2025年2月28日金曜日

日本の夜と霧 昭和35年

大島渚監督、松竹、107分、総天然色。安保騒動とそれ以前の左翼運動での意見の対立を描いた、討論劇と言うべき作品。

本映画は安保騒動のあった年に制作され、会社上層部はこの映画自体に反対していたので、上映後4日間で不入りを理由に上映中止になった。制作自体も妨害しようとし、制作中止を阻止するために大急ぎで作られた。そのためセリフをとちっても撮り直しをせず、ともかく大至急で完成させた。そんな大島になぜ撮らせたかというと、これ以前の大島作品がヒットし、会社は大島に期待をかけていたからである。

この映画で何を言っているのか、どういう対立があるのか、今の人間が見て分かる者は少ないだろう。共産党とその指導、やり方に反対する意見の対立である。映画中、党とか党員という言葉が出てくるが、これらは共産党、共産党員という意味である。戦後15年くらいまで共産党は今では信じられないくらい権威があった。マルクス主義は絶対の真理と左翼陣営では信じられていた。マルクス主義国家、ソ連は真理を体現した国家であり、そこからの指令は絶対的であった。日本共産党はその指示通り動いていた。それを党員に従わせていた。映画中、渡辺文雄や小山明子の旦那の眼鏡男は共産党員である。ソ連の権威で有無を言わせず反政府の連中を従わせていた。津川雅彦はそれに対して、これまでの共産党絶対主義に対する批判者である。共産党が主に指導した安保騒動では条約改正を阻止できず、敗北したのではないか。これに対し、条約改定阻止はできなかったが、民衆を動員できたのは意味があったと反論する意見は、当時の左翼陣営の多数であったろう。また映画で描かれるそれ以前のスパイ騒動も共産党が絶対的であるから、反共産党的行為は許されないとしている。映画の最後で、眼鏡の共産党員が演説をする。あれが共産党の綱領であり、共産党に従わなければいけないと言っているのである。共産党はその後権威を低下し、後の学生運動は反共産党系の革マルとか中核派などが中心になってくる。

坂口安吾『不良少年とキリスト』新潮文庫 令和元年

作家坂口安吾の掌編と評論、座談が収められている。内容は次の通り。

復員(掌篇小説)/恋愛論/欲望について―プレヴォとラクロ/二合五勺に関する愛国的考察/詐欺の性格/ヤミ論語/敬語論/呉清源論/座談会 現代小説を語る(坂口安吾・太宰治・織田作之助・平野謙)/座談会 歓楽極まりて哀情多し(太宰治・坂口安吾・織田作之助)/大阪の反逆―織田作之助の死/不良少年とキリスト(追悼 太宰治)

最初の『復員』は文庫で2ページ、見開きで読める。戦争から幅員してきた。片手、片足を失っていた。家族は最初の一日だけ珍しがっていたが、明くる日からは厄介者扱いである。婚約していた娘は結婚していて子供もできていた。行って女の間の悪そうな顔で、初めて頬の暖かいものを受け止めてきた感じがして満足して帰った、とある。戦争後の復員兵が家に戻ってもかえって不幸な目にあったとは昔のドラマにもよく使われた。大部分は評論で、『ヤミ論語』で幸田露伴をやっつけているのは痛快だし、座談会では戦後間もない時期の無頼派の面々の発言が面白い。

小峰隆夫『私が見てきた日本経済』日本経済新聞社 2023

本書は官庁エコノミストとして名高い著者が、公務員生活の中で携わった経済分析や政策決定について回顧的に述べており、役所の仕事の実際が分かるようになっている。もちろんエコノミストなのでどのように経済を見たか、それを役所の文書として出す際、どういう工夫をしたかの記述もあって部外者に情報を与えている。

実際エコノミストとして経済の現状分析や見通しを発表している人はそれなりにいるが、公務員だと時の政府の政策にたてつくことはできず、なるべくそれを支持する方向で取りまとめなくてはならない。全く中立的な立場であれば、別の書き方をした、あるいは結構異なる意見を出していただろうものでも、組織人としての制約がある。金融機関のエコノミストは多いが、金融機関ならではの制約があるかもしれないが、誰もそれを書かないので分からない。ともかく経済分析の知識に加え、役所の中ではどのように作業が進められていくのか、その実際が書いてあるので有用な書である。

