2024年8月31日土曜日

アリス・クリードの失踪 The disappearance of Alice Creed 2009

J・ブレイクソン監督、英、100分。二人組の男が若い女を誘拐する。身代金要求のためである。偶然、誘拐された女が犯人のうち若い方が自分の知り合い、恋人だと知る。なんでこんなことをしたのかと問い詰めると、お金を奪った後は自分ら二人だけの物にしよう、逃げようと男は言い出すのである。女は親と仲が悪かった。それにしても誘拐するなどけしからんと言い出す。更に男を油断させ、銃を奪い取る。逃げようとしたが再び男に捕まる。

男は中年男の相棒に女と自分が知り合いだったとは言っていなかった。後に中年男は女から若い男が女と知り合いだったと聞かされる。身代金を二人で取りに行く。そこにはない。中年男が若い男を消すために来たのである。さっさと殺せばいいのに、演説をして、相手に逃げられる。中年男はお金を取った後、女のいる所に戻ってくる。そこへ若い男が後からやってきて、中年男を殺す。若い男は大金を持ち車で逃げるが、中年男に撃たれた傷で亡くなる。女は閉じ込められていた場所から逃げ出し、若い男が死んでいるのを発見し、大金と共に車で去る。

2024年8月30日金曜日

悪魔のような女 Les diaboliques 1955

アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督、仏、116分、白黒映画。シモーヌ・シニョレが主要人物の一人。寄宿制の私立男子校の校長は厳格というか容赦ない性格である。その妻は若く、この学校の持ち主である。

妻は夫の横暴に耐えかねていた。教師の一人がシニョレで校長の愛人なのだが、妻と共謀し校長を殺害する計画を立てる。離れた場所にあるシニョレの家に、妻とシニョレは車で行く。その後、校長は二人を追ってやってきた。飲料の眠り薬を入れ校長を眠らせた後、水を張った水槽に寝た校長を横たわらせ水死させる。その後二人は死体を車のトランクに入れ学校まで戻り、死体はプールに投げ込む。いつまで経っても死体が浮き上がらないので、プールの水を抜く。すると死体はなかった。水死体の記事が出ていたので、安置所まで妻は見に行く。別人だった。そこで老人に声をかけられる。元刑事で夫の行方不明なら自分が捜そうと言い出す。報酬は見つかった時でいいと言い、断りきれない。

妻は元々心臓が悪く、医者から転地療養を勧められていた。ある夜、妻は寝れずに起きて学校内を歩く。元の部屋に戻ったら水槽があり、その中に夫が沈んでいる。夫は起き上がる。妻は恐ろしい衝撃を受け、その場で死ぬ。そこへシニョレが現れ、夫と抱擁する。実は夫は死んでおらず、シニョレと組んだ芝居だった。病弱の妻が死んだので、学校という財産が自分たちの物になると喜んでいると、あの老元刑事が現れる。この犯罪を暴く。

2024年8月29日木曜日

小林秀雄『無常という事』 昭和17年

短い批評文。『一言芳談』という作品の中にある、この世はつまらないからあの世はいいい所に行きたい、という下りを引用してそれを読んだ時、いいと思ったという思い出を書いている。小林秀雄という人は個人的な思い出や感想を書いて、もっともらしい文章に仕上げる。我が国の批評家の中では最も高く評価されている。自分としてはこれまで読んだ小林の文で感心した経験がない。これから感心する文を読むことができたらいいと思っている。

2024年8月28日水曜日

フィッツジェラルド『雨の朝、パリに死す』 Babylon revisited 1931

主人公のアメリカ人はパリを再訪する。かつて一緒だった妻は死別している。昔は大いに騒ぎ遊んだ地である。今回見るとさびれている。一人娘を妻の姉夫婦に預けてある。主人公は娘に会いたく、一緒に住みたく思っている。しかし妻の姉は主人公に対して不信感を隠さない。娘も父親と一緒に住みたいと思っている。姉の夫も主人公に理解を示す。

何とか娘を引き取れそうになった時、主人公が昔遊んだふしだらな女と連れが、姉夫婦宅に押しかけて来る。これで姉の心証は一挙に悪くなった。主人公はいらつく。(佐藤亮一訳、講談社文庫、昭和48年)

