2025年11月30日日曜日

ガルシア=マルケス『百年の孤独』 Cien anos de soledad 1967

本書の原作は1967年、初の邦訳は1972年に出た。その改訳が1999年と2006年に同じ新潮社から出た。改訳の文庫化が本書である。コロンビアの架空の村、マコンドが舞台である。この村の創設者であるホセ・アルカディオ・ブエンディアとその妻ウルスラから始まる、ブエンディア家年代記とも言うべき小説である。20世紀の小説中、傑作とされノーベル文学賞を受賞、世界中でベストセラーになったと宣伝文にある。ただ他人の評価など自分が読んで面白くなければ意味がない。ノーベル文学賞にどういう価値があるか知らないが、賞金が巨額だから受賞者は大喜びだろう。それにしても多くの人々に読まれているので、読むに値するのではないかと思われる。

この小説の内容については既に多く書かれている。そこでこの小説がどういう点で、それも形式、書き方に関して、近代文学とどう異なっているか、自分の理解を書いてみたい。18世紀から19世紀は近代小説の完成期で多くの長編小説が書かれた。近代小説は大きな特色がある。人間を描くのが中心になった、という点である。例えば『赤と黒』や『罪と罰』を見れば明瞭だろう。他にもオースティン、バルザック、トルストイなど、19世紀の西洋小説群も同様である。それ以前の文学では話がどう進むのか、筋の展開の記述が主であった。古くなり過ぎるが、神話や伝説などを見れば分かるだろう。聖書に出てくるアブラハムやヨセフ、ダビデなど何をした人物か知っているが、性格は書かれていない。

『百年の孤独』は20世紀の後半、1967年に書かれた。もう19世紀型の近代小説を踏襲していない。20世紀の文学史について語る知識はないが、この小説は登場人物の人格を書き分けるのが目的となっていない。だから個々の人物について十分理解しえないから感情移入もしにくい。近代小説に慣れた読者にはとっつきにくいかもしれない。それでも大まかな人間像は分かる。

小説の女たちは愛に生き、家に仕え、家を仕切る。現実的であり、生命力の源である。男たちは自分の関心事だけに熱中し、壮年時に金や権力があれば好き勝手に振舞い、そのせいで長生きできたら呆けた鈍物になる。男と女の一つの典型に思え、小説では個々に肉付けされている。

名前について触れたい。家系図の下の方にレナータ・レメディオス(メメ)という名がある。この娘が生まれた時、よそ者の母親は自分の母の名、レナータとつけようとした。しかし太母ウルスラは一族にある名のレメディオスとしようとし、もめた末、双方の名をとって命名された。つまり一族の者であれば伯(叔)父(母)や(祖、曾祖)父母の名などを付けるべきなのである。だから男子であれば、必ず(ホセ・)アルカディオかアウレリャノにする。これは一家の男であると意味し、この小説の本質的要素の一つなのである。アルカディオ系とアルレリャノ系の夫々の性質についてウルスラは語っている。

この小説には空飛ぶ絨毯、空中浮遊、人体の文字通りの消失など超常現象が出てくる。この小説はSFでも幻想小説でもない。これら超常現象は普通の出来事と同等に扱われている。大体この小説は普通の出来事といっても恐ろしく変というか、滅茶苦茶というか、まともでない事柄が多く出てくる。だから超常現象を特別視する必要もない。それだけ取り出して、それが本小説の特色と言ったら適当でないと思う。通常の出来事と渾然一体となっているのである。

ともかく西洋近代小説を中心に文学に親しんできた者に、この南米の小説は新しい世界を開かせると思う。他の南米の長編小説もこれから読んでいきたい。

この文庫本は筒井康隆の解説がついていて、それが売りであると思う人は多かろう。以下、私事を書く。この小説は古い訳本を昔買っていて、初めはそれを読み出したのだが、途中で新訳があると知った。しかも新訳には家系図が付いているという。最初の訳本にはないのである。この小説で家系図がなかったら、照明のない暗夜行路ではないか。しかも筒井康隆の解説付きである。それで久方ぶりに書店でこの新刊の文庫を買った。大昔から知っている書店であるが、久しぶりなので買うのに戸惑った。出てからそばにある古本屋街で明治文学全集を2冊、各200円で買った。中を見ると綺麗な本で近くにある女子大の図書館の除籍本だった。それはどうでもいい話だが、筒井康隆の解説である。筒井は本書を読んで「この手があったか」と衝撃を受けたそうである。読んでいくとこの小説に影響を受けた日本の小説の名や、初めて紹介された時に、読みもせずにと筒井は書いているが、けなした老大家の作家がいたそうで怒っているが、もう鬼籍に入っていると思うので誰か書いてほしかった。

