2024年6月30日日曜日

ガンカ・ディン Gunga Din 1939

ジョージ・スティーブンス監督、米、95分。インドの英駐留部隊は、母神カーリーを信じる邪悪集団の妨害に悩まされていた。

ケーリー・グラントと二人の仲間は仲が良い。そのうち一人が結婚のため部隊を辞める予定である。グラントらは友人を失うのは惜しいので、代理をする男に薬を飲ませ、病気にさせる。代理がいないので、友人はすぐに辞められなくなる。金、財宝の亡者であるグラントは部下である土人の雇い兵ガンカ・ディンから、金で出来た寺院の存在を知る。ディンは象で、グラントが入っていた営倉を壊してグラントを助け出す。共に逃げ出し、その寺院に向かう。ところがその寺院は邪悪集団の本拠地だった。そのためグラントは敵に捕まってしまう。

グラントを助けに友人らが来るが、二人だけだったので同じように捕まる。隙を見て敵の首領を人質にし、屋上にグラントらは逃げる。遠く英兵部隊がやってくる。邪悪集団は待ち伏せし、英兵部隊を殲滅せんとしていた。英兵に危険を知らせるため、ガンカ・ディンは屋上でラッパを吹く。それで英兵部隊は危険に気づく。ディンは敵方に殺された。邪悪集団と英兵部隊の間で戦闘となり、邪悪集団を英兵は蹴散らす。ディンは死後に正式な英兵となった。

アメリカンサイコ2 Amrican psycho 2 2002

モーガン・J・フリーマン監督、米、91分。主人公の女子大生は、FBIに入局すべく大学で専門の勉強をしている。某教授の助手になりたいと思っている。その教授の助手になれば、FBI入局はまず間違いなくできるという。ただ何人かライバルがいる。大学の事務局の担当職員に、まだ年次に達していないと言われ、主人公は怒る。

主人公は邪魔者を次々と片付ける。主人公がカウンセリングに行っている同じ大学の精神科医の教授は、主人公が精神病質と分かる。同僚の某教授に女子学生が異常だと告げるが名は言わない。女子学生のライバルと関係を持っていた教授は、自分の情人を指していると思い込む。映画特有のドタバタがあり、数年後、FBIで講義をしている教授はあの女子学生がFBIに入局しており、優秀な職員だとの評判を聞き愕然とする。

2024年6月29日土曜日

アレックス Irreversible 2002

ギャスパー・ノエ監督、仏、98分、モニカ・ベルッチ、ヴァンサン・カッセル等出演。大まかな筋はベルッチ演じるアレックスがパーティの帰り道で暴行を受ける。それを知ったカッセル演じる恋人やその友人、ベルッチの元恋人が犯人を捜して捕まえようとする。また事件それ以前のベルッチやカッセルらなどとの交友場面があり、映画の進行が時間と全くずれて、時間を行き来するという作りになっているので、一見しただけでは混乱するかもしれない。

カッセルらが暴行犯を捕まえようと躍起になっているところが前の方にあり、暴行場面(日本では撮影できる(撮ろうとする)はずもない)を挟んで、事件以前のパーティの場面、ベルッチとカッセルが寝ている場面、最後は芝生の庭にベルッチが横たわり、子供たちが歓声をあげて走り回っているところを俯瞰で映し、ベートーヴェンの第7交響曲の第2楽章の音楽が流れ、その音楽が変わりおしまいになる。

井上ひさし『日本語教室』新潮新書 2011

大学で行なった講義を著者の死後、まとめたもの。

表題にあるように現代日本語論なのだが、関係ない政治主張が多く出てくるのは疑問である。著者は広い意味での左翼であろう。それでアメリカの政策批判などをする。グローバリゼーションへの批判とか、日本に関しても外国人の言い分を引用し「沖縄、アイヌへの差別・・・従軍慰安婦・・・南京大虐殺」(p.116)をしたとして批判する形になっている。こんなことを日本語論で話すべき事柄か。