2024年8月27日火曜日

芥川龍之介『将軍』 大正10年

題名の将軍とは乃木希典を指す。文中はN将軍となっているが、日露戦争を舞台にした短編ですぐに乃木将軍と分かる。幾つかの挿話から成る。

行軍中の兵隊らの会話がある。N将軍、即ち乃木将軍がやってきて激励するが、後であまり有難くないと会話を交わす。支那人を捕虜にして尋問している。間諜の疑いがある。将軍がやって来る。間諜の靴に文書が隠されていたと分かったので処刑する。慰問の芝居をやっている。ふざけた芝居で兵士らは笑うが、将軍が来て𠮟りとばし、止めさせる。ピストル強盗や忠臣蔵系のものは感心してみている。最後の挿話は乃木の自刃より後で、肖像画を見ながら乃木をどう思うかと若い兵士に聞いている。

文中伏字でX点になっており元が分からない箇所が幾つかある。それにしても乃木を神聖視するのでなく、批判的に描いているので、よく当時書けたものだと思った。

稲垣足穂『フェヴァリット』 昭和13年

多理という少年の回想録や空想が童話的、幻想的につづられる。被虐趣味的なところがあり、三島由紀夫を思い出した、と言ってもこちらの方が先に書かれているが。

以前というか昭和40年頃、中央公論から「日本の文学」全80巻か88巻か、当時の流行りの文学全集が出ていた。その中で内田百閒、牧野真一、稲垣足穂の巻があった。稲垣や内田はその当時は文学全集に収録されるほど有名ではなかった気がする。その巻の編集者は三島由紀夫で、解説で稲垣足穂を絶賛していた。実際に読むと三島と同じ趣味の持ち主である。短編で童話的なところが好まれているかもしれないが、正直あまり面白くない。

2024年8月24日土曜日

稲垣足穂『チョコレット』 大正11年

ポンピイという主人公が街を歩いている。向こうからロビン・グッドフェロウという有名な妖精が歩いてきた。ロビン・グッドフェロウとはいたずら好きな小妖精と注にある。ともかくこの短編が書かれた当時一般か、あるいは少なくとも著者にはロビン・グッドフェロウがとても有名だとなっている。驚いたポンピイは相手に確かめる。肯定の返事をもらう。

しかし今ではロビン・グッドフェロウはかつてほど有名でなくなっている、それでほうき星になっているという返事。つまりロビン・グッドフェロウは何でもなれるというのである。ポンピイはそれではチョコレートになってみろと言う。銀紙の包みを見せる。そうするとロビン・グッドフェロウはチョコレートになって銀紙の中に収まる。そのチョコレートは硬くて叩いても壊れない。最後に鍛冶屋に持っていき、強力な鉄槌で叩いたら衝撃で家が潰れてしまった。ロビン・グッドフェロウがどうなったか不明。

2024年8月23日金曜日

吉本隆明『日本近代文学の名作』新潮文庫 平成20年

吉本隆明が毎日新聞の担当に話した近代文学の代表作をまとめたもの。24作品が選ばれている。作品の選択は吉本ではない、と「はじめに」に書いてある。「名作の個々の作品と作者は両氏(編集者)の選択されたもので」(p.8)とある。しかし続く文を読むと吉本本人の希望も入れてあるようで、その辺の区切りははっきりしない。

編成者後記で「これまで論じたことのない吉川英治や江戸川乱歩を対象とすることも、快く応じて下さった。」(p.213)とあるから、これらは吉本が論じたかった作家でないと分かる。芥川龍之介では『玄鶴山房』が取り上げられているが、芥川の代表作とは思われていない。ここの冒頭で吉本は芥川の中で一番いいと思っている、とあり吉本の意向が選に反映しているのだろう。他に保田與重郎、今時の読書家は名前さえ知らない人もいても不思議でない、があり吉本の選か。

ただ全体としてみれば取り上げられている作品は近代文学の代表作といえる。吉本の評も保守的、標準的と言っていいものが多い。初めに漱石の『こころ』があってその冒頭に「明治以降の近代文学の中で、夏目漱石と森鷗外は飛び抜けた、超一流の文学者という感じがする」とあって、あまりにも標準的見解で、かえって驚くくらいである。吉本が書いているのだから、何が書いてあってもそれだけで価値があるのだろう。