2025年11月29日土曜日

丸山眞男回顧談 上 岩波現代文庫 2016

政治学者、思想史家の丸山眞男が弟子である松沢弘陽、植手通有を聞き手として、自らの人生を語る。まず敗戦前後の状況から始まる。そこから過去に戻り、府立一中、一高時代の話になる。旧制中学は5年制だったが、4年修了の時点で旧制高校を受験できる仕組みだった。丸山は受けて失敗したらしい。これは惨めな経験だったようである。高校時代、それ以前から親しんだ映画の思い出などが語られる。他書でも書いてある、警察に検挙された経験は大きな意味を持ったようだ。また大学では文学部に行って独文学をやりたかったらしい。しかし大学では大学でしか勉強しないものをやれと言われ法学部に行った。法律は叶わないから政治に行ったそうだ。

大学に行ってからの、当時の教授連の話が多い。丸山が日本政治思想史を専攻するようになったいきさつは他書でも書いてあり、また当初、早稲田の津田左右吉を呼んできた事情も周知であろう。丸山が大学を出て助手になり、助教授になった時代は日本が戦争に突入していく時代でもある。そのあたりの政治情勢は丸山の解説でよくわかる。更にマルクス主義が全盛時代であり、マルクス主義は歴史主義で歴史の変遷を前提にしているから、自然法、自然権のような超歴史的な発想は対立的であるとも分かった。軍隊に召集され広島に行った話も周知である。戦中の自由主義の実際について記述があり参考になる。

2025年11月28日金曜日

大江健三郎『万延元年のフットボール』 昭和42年

難解で知られる大江の長編小説。四国の田舎に帰る蜜三郎とその妻。二人の間には障害児が生まれ夫婦仲は冷えている。蜜三郎の弟、鷹四は米国から帰り、故郷で若者を指導し、フットボールをしようとしている。

二人の兄弟の曾祖父の弟は、百年前の万延元年に一揆を起こし、その後高知に逃げたのではないかと言われている。故郷である谷間に戦後スーパーマーケットが出来た。その長は朝鮮人でスーパーマーケットの天皇と言われている。このスーパーマーケットから住民が好きな品物を勝手に持ち出す、強奪するという事件が起こった。指導者は鷹四である。蜜三郎は呆れて見ていて、その妻は鷹四に肩入れしており、寝たという事実まで分かった。

最後の方で鷹四は兄の蜜三郎に、過去の罪悪を話す。自分たちの妹と寝たというのである。その後妹は死んだ。東京から一時的に故郷に帰っているだけの蜜三郎は、全く鷹四のやること、人格そのものに共感できない。鷹四はなぜそんなに自分を嫌うのかと蜜三郎に叫び、その後自殺する。

蜜三郎らの家は既に鷹四によってスーパーマーケットの天皇に売られていた。その天皇が来る。手下に家を壊し始めさせる。すると家の地下に曾祖父の弟が隠れていた秘密の空間が見つかる。高知へ逃亡していたわけではなかったのだ。妻は鷹四も死んでしまった今、鷹四の子を腹に宿しているが、蜜三郎に結婚生活をもう一度やりなおさないかと呼びかける。

2025年11月26日水曜日

ドイル『バスカヴィル家の犬』 The Hound of the Baskervilles 1902

 ホームズの長篇小説の中でも評価の高い作品と言われる。次のような話である。

旧家に伝わる怪奇な話がある。そこに出てくる犬と関連しているのかと思わせる怪死事件が起きる。財産を相続する甥がアメリカから帰ってくる。しかしその男に危険が迫り、ホームズが乗り出す。