感心したところ、勉強になったところは日本語の発音は母音では「いえあおう」の順に音を出すところが、口の先から喉の奥の方になっているという。だから「い」の音はよく聞こえ、「う」の音は喉の奥で発音するから、よほど力を入れないと出てこない。また「は」と「が」の主語の使い分けに関して、大野晋の説を紹介している。(象は鼻が長い、など)これは「は」は旧情報、「が」は新情報として理解すれば良いと書いてあって、ためになった。また日本語の歴史に関して書いてあるが、あまり興味はない。日本語を分類するとウラル・アルタイ語族に属すると何度も出てくる。これは大昔から言われている話だが、最近ではこういう分類自体がなく、日本語がそれに属するとは言わないそうだ、と読んだことがある。正直言ってウラル・アルタイ語族(があるとして)に属するか、しないかなどの議論はどうでもいい気がする。それでもって日本語の使い方に影響などあるはずもないから。

2024年6月28日金曜日

ボス・ベイビー The boss baby 2017

トム・マクグラス監督、米、97分、漫画映画。それまで両親を独占していた少年は弟ができると、両親の愛情を取られてしまい憤慨悲観する。

しかもその弟というのが普通の赤ん坊でなく、背広を着た、しかも秘密にしているが喋れるのである。弟が喋れると少年は知る。更に弟が使命を帯びてきたとも知る。それは人間の愛情が子供から犬に移ってしまうので、それを阻止するというものだった。少年とボス・ベイビーは協力してこの使命を果たす。ボス・ベイビーは去り、新しい普通の赤ん坊が来る。


黄金バット 昭和42年

佐藤肇監督、東映、72分、白黒映画、千葉真一、高見エミリーほか出演。

悪人が惑星を誘導し、地球にぶつけようとしている。この惑星を爆破できる超光線砲を、防衛組織の博士が開発する。使うレンズが必要である。島にあるのでそこに行くと黄金バットが眠りから覚め、レンズに使う宝石が見つかった。悪漢どもは黄金バットに蹴散らかされる。惑星が近づいている。必要なレンズは、防衛組織の組員を人質に取られ、交換で渡さざるを得ない。しかし黄金バットが活躍し、悪漢どもを退治し、間一髪で惑星を超光線砲で破壊する。黄金バットは去る。

2024年6月23日日曜日

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波文庫 1982

戦後の岩波書店の雑誌『世界』の編集長として知られる吉野源三郎が昭和12年に出した本である。山本有三が関わった「日本少国民文庫」の編集主任となり、その一冊として刊行された。

内容はコペル君というあだ名の中学二年生がつづる日記が主で、叔父さんの文が時々入っている。叔父さんの文は大人の目から見た解説で、コペル君にすぐに見せるものでない。友人らとの学校生活の記録が主なところは形式的にはアミーチスの『クオレ』を思い出した。クオレの毎月の話に当たるものが叔父さんの文になろう。この『君たちはどう生きるか』は友人らのとの交友が多くのページを占めるが、後半に出てくる、上級生(五年生で旧制中学の最上級生)らとの対応に、コペル君は友たちとの約束を破った結果となり、後悔し苦しむところが山場だろう。コペル君の例そのままでないにしろ、やるべきことをせず悔やむ経験は誰にでもあると思われる。またこの本は戦前の山の手の生活の一例を書いており、もちろん当時の多数でないにしろ、戦前の雰囲気が分かってよい。

コペル君は人間同士の関係、交わりを分子のそれになぞらえて理解するなど聡明である。解説に丸山真男が書いているように、社会の実態を抽象的でなく説明できるのは高度な技である。今の中学生はコペル君に比べ、ませた口をきき知識も多いであろう。それは現代は多くの情報が氾濫し押し寄せてきているからである。この本の当時はマス・メディアといえば印刷物(雑誌なら月刊誌の時代)とラジオ、映画くらいである。今の知識の多くは雑学であり、コペル君のような本質的な思考はかえってしにくくなっているかもしれない。なおこの本はジブリの漫画映画の『君たちはどう生きるか』とは内容は別である。なぜ同じ題を使ったか、知らない。

