2026年8月2日日曜日

村上春樹『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』新潮文庫 平成22年

一人称小説である。不思議なエレベーターに乗ってどこかに運ばれる。初めの方は全くカフカそのままである。カフカの名を冠した小説を書いている著者であるから、大いに影響されたのであろう。そえから女に従って目的の方へ行く。この辺りはよくある空想科学映画に出てくる風景である。わたしは小説の中だけの特殊な知識があって、それを老人の学者から頼まれる。

わたしは、ソファについて蘊蓄を傾け、座って心地よいソファがあまりないという。次いでサンドイッチにも造詣が深く、これほどうまいサンドイッチはそうそうないとか言う。よほどサンドイッチを良く食ってその味にうるさい者なのだろう。こういった作者の代弁なのか、偉そうな文章を読んでいて、すっかり嫌になり、読むのを止めた。これほどつまらない小説はそうそうあるものではない。

高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』講談社学芸文庫 1997

昭和56年に公表された著者の処女作。わたしという語り手による一人称小説。以前、わたしはある女と一緒に住み、女の子が生まれた。その女の子を可愛がるが、死んでしまう。女もどこかにいってしまった。今はソングブック(S・B)という女と、猫のヘンリー四世と一緒に暮らしている。わたしは詩の学校で詩を教えている。色んな生徒が来る。またギャングたちが登場し、警察との撃ち合いで殺される。普通の小説とは異なり、軽い調子で書かれており、一読して印象が鮮明な小説である。

2026年7月31日金曜日

機動捜査班 都会の牙 昭和36年

小杉勇監督、日活、73分、白黒映画。白タクの運転手が縄張りの暴力団から暴行を受けている。白タクを仕切っているボスの内田良平は、上のボスから指示を受ける。官庁と違法取引があって、その課長を消し、名簿を奪って来いと。この仕事を白タクの運転手にやらせる。また情報屋がいて、色々内部情報を探り、売って金を手に入れている。白タクの運転手は男を轢き、鞄を手に入れたが、白バイから追われる。その時、情報屋は警官を殴り、運転手を助ける。

助けたのは運転手から情報を取り入れるためだった。運転手は内田の指示で行なったと話し、情報屋はこれをテープに録音し、内田をゆする。金か警察に売るか。しかし内田は殺し屋を使い運転手を殺し、その死体を見つけた情報屋と仲間が死体を運ぶ場面を写真に撮っていた。これで情報屋はゆすれなくなった。情報屋は、モデルの香月美奈子と知り合い、鞄を預ける。警察では上司となった課長が内田と仲が良いと聞き、刑事の一人は辞めたくなる。

情報屋は預けた鞄を見ると、中の書類がない。香月は焼いたと答える。彼女は轢き殺された男の娘で、違法行為をしている父親の名が書いてある名簿を処分したかったと言う。情報屋は内田に名簿と引き換えに大金を要求する。波止場に贋の名簿を持って現れた情報屋は、内田の部下に蜂の巣にされる。香月の情報で警察が波止場に向かい、悪漢どもを一網打尽にする。香月はバッグから名簿を取り出し、刑事に渡す。処分していなかったのだ。

原直人『アベノミクスは何を殺したか』朝日新書 2023

アベノミクスと呼ばれた安倍晋三政権の経済政策、それを金融面から支援した、というよりその主砲となった黒田日銀総裁による異次元金融緩和の開始から10年過ぎた。その成果は当初期待されていたようなものではなかった。特にデフレからの脱却をするというのが、今世紀になってから経済政策の唯一の目標となった感がある。現在から見れば成果を果たせなかったのは、そもそも目標自体とその手段の不適切さがであり、それが批判されるようになっている。そこで10年後にアベノミクス批判を行なったのが本書である。

書名が『アベノミクスは何を殺したか』となっているように公正に批判しようとするのではなく、糾弾するという姿勢である。これは編者が朝日新聞であるからそうなったのであろう。形式は編者が質問し、識者が答えるインタビューで進む。登場する論者の中には元日銀総裁や職員がいて当時の日銀内での状況を伝えている。組織の職員は基本的に上から言われたことをやるしかない。もちろん意見は言えるし、それで議論になることもあろう。しかし一国の最高責任者から降りてきた指令は、従うしかない。しかも今では誤りだと分かっているが、当時はどうなるか分からなかったわけである。日本全体の雰囲気は、アベノミクス、異次元金融緩和を支持していたのが当時の実際である。

組織の個々の職員がまるで一国、また組織と異なる方針を意見していれば、それが通ったかのように言っても意味がない。アベノミクスの評価にしてもこの編者は頭ごなしに否定しているが、これでは丸抱えでアベノミクス万歳を叫んでいる者と同じである。個々の政策について是々非々を分析しなければ、今後の政策に活かしていけない。

