2024年9月30日月曜日

四匹の蝿 4 mosche di velluto grigio 1971

ダリオ・アルジェント監督、伊仏、104分。主人公が夜道を歩いていると、後ろからつけてくる男がいる。主人公は男に詰め寄り、訳を問い質す。その際に男が持っていたナイフが男に突き刺さり、男は倒れる。死んだようだ。しかもいきなり遠くから灯りがついて、その様を撮影していたらしい。

主人公は気が重くなり妻には事件を話す。主人公は首を切られて処刑される夢を何度も見る。電話がかかり主人公を脅かす。実は死んだと思われていた男は実はトリックでそう見せかけただけで、生きていた。しかしその男も真犯人と思われる者に殺される。家の女中が真相に気がつくが、襲われ殺される。主人公は私立探偵を雇い調査される。同性愛の探偵で、やはり殺される。

従妹が家に来ており、これも真相を突き止め殺される。死んだ後、網膜に死ぬ直前の映像が残っているというので調べると四匹の蝿のようだ。この後、主人公は妻のペンダントを見る。するとそこには蝿が埋め込まれていた。被害者はこの動くペンダントを見て四匹の蝿が網膜に残ったのである。妻はなぜこのような凶行に及んだのか。夫への復讐のためである。妻は幼い日から父親に虐待を受け、復讐してやろうと思ったが父親が早死にしてしまう。妻に殺されそうになったが、知人が来て助かる。妻は車で逃げる。よそ見をしていた隙に大型車にぶつかる。大型車の端が車を突き、妻の首はちぎれて落ちる。

中島義道『非社交的社交性』講談社現代新書 2013

書名にある「非社交的社交性」とはカントの言葉である。(p.21)

人間は他人といると不愉快だが、全く一人で生きていくわけにもいかない。カントは自分の時間を取られるのが嫌だった。それでも自分の家を持ってから午餐に数人の客を毎日招待したそうだ。全く自分の仕事とは関係ない者たちばかりで、時間が来るとさっさと食事を止め客を帰し、自分の時間を取り戻したそうだ。こうして全くの人間嫌いにも孤立した生活でもない毎日を送ったという。

本書の第二部は著者が主宰する哲学塾に参加している者のうち、普通の言葉で言えば非常識極まりない若者の生態について述べてある。一体どうしたらこんな人間ができるのか。生い立ちを聞いてみたい気がする。幸い自分はこの歳になるまで、こんな人間と付き合うというか会ったこともなくこれた。

今野浩『工学部ヒラノ教授の事件ファイル』新潮社 2012

本書では工学部の裏事情、つまり芳しくない諸事件が述べられている。自らの体験、他人に起きた有名無名の事件がある。カラ出張、経歴詐欺(準教授なのに教授とした)、外国からの留学生を世話すれば巨額の寄付金が取れたが不調に終わる、単位を取ろうとする学生らの攻撃、違法複写、セ、アの嫌がらせ、研究費の不正使用、論文盗作、データ捏造、はては学内の殺人事件、更に東電原発事故を受けての意見などである。

こういった下世話な話題は興味を引くし、面白いと言えば面白いところがある。ただ世の中は変わっていくし、書いてある事情がいつまでもこうだとも限らないだろう。

2024年9月29日日曜日

祖父江孝男『文化人類学入門』増補改訂版 中公新書 1990

この本の紹介として次のような文がある。「文化人類学とは、社会・文化・経済・宗教をはじめ諸分野にわたって、またそれぞれに異なる世界の民族を比較検証する広範な研究対象を視野に収めた学問である。その方法論として、フィールド・ワークによる具体的でしかも忍耐強い実証的な調査が重視される。」

文化には、文化住宅など高級な、といった意味で使われる場合があるが、ここでの文化はcultureの訳語である。またフィールド・ワークとは現地調査、実地調査という意味で、そこの場所に行き、ある程度の期間を要して関心の対象を調べる。本書では文化人類学とは何かを述べた後、対象の文化の歴史や伝播を、更に経済や生活の技術、言語、婚姻や家族、宗教や儀礼、文化・心理・民族性、またその変化がもたらすもの、残された問題について述べてある。文化人類学と言えばいわゆる未開地、諸国に行きそこの生活、風俗を調べるフィールド・ワーク)の印象が強い。