2024年6月20日木曜日

三島由紀夫石原慎太郎全対話、中公文庫 2020年

表題にある二人の作家の対話集。昭和31年から昭和44年の暮れまで含む。

何といっても一番価値があるというか、重要な対談は最後の昭和44年「守るべきものの価値」である。ここで三島は翌年の市ヶ谷での自決の心情を述べている。もちろん対談時にはそんなことは三島以外は誰も知らず、市ヶ谷で呼びかけた自衛官たちから野次しか受けなかったと同様に、石原は理解できず戸惑っているというか呆れている。

最後のあとがきで、石原は三島を色々批判している。他には知られていない三島の醜態を報告し、かなり三島を滑稽な人物として描いている。三島は確かに目立ちたがり屋で人目を引きたい行動が多く、その政治思想にはついていけない人がほとんどだろう。それでも三島が戦後を代表する作家であることは変わりなく、五十年経っても読まれ評価されている。それに対して石原はどの程度の評価を受けているだろう。いまだに一番有名なのが処女作の『太陽の季節』のようである。この対談集の初めの対談で、三島が戦後十年間旗手だったのは自分だったが、新しい旗手を石原に見出したと言っている。その後の石原は創作活動で三島に伍する作家になったとは思えない。石原は容貌や体格では最も見栄えのするスポーツマンの作家で、剣道やボディビルなどでにせの身体を作っていた三島を馬鹿にしているようだ。石原といえば作家よりむしろ政治家として有名だろう。政治家として評価されているかどうか、政治に疎い自分は知らない。それにしても作家として大した業績がない石原でも何かもっともらしいことを言っているのかと思ってこの対談集を読んだのだが、期待を下回るものだった。

2024年6月19日水曜日

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』ちくま学芸文庫 The great chain of being 2013

1936年に出た西洋の観念史。神から人間から下等の創造物に至るまでの、あらゆる存在の階層が、連続した鎖の輪をなしている。充満と連続が二つの原理である。そういう観点からプラトンから18世紀哲学に至るまでの、学際的な方法で歴史をたどり、観念史を確立した著書、と説明されていると理解した。

しかし実際に読んでみると、何が書いてあるかさっぱり分からない。こんなに意味不明の本を読んだのはほとんどなく、そういう意味で貴重な経験と言える。よほど時間をかけて丹念に読むつもりなら少しは分かるかもしれない。

2024年6月18日火曜日

『高峰秀子かく語りき』文藝春秋 2015

女優高峰秀子が行なった全45組、総勢延べ74名との対談(鼎談、あるいはそれ以上の人々との話を含む)集である。最も古い対談は昭和23年の長谷川一夫、新しいのは平成14年の沢木耕太郎と半世紀以上に及ぶ。対談者は次の通り。

長谷川一夫/灰田勝彦、旗一兵/志賀直哉/谷崎潤一郎/中原淳一/宇野重吉/徳川夢声/谷崎潤一郎、谷口千吉/ファン一同/猪熊弦一郎夫妻、木下恵介/鶴田浩二/亀井勝一郎/越路吹雪/田中絹代/池島信平、扇谷正造/木下恵介、笹本駿二/津村秀夫/谷崎潤一郎/田中絹代、山田五十鈴/茅誠司/猪谷千春/永井道雄/ドナルド・キーン/深沢七郎/谷崎潤一郎、松山善三/獅子文六/菊田一夫、森光子/河野一郎、細川隆元/若尾文子/市川崑/梅原龍三郎/杉村春子、陳舜臣/木下恵介/井上靖、松山善三/森繫久彌、松山善三/円地文子、小田島雄志、吉行淳之介/沢村貞子/石井好子、外山滋比古/加藤唐九郎/色川大吉/田中一光、村田吉弘/池部良/川本三郎、出久根達郎/井上ひさし/沢木耕太郎