舞台は最初の方はロンドンだが、大部分はデヴォンシャーという田舎である。そこの怪しい雰囲気が小説を大きく支配している。


推理小説は長篇になると短篇に比べ、話そのものがより関心の対象になる。本書も謎解きの観点から言えば全く面白くない小説である。犯人は分かっているし、「夜光怪獣」の謎も子供だましもいいところである。なぜ評価する人がいるのか。異色作と言うべきで普段のホームズ物には見られない重厚さが感じられる、といったせいか。

この小説で一番面白かったところは、来訪した医師がホームズを欧州第二と言って、ホームズが憮然とする場面である。ここを読むと『瀕死の探偵』でホームズが(深謀だが)ワトソンを「君なんか経験も資格も大したことない一般開業医に過ぎないじゃないか」と言ってワトソンを侮辱するところを思い出した。


新潮文庫の延原謙訳は定評があるらしい。昭和29年初版で、持っているのは昭和62年の57刷、206頁、定価320円、この頃もうこんな薄い本で320円もしたのだと思った。

第二章のバスカヴィルの古文書の文語訳などは風格がある。

しかし第六章の次の文を読んだ時、少し気になった。

執事夫婦を追い出したらというワトスンの提案をホームズが一蹴するところである。


「万一罪があるとすれば、虎を野に放つようなもので、先生がたは舌をだして喜ぶだけだよ。」(昭和29年版、p.83)


文脈から言って不自然に思ったので原文をみてみた。


if they are guilty we should be giving up all chance of bringing it home to them.


これでは捕まえる機会を逃す、くらいの意味ではないか。他に持っている訳本を2種ばかりみたがやはりそう訳してある。

更にこの延原訳を読んでいたら、最終ページの最後から二行目で次のようにあり、驚きだった。


「僕はユグノー座の切符をもっている。」(昭和29年版、p.263)


原文は次の通り。


I have a box for ‘Les Huguenots.’


Les Huguenotsとは独生まれ、仏で活躍したオペラ作曲家マイヤーベアの代表作『ユグノー教徒』のことである。ウィキペディアのマイヤーベアの項を見たら『ユグノー教徒』の解説のところで『バスカヴィル家の犬』が言及されている。

訳者はクラシック音楽に詳しくなかったかもしれない。しかし当時は音楽ファンでも、ほとんどマイヤーベアなんて聞いたことがなかったはずだ。マイヤーベアは生前は人気があったが、死後は忘れられた。この訳が出た頃は、録音があったかも疑わしい。今では再評価され録音やDVDなど結構出ている。


ところで現在、延原訳として出ている新潮文庫は改版しただけでなく、子が訳文に修正を加えている。新版(平成23年)で見たら、上のユグノー座は『ユグノー教徒』(p.314)になっている。ただ虎を野や舌を出すのところ(p.95)はそのままである。

更に驚いたのは第二章の古文書が口語表記になっている。文語では読みにくいという配慮なのだろう。また新版では活字が大きくなっている。

延原訳の新旧を比べたら、文語文や、山中峯太郎に叶わないが自由訳、更に爆笑物のユグノー座など旧版は珍品と言うべきで、旧訳が好きである。

2025年11月25日火曜日

志村五郎『鳥のように』筑摩書房 2015

前著『記憶の切絵図』に続く本である。前著は著者の自叙伝といった感じで、特に文庫の最初の100ページほどは少年期を書いてある。戦前の東京では、生活がどんなであったかの一例として面白い。それに対して本書は著者の関心の赴くままの随筆である。学者というものは一国一城の主で、たいてい、かなりの自信家である。そうでなければ学者などやっていけないのだろう。この本でも著者の自信家ぶりは伺える。

