2025年3月20日木曜日

保坂正康『六十年安保闘争』講談社現代新書 昭和61年

本書は60年の安保改定を巡る騒動を解説した書。闘争に挑んだ英雄たちの物語といった叙述ではなく、どうして安保騒動があれほどまでに大きいものになったかの経緯、説明を目指している。以下では本書の要約でなく、本書を元にして安保騒動への自分の理解を書いた。

まず60年は安保条約の改定であった。それでは改定されるまでの安保条約があったはずだ。それは1951年サンフランシスコで調印された日本の独立時に、アメリカと結ばれた条約である。日本は独立した。しかし当時の日本は今の自衛隊にあたるような防衛組織は何もなかった。それでアメリカが日本を保護するために結んだのが安保条約である。もちろんこれはソ連を敵においた条約である。サンフランシスコでの独立調印にはソ連等は参加しなかった。この時点ではソ連は日本の独立を認めていない。米ソ対立の中で日本は米側についた。それでソ連を敵とみなす軍事条約、アメリカが軍隊のない日本を保護するのが安保条約であった。この条約を日米対等の形で条約し直す、それが60年安保条約改定であった。
しかしこれはもし米ソが戦争を起こした際、日本が巻き込まれる。それが嫌だ、避けたいという気持ち、意見が安保条約改定への国民的規模の反対運動を生んだのである。
反対運動を指導したのは、既成政党である社会党、共産党を中心とした国民会議(安保条約改定阻止国民会議)と学生自治会の連合である全学連(全日本学生自治会総連合)である。全学連の思想は共産党とは離れていた。共産党が体制内での共産主義化を目指すのに、全学連の主流はブント(共産主義同盟、同盟のドイツ語がブント)であり、共産革命を目指していた。つまり安保条約改定阻止では一致するが、ブントは究極的には革命を意図し、学生であるから過激な行動をとった。
1959年11月27日には全学連は警備を破り、国会の構内に突入する行動に出た。これは安保阻止運動で象徴的な出来事であった。
明くる1960年6月に当時のアメリカ大統領アイゼンハワーが来日することとなった。この来日の前に安保条約を成立させたい、これは自民党にとって至上命令となった。5月19日に自民党は衆議院で強行採決した。これで全国民的な反発、怒りを招き全国民的な反対運動が展開された。ただひと月経てば自動成立してしまう。だからなんとしても阻止しようと、学生らの国会への突入行動が6月15日に起きた。この時に死んだのがブントの活動家であった東大生の樺美智子である。しかし6月19日に安保改定は自動成立。
これで大いなる挫折感を抱いた者もあれば、ともかく政治への大衆行動を起こせたと意義を強調する者もいた。ここから安保改定で大いに活動したが、その後は小市民的に生きていく層と、より過激な政治運動に走る層が出た。後者がその後紆余曲折あって、12年後に起こる連合赤軍事件の当事者の、遠い源流になる。

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