本書を読んで、文化人類学とは歴史の一部かと思った。過去の今ではすたれた習慣、そこが残っている未開地に行きどういうものかを調べる。かつては世界各国で多様性に富んだ生活が営まれていた。しかし今ではほとんど廃れた。欧米先進諸国による野蛮な文化の廃絶、また最近ではグローバル化という全世界の金太郎飴化が凄まじい勢いで進んでいる。各国各地の違いなどほとんど無くなっている。だからそれを過去の違いを調べようとする学問かと思った。

2024年9月28日土曜日

今野浩『工学部ヒラノ教授のアメリカ武者修行』新潮文庫 平成27年

数理計画、金融工学の専門家として名高い今野教授によるアメリカ留学と、教員として行った経験とそこから得たアメリカ大学及びアメリカ事情を語った本。

大学工学部を出た著者は電力中央研究所に入る。そこでアメリカ留学の話が出た。行った先はスタンフォード大学。OR学科だった。元々は希望ではなかったが、そこで当時の最高の教授陣から薫陶を受ける。その後、ウィスコンシン大学へ客員助教授として行くが、全く同僚に太刀打ちできない。帰国後は筑波大学の計算機学科の助教授になる。すぐにウィーンの研究所に行く。ヨーロッパの価値を知る。筑波大学では雑用、教育で4年間研究が出来なかった。国際数理計画法の学会を日本で開催しないかと提案があった。その決める会議に行ってみると、ボンでやることが実は決まっていて、日本は当て馬にされたと分かり苛立たしく思う。

かつてのスタンフォード時代の知人から中西部にあるパデュー大学へ客員として来ないかと誘いがかかる。パデュー大学に行く。ここでの経験が結構書いてある。アメリカのビジネス・スクールの実際や序列、研究者としてノウハウ、身の施し方など。研究者としてもう開拓しつくされている分野はやってもダメで、まだ未開拓の分野なら論文はいくらでも書ける。また以前の分野も全く離れてしまうのでなく、後から書けるものが浮かぶ場合がある。そうして論文数絶対主義のアメリカで、多くの論文をものにすべき。この方法を著者は日本に帰ってから実践し多くの論文を書いた。後から来た慶応の、英語がうまく出来ない教授を自分の部屋に同居させ、料理上手な同教授に料理を随分ご馳走になった。またアメリカ文化で一つ挙げるとすればパーティだと言う。教授間のパーティでは若手が教授に自分を売り込む場という。

2024年9月26日木曜日

ジェーン・スー『おつかれ、今日の私』マガジン・ハウス 2022

本書は働く女へのメッセージが主のように見える。

男社会の中で人一倍働き、それでも認められない、出世できない、男のいいように使われる。こういった不満、悩みは多くの職業婦人(女性)が持っているであろう。そういった者たちへの先輩からの励まし、呼びかけといった風の文章が多いと感じる。書名になっているおつかれという言葉が示しているように、頑張っている者たちへのねぎらいである。悪い言い方をすると説教的な文が多い。

個人的な生活を送っていく上での女ならではの苦労や感想があって、それらは軽く読めるが、働く女へのAdvicesの部分はどの程度有効かは、人によるのかもっと一般的か、よく分からない。

2024年9月25日水曜日

とっととくたばれ 2018

キリル・ソコロフ監督、露、100分。主人公の若い男は恋人に頼まれて恋人の父親を殺そうとする。父親は娘に昔から暴行を働いていたという。恋人の父親は刑事である。

父親と母親の住むアパートに主人公は行く。誤って凶器にするつもりでいた金槌を落として父親に怪しまれる。父親と格闘になる。その際、大金のつまっている袋を見つける。主人公は父親に捕まり、手錠され風呂の中に放りこまれる。殺しに来た理由を父親は聞くが答えない。ドリルで脚に穴を開けるような拷問を受ける。手の骨を折り、手錠を外し主人公はライフルを父親に向ける。父親は娘に電話する。娘はそんな男は知らないと返事。これで主人公はがっくりし、ライフルを下げる。父親は飛び掛かり主人公の首を絞める。

