ネロはローマに火を放ちキリスト教徒の仕業と言いふらす。女主人公はキリスト教徒だった。たまたまローマ長官マーカスが目に止め、恋する。何くれと女の手助けをする。マーカスに恋するネロの妃はマーカスがキリスト教徒の女に惹かれていると知り嫉妬の炎を燃やす。

女の家にいる少年に使いを出すと、少年が女の名を言ったため、ローマ兵に捉えられる。拷問を受け、キリスト教徒の集会の場を吐いてしまう。キリスト教徒が集会を開いていると、ローマ兵がやって来て矢を射って次々と殺される。マーカスが来て殺戮を止めるが教徒は捕まる。コロセウムで見世物を兼ね、様々な催し物が開催される。キリスト教徒を引き出しライオンの餌食にしようとする。マーカスは牢にやって来て女に逃げようと勧めるが、女は他の者たちと同様にする、マーカスに天国に行けると言う。それならばと女と手を取ってマーカスも刑場に歩む。

罠 Pièges 1939

シオドマク監督、仏、107分。新聞求人欄を利用した、女の連続失踪事件が起きる。ダンサーである主人公の友人も消えた。主人公の女は警察に頼まれ、囮捜査に協力する。次々と求人に応じるが、手がかりがつかめない。

そのうちにプレイボーイで金持ちのモーリス・シュヴァリエが女に目を止める。シュヴァリエは女をいたく気に入り、何とかしてものにしようと求婚する。女も承諾した。しかし結婚が決まってから、シュヴァリエの引き出しに、失踪した友人も含めその他の女、更に自分の写真等が入っていた。これはシュヴァリエが犯人の証拠だと思う。警察に連絡し刑事に来てもらう。最終的には、シュヴァリエの雇人が犯人でシュヴァリエを陥れるため、細工をしていたと分かる。女はシュヴァリエと結婚する。

2025年1月13日月曜日

大下宇陀児『昆虫男爵』 昭和13年

昆虫の中には胎生の虫がいると主張する奇人の学者がいて、昆虫男爵とあだ名されている。友人の学者とその胎生昆虫を捜しに銀座に行く。いきなり通行人に襲い掛かり、瀕死の重傷を負わせ、これが昆虫だと言う。友人は男爵の精神状態がまともでないとして、高原の別荘で安静治療させる。

女芸人で昆虫の鳴き真似をする者がいたので、友人は別荘に連れてくる。もう治療を長くしているので治ったのではないかと、女芸人に虫の鳴き真似をさせて反応を診る。その場ではそれほどではなかったが、夜中に惨劇が起こる。女芸人は残虐極まりない方法で殺されているのを朝発見し、男爵は外の木で首をくくっている。男爵が女芸人を殺し、自殺したかと見えた。真相はそうでない。たまたま休暇に来ていた杉浦良平探偵と助手の影山が居合わせ、事件が解決される。これも読者宛ての犯人捜しの質問状が途中にある。

大下宇陀児『蛇寺殺人』 昭和12年

杉浦良平という探偵が活躍する。もう老人で無声映画『カリガリ博士』の同名の主人公に似ているという。影山という若い助手がいる。女から助けを求める電話がかかってきて、途中で切れる。そこの場所を捜すとお寺であった。女などいない、男ばかりの寺であり電話の件は不明である。寺で蛇に嚙まれた若い女を助ける。芸妓であった。後日、その寺の経堂が火事になり全焼、焼け跡から黒焦げの死体が見つかった。

種明かしは寺の住職や若い僧が実は悪党で、二人の芸妓と関係があった。焼死体はそのうちの一人であった。これも途中で読者への犯人当ての質問状が入っている。

2025年1月12日日曜日

大下宇陀児『風船殺人』 昭和10年

風船が大好きな金持ちの未亡人がいる。ある日、人の顔をしたおかしな風船が仏帰りの画家から贈られてきた。夫人の部屋は風船で一杯である。後に夫人が部屋で殺されているのが発見された。更に怪奇な風船を贈った画家も居合わせたのであるが、この画家も土蔵の中で殺されていた。犯人は誰かという短篇推理文庫である。途中で犯人は誰かという、エラリー・クイーンばりの著者から読者への質問状が入っている。