2025年2月27日木曜日

ヘルボーイ Hellboy 2019

ニール・マーシャル監督、米、120分。前作から時間をおいて作成された新しい映画。昔イギリスのアーサー王が魔女王を倒し、体をバラバラにしてイギリス各地に隠した。ところが、現代になってその体を各地で発見し、つなぎ合わせる作業が悪魔たちによって進んでいる。

完全な体に戻ると魔女王は復活し、全世界を破滅に導くという。ヘルボーイは仲間たちとそれを阻止すべく活躍する。復活した魔女王はヘルボーイに向かってなぜ自分たちを化け物扱いにする人間を助けるのだ、自分と一緒になって世界を我が物にしようと言う。ヘルボーイは魔女王を倒すには、エクスカリバーを石から抜けと言われる。しかしそうすると世界を破滅させる夢を見て躊躇する。最後はエクスカリバーを抜き、魔女王に協力するかに見えたが、育ての親がヘルボーイに呼びかけ、魔女王を倒す。

中野雄『丸山眞男 人生の対話』文春新書 2010

前著『丸山眞男 音楽の対話』に続く続編である。社会人となってからも丸山真男との交流を続けた筆者により、丸山の思い出が色々書いてある。

前書同様、音楽談議が続き、またオーディオに関しての丸山の関心ぶりも書いてある。丸山は好奇心が強く、何でも徹底的に調べて臨んだという。機器の説明書は隅から隅まで読み、病院に入った時は自分の病気を詳しく調べ、医者に尋ねる。

本書の著者は大学卒業後、日本開発銀行に入った。それで開銀の下村治について随分書いてある。周知のように下村は日本経済の成長力を見抜き、国民所得倍増計画(1960年以降)を政府が策定する前に、同様の日本経済の将来の姿を示した。それで下村が同計画の発案者であるかのように言われてきた。また後になって下村が今度はゼロ成長を言い出し、その際も若干は注目を浴びたが、当時は批判が多かった。それをこの著者は自分がいた開銀の有名人であった下村を高く評価し、このゼロ成長論も将来を見抜いていたと書いてある。高度成長を予言したのは有名だが、ゼロ成長論は一般にはあまり評価されていない気がするが。

なぜこんな話題があるかと言うと丸山が政治学を廃業したのは高度経済成長を見抜けなかったから、と書いてあるのである。しかし日本経済の高度成長はほとんどの人が予想できなかったので、だからこそ下村の名が今でも残っているのである。丸山の予想が外れたのは、日本が豊かになればもっと労働組合が活動的になり、左翼路線が活発になると期待していたのに、日本が保守的になったという点だろう。丸山の大いなる失望でもあった。

2025年2月25日火曜日

スーパーマン リターンズ Superman returns 2006

ブライアン・シンガー監督、米、154分。スーパーマンが地球を五年間離れ、戻って来たという設定である。

恋人は他の男と結婚しており、幼い息子までいた。スーパーマンが刑務所に送った悪人(ケヴィン・スペイシー)は、出所しており、スーパーマンの弱点であるクリプトナイトを北極のスーパーマンの隠れ家から盗み出す。スーパーマンは帰還後、墜落する飛行機を助けるなどの救助をした。結婚した恋人とその息子は悪人に囚われる。夫が助けに小型飛行機で助けに行くが、妻子共々沈む中に閉じ込められる。スーパーマンは救助する。

その後スーパーマンはクリプトナイトを使う悪人によってやられ落ちていく。このスーパーマンを今度は元恋人とその夫が助ける。 病院でスーパーマンは治療を受ける。治ったスーパーマンは元恋人とその息子に会いに行く。息子はスーパーマンの子供らしい。スーパーマンは元恋人から去っていく。

ホフマン『ネコのムル君の人生観』 Lebensansichten des Katers Murr 1819

書名となっている猫ムルの自伝の他、並行して音楽家クライスラー及びそれにまつわる人々の記録がある。ムルの自伝とクライスラーの話が交互に出てくる。これはムルが吸い取り紙に使っていたクライスラーの伝記が、誤って共に印刷されたという弁解が書いてある。正式な書名にはクライスラーの反故の伝記の断片というのも付されている。