時間は遡って大金の出所の話。父親は刑事で、女を惨殺した猟奇殺人があって、容疑者の若い男は捕まっている。同僚の刑事は父親と二人で相談する。容疑者の親は金持ちである。息子を釈放させ、お金をせしめようと言う。同僚の妻は癌のため治療が必要で、金がいるのである。金を取りに父親は行く。金を自分のものにし、同僚にはなかったと嘘を言う。同僚は釈放された容疑者の男を殺す。

現在に戻る。父親が主人公を絞めた後、この同僚の刑事が来る。主人公は息を吹き返した。子供の時も一度死んだのに息を吹き返した経験がある。主人公は同僚の刑事に大金を見たと話す。同僚は驚き、父親に詰め寄る。父親と同僚はライフル、銃を構えあう。その時娘がアパートに来た。同僚と父親は撃ち合う。同僚は殺され、父親は負傷を負う。母親はその間、台所に行って首をくくっていた。警官が家に尋ねて来る。生きて騒ぐ主人公を見て娘はナイフで刺し、警官に出て何もないと帰す。まだ生きている主人公を見て父親は驚くがその時銃声が轟き、ライフルで娘が父親を撃っていた。倒れた父親を見て娘は大金の入った袋を持って出ていこうとしたが、息のあった父親に撃たれ倒れる。主人公はよろめきながら歩いて去る。

2024年9月24日火曜日

三浦しをん『悶絶スパイラル』新潮文庫 平成24年

作家、随筆家の三浦しをんによる随筆集。元は平成20年の出版。

本書を読んで著者が大変な漫画好きと分かった。著者は昭和51年生まれである。大昔は漫画は子供のために書かれた。いや正確に言うと子供のために書かれた漫画は読み手が成長するにつれ卒業し、大人になれば読まなくなった。それがいつ頃か、自分の理解では団塊の世代が大人になっても漫画を卒業せず、子供の漫画と大人のそれの区別がなくなった。著者の時代になると生涯漫画を読み続けて当然の世になっていたのだろう。この本を読むと、著者が漫画狂と言っていいほど漫画好きと分かる。

それと後、この本を読んで気が付いた、これ以前読んでいるのではないかと。本書中「悪霊に取り憑かれる」の章にあるオダギリジョーの服装についてである。出ている映画で『メゾン・ド・ヒミコ』中、オダギリジョーがシャツの裾をズボンの中に入れている。それを見た女たちが「シャツがイン!」と言って騒ぐのである。普通は入れると恰好が悪くなるので裾を出している場合が多い。それがオダギリジョーに関しては入れても様になっている、と感心しているのである。実はここの部分を読んで、これは前に読んだと思い出した。本書の他の部分は呼んでも以前読んだ記憶がない。それがここに関しては鮮やかに思い出された。映画でも一場面だけよく覚えている事があるが、本でも同様だと感じた次第である。

高橋哲雄『スコットランド 歴史を歩く』岩波新書 2004

スコットランドの歴史上の挿話を興味深く著述している。目次は次の通り。

はじめに 風景のなかのスコットランド史/第1章 二つの国―ハイランドとロウランド/第2章 聖人の国から聖書の国へ/第3章 合邦あとさき―悲しい結婚式の日/第4章 オシアン事件/第5章 キルトとタータンの国/第6章 “知”に生きる人びと―「スコットランド啓蒙」の内側/第7章 “実”の世界をつくる人びと