大下宇陀児『蛭川博士』 昭和4年

江ノ島近くの海岸で若い女が刺殺される。怪しい男を見たという情報は、男の恰好がかなり違う証言になった。被害者と一緒にいた婦人は蛭川博士という男の妻であった。刑事が蛭川博士宅を訪ねると魁偉な唖の男に邪魔される。蛭川博士の夫人が現れる。唖は家来と言い、蛭川博士は癩病で会えないと断られる。

不良グループがいてその長は合いの子、混血児である。この男が探偵役となる。仲間の一人は海岸殺人事件の現場にいて警察に嘘の証言をしていた。話はある指環を巡って、そのため複数の殺人が起こる。また最大の謎である蛭川博士は途中で殺されたとなるが、その真相が小説の最大の核心である。(論創ミステリ叢書第52巻、2012年)

2025年1月11日土曜日

偽りの果て Non coupable 1947

アンリ・ドコアン監督、仏、94分。主人公である中年の医師は今ではすっかり飲んだくれになっている。飲んだ帰りに妻と一緒に車を飛ばしていると、向こうから来たオートバイと衝突する。乗っていた男は死んだ。医師はこれをオートバイだけの事故のように見せかけて去る。明くる日の警察の調べでもオートバイの単独事故とみなしている。

車の修理に出す。しかしこの車屋が怪しい。妻と通じているのではないか、疑いを医師は持つ。後に車屋は殺された。また自分が往診でみている患者について他の医師の医師の意見を聞くこととなった。この医師は主人公に対して好意的でなく、主人公に不利な行為をしていた。この医師も死体で見つかる。主人公は妻を信じていない。その妻を罠にかけ、死ぬような工夫をする。ところが直前になって考え直し、妻を助けようとするが間に合わない。妻は死ぬ。主人公は自首しようとするのだが、警察は相手にしない。車屋や医師の殺人は妻だと思っているからである。何が真相か。

2025年1月6日月曜日

恋のページェント The scarlet empress 1934

スタンバーク監督、米、104分、マレーネ・ディートリッヒ主演。ロシヤの女帝エカチェリーナ二世の伝記映画である。ディートリッヒがドイツの貴族の娘からロシヤの大公の妃となり、後にエカチェリーナ二世となるまでの映画である。

まずディートリッヒ演じるドイツの貴族の娘のところに、ロシヤから求婚の使いがやって来る。結構美男子の使節に皇帝はどんな男か尋ねると、この上なく立派な男子であると答えが返ってくる。ロシヤまで赴く。実際に会うと大公は痴愚に近いようなおかしな男だった。大公の母である皇太后がロシヤを仕切っていて、ディートリッヒにあれこれ指図命令をする。ディートリッヒは臣下の男たちに惹かれ、大公には愛人がいる。皇太后が亡くなる。後を継いでピョートル三世となった大公は悪政の限りを尽くす。愛人と一緒になりディートリッヒを追い出すつもりでいる。ディートリッヒも臣下たちを引き連れ、ピョートル三世を倒してエカチェリーナ二世となるところで映画は終わる。

フィルポッツ『赤毛のレドメイン家』 Red Redmaynes 1922

フィルポッツのこの作品は必ず江戸川乱歩の称賛が引用される。

この文庫の扉にも掲載されている。この乱歩の言葉はいつ言われたか。解説に1935(昭和10)年とある。(解説、p.434)原作の発表も1922年と非常に古い。ヴァン・ダインのベンスンが1926年、エラリー・クイーンのローマ帽子が1929年であり、それらより古い。何を言いたいかというとこの作品は百年以上前の古い時代の作品で、乱歩の評価も昔にされた。現在、この作品を読んでもそれほど感心しない読者は多かろう。物語の初めの方で二人の人間が失踪すると、一方が他方を殺したようだ、死体がまだ発見されない、などと出てくる。発見されていないのに死体となぜ言えるのか。登場人物についても、この人物が怪しいとわざわざ強調して書いているのかと思うほどである。本作品で使われている設定やトリックはその後の多くの推理小説でお馴染みになっている。