芥川龍之介『玄鶴山房』 昭和2年

芥川が死の年に発表した短篇。画家の玄鶴は病気で家に看護婦を置き、世話になっている。玄鶴の妻は以前から病気である。同居する婿は大したことのない男で、玄鶴の娘との間に男の子がいる。その家に昔、玄鶴の二号だった女が子供を連れて世話をしにやって来る。子供は玄鶴の子である。その腹違いの弟を孫がいじめる。

看護婦が嫌らしい女で玄鶴の妻、娘、元二号の、三人の女のぎくしゃくを面白がって見ている。やがて玄鶴が死に、小説は終わる。自然主義的色彩の強い小説である。自然主義に属さない近代の小説家も、時々自然主義的な作品を書く。漱石の『門』のような。

2024年8月21日水曜日

プッチーニ『ラ・ボエーム』カラヤン指揮、ミラノ・スカラ座管弦楽団

カラヤンの制作による『ボエーム』の映像版である。歌劇のDVD版は多く出るようになった。実際の舞台を録画、録音したものが大半である。本DVDはそういった舞台の映像化ではない。最初から映像用として録画されたものである。

LPレコード時代、歌劇については録音用に制作されたものと実際の舞台の実況版があった。今、DVDで出ている映像で見られるものは実況版がほとんどで、売り出すために録画したものはあっても少ないだろう。このDVDはまさに映像版として売り出すために作成されたのである。しかも1965年と今となっては随分昔である。カラヤンは色々録音上の進歩に寄与したが、歌劇の映像も視野に入っていた。もちろんDVDなどという媒体など全くなかった時代にである。それが今DVDとなって販売されているのである。実況ではないので、全く映画のようである。カラヤンの指揮姿は冒頭に一瞬出てくるだけ。各幕の切れ目などなく、連続して劇が進んでいく。

アウトバーン Collide 2016

エラン・クリービー監督、英独、99分。ドイツのケルンが舞台。米国人の主人公青年はバーで女を見染める。聞けばやはり米国人で、二人は恋人同士となる。女は腎臓を患い、移植には多額の費用がかかる。

主人公はバーの経営者(ベン・キングスレー)の提案する強奪事件を引き受ける。これで移植費用を償ってあまりある。麻薬をトラックに積み運送している。そのトラックを襲い麻薬を奪うのである。仕切っているのは表向きは事業家でキングスレーとは敵対している男(アンソニー・ホプキンズ)。奪還はうまくいったと思いきや、相手も十分追跡機能を備えており、主人公は逆に捕まる。そこで首謀者を吐けと言われるが、拷問者を倒し逃げ出す。車に乗って逃げる。直ちに追手が来る。追っかけでは辛くも逃げるが、盗んだ車に大金が仕込んであり、それも頂戴する。ホプキンズは麻薬に加え、金まで主人公を追いかける必要がでてきた。当然ながら敵方は主人公の恋人を捕まえ、主人公に迫ろうとする。

敵方と主人公の闘いが、一般人も巻き添えになり、繰り広げられる。主人公は特殊部隊員か、と思わせるほど強く、相手の用心棒や殺しの専門家をやっつけていく。映画ならではのご都合主義で最後はうまくいき、めでたしめでたしとなる。

2024年8月18日日曜日

クロスゲージ Most wanted 1997

デビッド・ホーガン監督、米、99分。主人公は戦争で上官を誤って撃ち殺し、裁判で死刑の判決を受けた。護送車が襲われ、主人公は何者かに拉致される。拉致したのは秘密裡に反国家者等を処刑する組織だった。そこに入らなければ戻され死刑になるので、主人公は加わる。

最初の指令は悪徳製薬会社の社長だった。車から降りたところを、撃つよう命じられる。ところがその直前に傍にいた大統領夫人が何者かに射殺される。主人公は大統領夫人の射殺犯にされてしまう。これは仕組まれた罠で、最初から大統領夫人を狙った犯人が、主人公のせいにする計画だった。主人公は警察や軍に追われ、自らの無実を証明するため奔走する映画である。現場にいた女医師が別に録画しており、その医師に近づき、協力を頼む。黒幕は軍の将軍で製薬会社に作らせた薬が害を及ぼし、その裁判に以前弁護士だった大統領夫人が関わっていたからである。主人公は証拠を掴み、また黒幕の将軍を倒す。