ブリテン島の北部を占めるのがスコットランドとは誰でも知っていよう。ただそのスコットランドが更に高地地方(ハイランド)と低地地方(ローランド)に分かれるとは、名前を聞いてもどの辺か見当がつかない人もいると思われる。高地地方はスコットランドの北西部と沿岸の島々である。低地地方東南部でイングランドと接し、エディンバラなど有名な都市はこちらにある。更にスコットランドはケルト人の国である。元はブリテン島に広くいたのだが、アングロサクソン等の進出で今はスコットランド、アイルランド、ウェールズなど周辺部にいる。言葉もゲール語で違っていた。しかしイングランドと合邦し、政治的にも独立でなくなった。過去はこの書にあるように偉大であったが、今はそうでない。いつからどういう理由でそうでなくなったか、イングランドとの合邦化だけでもないだろう。その辺りに興味がある。


ジェーン・スー『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』幻冬舎文庫 平成28年

昭和48年東京生まれの著者が平成26年に公表した随筆集。女子であることの実際と心情を綴る。

書名の言わんとするところは分かるが、女というものはいつまで経っても女子の心を持っているのではいか。それが女たるもののうち良い部分の源泉ではないか。これが無くなったら、あの図々しさだけの小母さんになってしまう。女の視点で色々述べていて面白い。

ただこの中で自分が東京生まれなので、田舎から上京してきた東京の住民の大部分を占める層への愚痴のようなものがある。そして自分が東京生まれ、育ちであることの自慢をどうしても言いたくなる。東京生まれの田舎者への蔑視は例えば映画監督の鈴木清順は田舎者は東京から出て行ってもらいたいと言っていた。評論家の清水幾太郎は田舎者は嫌いだと明言し、馬鹿にする文を良く書いていた。同じく谷崎潤一郎も田舎者を嫌っていた(東京と関西しか認めていなかった)。東京生まれでも、徳川家康の江戸開府以前から住んでいる家は稀だろう。いつ来たかだけの違いではないか。マイケル・チミノ監督の『天国の門』を見直してほしい。

2024年9月22日日曜日

悪魔のサンタクロース 惨殺の斧 Silent night, deadly night 1984

チャールズ・E・セリアー・Jr監督、米、79分。主人公は幼い日、両親と施設に入っている祖父に会いに行く。少年が一人でいる時、喋れないはずの祖父は口をきき、良くないことが起こると言う。帰り道でサンタクロースの格好をした者に襲われ、両親は殺される。

これが心理的外傷となりやや大きくなっても学校等で残酷な絵を描き、尼の院長から叱られる。18歳になったクリスマスの日、緊急でサンタクロースの役をすることになる。サンタクロースの扮装をした青年はかつての惨劇の思い出が蘇り、人を斧で襲うようになる。かつての学校に現れる。その前にサンタクロースに扮した牧師は間違えられ、警官に撃たれ死ぬ。その警官をサンタクロースの青年は殺す。学校に入り子供たちを襲おうとした瞬間、駆けつけた警官に後ろから銃で撃たれ死ぬ。

2024年9月21日土曜日

ブロンド少女は過激に美しく Singularidades de Uma rapariga Loura 2009

マノエル・デ・オリベイラ監督、葡、64分。高速列車で隣り合わせた老婦人に、男は過去の自分の恋愛を語る。

叔父の店を手伝い、その2階で仕事をしていた。通りの向かいの窓に扇を持つ娘が見える。その娘に男はいたく惹かれ、ぜひ結婚したいと思うようになる。本人に近づき、好意を得る。しかし叔父に話すと頭ごなしに拒否される。叔父の仕事がなくなれば生活していけない。叔父の家を出て、仕事を捜す。友人のつてで僻地の島で仕事があると知る。そこに行く。数年苦労して金を稼いで帰郷する。もうこれで娘と結婚できる。ところが友人の保証人となっていたため、その友人が夜逃げしてしまい、負債を払うはめになる。これで儲けた金も無くなる。

