2024年9月20日金曜日

三木清『人生論ノート』新潮文庫 昭和29年(60年改版)

昭和16年に出版された。内容はそれ以前から発表していた。人生論の古典であろう。実際に読んでみると結構文章が分かりにくい。たとえば冒頭は「死について」であり、その中に次のような文章が出てくる。(昭和60年改版、p.12)

原因は少なくとも結果に等しいというのは自然の法則であって、歴史においては逆に結果はつねに原因よりも大きいというのが法則であるといわれるかも知れない。もしそうであるとすれば、それは歴史のより優越な原因が我々自身でなくて我々を超えたものであるということを意味するのでなければならぬ。この我々を超えたものは、歴史において作られたものが蘇りまた生きながらえることを欲して、それを作るに与(あずか)って原因であったものが蘇りまた生きものを蘇らせ、生きながらえることは決して欲しないと考えられ得るであろうか。もしまた我々自身が過去のものを蘇らせ、生きながらえさせるのであるとすれば、かような力をもっている我々にとって作られたものよりも作るものを蘇らせ、生きながらえさせることが一層容易でないということが考えられ得るであろうか。

この文章の後半の意味がとれるだろうか。賛成反対を言う前に言わんとするところを理解しなくてはならない。2,3回読んで分からなかった。こういう文に付き合える人が読む資格があるのだろう。自分はここで読み続ける気が失せた。


三浦しをん『お友だちからお願いします』だいわ文庫 2018

作家の三浦しをんによる随筆集。自分自身について素直(に見える)に書いている。女だから体重が増えるとかを気にしている。

また母親について極めて率直な意見が書いてある。他人に腹が立つと内心で死ねとか殺すとか思うのは誰でもそうだろう。この著者は母に対して、頼むから死んでくれと内心百万回は思ったそうである。(「理不尽の権化」の章)母親と娘の仲は友達のような仲が良い例もあれば、犬猿の仲も珍しくない。著者は後者の例である。女同士で一番身近で離れられない、上辺を飾って接するわけにもいかない。そんな母と娘は凄まじい仲になる場合がある。この著者は母殺しで自分の人生を台無しにするわけにいかない、それで殺さなかったと書いてある。同様の思いを持っている人はいるだろうが、活字にできたものである。これら以外にも周りの事柄について著者の見方が聞ける。面白い本である。

2024年9月16日月曜日

残像 Powidoki 2016

アンジェイ・ワイダ監督、波、99分。実在のポーランドの画家の伝記映画。ストゥシェミンスキは前衛絵画の画家だった。また大学で絵画論を講義している。しかし第二次世界大戦後、共産党政権となり、芸術は社会主義リアリズムしか認められなくなる。ストゥシェミンスキの絵画などは禁止の対象となる。

大学に文化担当大臣が来て社会主義リアリズムのみを認める講演をする。それにストゥシェミンスキは立ち上がり、抗議する。これで危険人物とみなされ、最後は大学から追放される。慕う学生たちは、支援したいのだがどうにもならない。娘が一人いる。妻は病気で亡くなっている。娘が住んでいた場所は妻の死後、当局が接取し、娘は父親と一緒に住むようになる。妻とは生きているうちから不仲であった。最後に画家も亡くなるが、その前に妻の墓所に花を届けていた。

2024年9月15日日曜日

島田裕巳『神道にはなぜ教えがないのか』扶桑社 2023

著者は神道の特徴と言えば「ない」宗教だという。つまり教祖も教義も経典もない。今では神社があるが昔は神社などなく屋外で儀式をしていたという。だから元々宗教建築もない。

仏教が古く日本にやってきたが、神道と異なり仏教はなんでも「ある」宗教である。開祖も教義も膨大な仏典もあり、専門家である僧侶がいる。仏像や寺院がある。ことごとく神道と異なり、だから衝突もせず長年共存できたのである。日常の生活では神道は誕生や成人式、結婚式など一生の間の行事に関係し、仏教は葬式や法事など死後の世界に関わりあう。そういう意味で棲み分けが出来、これまでやってこられた。書名にあるなぜ神道には教えがないのかという点に関しては、開祖がいないからその開祖の教えがないわけで、教義が生まれるはずもない。何もない宗教だから、世の中が変わって経典にある古い習慣や常識が現代では齟齬をきたすという欠点も免れている。こう考えると何もない宗教は悪いばかりではない。

新渡戸稲造『武士道』 Bushido the soul of Japan 明治32年

明治になって30年も過ぎた時代に、新渡戸が西洋人に対して日本の精神を説明するために英文で書いた書である。書かれた理由が序文にあって、本書で一番重要なところであろう。西洋人から日本の宗教教育について尋ねられた新渡戸は日本には宗教教育はないと答える。すると西洋人は驚き「それではどうやった道徳教育をしているのか」と問い詰められ、新渡戸はタジタジとなる。それで自ら振り返り、自分が善悪等の観念を吹き込まれたのは武士道の精神と思い当たる。その武士道の精神を書き、西洋人に対する答えとした。念頭に西洋人があるから無暗に西洋の事例を出して、それとの比較で論じる。新渡戸は自分が被告として書いたとある。常に西洋人が自分たちが中心である、模範であると主張して、それに対し日本人は受け身で、被告として弁解する、この構図は今でも変わっていないだろう。

