2025年11月25日火曜日

志村五郎『鳥のように』筑摩書房 2015

前著『記憶の切絵図』に続く本である。前著は著者の自叙伝といった感じで、特に文庫の最初の100ページほどは少年期を書いてある。戦前の東京では、生活がどんなであったかの一例として面白い。それに対して本書は著者の関心の赴くままの随筆である。学者というものは一国一城の主で、たいてい、かなりの自信家である。そうでなければ学者などやっていけないのだろう。この本でも著者の自信家ぶりは伺える。

本書の中では丸山眞男について書かれた章が特に有名であるようなので、それについて述べる。政治学者の丸山は東大を辞めた後、1975年10月にプリンストンの高等研究所に来た。プリンストン大にいた志村あてに、丸山の世話を頼む依頼が数通来たとのこと。丸山は志村より15歳ほど年上で、戦後を代表する政治学者、思想史家として有名だった。しかしながらここでは志村は丸山をかなり「やっつけて」いる。プリンストンで知り合った丸山がいかに中国の古典や成句に関しての無知であるかをさんざん書き、更に丸山は音楽好きでも知られたが、その音楽に関しても無知なので呆れているといった調子である。また丸山の自分自身の無知に対して素直でない態度も書いてある。丸山は学者というよりジャーナリストだとも評している。著者は前著でも、権威とされている数学者を遠慮なく批判している。これは同業者だからその気になる場合もあろうと思われる。しかし畑違いの丸山を、どうでもいいような事を含めて下げているのはどういう訳か。これは文中にある、丸山が著者について書いた書簡を読んだせいと分かる。その本は『丸山眞男書簡集2 1974-1979』みすず書房、2004である。その中で1975年11月6日の小尾俊人(みすず書房創業者)あての書簡で、知り合い、世話になった志村を次の様に評している。

プリンストンの数学者は日本人が多く、「・・・志村[五郎]教授はプリンストンの看板教授です。(中略)先日も志村教授のカクテル・パーティに招かれて(中略)志村教授とダべりましたが、非常に趣味と関心が広い反面、自信過剰で、政治=社会問題について平気でピントの狂ったことをいい、「第一級の専門家でも、一たび専門以外のことを発信する場合は一言も信用してはいけない」というレーニンの言葉を思い出しました。(以下略)(同書p.62~63)

ここを読んで志村は怒り心頭に発したのだろう。もっとも丸山は、後に志村あての書簡を書いている。同書簡集の1976年6月18日付けではバークレイに移った後にプリンストンで世話になったお礼とバークレイの様子を伝えている。更に帰国後、1977年7月27日付けでは、信州に来ていたらしい志村あての書簡で、音楽関係の話題、贈られた品の謝礼、招待されていたらしい信州行きについて触れている。丸山は1996年に没し、2004年に出版されたこの書簡集を読んで志村は怒り、丸山が自分の悪口を書いているから、この文を書けると本書で言っている。

そこで志村の丸山の批判は、朝鮮戦争の勃発は北朝鮮側からの攻撃なのに、それを丸山はそう認めていない、という点を中心にしている。実は左翼の風潮が強かった1970年代くらいまで、朝鮮戦争は南側からの戦争であったという説が幅を利かせていた。多数派が間違えていたからといって、丸山の免責にはならない。しかし丸山を批判するなら朝鮮戦争に関する認識だけでは弱い気がする。もっと根源的な批判は何か。自分が思うに、丸山は20世紀の終わり頃まで、平成まで生きたのだが、最後まで革命とか社会主義に対する期待(幻想)を捨てきれなかったようだ。これは認識というより信念、心情の問題なのだろうが、政治学者だから批判されてもしょうがないだろう。この文には「丸山眞男という人」という題がついているが、文は人なりというか読んで「志村五郎という人」という感想もした。

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