叔父に会うと今回は自分を受け入れてくれ、仕事ももらい、結婚しろと勧めてくれる。これで晴れて娘と結婚できるはずだった。娘と婚約指輪を買いに行く。店で指輪を選び、金を払うことになる。ところが店員はもう一つの代金も必要と言い出す。男は意味が分からない。娘が密かに別の指輪を取っていたのである。それを返し、店を出て男は娘に怒る。これで娘との仲は終わった。

イギリスから来た男 The limey 1999

スティーヴン・ソダーバーグ監督、米、89分、テレンス・スタンプ主演。スタンプはカリフォルニアに住む娘が事故死したと聞いてイギリスからやって来る。

事情を聞いても納得がいかない。自動車事故なのだが、そんな不注意を起こすような娘ではない。真相を調べ始める。娘を知っていた者に近づき、娘がある金持ちの恋人だったようだと分かる。その金持ちの家に行く。パーティをやっている最中で屋敷に入る。娘の写真が額にかかっている。スタンプは詰問された用心棒を空中プールから落として死なせる。騒いでいる最中連れと逃げる。金持ちは裏で麻薬をやっていてそれが絡んでいるのか。金持ちの別荘を襲ったスタンプは、用心棒どもを片付ける。金持ちに銃で迫る。真相を聞き出す。金持ちを殺さず、去りイギリスに戻る。

2024年9月20日金曜日

三木清『人生論ノート』新潮文庫 昭和29年(60年改版)

昭和16年に出版された。内容はそれ以前から発表していた。人生論の古典であろう。実際に読んでみると結構文章が分かりにくい。たとえば冒頭は「死について」であり、その中に次のような文章が出てくる。(昭和60年改版、p.12)

原因は少なくとも結果に等しいというのは自然の法則であって、歴史においては逆に結果はつねに原因よりも大きいというのが法則であるといわれるかも知れない。もしそうであるとすれば、それは歴史のより優越な原因が我々自身でなくて我々を超えたものであるということを意味するのでなければならぬ。この我々を超えたものは、歴史において作られたものが蘇りまた生きながらえることを欲して、それを作るに与(あずか)って原因であったものが蘇りまた生きものを蘇らせ、生きながらえることは決して欲しないと考えられ得るであろうか。もしまた我々自身が過去のものを蘇らせ、生きながらえさせるのであるとすれば、かような力をもっている我々にとって作られたものよりも作るものを蘇らせ、生きながらえさせることが一層容易でないということが考えられ得るであろうか。

この文章の後半の意味がとれるだろうか。賛成反対を言う前に言わんとするところを理解しなくてはならない。2,3回読んで分からなかった。こういう文に付き合える人が読む資格があるのだろう。自分はここで読み続ける気が失せた。


三浦しをん『お友だちからお願いします』だいわ文庫 2018

作家の三浦しをんによる随筆集。自分自身について素直(に見える)に書いている。女だから体重が増えるとかを気にしている。

また母親について極めて率直な意見が書いてある。他人に腹が立つと内心で死ねとか殺すとか思うのは誰でもそうだろう。この著者は母に対して、頼むから死んでくれと内心百万回は思ったそうである。(「理不尽の権化」の章)母親と娘の仲は友達のような仲が良い例もあれば、犬猿の仲も珍しくない。著者は後者の例である。女同士で一番身近で離れられない、上辺を飾って接するわけにもいかない。そんな母と娘は凄まじい仲になる場合がある。この著者は母殺しで自分の人生を台無しにするわけにいかない、それで殺さなかったと書いてある。同様の思いを持っている人はいるだろうが、活字にできたものである。これら以外にも周りの事柄について著者の見方が聞ける。面白い本である。

2024年9月16日月曜日

残像 Powidoki 2016

アンジェイ・ワイダ監督、波、99分。実在のポーランドの画家の伝記映画。ストゥシェミンスキは前衛絵画の画家だった。また大学で絵画論を講義している。しかし第二次世界大戦後、共産党政権となり、芸術は社会主義リアリズムしか認められなくなる。ストゥシェミンスキの絵画などは禁止の対象となる。