2026年7月30日木曜日

加太こうじ『東京事件史 明治・大正編』一声社 昭和55年

書名は事件史となっており、犯罪が主かと思わせるが、出来事史、風俗史と言った方がいいかもしれない。取り挙げられている出来事は明治編では「近藤勇処刑」「上野の戦争」「東京・横浜間電信開設」などがあり、大正編では「ジゴマ上映の禁止」「米騒動、東京に波及」「松井須磨子の死」などである。

夫々の出来事が分かりやすく書かれており、読みやすい。著者は大正7年東京浅草生まれ。


2026年7月26日日曜日

渡辺努『インフレの時代』中公新書 2026

日本経済は長い間、前世紀末からデフレの時代を経験してきた。それがようやくインフレの時代に変わろうとしている。どういう特徴があるのか、日本経済にどう影響を与えるのかを考察している。今後、インフレが続けば日本経済を正常化するために、特に賃金の引上げが必要であると強調している。これが政府として後押しすべき政策だと言っている。

また政府の負債がインフレによって目減りし、政府はインフレによる最大の利得者となるので、その利得を使って必要な支出をできると述べる。更に日銀の総裁がどのように金融政策を進めてきたか、今度の植田総裁の政策に対する姿勢はどうかも分析する。また物価統計の改善の必要性を具体的事例で述べ、日本と米国では指標としている消費者物価指数が異なる(日本では見た価格、米では実際に支出した価格)ので、調整が必要と言っている。

世界大戦争 昭和36年

松林宗恵監督、東宝、110分。世界が核戦争に突入し、破滅する様を描く。フランキー堺が主人j公で運転手をしている。娘に星由里子がいて、船員の宝田明と恋仲であり、婚約する。その間にも大国間(連邦とか同盟といった言葉を使っている)では一発触発で、いつ核戦争に突入するか分からない緊張が続いている。あわやというところで核ミサイルの発射が止められたという場面もある。

しかし最終的には戦争が始まり、東京は壊滅する。船にいて助かった宝田明その他も東京に帰ろうと言って映画は終わる。なおこの映画はキューバ危機の前年に製作されている。

機動捜査班 秘密会員章 昭和36年

小杉勇監督、日活、白黒映画。あるナイトクラブに暴漢どもが押し寄せ、店を叩き壊す。警察がやってくるが、支配人はたいしたことないと言って追い返す。来た刑事はバッジを拾う。ここを経営する組と張り合う組もクラブを経営しており、競争していた。警察は、クラブの中に秘密があるとにらんでいた。

客の一部がバッジを見せて奥へ入っていく。それで警察は拾ったバッジを見せて中に入ると賭博場になっていた。入った刑事の一人は殴られ意識を失った。警察隊が来てみると賭博場は跡形もなく消えていた。殴られた刑事が見つかったが、拳銃と警察手帳を奪われていた。後に刑事がクラブにそれらを取り返しに行くと、ボスがバッジと引き換えに銃と手帳を返すと言う。刑事は警察に戻り証拠品のバッジを取り出し、それの模造品を作ってクラブに行く。ボスは刑事に手帳等を返さない。警察なんかよりここで働かないかと誘う。クラブにいる女は、刑事が悪に染まっていくのを見るのが嫌で忠告する。

敵対するクラブを潰す。しかしこのクラブも警察の手が回っていた。車で逃げるボスと女、運転する刑事。車に追跡装置を付け、警察が追えるようにしていた。途中で車を捨て、刑事とボスは闘い、ボスを逮捕する。帰りのパトカーの中で、刑事がクラブに誘われたのは部長の指示によったと言う。主役の刑事の妹役で松原智恵子が新人として出ている。大した役ではないが、クレジットでは主役の次に名が挙がっている。

コナン・ドイル『ライオンのたてがみ』 The adventure of the lion’s mane 1926

「シャーロック・ホームズの事件簿」所収の後期の短篇。ホームズは引退し、海辺に住んでいる。ある日、友人と浜辺を歩いていると瀕死の男に出くわす。近くの学校の教師である。背中に鞭で打ったようなひどい怪我があり、ライオンのたてがみと言って息絶える。

この男と友人だったあまり人付き合いの良くない男が警察に容疑者とされる。ところがこの男も後に同様の被害に会う。今度は死ななかった。危害を加えたものはクラゲの一種と分かった。その形はライオンのたてがみに似ている。