高峰秀子と言えば女優であるが、何十年も前、まだ俳優等の名前をよく知らなかった時分、『わたしの渡世日記』を読んで無暗に感心してしまった記憶がある。この対談で初めて知ったのは、高峰と同い年の女優らの名前である。京マチ子、淡島千景、乙羽信子、越路吹雪、津島恵子(p.217にある)と昔の日本映画をみている人なら知っている女優ばかりである。このうち越路吹雪とは親友で、この本に対談がある。嫌っている女優もいるようだが(p.465、編者斎藤明美(高峰夫妻の養女)の解説にある)それは分からない。またこれも初めて知ったのは、市川崑監督の東京オリンピックの記録映画の件で高峰が援護したという事実。同映画は当時、批判にさらされた。批判の先鋒は当時オリンピック担当大臣だった河野一郎である。その河野との対談が入っている。このオリンピック映画への批判は子供ながらよく覚えている。小学校の担任の先生が児童に向かって、監督を指名して作らせたのだから後からとやかく言うのはおかしい、と怒っていた。市川との対談もあるし、旧知の間柄だったのであるが、高峰以外の映画人が市川を擁護しなかったとも知った。ともかく本書は昔の日本映画に関心があれば一読の価値がある。


2024年6月16日日曜日

綾辻行人『十角館の殺人』講談社文庫 2007

著者の処女作で非常に評価が高い推理小説である。この小説を一言で要約すれば解説にある次の文で十分である。

『十角館の殺人』は、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』(1939年)をなぞりながら、新しい切り口を見出そうとした作品である。(p.489)

自分が思ったのは、本小説を絶賛している人は以前に『そして誰もいなくなった』を読んでいるんだろうか。また本小説を読んだ後、クリスティを読むとなんだ、同じような小説ではないかと思うかもしれない。もう何十年も前、クリスティの『そして誰もいなくなった』を英語の原書(Ten little niggersという当初の題のペーパーバックだった)を読んだ際は本当に驚いたものだ。英語の練習でペーパーバックを読んでもなかなか進まない本が多い中、『そして誰もいなくなった』は内容の興味によってあっという間に読んでしまった。驚かせる推理小説と言えばこれ以上の作品は知らない。同じクリスティの『アクロイド殺害事件』にもやはり驚いた。昔若い時に読んだからだろう。だからこの『十角館の殺人』は正直そんなに感心しなかった。この小説ではトリックは考えてあるが、全体の枠組みがクリスティと同じで新鮮味がなく、面白くなかった。

ある一行に無暗に感心している者がいるが、自分のあだ名を言う行か。もしそうなら、あの一行があるため、その後の謎解き解説が間の抜けたものになっていると思った。もう少し工夫できなかったか。

何と言っても本小説で一番気になるのは、この連続殺人は復讐のために行なった、となっているのに全く復讐になっていないじゃないか。自分が復讐される理由を誰も聞かされず死ぬ。爆弾で一瞬に吹き飛ばすとか、睡眠薬を入れて火事で殺したのと同じじゃないか。まるで推理小説よろしく次々と殺人が行われるが(実際に推理小説だろと言われそうだが)、推理小説狂が推理小説を実地にやってみたくこんな連続殺人をした、とした方が説得力がある。現実の話として人が死ぬを見たくて殺人をした大学生がいただろう。


2024年6月14日金曜日

殺人の告白 2012

チョン・ピョンギル監督、韓国、119分。日本映画『22年目の告白』の元となったとされる映画。

過去に連続殺人事件があり、時効成立後、自分が犯人だという男が現れ、本を出版するという大枠は同じである。異なるのは、真犯人名乗り後、被害者の遺族たちがこの男を殺そうと奔走するところ、また車の追っかけで、かなり活劇的な場面が複数出てくる。日本版であった様な真犯人についてのひねりがない。そのため単純であるが、日本版はあまりにこさえ物感があってこんなことあり得るかという疑問を持ってしまった。そういう意味での非現実感、複雑さはない。

