2024年6月9日日曜日

泉谷閑示『仕事なんか生きがいにするな』幻冬舎新書 2017

著者は1962年生まれの精神科医である。著者の主張を次の様に理解した。

人間は生きる意味を問う生き物である。それでは現代人は何に生きる意味を見出そうとしてるか。それは仕事(労働)である。(過去の思想家は仕事を労働を区別したとあるが、ここでは同一としておく)それではなぜ仕事を生きがいとしているのか。それは現代人の多くは労働教の信者だからである。なぜ労働教が形成されたか、著者は過去の思想の発展を述べる。労働価値説によって労働が価値を生むという説が広まった、マックス・ウェーバーは労働に励むことを天職として賛美した。本当の自分を求めようとすると、それが労働の妨げになるというので否定される。自分探しとは仕事探しではない、とある。このように仕事を至高価値とする考えに現代人は囚われている。それではどうすべきか。あるべき人生とはどのようなものか。当然ながら抽象的な議論になる。やや具体的には芸術が出てくる。芸術に触れるべきと言っているようである。更に食や遊びが出てくる。これもただ食って遊ぶというのでなく、より深い意味で、である。蟻とキリギリスの挿話で、キリギリスを馬鹿にし蟻を賛美する考えに反対する。

以上のような本書の考えは抽象的にはもちろん、もっともだと思うが、具体的になると賛成できない。本書の書名「仕事なんか生きがいにするな」という言明は「仕事を生きがいにしろ」と同様に意味がない。命令されて生きがいにしたり、止めたりなどできない。もし実際に仕事を生きがいとしている人がいたら幸福な人で、そうさせておけばよいではないか。それをお前は本当の人生を生きていないなど余計なお節介というか、傲慢すぎる。多くの人はこの本に書いてあるような労働教の信者ではない。生きていくため、仕事をしなくてはならない。しかしそれは苦痛でしかない。どうすればよいのか、これが解決すべき問題である。もちろんうまい解決策などない。そんなものがあればもう実行されているはずである。だから少しでも今より納得できるようにするしかない。仕事を辞められない。満足できる仕事が他にあったとしてもそれに就くのはまず無理である。

今の仕事はつまらないが、それは何らかの意味があるはずである。仕事が店の販売員だろうが、物を右から左に運んでいるだけだろうが、上司や得意先から怒鳴られてばかりだろうが、やっている以上それは必要な仕事だからだ。あなたがいなくなってもすぐ代わりが務まる仕事とは、つまりやる必要がある仕事という意味である。人間は自分勝手であるが、自分の存在意義を認めてもらいたいと思っている。それは仕事を通じて社会(他人といってもいい)に奉仕し、なにがしかの報酬を得て実現するしかない。普通の人間には。もし特別な才能があって芸能人でも芸術家でもプロスポーツ選手などでも、やれるならやった方がいい。ただ自分とかけ離れた才能の持ち主などと比較しても何にもならない。それらの職業を目指してバイトのような仕事をして、自分の時間に技を磨き、夢を追う選択もある。ただ華やかに見える職業でも、ただのサラリーマンと職業に貴賤はない。誰でもできる仕事でも真面目にやっているから世の中は回っているのである。

他の先進国と比べて日本は暮らしやすい国である。それはみんなが真面目に仕事をしているからである。世の中には仕事を卑しめる言論が氾濫しているが、そんなことで本を書いたり講演をして金儲けができるのは、ほとんどの人が真面目に仕事をしているからである。天下国家を論じるのは勝手だがそれで自分の仕事を充実させてくれるわけでない。資本主義のせいだと言っている連中はなぜさっさと北朝鮮に移住しないのか、全く分からない。ともかく平日は仕事に時間を取られて何もできなくても、週末が自分の自由にできるなら、その時間に自分がやりたい生きがいと呼んでも何でもいいが、充実した時を過ごすべきである。

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