我々が乱歩よりも勝っているのは、現在までのより多くの推理小説に親しんでいるという点である。推理小説のトリックなどは大して多くないから、若干の変更等で使い回ししている。推理小説を読んで似ている、別の作品を思い浮かぶのは珍しくないだろう。だから今の我々が90年前の乱歩ほど感心しないのは当たり前である。また解説に今ではフィルポッツが推理小説界で評価されていないと書いてあるが、現在ではもっと積極的に、フィルポッツは人として否定されているとインターネットに書いてある。まさに現代的な理由である。

フィルポッツと言えば『闇からの声』に言及したい。昔、中島河太郎という、推理小説専門の評論家(当時はこの人くらいだった)がいて、解説などをよく書いていた。随分自分の好き嫌いを前面に出して書いていて、自分は好きではなかった。この人が『Yの悲劇』の解説だったか、古今の推理小説のベスト3として『Yの悲劇』『黄色い部屋の謎』『闇からの声』を挙げ、特にYの悲劇を絶賛していた。欧米では今では全く言及されない『Yの悲劇』が、わが国では今だにNO.1扱いされているのは、この人の影響があるのかと自分には思えるほどである。『闇からの声』についてどう書いていたか忘れた。『闇からの声』は犯人捜し、トリックものの推理小説でなく、サスペンスなのだが、この『赤毛のレドメイン家』と非常に構成が似ている。久しぶりに『赤毛のレドメイン家』を読み直してそう思った。(武藤崇恵訳、創元推理文庫、2019)

2025年1月4日土曜日

モンパルナスの夜 La tete d’un homme 1933

デュヴィヴィエ監督、仏、92分。シムノンの『男の首』の映画化。原題は小説と同じだが映画の邦題は表記のようになっている。映画では若干筋を変えている。小説のように事件の謎を解くのではなく、倒叙物のように犯罪の順に従って映画にしている。映画の筋は次の様。

男は金がないのに金使いが荒い。金持ちの米人の叔母がいて死ねば財産が入る。その男にメモが届く。叔母を殺してやる。その代わりに大金を寄こせと。男はためらうが結局これをのむ。叔母の家に泥棒が入る。それも指示に従っての犯罪だった。部屋に入ると老婦人が死んでいる。泥棒の前に指示した男が現れ、何も言うな、警察に捕まっても出してやると命令する。泥棒は逃げるが警察に捕まり、殺人の犯人にされる。メグレ警視は男が犯人でないと睨み、護送中わざと逃がす。

メグレ警視は酒場で飲んでいるチェコ人を知る。無銭飲食だったが警察に連れていかれると札束を持っている。メグレ警視はこの男を怪しみ、尾行させる。叔母が死んで遺産を相続した男のところに、チェコ人は来て約束の金を要求する。メグレらが来て、相続人とチェコ人の関係をただす。みんなで酒場に行く。チェコ人は相続人の情婦を連れ出し、自分のものにしたい気でいる。相続人はもはや自分の関わり合いが分かると判断し、酒場で銃でもって自殺する。メグレらがチェコ人を捕まえに行くと待っていたチェコ人に部下が刺される。チェコ人は街中を逃げるがバスに轢かれ死ぬ。

2025年1月3日金曜日

ノアの箱船 Noah’s arrk 1928

マイケル・カーチス監督、米、99分、無声と発声の混交。聖書の有名な逸話だけの映画化ではない。現代の戦争(第一次世界大戦)も主要な舞台である。聖書の警句が引用される。