大学に文化担当大臣が来て社会主義リアリズムのみを認める講演をする。それにストゥシェミンスキは立ち上がり、抗議する。これで危険人物とみなされ、最後は大学から追放される。慕う学生たちは、支援したいのだがどうにもならない。娘が一人いる。妻は病気で亡くなっている。娘が住んでいた場所は妻の死後、当局が接取し、娘は父親と一緒に住むようになる。妻とは生きているうちから不仲であった。最後に画家も亡くなるが、その前に妻の墓所に花を届けていた。

2024年9月15日日曜日

島田裕巳『神道にはなぜ教えがないのか』扶桑社 2023

著者は神道の特徴と言えば「ない」宗教だという。つまり教祖も教義も経典もない。今では神社があるが昔は神社などなく屋外で儀式をしていたという。だから元々宗教建築もない。

仏教が古く日本にやってきたが、神道と異なり仏教はなんでも「ある」宗教である。開祖も教義も膨大な仏典もあり、専門家である僧侶がいる。仏像や寺院がある。ことごとく神道と異なり、だから衝突もせず長年共存できたのである。日常の生活では神道は誕生や成人式、結婚式など一生の間の行事に関係し、仏教は葬式や法事など死後の世界に関わりあう。そういう意味で棲み分けが出来、これまでやってこられた。書名にあるなぜ神道には教えがないのかという点に関しては、開祖がいないからその開祖の教えがないわけで、教義が生まれるはずもない。何もない宗教だから、世の中が変わって経典にある古い習慣や常識が現代では齟齬をきたすという欠点も免れている。こう考えると何もない宗教は悪いばかりではない。

新渡戸稲造『武士道』 Bushido the soul of Japan 明治32年

明治になって30年も過ぎた時代に、新渡戸が西洋人に対して日本の精神を説明するために英文で書いた書である。書かれた理由が序文にあって、本書で一番重要なところであろう。西洋人から日本の宗教教育について尋ねられた新渡戸は日本には宗教教育はないと答える。すると西洋人は驚き「それではどうやった道徳教育をしているのか」と問い詰められ、新渡戸はタジタジとなる。それで自ら振り返り、自分が善悪等の観念を吹き込まれたのは武士道の精神と思い当たる。その武士道の精神を書き、西洋人に対する答えとした。念頭に西洋人があるから無暗に西洋の事例を出して、それとの比較で論じる。新渡戸は自分が被告として書いたとある。常に西洋人が自分たちが中心である、模範であると主張して、それに対し日本人は受け身で、被告として弁解する、この構図は今でも変わっていないだろう。

本文で新渡戸が何を言っているかというと、武士道はこうあるべきというべき論であまりに理想的に論じているので、実際の武士はこんなに立派であるはずもないと思ってしまう。だから良くないと言うのでなく、何かを論じる場合はべき論になるのである。だから武士としてあるべき姿を新渡戸が論じるのは当然である。それにしてもあまりに立派なお題目が並べられているので、なんとなく落ち着かない。

2024年9月11日水曜日

河合隼雄、谷川俊太郎『魂にメスはいらない』講談社+α文庫 1993

本書は「ユングの心理学講義」と副題がついており、詩人の谷川が専門家である河合にユング心理学を尋ね、教えを受ける対談である。

ユングの心理学は何よりも心の病を持った患者の治療法であり、その学問、思想体系を学ぶといったものでない。河合がスイスのユング研究所に行って学んだ際に最後の試験で、試験官と喧嘩したとあって面白い。この対談は元々、朝日出版社が出していたlecture booksというシリーズの一冊として1979年に出された。

エル・クラン El clan 2015

パブロ・トラペロ監督、アルゼンチン、110分。実際にアルゼンチンで起きた誘拐殺人事件を元に映画化した。

一家の息子はラグビーの名手で英雄視されている。父親は誘拐し身代金を取り、人質を殺害していた。これに息子も協力させられていた。しかし恋人が出来、結婚したい。他のきょうだいは父の犯罪に嫌気がさし家を離れる。何人か誘拐殺人した後、誘拐しても身代金を払わない相手がいた。誘拐した女を長く家に隠していた。ついに犯人の父親だけでなく、関与した家族が捕まる。

