2021年8月26日木曜日

ヒッチコック映画術トリュフォー Le Cinema selon Alfred Hicthkock 1966

トリュフォーが尊敬する監督ヒッチコックに、制作した映画についてインタビューした内容をまとめたもの。50時間に及んだと言う長尺のインタビューで、ヒッチコックの映画制作の実際、その狙い、俳優についての諸々の評価など、ヒッチコックの映画が明かされる。本書の特色は何と言っても監督であるトリュフォーが監督ヒッチコックに、どのようにして制作したか、何が問題だったか、どれだけ狙いが実現したか、といった「作る」側からの質疑、討論という点である。鑑賞者である観客、その代表としての批評家の論とは立場が異なる。批評家はストーリーの分析をする、と書いてある。本書の立場はそうでない。

監督であるトリュフォーが質問する、あそこの場面の意図はこうでなかったかと。それに対してヒッチコックがまさにそうだと答える場合が結構ある。さすがにトリュフォーは良く観ている。もちろんすべて両者の意見が一致しているわけでない。例えば『間違えられた男』についてトリュフォーの批判のようなものがあり、それにヒッチコックはめんどくさそうに答えている。

ヒッチコックの映画哲学は第一にエモーションを作ること、第二にそのエモーションを最後まで失わずに保つこと、とある。(p.100)つまり観客に映画に対する関心を、最後まで持続させるような工夫であろう。ヒッチコックは映画で自分の意図を徹底させる気でいる。劇映画の監督とは神である(p.88)と言い切る。俳優はあくまで自分の芸術を実現するための駒であるかのようである。

有名な金髪美人好きについても説明がある。外面はクールで内面は炎のような女がいい。マリリン・モンローやブリジット・バルドーのようにセックスをむき出しにしたような女は好きでない。英独や北欧の女が好みでラテン系は好きでない。女優はクールビューティを好み、男の俳優はケイリー・グラントやジミー・スチュアートを多く使った。つまり美男美女がヒッチコック映画の常連である。インターネットの素人の評論を見ると大抵、美男美女の俳優を大根とこき下ろし、脇役の面相の良くない俳優を持ち上げて通ぶっているものが多い。ヒッチコックでは逆だ。俳優に意見など求めていない。『めまい』のキム・ノヴァクや『山羊座の下に』のイングリッド・バーグマンが色々自己主張をしたので腹を立てている。バーグマンに関しては、夫子供を捨ててロッセリーニと駆け落ちしたので、自分が使いたかったスウェーデン女優(映画『令嬢ジュリー』のヒロイン)が使えなくなったとこぼしている。この俳優といったらいつも演技が絶賛されているチャールズ・ロートンは、戦前の映画だが『巌窟の野獣』で、自分の出番では必ずクローズアップにしろと要求した、ふざけた野郎と言っている。ジミー・スチュアートをほめるのに、何もしないのがいいと言う。それが俳優に求めるものだったらしい。まさに俳優はヒッチコックの意図を実現するための手段なのである。

他にもヒッチコックはイギリスならではのunderstatementを好んでいた。ドラマチックなアイデアをさりげなく表現する、を指しヒッチコックの銘だった。またケイリー・グラントを悪人役するなど会社が許さなかった、と当時の考え方が分かる。またイギリスでは一流の俳優やシナリオライターが使えた。ところがアメリカに来てみると、ヒッチコックの映画のようなジャンルは二流視されていて、使いたいスター等が使えない。『海外特派員』でゲイリー・クーパーに頼みに行ったら断られた。後で出ておけばよかったと言われたそうである。実際にヒッチコックが使いたかった俳優が色々書いてある。

本書は制作側から見た、謎解きヒッチコックといった本である。本書を読むとヒッチコックの映画の見方が限定されるのではないか、という気がしないでもない。映画好きは偉そうな事を言いたい輩が多いので、そういった連中にネタを提供する本である。

最近の高齢社会には優しくない細かい活字の大型本で、情報量は多い。本の作りで言えば索引があるのがありがたい。ある経済学者が「索引のない本など本ではない」と言っていたが、索引があるので利用価値が大いに増している。

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