2025年11月30日日曜日

ガルシア=マルケス『百年の孤独』 Cien anos de soledad 1967

本書の原作は1967年、初の邦訳は1972年に出た。その改訳が1999年と2006年に同じ新潮社から出た。改訳の文庫化が本書である。コロンビアの架空の村、マコンドが舞台である。この村の創設者であるホセ・アルカディオ・ブエンディアとその妻ウルスラから始まる、ブエンディア家年代記とも言うべき小説である。20世紀の小説中、傑作とされノーベル文学賞を受賞、世界中でベストセラーになったと宣伝文にある。ただ他人の評価など自分が読んで面白くなければ意味がない。ノーベル文学賞にどういう価値があるか知らないが、賞金が巨額だから受賞者は大喜びだろう。それにしても多くの人々に読まれているので、読むに値するのではないかと思われる。

この小説の内容については既に多く書かれている。そこでこの小説がどういう点で、それも形式、書き方に関して、近代文学とどう異なっているか、自分の理解を書いてみたい。18世紀から19世紀は近代小説の完成期で多くの長編小説が書かれた。近代小説は大きな特色がある。人間を描くのが中心になった、という点である。例えば『赤と黒』や『罪と罰』を見れば明瞭だろう。他にもオースティン、バルザック、トルストイなど、19世紀の西洋小説群も同様である。それ以前の文学では話がどう進むのか、筋の展開の記述が主であった。古くなり過ぎるが、神話や伝説などを見れば分かるだろう。聖書に出てくるアブラハムやヨセフ、ダビデなど何をした人物か知っているが、性格は書かれていない。

『百年の孤独』は20世紀の後半、1967年に書かれた。もう19世紀型の近代小説を踏襲していない。20世紀の文学史について語る知識はないが、この小説は登場人物の人格を書き分けるのが目的となっていない。だから個々の人物について十分理解しえないから感情移入もしにくい。近代小説に慣れた読者にはとっつきにくいかもしれない。それでも大まかな人間像は分かる。

小説の女たちは愛に生き、家に仕え、家を仕切る。現実的であり、生命力の源である。男たちは自分の関心事だけに熱中し、壮年時に金や権力があれば好き勝手に振舞い、そのせいで長生きできたら呆けた鈍物になる。男と女の一つの典型に思え、小説では個々に肉付けされている。

名前について触れたい。家系図の下の方にレナータ・レメディオス(メメ)という名がある。この娘が生まれた時、よそ者の母親は自分の母の名、レナータとつけようとした。しかし太母ウルスラは一族にある名のレメディオスとしようとし、もめた末、双方の名をとって命名された。つまり一族の者であれば伯(叔)父(母)や(祖、曾祖)父母の名などを付けるべきなのである。だから男子であれば、必ず(ホセ・)アルカディオかアウレリャノにする。これは一家の男であると意味し、この小説の本質的要素の一つなのである。アルカディオ系とアルレリャノ系の夫々の性質についてウルスラは語っている。

この小説には空飛ぶ絨毯、空中浮遊、人体の文字通りの消失など超常現象が出てくる。この小説はSFでも幻想小説でもない。これら超常現象は普通の出来事と同等に扱われている。大体この小説は普通の出来事といっても恐ろしく変というか、滅茶苦茶というか、まともでない事柄が多く出てくる。だから超常現象を特別視する必要もない。それだけ取り出して、それが本小説の特色と言ったら適当でないと思う。通常の出来事と渾然一体となっているのである。

ともかく西洋近代小説を中心に文学に親しんできた者に、この南米の小説は新しい世界を開かせると思う。他の南米の長編小説もこれから読んでいきたい。

この文庫本は筒井康隆の解説がついていて、それが売りであると思う人は多かろう。以下、私事を書く。この小説は古い訳本を昔買っていて、初めはそれを読み出したのだが、途中で新訳があると知った。しかも新訳には家系図が付いているという。最初の訳本にはないのである。この小説で家系図がなかったら、照明のない暗夜行路ではないか。しかも筒井康隆の解説付きである。それで久方ぶりに書店でこの新刊の文庫を買った。大昔から知っている書店であるが、久しぶりなので買うのに戸惑った。出てからそばにある古本屋街で明治文学全集を2冊、各200円で買った。中を見ると綺麗な本で近くにある女子大の図書館の除籍本だった。それはどうでもいい話だが、筒井康隆の解説である。筒井は本書を読んで「この手があったか」と衝撃を受けたそうである。読んでいくとこの小説に影響を受けた日本の小説の名や、初めて紹介された時に、読みもせずにと筒井は書いているが、けなした老大家の作家がいたそうで怒っているが、もう鬼籍に入っていると思うので誰か書いてほしかった。

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