父親は豚箱で息子に自分が無罪となるような指示を出す。自分の人生を滅茶苦茶にされ、怒り狂った息子は父親に襲い掛かる。明くる日、裁判に連れていかれる途中、息子は階上から飛び降りる。以下、その後の経過が字幕で出る。息子は命を取り留めたが、自殺未遂を繰り返し、若死にする。他の家族は釈放された。父親は無期懲役となり、出所してから弁護士となって死ぬまで自分の無実を主張したという。

伊丹十三+岸田秀『哺育器の中の大人』ちくま文庫 2011

本書は岸田を講師として、俳優、監督等の伊丹が生徒役で精神分析について質問していく講義録である。

講師、生徒役はそうなっているが、伊丹が非常に精神分析やフロイトその他の知識に詳しく、舌鋒鋭く岸田に迫っている。単に知識があるというのではなく、理解も優れている。だから極めて知的興奮に溢れた対談になっている。副題は「精神分析講義」となっているが、フロイトの解説本ではなく、岸田のいう「唯幻論」の講義である。本書は元々、朝日出版社が出したlecture booksというシリーズの一冊として1978年に出された。このシリーズはよく覚えている。装丁が印象的で表紙がしゃれた作りで、何より書名が凝っていた。この『哺育器の中の大人』もそうであろう。他にも『魂にメスはいらない』とか『僕がアインシュタインになる日』とか。優れた書名は売れるだろうし、記憶に残る。この本のあとがきで岸田はシリーズ中最も売れた本だと聞いたとある。

ところでこのちくま文庫本を見ると著者名がまず伊丹が来て、それから岸田になっている。元々講師が岸田だから以前の本では岸田+伊丹という並べ方であった。それを伊丹を先にしているのは何らかの判断がこの文庫本ではあったのだろう。その説明がない。やはり以前から変えたのなら、その理由を書いてほしい。

久坂部羊『人はどう老いるか』講談社現代新書 2023

著者は医者で高齢者医療が専門である。現代のように超高齢社会になり、つまり老人が人口のかなりの部分を占めるようになってくると高齢者向けの論が当然盛んになってくる。

何しろ高齢者は若い者のように体がきかず多くの疾患を抱えているのが普通で、まもなく死に至る。高齢者を対象とした本などではいかに若く身体を保つかの方法、そのために気も若くならなければいけないと説いている。それはもっともな点がある。しかし早晩体が言うことをきかなくなり、死んでいくのは避けられない。だから老いや死を否定して見ないようにしていくのでなく、それを受け入れることを説いている本である。むしろその方が本人にとっても良望ましい、高年齢の過ごし方ではないか。

苅部直『移りゆく「教養」』NTT出版 2007

近代日本で教養がどう捉えられ、また現代の教養とは何かを論じる。目次は次の通り。

序章 なぜ「教養」を問題にするのか/第1章 「教養」の現況をめぐって/第2章 近代日本の「教養」/第3章 「教養」の内と外/第4章 「政治的教養」と日本の伝統/第5章 「教養」と教育、「教養」の教育/終章 「教養」のむこうがわ

現代のように教養というものが話題にならない、する気も起きない時代に、あえて教養を考察している点に敬意を表したい。著者は東大で日本政治思想史を教えている学者で、そのような「実用的」でない学問の研究者だからこそ現代の教養を考えざるを得ない立場にある。もちろん快刀乱麻を断つように整然と整理され解決策を提示しているわけでないが、対象が教養というものであればこうなるのが普通であろう。

なお本書の最後に過去に出た教養全集を2種挙げ、その収録内容がある。一つは平凡社の「世界教養全集」全34巻、別巻4巻で1960、1963年の発売、もう一つは角川書店の「日本教養全集」全18巻、1974、1975年である。前者の内容はいかにも教養書らしい本が並んでいるが、たとえば自然科学系など今では内容が古すぎて少し読むと投げ出してしまう。また最初に入っている『哲学物語』は戦前アメリカでベストセラーになった本とあり、読みやすいように見えるが、今となってはあまりに書き方や内容が古びていると感じる。