ムルの飼い主が学者のアブラハム先生で、楽長クライスラーの知り合いでもある。ムルの自伝の部分はムルの意見表明、生い立ちなどが書いてある。人間の青年が猫になって、その意見を聞いているような文である。これに対しクライスラーの伝記部分は普通の話である。

クライスラーの伝記部分の荒いあらすじでは次の通り。クライスラーは音楽家で、ある領主の公の楽長を勤めている。著者のホフマンは作曲家でもあるので、本書は音楽の記述が多い。公にはやや精神に支障があるイグナチウス公子と娘のヘドヴィガー公女という子供がいる。ヘドヴィガー公女の親友で、姉妹のように仲の良いユーリアという娘(宮廷顧問官夫人の子)がいる。この二人は出番が多い。クライスラーが現れた時に公女は拒否反応を示すが、ユーリアは音楽の才能があるので、好意的になる。またヘクトール公子なる若い男が現れ、公女への求婚者なのだがクライスラーと衝突し、更にユーリアに気があるようである。クライスラーは後に公の元から修道院に入る。ムルは最後に死ぬ。本小説は作者ホフマンの死によって未完に終わった。(鈴木芳子訳、光文社古典新訳文庫、2024)

2025年2月23日日曜日

坂口安吾『青鬼の褌を洗う女』 昭和22年

若い女の一人称形式の小説である。戦争中に母親を空襲で亡くした。この母親は娘をなんとか高く売ろうと考えていた。そのために娘を心配していた。娘の方は何人かの男と既に関係している。娘がつきあってきた男の話がある。女のたくましさ、現実的なところ、つまりふてぶてしさを描いている小説である。

2025年2月21日金曜日

菊池幽芳『探偵叢話』

菊池幽芳が『秘中の秘』に先立って大阪毎日新聞に連載していた探偵小説である。退職する辣腕刑事を祝う場で、各人が過去に経験した失敗談、成功談などを話す、短編の連作。

初めにある、犯人に逃げられた話は解説にあるように乱歩の長編を思い出す。郵便切手を使った殺人方法、富豪が誘拐されて脅迫状が来るがその真相、客船で貴重品が盗まれる事件が続発する。その手口は思いつく人が多かろう。他にも殺人を予告する話を盗み聞き、被害予定者に知らせるがその真相、金粉を盗み出す担当者の手口などあり、これらは推理小説そのものであり、各話は短く読みやすい。(菊池幽芳探偵小説選、論創社、2013年)

2025年2月20日木曜日

菊池幽芳『秘中の秘』 明治35~36年

明治3年生まれの菊池幽芳が20世紀の初め、大阪毎日新聞に発表した翻案小説である。書名の初めに「宝庫探検」とあるように宝さがしの物語で、推理小説的要素を持つ冒険小説である。

翻案の元となった原作は不明である。ロンドンを倫敦を書き、イギリスが舞台であるから原作は英の作品であろう。その他の地名や人名は黒岩涙香ばりに日本名のような漢字表記であり、地名は富嶋町、軽琴村、木挽町など、人名は堀彦市、萩原辰蔵、梅田花子など。また婆娑妙と書いてバアソロミュー、六斤腿と書いてロッキンハムと読ませている。原書の音に漢字をあてはめたのであろう。

大まかな筋は次の様である。語り手の青年医師は友人の船長の船で航海している時、漂流する何百年も前の船を発見する。そこで船員らの骸骨の他、金貨が入った箱、記録書、更に精神がおかしくなった唖の老人を見つける。帰港後、老人は病院に入れ、記録書の解読を試みる。すると金銀財宝がいずこかに隠してあるらしい。そこで宝捜しが始まる。田舎にある化物屋敷と呼ばれている古い屋敷がありかではないか。その屋敷を借りようとすると、他にも借り手がいたと判明する。この宝捜しはライバルがいたのである。そのライバルは後に悪党と分かる。また謎の美人が現れる。どのような素性の者か。青年医師は惹かれる。後になって怪美人はライバルと関係があるらしく、医師は混乱する。