苅部直『日本思想史への道案内』NTT出版 2017

著者は東大法学部で日本政治思想を担当する学者。内容は次の様である。

序 日本の思想をどう読むか/1章「日本神話」の思想/2章『神皇正統記』をめぐって/3章 武士の倫理をどうとらえるか/4章 戦国時代の「天」とキリシタン/5章 儒学と徳川社会/6章 「古学」へのまなざし/7章 国学思想と「近代」/8章 明治維新と福澤諭吉/読書案内

夫々の話題について興味深い論を示しており、読みやすくためになった。日本思想について関心があれば得るところが多い。

2024年8月17日土曜日

バッド・ルーテナント Bad lieutenant 2009

ヴェルナー・ヘルツォーク監督、米、121分、ニコラス・ケイジ主演。ケイジはニュー・オーリンズの警察の警部補(lieutenant)であるが、情婦のエヴァ・メンデスと共に麻薬に溺れ、またスポーツ賭博にも手を出している。当然借金が多い。麻薬で幻視をするようになっている。

刑事としては有能なのだが、違法とも言える乱暴な捜査法で問題視されている。移民の家族が殺された事件を担当する。麻薬が絡んでいて、その元締めを追う。事件の目撃者の少年を保護していたのだが、目を離した隙に逃げられる。少年の祖母が働いている老婦人の家に押しかけ、どこにいるか白状させようと祖母、老婦人とも脅迫する。また情婦が商売相手の男から顔を殴られたので、ケイジはその男を恫喝する。男は自分が権力者の息子だと捨て台詞で去る。これらからケイジは警察の上司から苦情が来ていると叱られる。

更に借金を返す必要もあり、麻薬取引の元締めに取引し、協力すると持ち掛ける。ケイジが麻薬取引の連中といる時、借金の男が現れ、麻薬を自分のものにしようとするが殺される。ケイジは後に他の警察官と一緒に麻薬元締めを襲い逮捕する。一年後、ケイジは警部に昇進した。以前、水害時に助けた男が偶然やって来て、ケイジと一緒に水族館に行く。

2024年8月16日金曜日

サンフランシスコ連続殺人鬼 The Zodiac killer 1969

トム・ハンソン監督、米、87分。いわゆるゾディアック殺人が行なわれている最中に撮影された映画。

この映画を作れば、犯人が映画館に現れ、逮捕につながる可能性を期待したらしい。もちろん迷宮入りになった事件である。後に撮影されたゾディアック映画より古いし、あまり大した出来ではない。

実際に起きた事件の再現を行ない、この映画の中で創作として犯人を作って物語にしている。妻と喧嘩して離婚した中年男が出てきて、鬘を被って女にもてようとするが、鬘が取れ笑われる。元妻の家に行き娘に会わせろと要求するが断られ、銃を出して脅す。警察が来る。落ちていた新聞に載っている記事を見て俺はゾディアックだと叫ぶ。警官と銃の打ち合いになり殺される。実際の犯人はその男の友人だったという話。

2024年8月15日木曜日

テオレマ Teorema 1968

ピエル・パオロ・パゾリーニ監督、伊、99分。あるブルジョワの家庭に青年がやって来る。この青年によって一家は惑わされ、特に青年が去ってから壊滅状態になっていく。

女中は青年に恋する。一家の娘も同様に青年と関係を持ち、後に身体が硬直状態になり病院行きになる。息子は夜、青年と一夜を共にする。一家の妻も青年により色情狂になる。一家の主人は事業を放り出し、駅で全裸になり、最後は砂漠のようなところで倒れる。

2024年8月14日水曜日

Memory メモリー 2022

マーティン・キャンベル監督、米、114分、リーアム・ニーソン主演。ニーソンは殺し屋、記憶が怪しくなっているので引退したいのだが、最後の仕事を頼まれる。一方、メキシコの人身売買を現地の警察と探っていたFBI捜査官は逮捕の寸前で、メキシコ人の容疑者に死なれる。容疑者の娘は捜査官がアメリカで保護するよう手続きをする。ニーソンが受けた殺しの命令で最初の男を殺し、秘密情報が入ったUSBを入手する。しかし二番目の標的があの保護されたメキシコの少女と分かると、殺さないで去る。しかしその少女は後に殺される。FBI捜査官は怒り謎を解こうとするが、上司は止めるよう命令する。