2024年6月13日木曜日

22年目の告白 私が殺人犯です 2017

入江悠監督、117分、藤原竜也、伊藤英明、仲村トオル出演。22年前の連続殺人犯が名乗り出る。時効になったため。しかもそれを本にして売る。大騒ぎになる。

かつての連続殺人では刑事は自分が狙われていたのに、同僚刑事を目の前で殺される。自分の身代わりとなって。犯人と名乗り出た男はテレビ出演し、その刑事と対峙する。更に司会からもう一人の男が出ると告げられる。それは覆面の男で過去の殺人映像を持っていた。犯人と名乗り出た男と刑事はここで大暴露を告げる。実は告白本を書いたのは刑事で、告白男とグルになっていた。なぜそんな真似をしたのか。告白男は恋人を殺されている。それで自分が犯人だと名乗り出れば、真犯人が出てくるだろう、それを期待していたのである。ところが覆面男は自分は金をもらって真犯人ぶって出てきただけだと話す。告白男は実際の犯人ではなかったが覆面男もそうでなかった。では誰が犯人か。実はこのテレビ番組で司会していた男だった。最後にその男の別荘で捕物があって捕まる。

2024年6月12日水曜日

ルイス『マンク』 The monk 1796年

イギリスの小説家、マシュー・グレゴリー・ルイスが19歳の時書いたという(信じ難いが)、ゴシック小説の代表作。

話は大きく二つの流れがある。後半で流れは交錯する。舞台はスペインである。小説冒頭、教会で貴族のレイモンドとロレンゾは、美女アントニアとその叔母に会う。ロレンゾはアントニアに惹かれる。ロレンゾの妹アグネスはレイモンドの恋人である。しかし今は修道院に幽閉されている。もう一つの流れが修道院長のアンブロシオである。厳格有徳で非常に尊敬されている有名な僧である。そのアンブロシオに恋するマチルダは、男装して修道士となり修道院に入り、アンブロシオに熱情を打ち明ける。アンブロシオは自分の評判を気にするが、マチルダと道ならぬ恋に陥る。すぐにアンブロシオはマチルダに飽き、たまたま見染めたアントニアを何としても物にしたく、欲情の虜になる。マチルダはアンブロシオのためならと協力する。マチルダは妖術使いだったのである。アントニアをアンブロシオが獲得するため、手管を弄する。アンブロシオの修道院の隣にある女修道院は、アグネスが匿われていたが女修道院長がこれまた非道の人間だった。アグネスは死んだとレイモンドは聞かされ絶望するが、後に真相が分かる。アントニアを助けにロレンゾは向かうがhappy endとは言い難い。最後にディケンズの小説によくあるように誰それと誰それは身内だったと分かる。小説の内容は道徳的とは言えないが、全体をまとめれば勧善懲悪の物語とも言える。

18世紀に書かれたゴシック小説であり『オトラント城奇譚』『ヴァテック』『ユドルフォ城の謎』と並ぶ古典として有名。『フランケンシュタイン』は19世紀の作品。上巻の栞に本小説はホフマンの『悪魔の美酒』の粉本とあり、そう言えばそうだと思った。十代の時、『悪魔の美酒』を読み驚いたが、その元とも言うべき本書にこんな後年になって巡り会えた。(世界幻想文学大系第2巻、上下、国書刊行会、1985)

2024年6月11日火曜日

『ゴシック文学神髄』東雅夫編、ちくま文庫 2020

以下の作品を含む。『詩画集 大鴉』ポー原作、西脇順三郎訳にドレの挿絵、『大鴉』西脇順三郎の詩のみ、『アッシャア屋形崩るるの記』ポー原作、西脇順三郎訳、冒頭のみ、『オトラント奇譚』ウォルポール原作、平井呈一訳、『ヴァテック』ベックフォード原作、矢野目源一訳、『死妖姫』レ・ファニュ原作、野町二訳。

このうち『詩画集 大鴉』ポー原作、西脇順三郎訳にドレの挿絵、『大鴉』西脇順三郎の詩のみ、『アッシャア屋形崩るるの記』ポー原作、西脇順三郎訳、冒頭のみ、は、同じ編者による学研M文庫伝奇の匣7ゴシック名訳集成西洋伝奇物語に収録されている。