本文で新渡戸が何を言っているかというと、武士道はこうあるべきというべき論であまりに理想的に論じているので、実際の武士はこんなに立派であるはずもないと思ってしまう。だから良くないと言うのでなく、何かを論じる場合はべき論になるのである。だから武士としてあるべき姿を新渡戸が論じるのは当然である。それにしてもあまりに立派なお題目が並べられているので、なんとなく落ち着かない。

2024年9月11日水曜日

河合隼雄、谷川俊太郎『魂にメスはいらない』講談社+α文庫 1993

本書は「ユングの心理学講義」と副題がついており、詩人の谷川が専門家である河合にユング心理学を尋ね、教えを受ける対談である。

ユングの心理学は何よりも心の病を持った患者の治療法であり、その学問、思想体系を学ぶといったものでない。河合がスイスのユング研究所に行って学んだ際に最後の試験で、試験官と喧嘩したとあって面白い。この対談は元々、朝日出版社が出していたlecture booksというシリーズの一冊として1979年に出された。

エル・クラン El clan 2015

パブロ・トラペロ監督、アルゼンチン、110分。実際にアルゼンチンで起きた誘拐殺人事件を元に映画化した。

一家の息子はラグビーの名手で英雄視されている。父親は誘拐し身代金を取り、人質を殺害していた。これに息子も協力させられていた。しかし恋人が出来、結婚したい。他のきょうだいは父の犯罪に嫌気がさし家を離れる。何人か誘拐殺人した後、誘拐しても身代金を払わない相手がいた。誘拐した女を長く家に隠していた。ついに犯人の父親だけでなく、関与した家族が捕まる。

父親は豚箱で息子に自分が無罪となるような指示を出す。自分の人生を滅茶苦茶にされ、怒り狂った息子は父親に襲い掛かる。明くる日、裁判に連れていかれる途中、息子は階上から飛び降りる。以下、その後の経過が字幕で出る。息子は命を取り留めたが、自殺未遂を繰り返し、若死にする。他の家族は釈放された。父親は無期懲役となり、出所してから弁護士となって死ぬまで自分の無実を主張したという。

伊丹十三+岸田秀『哺育器の中の大人』ちくま文庫 2011

本書は岸田を講師として、俳優、監督等の伊丹が生徒役で精神分析について質問していく講義録である。

講師、生徒役はそうなっているが、伊丹が非常に精神分析やフロイトその他の知識に詳しく、舌鋒鋭く岸田に迫っている。単に知識があるというのではなく、理解も優れている。だから極めて知的興奮に溢れた対談になっている。副題は「精神分析講義」となっているが、フロイトの解説本ではなく、岸田のいう「唯幻論」の講義である。本書は元々、朝日出版社が出したlecture booksというシリーズの一冊として1978年に出された。このシリーズはよく覚えている。装丁が印象的で表紙がしゃれた作りで、何より書名が凝っていた。この『哺育器の中の大人』もそうであろう。他にも『魂にメスはいらない』とか『僕がアインシュタインになる日』とか。優れた書名は売れるだろうし、記憶に残る。この本のあとがきで岸田はシリーズ中最も売れた本だと聞いたとある。

ところでこのちくま文庫本を見ると著者名がまず伊丹が来て、それから岸田になっている。元々講師が岸田だから以前の本では岸田+伊丹という並べ方であった。それを伊丹を先にしているのは何らかの判断がこの文庫本ではあったのだろう。その説明がない。やはり以前から変えたのなら、その理由を書いてほしい。

久坂部羊『人はどう老いるか』講談社現代新書 2023

著者は医者で高齢者医療が専門である。現代のように超高齢社会になり、つまり老人が人口のかなりの部分を占めるようになってくると高齢者向けの論が当然盛んになってくる。

何しろ高齢者は若い者のように体がきかず多くの疾患を抱えているのが普通で、まもなく死に至る。高齢者を対象とした本などではいかに若く身体を保つかの方法、そのために気も若くならなければいけないと説いている。それはもっともな点がある。しかし早晩体が言うことをきかなくなり、死んでいくのは避けられない。だから老いや死を否定して見ないようにしていくのでなく、それを受け入れることを説いている本である。むしろその方が本人にとっても良望ましい、高年齢の過ごし方ではないか。

苅部直『移りゆく「教養」』NTT出版 2007

近代日本で教養がどう捉えられ、また現代の教養とは何かを論じる。目次は次の通り。

序章 なぜ「教養」を問題にするのか/第1章 「教養」の現況をめぐって/第2章 近代日本の「教養」/第3章 「教養」の内と外/第4章 「政治的教養」と日本の伝統/第5章 「教養」と教育、「教養」の教育/終章 「教養」のむこうがわ

