ホームズの長篇小説の中でも評価の高い作品と言われる。次のような話である。
旧家に伝わる怪奇な話がある。そこに出てくる犬と関連しているのかと思わせる怪死事件が起きる。財産を相続する甥がアメリカから帰ってくる。しかしその男に危険が迫り、ホームズが乗り出す。
舞台は最初の方はロンドンだが、大部分はデヴォンシャーという田舎である。そこの怪しい雰囲気が小説を大きく支配している。
推理小説は長篇になると短篇に比べ、話そのものがより関心の対象になる。本書も謎解きの観点から言えば全く面白くない小説である。犯人は分かっているし、「夜光怪獣」の謎も子供だましもいいところである。なぜ評価する人がいるのか。異色作と言うべきで普段のホームズ物には見られない重厚さが感じられる、といったせいか。
この小説で一番面白かったところは、来訪した医師がホームズを欧州第二と言って、ホームズが憮然とする場面である。ここを読むと『瀕死の探偵』でホームズが(深謀だが)ワトソンを「君なんか経験も資格も大したことない一般開業医に過ぎないじゃないか」と言ってワトソンを侮辱するところを思い出した。
新潮文庫の延原謙訳は定評があるらしい。昭和29年初版で、持っているのは昭和62年の57刷、206頁、定価320円、この頃もうこんな薄い本で320円もしたのだと思った。
第二章のバスカヴィルの古文書の文語訳などは風格がある。
しかし第六章の次の文を読んだ時、少し気になった。
執事夫婦を追い出したらというワトスンの提案をホームズが一蹴するところである。
「万一罪があるとすれば、虎を野に放つようなもので、先生がたは舌をだして喜ぶだけだよ。」(昭和29年版、p.83)
文脈から言って不自然に思ったので原文をみてみた。
if they are guilty we should be giving up all chance of bringing it home to them.
これでは捕まえる機会を逃す、くらいの意味ではないか。他に持っている訳本を2種ばかりみたがやはりそう訳してある。
更にこの延原訳を読んでいたら、最終ページの最後から二行目で次のようにあり、驚きだった。
「僕はユグノー座の切符をもっている。」(昭和29年版、p.263)
原文は次の通り。
I have a box for ‘Les Huguenots.’
Les Huguenotsとは独生まれ、仏で活躍したオペラ作曲家マイヤーベアの代表作『ユグノー教徒』のことである。ウィキペディアのマイヤーベアの項を見たら『ユグノー教徒』の解説のところで『バスカヴィル家の犬』が言及されている。
訳者はクラシック音楽に詳しくなかったかもしれない。しかし当時は音楽ファンでも、ほとんどマイヤーベアなんて聞いたことがなかったはずだ。マイヤーベアは生前は人気があったが、死後は忘れられた。この訳が出た頃は、録音があったかも疑わしい。今では再評価され録音やDVDなど結構出ている。
ところで現在、延原訳として出ている新潮文庫は改版しただけでなく、子が訳文に修正を加えている。新版(平成23年)で見たら、上のユグノー座は『ユグノー教徒』(p.314)になっている。ただ虎を野や舌を出すのところ(p.95)はそのままである。
更に驚いたのは第二章の古文書が口語表記になっている。文語では読みにくいという配慮なのだろう。また新版では活字が大きくなっている。
延原訳の新旧を比べたら、文語文や、山中峯太郎に叶わないが自由訳、更に爆笑物のユグノー座など旧版は珍品と言うべきで、旧訳が好きである。
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