次の『オトラント城奇譚』は、同学研M文庫所収のやはり平井呈一訳の『おとらんと城奇譚』と異なり口語訳である。学研M文庫は文語訳。次の『ヴァテック』ベックフォード原作、矢野目源一訳は、同じ編者による学研M文庫伝奇の匣8ゴシック名訳集成暴夜幻想譚に含まれている。『死妖姫』レ・ファニュ原作は『カーミラ』である。最新訳を集めたものではないが、西脇順三郎訳を除けばいずれも口語なので読みやすい。

2024年6月10日月曜日

デュ・モーリア『いま見てはいけない』 Don’t lool at now and other stories   1966

短篇集で収録作品は『いま見てはいけない』『真夜中になる前に』『ボーダーライン』『十字架の道』『第六の力』である。

『いま見てはいけない』はヴェネツィアが舞台。娘を亡くしている夫婦がヴェネツィアに観光で来る。そこで不思議な老女二人連れに会う。一人は盲目である。不思議な予言をする。妻がその得体の知れない女たちに関心を持つので夫は不快になる。息子が病気になったと知らせが来る。まず妻が帰る。その後夫が帰る時、船に妻とあの老女二人が乗って、反対方向に向かっているのを見る。夫は驚いて引き返す。妻は老女らにたぶらかされた、誘拐されたと思い込む。警察に捜索を依頼する。ところがイギリスに戻った妻から電話がかかってくる。自分が見間違いだったのか。あの老女らに聞くと未来のことだと。それは小説の最後で夫が殺人犯に殺される、その後という意味だった。

『真夜中になる前に』はギリシャの島に絵を描きに来た教師は、容貌魁偉な夫と不気味な妻に会う。その夫婦がしていたことが判明する。『ボーダーライン』は父親を亡くした若い娘が父親のかつての仲間の元軍人の住む島に訪れ、両親との関係を探ろうとする。『十字架の道』はエルサレムに聖地観光に来たイギリス人たちの話。思いがけず引率を任された若い牧師、新婚なのに仲が悪い夫婦、行動力盛んな子供などの行動が描かれる。『第六の力』は辺鄙の地にある研究所に派遣された若い科学者が人間のエネルギーを取り出す実験に巻き込まれる話。(務台夏子訳、創元推理文庫、2014)

2024年6月9日日曜日

泉谷閑示『仕事なんか生きがいにするな』幻冬舎新書 2017

著者は1962年生まれの精神科医である。著者の主張を次の様に理解した。

人間は生きる意味を問う生き物である。それでは現代人は何に生きる意味を見出そうとしてるか。それは仕事(労働)である。(過去の思想家は仕事を労働を区別したとあるが、ここでは同一としておく)それではなぜ仕事を生きがいとしているのか。それは現代人の多くは労働教の信者だからである。なぜ労働教が形成されたか、著者は過去の思想の発展を述べる。労働価値説によって労働が価値を生むという説が広まった、マックス・ウェーバーは労働に励むことを天職として賛美した。本当の自分を求めようとすると、それが労働の妨げになるというので否定される。自分探しとは仕事探しではない、とある。このように仕事を至高価値とする考えに現代人は囚われている。それではどうすべきか。あるべき人生とはどのようなものか。当然ながら抽象的な議論になる。やや具体的には芸術が出てくる。芸術に触れるべきと言っているようである。更に食や遊びが出てくる。これもただ食って遊ぶというのでなく、より深い意味で、である。蟻とキリギリスの挿話で、キリギリスを馬鹿にし蟻を賛美する考えに反対する。