本筋に何も関係ないが怪美人に恋する語り手の間に、邪魔をしようと元の婚約者夏子が現れ、黒岩涙香『幽霊塔』の秀子とお浦を思い出してしまった。解説にも引用されているように江戸川乱歩の回想で知られているが、本作品の書籍化は戦後初だそうだ。小説の過半を占める会話は口語で現代の小説と同じであるが、地の文が文語でやや抵抗があるかもしれない。冒頭は次のように始まる。

余は極めて不思議なる物語を諸君に語るべし。そはたしかに諸君の好奇心を満足せしめ得るならんと信ず。

菊池幽芳は児童文学の分野ではマロの『家なき子』の本邦初訳で知られ、また本書以外では『乳姉妹』(明治文学全集第93巻「家庭小説集」筑摩書房)、『己が罪』(大衆文学大系第2巻、講談社)が有名。

2025年2月18日火曜日

坂口安吾『風と光と二十の私と』 昭和21年

著者の自伝的私小説風の作品。旧制中学を落第等によって20歳に出た。大学に行くつもりはなかった。それで下北沢にある小学校の分校の代用教員となった。大正14年のことである。

当時は全くの武蔵野で農家などもあまりなく、原始林などがある原野が広がっていたという。小田急が走って開発の始まる前である。分校に通う児童たちについて書いてある。子供たちの方が大人より深刻に悩んでいるとあるのはその通りだと思う。また女子では問題がある、というか不憫な境遇にある者がいた。ここに出てくる子供たちは大正初期の生まれであろうから、もう亡くなっているだろう。昔の話である。

2025年2月17日月曜日

坂口安吾『狂人遺書』 昭和30年

秀吉が死の床にあって最近起きた出来事をあれこれ回想する一人称小説。かつては国民的英雄と見なされていた豊臣秀吉であるが、現在では以前ほどの人気はないようだ。

特に晩年の朝鮮征伐が悪く言われている。ここでは秀吉は大口を叩きたい、大言壮語が抑えられない人物と描かれており、朝鮮遠征は割に合わないと承知の上で、暴挙に出たことになっている。また養子の秀次を死に追いやった経緯もある。まだこの作品が書かれた頃は太閤崇拝が普通だった筈だが、安吾は先を見通した秀吉像を書いている。

インランド・エンパイア Inland empire 2006

デイヴィッド・リンチ監督、米波、179分。ローラ・ダーン主演。

ダーンは映画の中でも女優でジェレミー・アイアンズが監督を勤める映画に出ている。撮っている映画はかつて配役が死んだことがあると言う。映画の中での相手役と、ダーンは現実でも恋愛関係になる。全般的にかなり難解で、解説が必要な映画である。映画と現実の交錯があり、映画の場面か実際か混乱する。娼婦の女たちが出てきてその中の一人にダーンは刺される。通りを走って最後は路上生活者のところで倒れる。路上生活者は関係のない話を始める。映画が終了し、最後の方では多くの女たちが出てきて踊りを始める。普通に観ていて理解できない映画である。

2025年2月13日木曜日

中野雄『丸山眞男 音楽の対話』文春新書 平成11年

著者は丸山眞男のゼミ生(昭和6年生まれ、昭和29年卒)で、卒業後はサラリーマンとなったが、丸山と付き合いというか交流を続け、音楽談議にふけった。その経験から丸山の音楽への態度が述べられている。

丸山の著書、思想に若干なりとも親しんだ者であれば、丸山の音楽好きは知っているだろう。ただ丸山の音楽への傾倒ぶりは専門の思想史へのそれと劣らないほど熱心であったという。単なる趣味に留まらない。専門知識があり楽譜を読み込んでいた。それでも丸山の好みは日本の多くのクラシックファンの多数意見と変わらないように見える。例えば指揮者ではフルトヴェングラーを称揚し、カラヤンをけなす。自分が若い時会ったクラシック・ファンはみんなカラヤンを嫌っていた。当時の「有力な」音楽評論家も同様だった。フルトヴェングラーの演奏やドイツ音楽がどういうものかの意見も、ほとんど「定型化」された通説を聞いているようである。演奏家の好みではケンプを挙げていて(自分は知らなかった)、これは多数意見と違うのではないか。日本のファンは同名のバックハウスのファンが圧倒的で、ケンプファンなんてあまり多くないと思っていた。なおバックハウスを評価しているのは今では日本だけで、ドイツなどではケンプの方が評価されているらしい。そういう意味で丸山は国際標準的である。もちろん外国の評価が正しく、日本のそれが劣るなどというものではない。