結局のところ、人身売買の大元締めはモニカ・ベルッチ扮する富豪と判明するが、警察はつながりがあって逮捕する気はない。ニーソンは病気もあり、手がかりのUSBを残して死ぬ。FBI捜査官は証拠を手に入れたが警察は動く気がない。ベルッチは自宅にいるところを、何者かに背後から絞殺された。それはFBIと共に組織を追っていたメキシコ人の捜査官だった。

2024年8月13日火曜日

ミッドサマー Midsummer 2019

アリ・スター監督、米、147分。アメリカの大学生数人はスウェーデンの田舎に行く。民俗学の研究をするためである。女主人公は恋人と一緒についていく。

開けた野原のようなところに共同体があって、そこが目的地である。90年に一度の儀式をするという。地元の者らは白い衣装を着ている。切り立った高い崖の上から年寄りの女が飛び降り地面に叩きつけられる。続いて男の老人がやはり同様の行為をする。見ていたアメリカの学生たちは驚愕する。ここでは、歳を取った者はこうして死んでいくという。すっかり気持ちが攪乱する。黒人の学生は共同体の者から、伝わる書物の説明を受け、写真を撮ってもいいかと尋ねるが拒否される。夜中に起きて秘密裡に写真を撮っていたら棒で殴り倒される。古い枯れ木に小便をしていた別の学生は怒鳴られる。後に行方不明になる。

女主人公は共同体の女たちだけでする踊りの儀式に誘われる。次第に椅子取りゲームのように参加者は脱落していき、女主人公は自分が優勝したと知らされる。花の冠をつけ駕籠に乗って運ばれる。その間、その恋人は共同体の女と交わるよう誘惑を受け、誘導されその行為に及ぶ。女主人公は、それを隙間から覗き見し驚き、絶望する。男は生贄に供せられ、最後は火を放った小屋の中で焼け死ぬ。

佐藤弘夫、平山洋編集代表『概説日本思想史』(増補版)ミネルヴァ書房 2020

日本思想史の代表的概論とされている書の増補版である。

日本思想史に関心を持って読んだのだが、あまり感心できなかった。まず第一に本書は思想史となっているにも関わらず、歴史そのものの記述が多すぎる。思想史なのだから、思想の説明に必要な限りの歴史を書けばよい。歴史から思想が出てくるからまず歴史を書き、それから思想を記述する、というつもりなのだろう。ただこれでは歴史にページをとられ不必要に長くなるか、思想の説明が少なくなる。歴史書など山とあるから、わざわざここで書かなくても良い。更に呆れるのは最初にある増補版刊行のための文で、天皇が生前退位したとか、新型コロナが流行ったとか、更にはGDP増加率が減少したとか、そんな記述がある。思想史は現代まで書く必要はない。せいぜい近世までと言ったら少ないか、やはり明治への変革期の思想は必要だろうから、明治憲法と教育勅語くらいまでだろう。戦後の記述など全く必要ない。一番驚いたのは、事項索引がない、ということである。人名・神仏名索引と文献・資料名索引はあるが、事項索引がないのである。これでは全く使い物にならない。

『内田百閒 ちくま日本文学』 2007

夏目漱石に師事した小説家、内田百閒(明治22年~昭和46年)の作品集を集める。短編及び随筆の類が収められている。短編に満たない掌篇というほどの作品が結構ある。

短編は漱石の『夢十夜』に入っている話のような作品が多い。この集のうち特に有名な作品は『サラサーテの盤』(昭和23年)だろうか。鈴木清順の映画『ツィゴイネルワイゼン』の元になった。映画は見ていたが、この小説は初めて読んだ。映画だから色々膨らませているが、確かに本小説にある内容が映画で使われている。この集に『東京日記』(昭和13年)という比較的長い作品があるが、23篇の随筆から成り立っている。あと著者は旅行好きだったそうで『特別阿房列車』(昭和26年)は東海道を東京から大阪まで行く旅行記である。