本書の中では丸山眞男について書かれた章が特に有名であるようなので、それについて述べる。政治学者の丸山は東大を辞めた後、1975年10月にプリンストンの高等研究所に来た。プリンストン大にいた志村あてに、丸山の世話を頼む依頼が数通来たとのこと。丸山は志村より15歳ほど年上で、戦後を代表する政治学者、思想史家として有名だった。しかしながらここでは志村は丸山をかなり「やっつけて」いる。プリンストンで知り合った丸山がいかに中国の古典や成句に関しての無知であるかをさんざん書き、更に丸山は音楽好きでも知られたが、その音楽に関しても無知なので呆れているといった調子である。また丸山の自分自身の無知に対して素直でない態度も書いてある。丸山は学者というよりジャーナリストだとも評している。著者は前著でも、権威とされている数学者を遠慮なく批判している。これは同業者だからその気になる場合もあろうと思われる。しかし畑違いの丸山を、どうでもいいような事を含めて下げているのはどういう訳か。これは文中にある、丸山が著者について書いた書簡を読んだせいと分かる。その本は『丸山眞男書簡集2 1974-1979』みすず書房、2004である。その中で1975年11月6日の小尾俊人(みすず書房創業者)あての書簡で、知り合い、世話になった志村を次の様に評している。

プリンストンの数学者は日本人が多く、「・・・志村[五郎]教授はプリンストンの看板教授です。(中略)先日も志村教授のカクテル・パーティに招かれて(中略)志村教授とダべりましたが、非常に趣味と関心が広い反面、自信過剰で、政治=社会問題について平気でピントの狂ったことをいい、「第一級の専門家でも、一たび専門以外のことを発信する場合は一言も信用してはいけない」というレーニンの言葉を思い出しました。(以下略)(同書p.62~63)

ここを読んで志村は怒り心頭に発したのだろう。もっとも丸山は、後に志村あての書簡を書いている。同書簡集の1976年6月18日付けではバークレイに移った後にプリンストンで世話になったお礼とバークレイの様子を伝えている。更に帰国後、1977年7月27日付けでは、信州に来ていたらしい志村あての書簡で、音楽関係の話題、贈られた品の謝礼、招待されていたらしい信州行きについて触れている。丸山は1996年に没し、2004年に出版されたこの書簡集を読んで志村は怒り、丸山が自分の悪口を書いているから、この文を書けると本書で言っている。

そこで志村の丸山の批判は、朝鮮戦争の勃発は北朝鮮側からの攻撃なのに、それを丸山はそう認めていない、という点を中心にしている。実は左翼の風潮が強かった1970年代くらいまで、朝鮮戦争は南側からの戦争であったという説が幅を利かせていた。多数派が間違えていたからといって、丸山の免責にはならない。しかし丸山を批判するなら朝鮮戦争に関する認識だけでは弱い気がする。もっと根源的な批判は何か。自分が思うに、丸山は20世紀の終わり頃まで、平成まで生きたのだが、最後まで革命とか社会主義に対する期待(幻想)を捨てきれなかったようだ。これは認識というより信念、心情の問題なのだろうが、政治学者だから批判されてもしょうがないだろう。この文には「丸山眞男という人」という題がついているが、文は人なりというか読んで「志村五郎という人」という感想もした。

2025年11月24日月曜日

鈴木貫太郎自伝 昭和24年

終戦内閣で総理大臣を勤めた海軍軍人、鈴木貫太郎の自伝である。鈴木は慶応3年大阪で生まれた。その後関東で育った。海軍に入ろうとする鈴木に対して周囲は、海軍は薩摩でなければ出世が出来ない、と言って止めたそうである。実際に海軍兵学校に入ってみると、実際に九州人が圧倒的多かったという。海軍兵学校は江田島に移る前、築地にあった時分で、最後のそこの卒業生になったという。

軍人になってからの実際の経験は、もちろんそれなりに面白いが、何と言っても本自伝の核は終戦の年、4月に内閣総理大臣を拝命し、終戦をどのように行なったかの記録である。最後の御前会議でポツダム宣言を受け入れるべきか否か、反対と賛成が拮抗する中、昭和天皇の決断でポツダム宣言受諾が決まった。その際、大臣らの中には大声を上げて泣いた者もいたそうである。これら実際に歴史の場にいた者の、直接の記述は貴重である。

2025年11月20日木曜日

闇のバイブル/聖少女の詩 Valerie a tyden divu 1969

ヤロミール・イレシュ監督、チェコスロヴァキア、74分。祖母と住む少女は町に来た役者たちを見る。その中の不気味な男を恐れる。この男は何者か。後の方で主人公の父親かと思わせる場面がある。更に祖母が若返りする。聖職者は主人公を犯そうとし、失敗したので主人公を魔女と断定し火炙りの刑に処せられる。それでも主人公は助かった。このように幻想的に話は進んでいき、筋はよく分からない。主人公の少女を初め、幻想的な映像を見る作品である。