後者の角川書店の「日本教養全集」は、石油危機等を経験、もう日本が先進国になっていた、つまり教養などとあまり言われなくなった時代に出された。だからこの全集はかなり「斜に構えた」編集である。確かに第1巻、2巻などは『三太郎の日記』とか『人生論ノート』のような古典が収録されているものの、『ぐうたら生活入門』とか『家出のすすめ』などといった本が入っていて、この全集の少し前にベストセラーになった『誰のために愛するか』もあり、ともかく古臭い教養全集などでないと宣言しているようだった。読み手にも新鮮な感じを与えたものである。この全集も今では古本屋で投げ売りされており、今読んでみるとかつてのような新鮮さは感じず、昔のベストセラーを読んでいるような気になる(全部ではない)。新鮮さを感じさせた流行のファッションを、ずっと後から見ると時代しか感じさせないのに似ている。


2024年9月6日金曜日

底なし・・・ Quicksand 2023

アンドレス・ベルトラン監督、コロンビア、86分。草原地帯、二人の密猟者が蛇狩りに来ている。一人が気味が悪いから止めようと言い出す。そのうち見つけ出したのは多くの死骸だった。

離婚寸前の夫婦が首都ボゴダ(妻の出身地)に車で向かっている。出迎えた友人は夫婦仲が悪く、離婚するとは知らなかった。後で夫が友人に伝える。明くる日、車で有名な滝を夫婦は見に出かける。途中で下りた後、車荒らしの男が車をいじっているのを見つける。夫が車荒らしを威嚇しようと出ていくと銃を出され、夫婦とも逃げ出す。

妻は逃げる途中、底なし沼にはまる。夫が助けようと飛び込むがやはり動けなくなる。直径が2mくらいの狭い沼である。助けを待つしかないのか。足の下に硬い物があって引き上げると以前死んだ死体だった。その死体の持っていた袋を探りライフルを見つけ出す。大きな蛇が近づいてきて、銃で撃ち怪我をさせる。その蛇は夫の首にかじりつき夫の首は腫れ上がる。医者である妻はナイフで毒を出す。抜け出すため縄状の物を投げても短く引っかからない。蛇を殺して縄を長くしようとする。あの蛇はどこに行ったのか。妻の後ろから襲い、体を締め上げる。嚙みつこうとしたときに夫がナイフで蛇を殺す。殺した蛇を縄の延長として使い、まず妻は脱出できた。夫は体が動かないという。妻が助けを呼びに行こうとする。それより以前、夫婦の友人は見知らぬ男が夫のバッグを持っていたので質問し、ついには泥棒と突き止める。夫婦にどこで会ったか。車で捜しに来ていた。友人にまず妻が助けられ、夫も無事に助けられた。

サイコ・ゴアマン Psycho goreman 2020

スティーヴン・コスタンスキ監督、加、94分。宇宙を支配する者たちは世界を破壊する邪悪な怪物を封じ込めた。しかしひょんなことからその怪物が復活してしまう。

強気で支配欲の塊である妹に兄はいいなりである。ある夜、庭を掘っていたら光る宝石状の物質を見つける。それを妹は自分の物にする。その後、寝てからその穴から破壊怪物が蘇ったのである。怪物に妹兄は倉庫で会うが、破壊的怪物といえども、宝石状の物質の持ち主には逆らえない。言うことを聞くだけである。だから妹の命令には服せざるを得ない。宇宙の支配者らはこの怪物退治に強者を派遣する。地球に来るが、妹が宝石状を返してやるので、力倍増となった怪物は派遣者を撃退する。この妹一家には怪物は手を出さないが、他のところは破壊していく。宇宙の支配者らはもう怪物と戦う術はない。拳銃を取り出し、卓の上に置き、これで決着をつけるかと言う。