フルトヴェングラーの戦争責任については、やはりあると言っている。いくら本人はその気がなく誠実であろうが、政治責任は結果責任だから本人の意思に関わりなく、ナチスに協力したので責任は生じる。政治責任はあるが、フルトヴェングラーを批判する気にはなれない。

トーマス・マンについても書いてある。他のところでも読んだし、ここでも著者が説明しているようにドイツからアメリカに亡命して、アメリカという安全地帯からドイツを批判していたマンをドイツ人は怒っていた。ただマンも亡命せずドイツに留まるべきだったか。マンは市民権を剝奪されているが、それがなかったらどうすべきか。ドイツにいて同胞と苦難を共にすれば非難は受けなかったかもしれないが、どうだろうか。マンは亡命中に『ヨゼフとその兄弟』を完成し、『ワイマルのロッテ』『ファウストゥス博士』『選ばれし人』などの傑作群をものしている。20世紀の文学者でマンに匹敵するのはプルーストくらいではないか。これらの作品が亡命しているから書けたというなら亡命は望ましかった。どうも評価軸が色々あってうまく言えない。

2025年2月11日火曜日

裁きは終わりぬ justice est faite 1950

アンドレ・カイヤット監督、仏、102分。安楽死を施した女医師を裁く陪審員たち、仏版「怒れる12人の男たち」。

情人である所長は癌で苦しんでいる。安楽死を望みそれを叶えた女医師。殺人罪で裁けるか。この陪審員たちの私生活が映画の主要部分である。自分らの信条、経験から無罪、有罪を述べる各陪審員たち。結果は有罪多数となった。これで被告は五年の刑となった。正しかったかどうか、いずれにせよ裁きは下された。

2025年2月7日金曜日

マックィーンの絶対の危機 The blob 1958

アービン・S・イヤワース・jr監督、米、86分、総天然色、スティーヴ・マックィーン主演。マックィーンはこの映画時、28歳だが、もっと若い年齢の役をしている。ともかく若いが見た目は後年とほとんど変わっていない。

田舎町に隕石が落ちてきてそこから怪物が出現し、人間どもを餌食にしていくという、今ではパターン化された筋。怪物はゼリー状の赤い物体で地面を這っていく。人間を餌食にすると巨大化していく。マックィーンとその彼女、またマックィーンの悪友らがこの危機をみんなに知らせるが警官は相手にしない。当然だろう。しかし警察のボスはなぜかマックィーンに好意的で、信じる。怪物が出現したと言われ、信じる者などは現実にいない筈だが。

この怪物の弱点は寒さで、それは映画の途中で冷凍室に逃げ込んだら怪物は退いたので、観客は分かる。それにしてもH・G・ウェルズの原作『宇宙戦争』では地球の細菌に、この映画では寒さに弱い、と火器では退治できない宇宙からの侵略者を、身近なもので撃退するのは定型化している。予告編が面白い。当時は映画館での鑑賞が一般的だったから、映画館に怪物が現れ観客がパニックになり逃げだすところを使っている。歩くのではなく走って逃げろ、と出るが、当時の標語の逆でもいったか。

タイム・トラベラーズ The time travelers 1964

イブ・メルキオール監督、米、106分、総天然色。大学の研究室でタイム・マシンの研究をしている学者たち。

失敗したかと思ったが、ディスプレイに殺風景な岩だらけの風景が映っている。運よく未来が映ったのだ。しかしそこは百年後の現在地で大学はどうなったのかと疑問が出る。一人がディスプレイのそばで腕を中に入れると入る、つまりディスプレイの向こう側に行けると発見する。そこで向こう側に行く。『リング』でテレビから出てくるのと反対である。呼び寄せるが帰ってこない。他の者たちも向こう側に行く。男3人、女一人の研究者たちは岩だらけの中にいる。出て来た画面(枠)が消えてしまい、帰れなくなる。不思議な連中から攻撃を受ける。更に助ける者たちもいる。後者に連れられその基地に行く。