小さな悪の華 Mais ne nous délivrez pas du mal 1970

ジョエル・セリア監督、仏、103分。仲良しの二人の少女たちがかなり質の悪いいたずら、に留まらず、悪事までするに及ぶ。二人の少女たちは大人たちを誘惑したり、小鳥を殺したり、あげくのはては放火までする。

ある日、道で車が故障している中年の男を、自分の家に連れて来る。そこで下着姿になって、男を迷わす。男は欲情によって女子に乱暴しようとする。その時にもう一人が男の頭を打ち続け、殺してしまう。男の死体を池に沈める。後に警察が二人それぞれを呼び出し聴取する。学芸会で二人は詩を朗読する。最後に油で火をつけ舞台は炎に包まれる。

2025年11月19日水曜日

リジー・ボーデン 奥様は殺人鬼 The legend of Lizzie Boden 1975

ポール・ウェンドコス監督、米、96分。19世紀末に米東部で起きた、老夫婦殺害事件を元にしたテレビ映画。容疑者は被害者の娘、リジー・ボーデンだった。裁判が開かれ、リジーは証拠不十分で無罪になる。しかしリジーの犯行ではないかと思われ続けた。リジーは1920年代まで生きた。米国では非常に有名な事件と以前読んだ本に書いてあった。

この殺害事件の映画化では、より最近に『モンスターズ 悪魔の復讐』という凄い邦題(原題はLizzie)の、2018年製作の映画がある。『リジー・ボーデン 奥様は殺人鬼』では事件の起きた後から映画が始まり、査問会、裁判などで過去を回想する場面で事件当時の映像になる。この映画ではリジーが裸になって殺人を犯し、それで返り血を浴びなかったとなっている。この設定は、2018年の『モンスターズ 悪魔の復讐』でも踏襲されている。

なお邦題の副題「奥様は殺人鬼」は、この映画の主人公がドラマ『奥様は魔女』で有名だったから。リジーは独身である。

2025年11月18日火曜日

沙耶のいる透視図 昭和61年

和泉聖治監督、プルミエ・インターナショナル製作、102分。ビニ本のカメラマンは同僚にある女を紹介され会う。その女の倦怠で謎めいた雰囲気に惹かれ寝たくなる。しかし女は拒否する。再会してから、その女が紹介してもらった同僚とかつて何か関係があったと知る。またケロイド状の男の局所のスケッチを女は持っていた。カメラマンは同僚の身体を見た時、ケロイド状になっていると分かった。

同僚は自分の母親と、近親相姦的な関係があったと告白し、女との関係を推測するカメラマンの想像を否定する。後にカメラマンは同僚から電話があり、雨の中に横たわっている女と性行為をしろと言われる。それを映画に撮りたいのだと言う。カメラマンは女を抱きかかえ、部屋に連れていく。女とカメラマンがいる部屋の窓の外を同僚が落ちていくのを見る。

2025年11月14日金曜日

八月の濡れた砂 昭和46年

藤田敏八監督、日活、91分。高校生の若い男のかつての旧友、今は退学している、が校庭にやってくる。サッカーのボールを蹴って学校の窓ガラスを壊す。その若い男がオートバイで浜辺を走っていると、女が車から放り出されるのを見る。服も破れている。助けてオートバイに乗せ、服を持ってきてやると言って置いておいた場所には、戻ってみるといなかった。後になってその女の姉という者から妹を暴行しただろうと脅される。抗議する。乗った車の中で女を押し倒したら、車のレバーが折れてしまい、やる気がなくなった。