以上のような本書の考えは抽象的にはもちろん、もっともだと思うが、具体的になると賛成できない。本書の書名「仕事なんか生きがいにするな」という言明は「仕事を生きがいにしろ」と同様に意味がない。命令されて生きがいにしたり、止めたりなどできない。もし実際に仕事を生きがいとしている人がいたら幸福な人で、そうさせておけばよいではないか。それをお前は本当の人生を生きていないなど余計なお節介というか、傲慢すぎる。多くの人はこの本に書いてあるような労働教の信者ではない。生きていくため、仕事をしなくてはならない。しかしそれは苦痛でしかない。どうすればよいのか、これが解決すべき問題である。もちろんうまい解決策などない。そんなものがあればもう実行されているはずである。だから少しでも今より納得できるようにするしかない。仕事を辞められない。満足できる仕事が他にあったとしてもそれに就くのはまず無理である。

今の仕事はつまらないが、それは何らかの意味があるはずである。仕事が店の販売員だろうが、物を右から左に運んでいるだけだろうが、上司や得意先から怒鳴られてばかりだろうが、やっている以上それは必要な仕事だからだ。あなたがいなくなってもすぐ代わりが務まる仕事とは、つまりやる必要がある仕事という意味である。人間は自分勝手であるが、自分の存在意義を認めてもらいたいと思っている。それは仕事を通じて社会(他人といってもいい)に奉仕し、なにがしかの報酬を得て実現するしかない。普通の人間には。もし特別な才能があって芸能人でも芸術家でもプロスポーツ選手などでも、やれるならやった方がいい。ただ自分とかけ離れた才能の持ち主などと比較しても何にもならない。それらの職業を目指してバイトのような仕事をして、自分の時間に技を磨き、夢を追う選択もある。ただ華やかに見える職業でも、ただのサラリーマンと職業に貴賤はない。誰でもできる仕事でも真面目にやっているから世の中は回っているのである。

他の先進国と比べて日本は暮らしやすい国である。それはみんなが真面目に仕事をしているからである。世の中には仕事を卑しめる言論が氾濫しているが、そんなことで本を書いたり講演をして金儲けができるのは、ほとんどの人が真面目に仕事をしているからである。天下国家を論じるのは勝手だがそれで自分の仕事を充実させてくれるわけでない。資本主義のせいだと言っている連中はなぜさっさと北朝鮮に移住しないのか、全く分からない。ともかく平日は仕事に時間を取られて何もできなくても、週末が自分の自由にできるなら、その時間に自分がやりたい生きがいと呼んでも何でもいいが、充実した時を過ごすべきである。

2024年6月7日金曜日

中島義道『英語コンプレックスの正体』講談社+α文庫 2016

哲学者中島義道による日本人の英語観、英語に対する劣等感を論じた著。

所収の文章が時間をおいて執筆されているため、その間の日本人の外国人観、英語観の変化がある。まずかつての英語に対する劣等感では、英語中心を疑わない傲慢な外国人、それに迎合する日本人の卑屈な態度等が語られる。このような英語に対する劣等感はなぜ生じたか。英語を母語とする外国人、つまり英米人の身体が日本人より遥かに勝り、美しいという外見上の相違がある、という点が指摘される。劣等感の克服はどうしたらできるのか。それは劣等感にまず向き合うべきと主張する。更に時代を経た論考では、現代の若者は欧米に対するかつてのような劣等感は持っていないと観察する。その後は著者自身のこれまでの外国語、英語に限らずドイツ語ほかを含めて、どう関わってきたか、勉強してきたかの体験談である。

ヘラクレス Hercules 2014

ブレット・ラトナー監督、米、99分、ドウェイン・ジョンソン主演。神の子ヘラクレスはこれまで多くの超人的偉業を成し遂げてきた。過去に妻子を亡くす不幸があり、今では傭兵の仲間たちと行動している。

トラキアの王女からの頼みで反乱を起こした軍隊の征伐を頼まれる。報酬は莫大であった。ヘラクレスと仲間たちは素人の国民を兵士となるよう鍛える。進軍する。ヘラクレスほかの働きで反乱を起こした将軍を捕虜にする。元の国に戻ると将軍は国民から石を投げられる。将軍はヘラクレスに国王が暴虐だから乱を起こしたのだ、国王支配で国は悪くなると言い出す。ヘラクレスと仲間たちは報酬をもらうが、民を助けるため国王と戦うよう決意する。仲間も一人を除いて行動を共にする。ヘラクレスたちと国王の兵隊との戦いになる。最後は国王を倒し、ヘラクレス最強の雄叫びが兵士たちの間で鳴り響く。