それにしても内田百閒という名は旺文社文庫に入っていて名を知ったのだが、昔はおよそ文学全集に入るような著作家ではなかった。それがこの「ちくま日本文学」を再編集して30巻にしたときは一番初めが内田百閒集となっている。評価、好みというものは変わるものである。

2024年8月5日月曜日

『怪奇小説精華』東雅夫編、ちくま文庫 2012

代表的な怪奇小説を集めたものである。内容は以下の通り。

嘘好き、または懐疑者(ルーキアーノス)/石清虚、竜肉、小猟犬―『聊斎志異』より(蒲松齢)/ヴィール夫人の亡霊(ダニエル・デフォー)/ロカルノの女乞食(ハインリヒ・フォン・クライスト)/スペードの女王(A.S.プーシキン)/イールのヴィーナス(プロスペル・メリメ)/幽霊屋敷(エドワード・ブルワー=リットン)/アッシャア家の崩没(エドガー・アラン・ポオ)/ヴィイ(ニコライ・V.ゴーゴリ)/クラリモンド(テオフィール・ゴーチエ)/背の高い女(ペドロ・アントニオ・デ・アラルコン)/オルラ(モーパッサン)/猿の手(W・W・ジェイコブズ)/獣の印(J・R・キプリング)/蜘蛛(ハンス・ハインツ・エーヴェルス)/羽根まくら(オラシオ・キローガ)/闇の路地(ジャン・レイ)/占拠された屋敷(フリオ・コルタサル)

怪奇小説の古典の作品群である。このうち『スペードの女王』と『アッシャー家の崩壊』は一般の小説として読まれているし、この集のうちでも特に有名であろう。後者はここでは『アッシャア家の崩没』という訳名である。崩壊とか没落とか他の訳名もある。原語は単にfallである。『嘘好き、または懐疑者』は古代ローマの作品で、嘘の内容を平気で演説しているような話。『聊斎志異』も有名だろう。多くの話のうち三篇を収録。『ヴィール夫人の亡霊』は『雨月物語』の中の「菊花の約」のようなもの。この手の話は多い。『ロカルノの女乞食』は短い話で乞食を邪険に扱った貴族の災難。『スペードの女王』は短編なのに映画化されている。映画は元の話から逸脱していない。『イールのヴィーナス』は掘り起こされたヴィーナス像が災いをもたらす。『幽霊屋敷』は(うるさい)幽霊が出る部屋で体験するという、この手の幽霊物の古典。しかもその原因が究明される。普通怪奇小説というものは原因不明にして余情を残すとか、読者を煙に巻いたりするのだが、推理小説のような構成。なお本作は岡本綺堂の『世界怪談名作集』では「貸家」という名で入っているが、謎解きの部分がない。(ちくま文庫のp.223の最後の段から)『ヴィイ』と『クラリモンド』は大くくりで要約すると、天使とも悪魔とも言える女によってひどい目に会う、と言える。『ヴィイ』は神学校の青年が美女に会い、後に美女の死によって通夜(こんな言葉は出てこないが通夜と同じ)で体験する恐怖、『クラリモンド』の方は、聖職者になる儀式で見染めた美女クラリモンドに、夢かうつつかの恋で溺れていく。なお『ヴィイ』は『妖婆 死棺の呪い』という映画になっている。見る機会があったら見るといい。総天然色で見栄えがする。『背の高い女』はこれまた女による災難、『オルラ』は見えない怪物ものの古典。『猿の手』を読んだことのない人はいないだろう。大昔、創元推理文庫の「怪奇小説傑作集」で読んで、一度読んだら忘れられない作品だろう。『獣の印』はキップリングだからインドが舞台で、イギリス人が現地の人間にふざけた真似をして呪われる、といった植民地物(などという言い方があるかどうか知らないが)の作品。『蜘蛛』は江戸川乱歩の某作の元となった小説で、解説にネタバレ(その作の名)が書いてある。『羽根まくら』は夫人が病気で死ぬ。その原因は・・・という小説。『闇の路地』はある悲劇を別々の面から記述するという構成に凝った作。『占拠された屋敷』は大きい古い屋敷に兄妹だけで住んでいる。その屋敷の半分が何物かに占拠され、やがて・・・という不条理な小説。感じとして筒井康隆を思い出した。