友人の退学生は、母親と再婚した中年親爺が嫌いである。若い男は後に最初会った若い女に海水浴で賑わう浜辺で会い、自分を暴行した連中があそこにいると告げられる。その連中と喧嘩を始める。友人の退学者も来て相手方と戦う。連中の車を奪い、逃げる。退学者の義父は良くないことをしていた。退学者は義父にヨットに乗せてくれるよう頼む。友人の高校生とあの姉妹二人も連れてきた。乗ろうとする時、ライフルを義父に向け、ヨットから降ろし、若い者だけで出港する。沖に出てから二人の男は姉妹のうち姉に暴行を働く。妹が銃を向けたが結局発砲しなかった。妹は船内でライフルを壁に向かって撃ち、穴を開け、海水が浸水してくる。

2025年11月12日水曜日

ヨーヨー Yoyo 1965

ピエール・エテックス監督、仏、98分、白黒、一部無声。1925年から始まる。当時の映画は無声だったので、無声である。富豪の生活が描かれる。恋人がいたが今は会っていない。恋人はサーカスで働いており、息子ヨーヨーがいる。富豪はこれは自分の息子かと尋ねる。大恐慌の時代となる。富豪も破産した。

富豪は妻と息子の三人で車に乗って巡業サーカスをする。チャップリンやフェリーニの映画を模した場面や写真が出てくる。グルーチョ・マルクスの写真の向こうにカール・マルクスの写真がある。時代が変わり、映画は無声から発声になる。息子のヨーヨーは成人してピエロになっている。親の富豪をやった役者が大人になったヨーヨーを演じる。テレビの時代が来る。ヨーヨーはかつて父の住んだ邸宅を求める。今では廃墟である。そこを入手し、芸などやらせる。

2025年11月11日火曜日

稲盛和夫『ガキの自叙伝』日本経済新聞社 2002

京セラの創業者、稲盛和夫の自叙伝である。稲盛は昭和7年、鹿児島に次男として生まれた。内弁慶の泣き虫だったそうだ。ガキ大将だったが、肺炎にかかった。治ったが戦争で家は焼失。闇商売に精を出した。兄弟の中で和夫だけ高校から大学を目指せた。阪大医学部を受けたが不合格。鹿児島大学の工学部に入った。

卒業後、入れてもらえたのは京都の会社。家族の期待を背負って入ると、潰れかけの会社だった。一緒に入った連中は辞め、最後の一人となった。そこで研究に打ち込み、松下電器から注文があったセラミックによる部品を開発する。後に仲間と共に京都セラミックを作った。後はいかにして会社を成功させたかの話である。全く休みも何もかも犠牲にして仕事を続け、それが会社を成長させたとある。

モンスター・パニック/怪奇作戦 El hombre que vino de unno 1970

トゥリオ・デミケリ監督、西、独、伊、87分。地球征服のため送りこまれた宇宙人博士は地球の怪物を復活させて、目的を果たそうとする。死んだ学者を甦らせ、吸血鬼、狼男、フランケンシュタインなどを復活させる。博士の陰謀を知った刑事は恋人と共に探る。怪物どもを復活させたものの、言うことを聞かず、怪物同士の戦いなど始めて、最後はアジトだった城ともども宇宙人博士らは滅び、炎上する。

2025年11月8日土曜日

原武史『日本政治思想史』新潮選書 2025

政治思想史となっているが、歴史を追って思想家やある思想を解説していく形式でない。例えば「空間と政治」とか「時間と政治」という切り口で日本の政治を捕えていく。また徳川の政治体制を朝鮮との比較で論じる。天皇が日本の政治でどういう意味を持ってきたのか、現在までその意味を考える。

江戸時代の本居宣長や平田篤胤を論じるなどは標準的な話題だが、鉄道がもった政治思想とか東京と大阪の比較など新鮮な視点である。更に近代の政治思想の中でマルクス主義とキリスト教を正統と異端の議論の中で論じ、戦後の日本の政治体制についても議論する。新鮮で多岐に渡った議論であり、読んでいて面白い。何より読みやすいところが長所である。

2025年11月6日木曜日

ローズ家の戦争 The war of Roses 1989

ダニー・デヴィート監督、米、116分、マイケル・ダクラス、キャスリーン・ターナー出演。弁護士のデヴィートが過去の離婚騒動を話す。ダグラスとターナーは恋愛の末、結婚した。ダグラスの事業は順調に進み、ターナーお気に入りの屋敷を購入、内装を凡て自分の納得のいくよう変えた。二人の子供は大きくなり大学に入る歳頃になる。