現代のように教養というものが話題にならない、する気も起きない時代に、あえて教養を考察している点に敬意を表したい。著者は東大で日本政治思想史を教えている学者で、そのような「実用的」でない学問の研究者だからこそ現代の教養を考えざるを得ない立場にある。もちろん快刀乱麻を断つように整然と整理され解決策を提示しているわけでないが、対象が教養というものであればこうなるのが普通であろう。

なお本書の最後に過去に出た教養全集を2種挙げ、その収録内容がある。一つは平凡社の「世界教養全集」全34巻、別巻4巻で1960、1963年の発売、もう一つは角川書店の「日本教養全集」全18巻、1974、1975年である。前者の内容はいかにも教養書らしい本が並んでいるが、たとえば自然科学系など今では内容が古すぎて少し読むと投げ出してしまう。また最初に入っている『哲学物語』は戦前アメリカでベストセラーになった本とあり、読みやすいように見えるが、今となってはあまりに書き方や内容が古びていると感じる。

後者の角川書店の「日本教養全集」は、石油危機等を経験、もう日本が先進国になっていた、つまり教養などとあまり言われなくなった時代に出された。だからこの全集はかなり「斜に構えた」編集である。確かに第1巻、2巻などは『三太郎の日記』とか『人生論ノート』のような古典が収録されているものの、『ぐうたら生活入門』とか『家出のすすめ』などといった本が入っていて、この全集の少し前にベストセラーになった『誰のために愛するか』もあり、ともかく古臭い教養全集などでないと宣言しているようだった。読み手にも新鮮な感じを与えたものである。この全集も今では古本屋で投げ売りされており、今読んでみるとかつてのような新鮮さは感じず、昔のベストセラーを読んでいるような気になる(全部ではない)。新鮮さを感じさせた流行のファッションを、ずっと後から見ると時代しか感じさせないのに似ている。


2024年9月6日金曜日

底なし・・・ Quicksand 2023

アンドレス・ベルトラン監督、コロンビア、86分。草原地帯、二人の密猟者が蛇狩りに来ている。一人が気味が悪いから止めようと言い出す。そのうち見つけ出したのは多くの死骸だった。

離婚寸前の夫婦が首都ボゴダ(妻の出身地)に車で向かっている。出迎えた友人は夫婦仲が悪く、離婚するとは知らなかった。後で夫が友人に伝える。明くる日、車で有名な滝を夫婦は見に出かける。途中で下りた後、車荒らしの男が車をいじっているのを見つける。夫が車荒らしを威嚇しようと出ていくと銃を出され、夫婦とも逃げ出す。

妻は逃げる途中、底なし沼にはまる。夫が助けようと飛び込むがやはり動けなくなる。直径が2mくらいの狭い沼である。助けを待つしかないのか。足の下に硬い物があって引き上げると以前死んだ死体だった。その死体の持っていた袋を探りライフルを見つけ出す。大きな蛇が近づいてきて、銃で撃ち怪我をさせる。その蛇は夫の首にかじりつき夫の首は腫れ上がる。医者である妻はナイフで毒を出す。抜け出すため縄状の物を投げても短く引っかからない。蛇を殺して縄を長くしようとする。あの蛇はどこに行ったのか。妻の後ろから襲い、体を締め上げる。嚙みつこうとしたときに夫がナイフで蛇を殺す。殺した蛇を縄の延長として使い、まず妻は脱出できた。夫は体が動かないという。妻が助けを呼びに行こうとする。それより以前、夫婦の友人は見知らぬ男が夫のバッグを持っていたので質問し、ついには泥棒と突き止める。夫婦にどこで会ったか。車で捜しに来ていた。友人にまず妻が助けられ、夫も無事に助けられた。

サイコ・ゴアマン Psycho goreman 2020

スティーヴン・コスタンスキ監督、加、94分。宇宙を支配する者たちは世界を破壊する邪悪な怪物を封じ込めた。しかしひょんなことからその怪物が復活してしまう。

強気で支配欲の塊である妹に兄はいいなりである。ある夜、庭を掘っていたら光る宝石状の物質を見つける。それを妹は自分の物にする。その後、寝てからその穴から破壊怪物が蘇ったのである。怪物に妹兄は倉庫で会うが、破壊的怪物といえども、宝石状の物質の持ち主には逆らえない。言うことを聞くだけである。だから妹の命令には服せざるを得ない。宇宙の支配者らはこの怪物退治に強者を派遣する。地球に来るが、妹が宝石状を返してやるので、力倍増となった怪物は派遣者を撃退する。この妹一家には怪物は手を出さないが、他のところは破壊していく。宇宙の支配者らはもう怪物と戦う術はない。拳銃を取り出し、卓の上に置き、これで決着をつけるかと言う。