オリエント急行のような列車に人々が乗っている。嵐で橋が崩れ、列車は谷底へ転落する。米人の二人の男は若い女を助ける。宿屋で休息をとる。女はドイツ人で米人の男は好きになる。粗暴なロシヤ人から女を守る。戦争が始まる。米人の友人は直ちに志願する。米人はドイツ人の女と結婚する。パリで戦争に向かう兵隊らを見て、その中に友人も見出す。男も参戦しようと気になる。女は止めるがきかない。戦闘で友人に会う。その時に友人は死ぬ。女は踊り子をしながら夫を捜していた。あのロシヤ人が女を見つける。自分の思い通りにしないとスパイと告発するぞと脅す。女は逃げようとするが、ロシヤ人に捕まり裁判で死刑を宣告される。兵隊らが銃を女に構える。兵士の中に自分の妻を見出した男がいた。自分の妻だ、スパイのはずがないと叫ぶ。ロシヤ人は命令されていると言うが、その時、敵から攻撃を受け刑場は破壊される。

そこにいた牧師がノアの箱船の話を始める。聖書の挿話以外にも話がある。ノアの息子の嫁が邪教を信じる悪徳王に捉えられて生贄にされそうになる。助けにいった息子は目を潰され臼回しにされる。雷が鳴り響き、大雨で洪水となり、王の町や宮殿を破壊する。ノアの息子は妻を捜しに行く。妻を抱え、箱船にたどり着く。また雷で息子の眼は開いた。このように神の力によって救われたと牧師が言うと、その時、休戦の知らせが届いた。

シムノン『ある男の首』 La tete d’un homme 1931

死刑囚が刑務所から出てくる(脱走する)ところから始まる。実はこれは警察側が仕組んだもので、逮捕したメグレ警視は犯人でないと感じていた。ある夫人とその同居人が殺された。その犯人とされた。出た囚人はパリ中をさまよい歩く。警察が期待したほど真相は良く分からない。

夫人の財産を相続した金遣いの荒い甥がいる。また謎のチェコ人がいる。後に甥は自殺する。チェコ人は盛んにメグレをからかう。お前などに真相は分からないと。このチェコ人が犯人だったわけである。自分の頭の良さを試したく、またひけらかしかった男である。(石川湧訳、世界推理小説大系第7巻、昭和48年)

2025年1月2日木曜日

ショーペンハウアー『幸福について』 Aphorismen zur Lebensweisheit 1851

哲学者ショーペンハウアーの幸福論である。

ショーペンハウアーは人間の差異を決定するものを3つに分けている。1はその人がどんな者か、2何を持っているか、3その人が与える印象。このうち幸福にとって重要なものは、1の本人がどんな人間であるかである。2や3の何を持っているかとか他人にどう映るかなどは関係ない。しかし世の人はどんな物を所有しているか、や他人にどう自分が映るなどに拘泥している。自分自身が満ち足りた意識を持たない限り、幸福になれない。(鈴木芳子訳、光文社古典新訳文庫、2018)

2025年1月1日水曜日

ボヴァリイ夫人 Madame Bovary 1934

ルノワール監督、仏、98分。フローベールの有名作の映画化。

医師と結婚したエンマは退屈な日常に耐えられず浮気を重ねる。また借金で首が回らなくなり、最後に自殺する。自ら招いた窮地なのに、自分ほど不幸な者はいないと嘆いている。自業自得なのであるが本人は全くそう思っていない。正直なところエンマのような人間は、自殺まで至らないにしても、世の中結構多いのではないか。お金を使わないと(贅沢をしないと)幸福になれないと思っている。贅沢とは自分が自由になる以上のお金を使うことである。エンマの夫、医師であるシャルルは全く鈍感で呆れる。これが写実小説と言われるのは良く分からない。

映画は戦前の作で、今より小説の舞台である19世紀の前半に近かっただろうから、当時の風俗の再現は比較的容易だったろう。昔のフランスの田舎の風景の一例として映画を観られる。