ターナーはダグラスとの結婚を厭うようになってきた。しかしダグラスにはその気はなかった。特にターナーが屋敷を自分の物にしたいと言いだすと後に引けぬよう抵抗する。同じ家に住んで、建物の中で夫々の領域を決めた。お互いのにらみ合いは亢進していく。ターナーの飼っていた猫をダグラスが誤って轢き殺す。ターナーが家で料理会を催すと嫌がらせの極で妨害する。ターナーはダグラスの飼っていた犬を食事に出す。最後は落ちそうなシャンデリアの上で二人がにらみ合い、そのシャンデリアが落下して二人とも死ぬ。

板坂元『考える技術・書く技術』講談社現代新書 昭和48年

半世紀前に出てベストセラーになった本。当時読んでそれなりに感心した。半世紀経って再読するとやはり古いところを感じてしまう。読んでいると著者は収集癖があるようで、また発想を麻雀に例えたりしている。収集も麻雀も興味ない自分としてはやや縁が遠く感じた。

書く方についての議論は、パソコンもワープロもない時代である。これは考える方もそうで、インターネットなど夢にも思わなかった頃である。現代ではかつてほど感銘を与えない。それでももちろん読んでためになる部分もある。歴史的文書であろう。

2025年11月5日水曜日

宮島未奈『成瀬は天下を取りに行く』新潮文庫 2025

成瀬あかりとその友人である島崎ほかが出る、青春小説である。主人公の成瀬は極めてクール、だけではなくて、なんでも出来る、成績もよいというスーパーガールである。しかし変人というか他人を全く意識せず、どう思われようが気にせず、周りから敬遠されている。島崎は例外的に成瀬の友人となってきた。

短い挿話、短編の連作といった感じで成瀬を巡る、あるいは舞台である大津市に住む人らが出てくる。本作は大津市のご当地小説といった感じで、大津について西友が閉鎖される(実際の出来事)から始まって、色々な情報が分かる。

2025年11月4日火曜日

盲獣 昭和44年

増村保造監督、大映、84分、総天然色、出演は船越英二、緑魔子、千石規子の三人だけである。江戸川乱歩の『盲獣』を原作とあるが、乱歩の小説とはかなり違う。主人公が盲人で「触覚芸術」なるものが出てくるのが共通である。原作は主人公が殺人犯で、乱歩の小説の中でもエログロが甚だしく、著者が後に書き換えたのは有名。自分が最初読んだ講談社の全集や角川文庫はこの改作版だった。春陽文庫は元通りで有名だったし、創元推理文庫も元の版である。

さて本映画も原作とは違うとはいえかなり「ひどい」映画である。今なら作れないし、別の意味で当時も、よく作れたものだと思ってしまう。なぜこんな映画を作ったのか。自分の理解は次の通り。製作は昭和44年で、日本映画界はどん底にあった。テレビの普及で映画観客人口は激減、更に作り手本位の「アート」志向の難解な映画は普通の映画ファンも日本映画から遠ざけた。しかし映画は商売だから売れる物を作らなければいけない。それでテレビでは作れようもない、エログロ映画にしたのか。

なお石井輝男監督の『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』も本映画と同じ年の映画である。『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』を昔名画座で見た時、あまりの安っぽい作りに啞然としてしまった。しかし今ではカルト映画と評価されているらしい。本『盲獣』も昔、文芸坐地下か何かで見たが、女体を模した山を這っている場面くらいしか覚えていなかった。今ビデオで見直して、これほど過激な展開だったのかと改めて知った。

2025年11月3日月曜日

われら劣等生 昭和40年

佐藤雄三監督、東映配給、87分、白黒映画。田村正和、いしだあゆみ出演。高校生活を描いた映画。同じ組に、大学進学組と劣等生を自認し進学しない生徒がいる。田村は進学しない方である。これは田村の家が母子家庭で、母親の情人である男が田村の進学費用を出してくれると言っているのだが、田村はそれを嫌がっている。

