2021年10月31日日曜日

村上春樹『古くて素敵なクラシック・レコードたち』文藝春秋 2021

小説家の村上春樹が所有するクラシック音楽のLPレコードの幾つかをジャケット写真と共に紹介し、それぞれの演奏について簡単に批評するという本である。大きさは正方形に近い15×16センチで、あまり大きな本でない。

本書は本人も断っているとおり、名曲名盤の紹介ではない。村上は約15千枚のLPを持っていてそのうち7割がジャズで2割がクラシックだそうだ。これが村上のクラシックへの関心程度である。圧倒的にジャズ愛好家なのである。クラシックのLPは中古屋を覗いてジャズで適当なものがなかった場合に買ってくるそうだ。ジャケットの良し悪しを気にする。村上はLPジャケット・フェチなのである。名盤よりも安いレコードを買ってくる。本文中にも百円で買ったとか、1ドルで買ったなど頻出する。気に入らない物は売り飛ばし、また新しいLPを買ってくる。そんな風にして集めたLPの紹介とある。これではあまり有名でないLPが多くて不思議ではない。もっとも有名な演奏も入っている。ここは所有するLPを書いているので、村上が聴いている音楽、演奏のすべてではない。CDの方をたくさん持っているであろうし、ここで挙げていない曲や演奏をガンガン聴いている可能性がある。LPでろくな演奏のない曲はCDを挙げているものがある。

LPレコードだから当然新録音はない。ステレオ初期に留まらず、モノーラル録音も結構ある。しかもモノーラルを村上は気にしていない。選曲や演奏の良し悪しは個人の好みだから他人がとやかく言ってもしょうがないだろう。ここの選択について以下の様に感じた。

ブルックナーを挙げていないがLPなら不思議でない。当時、ブルックナーは「難解な」曲と言われ、今のように人気作曲家ではなかった。今昔の感がある。オペラではタンゴばかりが有名な『真珠採り』、オペレッタではこうもりでもメリー・ウィドウでもなく、『ジプシー男爵』だけ挙げている。前者はクリュイタンス、後者はクレメンス・クラウスのLPを買ったせいらしい。たしかにオペラをLPで聴くなんて、交響曲をSPで聴くに近い。CDが登場した時、オペラ向きの媒体だと思ったものだ。その後ネットワークオーディオ化して(ジュークボックス化)、連続再生が可能になった。今ではストリーム配信(ストリーミング)の時代で全曲が1アルバム扱いだから通して聴くのは当然になっている。だからLPでオペラ系がほとんどなくても不思議ではない。もっとも村上はあまりオペラ好きではないかもしれない。ビーチャムが好きな指揮者で巻末の方に「トマス・ビーチャムの素敵な世界」を設けている。好きなLPを挙げているが、オペラがない。ビーチャムと言えばオペラというイメージがある(個人的推測)。

選曲では室内楽曲で、特にピアノ何重奏曲という形式が目につく。本人も「ピアノ五重奏曲というフォームが僕はなぜか好きだ」(p.328)と言っている。それに対して次の意見は本書中一番びっくりした。「バルトークの弦楽四重奏曲というと、よほどタフな筋金入りクラシック・ファンでなければ、まず怯(ひる)んでしまうのでないかと思う(個人的推測)。」(p.91)と言っているのである。バルトークの弦楽四重奏曲は、名曲として多くの室内楽ファンに好かれているのではないか。まるで一昔前の、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲への感想みたいである。

ピアノ何重奏という、ピアノと弦楽という全く異物の楽器による曲は、ピアノ協奏曲の小編成みたいな気がする。村上はジャズ好きである。自分はジャズは聴かないが、異質の楽器の掛け合いというのが、ジャズの一つのイメージである。そういう意味でジャズに似ているピアノ何重奏というのを好いているのだろうか。

 ピアノ・トリオ『大公』のところで「ルービンシュタイン、ハイフェッツ、フォイアマンの通称「百万ドル・トリオ」。戦前の百万ドルだから、たぶん今の一千万ドルくらいにあたるだろう。」(p.83) 百万ドル・トリオというのはThe Million dollar trioの訳で、今ならThe Billion dollar trioというべきではないか。変な文と思った。

 『キージェ中尉』でラインスドルフを愛聴盤に挙げ、「しかしこのレコードを褒めている人を、僕は僕以外に一人も知らない。どうしてだろう?」(p.233)と言っている。村上は各曲の名盤事情にかなり詳しいらしい。

 懐かしいとは昔親しんで今はなくなった、あるいは遠ざかったものに対する感情だろう。だから初見や、CDで見なれているジャケットは懐かしくない。ジャケットのデザインとは、それ自体で云々するより、自分の思い出や思い入れのあるデザインに価値がある、歳をとるとそう思う。自分が買ったLPのジャケットが載っていて、それは懐かしい。マルケヴィッチのところで10インチ盤とある。これを見てそういう大きさがあったと思いだした。25cm盤と呼んでいたような。

挙げられているマルケヴィッチ『春の祭典』のフィルハーモア演奏を千円盤で買った。今はこの曲あまり聴かないが、感心した唯一の春祭である。CDで聴き返したらLP時代ほど感心しなかった。LPCDは同じ録音でも音が違う。CDが出た時一番気になった点である。他にもここで挙げられているゼルキン、セルのブラームスの2番をLPで聴いた時は、重厚な響きで圧倒された。それがCDでは貧弱な音になってしまい、聴く気がしなくなった。逆にCDの方がまともにきこえた演奏がある。

以前、平野啓一郎の『葬送』を読んだら、ショパン(が登場する小説である)の演奏が、もちろん空想で書いているのであるが、鮮やか過ぎるほどの描写で、小説家というのはここまで書けるものかと感心した。それに対して本書の村上の文章は、いかにも素人のクラシック・ファンが書きそうな、定型的で陳腐という気がしてくる。なぜこの差が出るのか。平野の文章は本業の小説である。しかるにここの村上は趣味の世界なのである。手を抜いているのではない。本書は日本一の人気小説家が自分の愛聴(ばかりでないが)LPの紹介をしていて、そこに価値があるのである。クラシック・ファンなら誰でも書けると言われそうだが、一般人でなく村上春樹なのである。村上の名で売っている本なのである。

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