著者は丸山眞男のゼミ生(昭和6年生まれ、昭和29年卒)で、卒業後はサラリーマンとなったが、丸山と付き合いというか交流を続け、音楽談議にふけった。その経験から丸山の音楽への態度が述べられている。
丸山の著書、思想に若干なりとも親しんだ者であれば、丸山の音楽好きは知っているだろう。ただ丸山の音楽への傾倒ぶりは専門の思想史へのそれと劣らないほど熱心であったという。単なる趣味に留まらない。専門知識があり楽譜を読み込んでいた。それでも丸山の好みは日本の多くのクラシックファンの多数意見と変わらないように見える。例えば指揮者ではフルトヴェングラーを称揚し、カラヤンをけなす。自分が若い時会ったクラシック・ファンはみんなカラヤンを嫌っていた。当時の「有力な」音楽評論家も同様だった。フルトヴェングラーの演奏やドイツ音楽がどういうものかの意見も、ほとんど「定型化」された通説を聞いているようである。演奏家の好みではケンプを挙げていて(自分は知らなかった)、これは多数意見と違うのではないか。日本のファンは同名のバックハウスのファンが圧倒的で、ケンプファンなんてあまり多くないと思っていた。なおバックハウスを評価しているのは今では日本だけで、ドイツなどではケンプの方が評価されているらしい。そういう意味で丸山は国際標準的である。もちろん外国の評価が正しく、日本のそれが劣るなどというものではない。
フルトヴェングラーの戦争責任については、やはりあると言っている。いくら本人はその気がなく誠実であろうが、政治責任は結果責任だから本人の意思に関わりなく、ナチスに協力したので責任は生じる。政治責任はあるが、フルトヴェングラーを批判する気にはなれない。
トーマス・マンについても書いてある。他のところでも読んだし、ここでも著者が説明しているようにドイツからアメリカに亡命して、アメリカという安全地帯からドイツを批判していたマンをドイツ人は怒っていた。ただマンも亡命せずドイツに留まるべきだったか。マンは市民権を剝奪されているが、それがなかったらどうすべきか。ドイツにいて同胞と苦難を共にすれば非難は受けなかったかもしれないが、どうだろうか。マンは亡命中に『ヨゼフとその兄弟』を完成し、『ワイマルのロッテ』『ファウストゥス博士』『選ばれし人』などの傑作群をものしている。20世紀の文学者でマンに匹敵するのはプルーストくらいではないか。これらの作品が亡命しているから書けたというなら亡命は望ましかった。どうも評価軸が色々あってうまく言えない。
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