2024年6月5日水曜日

吸血鬼 The fearless vampire killers 1967

ロマン・ポランスキー監督、米、108分。吸血鬼ものだが、恐怖映画というより喜劇的要素が強い。教授と助手(ポランスキー演)は吸血鬼を捜して旅を続けていた。

田舎の宿に泊まる。にんにくが沢山ぶら下げてある。吸血鬼の出る村で、宿屋の娘(シャロン・テート演)は風呂に入っている時に吸血鬼にさらわれる。教授と助手は救助に吸血鬼がいると思われる城に向かう。そこで吸血鬼の息子や会で集まってきた多くの吸血鬼らに会う。何とかして娘を助け出す。追ってくる吸血鬼どもを追い払う。これで助かったと思いきや、娘は恐ろしい形相になって助手の首にかぶりつく。娘は吸血鬼になっていたのだ。

巴里の女性 A woman of Paris 1923

チャップリンの政策、監督だがチャップリンは出演していない。81分、無声映画。

フランスの田舎町の恋人たちはパリに行って結婚するつもりだったが、男の父親が急病になり、駅で待っていた女は男が来ないので一人パリに立つ。後になって、女はパリで独身の金持ちに好かれ、優雅な生活を送っていた。ある日、かつての男に出会う。男はパリで画家として身を立てていた。女は男の家に行くが、男の母親は女にいい印象を持たない。内心好かれ合っている男と女の行き来がある。女が世話になっていた独身男は他の女と結婚するつもりだったが、女に昔の男が現れたと知り女に執着するようになる。男と女のすれ違いで男は女に会いにレストランに行く。女が独身男と一緒にいるのを見て、絶望し持っていた拳銃で自殺する。後年になり女は男の母親と孤児らの世話をしていた。あの独身男が乗る車と田舎道ですれ違うが、お互い気づかない。

三島由紀夫『夏子の冒険』 昭和26年

主人公の夏子はブルジョワの若い女で男からは大いに好かれるが、関心を持てる男はいない。いきなり修道院に入ると言い出す。

函館の修道院に入るべく北海道に向かう途中で、ある若い男に出会う。その男には今まで他の男にない魅力を感じた。聞いてみると復讐で熊を撃ちに行くという。復讐とは以前男が結婚する予定だった女が、熊に襲われ殺されたからだ。すっかり男に参った夏子は修道院に入るのは止め、男に付いていくと言い出す。男もやむなく承諾する。また突然の夏子の決心を聞かされた母親、伯母、祖母は夏子に会うべく北海道を夏子の後を追う。男の友人の、新聞社に勤める若い男を派遣させ夏子を連れて来させようとする。母親ら三人の女がいる家に件の熊が襲ってくる。待っていた男ほかの狩人は熊を仕留める。男の銃の弾が熊の心臓を撃ち抜き、復讐を果たした。

母親ら三人の女は男を見て夏子の婿にしてよいと判断する。しかし帰りの船で夏子は男にかつてのような眼の輝きが無くなったと思い、これまたいきなり修道院に入ると母親ら三人の女に告げて驚かせる。(角川文庫、2009年)

2024年6月2日日曜日

中島義道『70歳の絶望』角川新書 2017

哲学者中島義道による本書は、著者が70歳を迎えたので編集者による命名。別に絶望している様が書かれているわけでない。

著者の本によくある、日常生活の記録に多くのページを割いており、その間に哲学の問題を解説している。また『カラマーゾフの兄弟』に出てくる殺人にアリョーシャが関わっていると論じている。その理由が書いてあり、推理小説好きの文のようである。70歳になったので、ボケている現象がたまに起こり、それらは確かに老人の記録である。