真相を知る。地球は核戦争で破滅してしまった。残っているのはわずかである。また攻撃してくるミュータントたちがいる。もう地球はあまり持たない。他の惑星にロケットで移住する計画を立てている。もうすぐ出発だと。元の世界に戻れなくなった4人は同乗させてもらうよう頼む。後になって搭乗員は一杯で余計な者を乗せる余裕はないと言われる。だったらタイム・マシンを作って元に戻ったらとなり、未来人の協力の下、作業を進める。ロケット発射の日、ミュータントが攻めてきて、ロケットは緊急に発射しようとするが失敗炎上する。

ミュータントらとの闘いの中でタイム・マシンは完成したかと見え、直ちに過去に戻る。時間設定に失敗し、初めの時に戻るが、自分と同じ人間はほとんど静止状態に見える。そこで映画の初めと同じようにタイム・マシンによって未来に行き、また戻り・・が早送りで再生され、更に速度を上げた同じ経過が再生、それの繰り返しとなる。

2025年2月5日水曜日

人類SOS! トリフィドの日 The day of the Triffids 1962

スティーヴ・セクリー監督、英、94分、総天然色。流星雨が降り、人々は盲目になる。主人公の海軍軍人は、目の治療で包帯をしていたので失明を免れた。また植物トリフィドは巨大で動き、人々を餌食にする。軍人は少女及び若い女を助け、トリフィドからの襲撃を逃げる。また孤島の灯台に住む夫婦は同様に失明を免れたが、トリフィドは襲いかかってくる。灯台のてっぺんに登り、上がってくるトリフィドに海水を放水すると萎びていく。海水がトリフィド殲滅の方法と分かった。これで平和は再び戻った。

2025年2月4日火曜日

ソルジャー Soldier 1998

ポール・W・S・アンダーソン監督、米、98分。カート・ラッセル主演。戦争をしている未来社会が舞台。戦士になる者は子供のうちから教育される。脱落しなかった者だけが戦士になれる。ラッセルは成果をあげて来た戦士だった。ところが新型の戦士が開発される。ラッセルら旧戦士と対決して次々と旧兵士を倒す。ラッセルも闘い相手に傷を負わせるが、墜落して死んだと思われた。

はるかかなたのゴミ捨ての惑星に運ばれ、捨てられる。しかし目を覚ましたラッセルは、起き上がり廃棄から免れる。その惑星に住む人々がいて助けられる。ラッセルは記憶をなくしていた。ラッセルの戦士としての習性から人々は危険と感じ、ラッセルは住居地区から追い出される。戦士を開発していた者がこの惑星に来る。戦士を使い住民を抹殺するつもりでいる。次々と住民は殺される。ラッセルは単身、来た戦士らと闘い、倒していく。司令官はこの惑星全体を爆破させるつもりで爆弾をしかける。ラッセルはそれら司令官たちを宇宙艇から放り出し、残った住民たちと宇宙艇で星を逃げ出す。司令官らは自分たちで仕掛けた爆弾が爆破し星もろとも吹っ飛ぶ。

2025年2月2日日曜日

怪獣ウラン X the unknon 1956

レスリー・ノーマン監督、英、79分、白黒映画。軍隊が原野で放射能測定の訓練をしている。ある場所で異様に放射能を観測した。するとそこに音響と共に大きな裂け目ができる。更にそばにいた兵士は負傷をする。病院に運ばれるが後に死ぬ。原因究明を研究所の博士に依頼した。また子供が二人づれで林の中に入ろうとして一人が負傷する。後に死んだ。

何が原因か分からない。博士が放射能を食べる生物が地下から現れたのではないかというとみんな呆れる。しかしそれは本当で、放射能を吸収し肥大していく。どろどろの塊で地を這っていく。博士は放射能を破壊する装置を完成した。実用化し、怪物が潜んでいる裂け目のそばに放射能発生装置を置くと、怪物は裂け目から出てくる。破壊装置で爆破する。ドラキュラ物その他で有名なハマー・フィルムの制作で、怪獣映画というよりSF恐怖映画といった感じ。