いしだあゆみ他の女学生は、身だしなみに気を付けて生活を送っている。同じ学友に太田博之がいて、進学組のガリ勉である。学校祭で何かやろうとし、劣等生らの方が学校のミスを選ぶ投票をしようと言いだす。女学生たちは何とか自分に入れてもらおうと躍起になる。投票直前になって、教師らにこの学校ミス投票が発覚し、怒る教師が出てくる。指導役の教師、校長ほか教師の前で、田村は言い始めたことだから止められない、と答える。投票が行われる。

田村の母親は大学にやれないと言い出し詫びる。情人の男が関係を打ち切ったからだ。田村は男は最初から身体だけ目当てだったのだと言い、学校を辞める決心をする。ミス投票の開票の時が来た。校庭の真ん中に持ってきてぶちまけた投票用紙の山に、田村は火をつけて燃やす。その後、田村を学校に戻そうと学友らが言い出す。期末の数学の試験、その最中に田村は勤め先から学校の校庭に来ていた。試験が終わって外に出た生徒らは田村を見つける。声をかけると田村は逃げ出す。みんなで追う。田村は止めてあった小型トラックに乗って去っていった。

燃えつきた納屋 Les Granges brûlées 1973

ジャン・シャポー監督、仏、95分、アラン・ドロン、シモーヌ・シニョレ出演。雪深い田舎で車の傍に女の死体が発見される。大金が盗まれている模様。近くの農家、これが「燃えつきた納屋」と呼ばれる家で、女主人がシモーヌ・シニョレである。アラン・ドロンが予審判事としてやってくる。

シニョレの子供たちは成人だが不満が多い。都会に出たい、田舎で百姓などやりたくない。例えば次男の嫁は家におらず、ホテルで働いている。シニョレの、一家への締め付けが子供らを圧迫してきた。それがドロンの捜査により明らかになっていくのがこの映画である。子供らは親に内緒で屋敷の敷地の一部を売ろうと思っていた。

次男の持ち物から大金が発見された。シニョレが息子を問い詰めると車が止まっていて中に金があったので盗んだ。ただし殺人はやっていないと答える。後にドロンがこの屋敷の捜索に来ると、シニョレは金を自分の懐に隠す。更にその後、今度は長男が容疑者となった。実は長男は次男の嫁と結婚したかった。今ホテルで働いている次男の嫁と逢引するために来た件で容疑になった。シニョレが長男を問い詰めると、母親のシニョレの命令で好きでない女と結婚したのだと答える。殺人の犯人はあっけなく捕まる。ここと離れた場所で未成年者の犯行と分かった。これでシニョレの家の者の容疑は晴れた、最後にドロンがシニョレに別れの挨拶を告げに来ると、シニョレは次男が車から取った大金をドロンに渡す。

2025年11月1日土曜日

フロンティア Frontiers 2007

ザビエ・ジャン監督、仏スイス、108分。移民の五人の若者が銀行強盗し、外国へ逃げる計画を立てる。しかしそのうち一人は死に、後は二組に別れて逃げる。最初の男二人は怪しげな宿屋に着く。そこで娼婦から迫られ、関係を持つ。しかし宿屋の男どもが暴力をふるい、逃げ出すが車は崖から落ちる。そこから二人は何とか這い出し、洞窟のようなところに入るが入口で追手が待ち構えていた。

後の男女二人は前の者らから連絡のあった宿屋に着く。そこで宿の者から場所を変えたと言われる。二人がいる別の屋敷に連れていかれる。不気味な雰囲気である。男の方が部屋から出て屋敷内を探ると仲間が逆さ吊りになっているのを発見する。逃げようと部屋に戻って女に言うが、屋敷の者らは捕まえて檻に入れる。そこから何とか女は逃げ出すが、道の向こうから来たトラックに乗ると、それは屋敷の一員で連れ戻された。仲間の他の男らは残酷に殺される。

女は子供を産むために、長男と結婚させられる。ここの一家はナチスの残党か、ナチスの同調者たちだった。ただ若い女がいて、よそから連れてこられ、巨魁な次男と結婚させられている。この女は捕まった女に同情的である。女を家族の一員として迎える儀式で女は逃げ出し、屋敷の者らと戦いになる。最後に敵方を倒し、自動車で屋敷から逃げる。