エイアル・シヴァン監督、仏、123分、白黒映画。
ナチスのユダヤ人殺戮の責任者の一人アイヒマン(1906年生まれ)の裁判、1961年にイスラエルで行なわれた、の記録映画である。元の記録映像は非常に長尺で、それを2時間に編集した。アイヒマンは戦後、南米に隠れていて、この裁判の1年前にイスラエルの警察によって逮捕された。
裁判でのアイヒマンの証言は、自分はユダヤ人移送の責任者であったが、上からの命令でやっただけだと繰り返し述べる。それは真情だったのだろう。組織の一員として特に戦時中で、命令に従うしかない。検察が野獣と変わらないと非難するが的外れにしか見えない。野獣に失礼だとかの話でない。この検察の言い分ではまるでアイヒマン(他の当時の将校軍人でもいい)が好き好んで、殺人を楽しんだと言わんばかりである。それでは真相究明にならない。ただ感情的に怒りをぶつけているだけである。ナチス高官なら仕方ない、というなら裁判などする必要はない。さっさとなぶり殺しにすればよいだけである。
命令に従って行なった、それは本当である。だからといってアイヒマンの責任がないと言っているではない。明らかにある。将校で責任者であったからある。アイヒマンに命令を与えた者はアイヒマンより責任がある。アイヒマンが命令した者の責任は相対的に少ない。アイヒマンを弁護するつもりはない。しかしアイヒマンが異常な殺人愛好家であったと、それで終わらせたいのか。この裁判から60年も経って疫病の世界的流行で、それを流行らせたというので、その民族か似た者に他の有色人種が暴行していた。他人種への憎悪は普通に見られる。ここでは疫病がそれを顕在化させた。ユダヤ人憎悪は当時の西洋で珍しくない感情だった。それをナチスが政治的に利用して、特に総統職の者が異常だったので大量殺戮が行なわれ、それに加担したアイヒマンは責任を免れない。アイヒマンが平々凡々なサラリーマンであったとは何ら驚くに当たらない、というか当然に思える。アイヒマンが言っていたように、このような悲劇を二度と繰り返してはならない、それが真の責任の取り方である。第二次世界大戦後、ユダヤ人攻撃は絶対的に禁止となった。それで終わるのではなく、他の人種間でも、個人に関係ないのに(あるいはどうしようもないのに)まとめて人種単位で非難蔑視はやるべきでない。
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