2026年7月25日土曜日

コナン・ドイル『ソア橋』 The problem of Thor bridge 1922

「シャーロック・ホームズの事件簿」に収められている後期の短篇。アメリカの上院議員をしていたという金鉱王は傲慢な男である。その夫人の死体が見つかった。容疑者は若い女家庭教師である。夫人は南米の出身、子供たちの家庭教師として雇われた女は魅力的だった。その家庭教師と夫人が会う約束のソア橋で、夫人が死体となって発見された。容疑者は家庭教師しかいない。アリバイもない。

ホームズらは死体の発見されたソア橋に行って調べる。判明した事実は夫人が、夫を誘惑したとして若い女教師に嫉妬し、殺人に見せかけ自殺をしたのだった。殺人容疑が家庭教師にかかればいいという算段だった。

苫米地英人『スピリチュアリズム』にんげん出版 2007

スピリチュアリズムとは何か、どうして多くの人がはまるのか、それを知りたく、以前から関心があった。本書はスピリチュアリズムを批判的に論じた本である。そのからくりを解き明かそうとしている。

このテーマとなると、自らがそれを信じ、本人は人助けのつもりもあるのか、勧誘されているかのような気分になるものがある。この本に出てくる江原啓之という人の著書を絶賛している文を以前読んだ。そんないい本なのかと思って読み始めると、そのうち気分が悪くなって、というと言い過ぎか、ついていけなくなり投げ出した。世の中にはそういう本で感激する人がいるのである。ともかく精神の安定を求めている人が、それで目的を達成できればよいと言える。そういうと新興宗教とどこが違うか。組織や機構のない宗教か?しかしオウム真理教や人民寺院などはひどい例である。スピリチュアリズムはすべて、そういう方向へいくばかりではないだろう。中心人物がどういう者かによるのか。

2026年7月24日金曜日

中野京子『名画で読む「音楽の秘密」』祥伝社 令和7年

この本は、絵の中に音楽または音が鳴っていると思われるものや、楽器が見える絵画を集めている。多くの絵画があるが、有名なものはあまり多くない。ミレーの『晩鐘』とか、ホルバインの『大使たち』、マネの『テュイルリー公園の音楽会』、そしてフェルメールの『絵画芸術』などは誰でも既知であろう。それ以外では、こんな絵があったのかと思う作品が大部分である。

「はじめに」のところに、特定の絵画から霊感を得て作られた音楽はそれなりにあるのに、特定の音楽から描かれた絵画はほとんどないと書いてある。有名な音楽を絵画化しようとする意欲を画家が持っていないせいだろうとある。特定の音楽でなく、音楽が関係している絵画なら幾つもあるので、それを集め、解説している本である。

2026年7月19日日曜日

機動捜査班 罠のある街 昭和36年

小杉勇監督、日活、67分、白黒映画。あるキャバレーでは客に女を紹介する闇商売をしている。それだけでなく、内田良平扮する悪党は、その客を脅して金をせしめる悪事もやらないかとキャバレーのボスに持ち掛ける。このキャバレーの新しい接待役である香月美奈子は、何やら探っているようである。コップの指紋を取ったりしている。後に香月は店の幹部から詰問される。

女を買った客を恐喝する男は警察から目をつけられた。すると内田は男を車ごと海に沈めて殺す。警察はキャバレーを襲って責任者らを逮捕する。その頃、キャバレーのボスは内田と香月に迫られていた。香月は以前、麻薬の事件の際、キャバレーのボスによって殺された女の妹だった。更に内田と香月は夫婦だと分かった。脅迫され大金を渡したボスは殺される。大金を持って逃げる内田と香月を警察は追っかける。逃走の末、内田は逮捕され、香月も空港で待っていると警察が来て連行される。

2026年7月15日水曜日

コナン・ドイル『ササッサ谷の怪』中公文庫 2024

 本書には14編の短篇小説が含まれている。ドイルの多くの作品のうち、これまで日本で未紹介だった作品から選んで集めた短篇集。これまで未紹介だったとは、それほど傑作とは思われていなかったからであろう。実際に読み出しても、あまり面白くない。それでAmazonの読者評に従い、この中で面白いと指摘のあった短篇のみ読んだ。

『エヴァンジェリン号の運命』は海洋冒険譚と恋愛物の組み合わせ。語り手は好きだった女が別の男と婚約することになり、怒る。その女が親族、婚約者とある島に行き、一人だけヨットに乗っていると流されてしまう。行方不明になり死んだものと思われたが、実は語り手がその女を匿って、相手も自分を好きなので一緒になるという話。『やりきれない話』はぐうたらで自分勝手な亭主を持っているので、苦労して仕事を見つけてきたのに、亭主にお金を盗まれ、仕事の約束を果たすため出費を強いられた妻の話。『業師ウィルキーの思い出話』詐欺師のウィルキーが、これまでどのような詐欺をどうしてやってきたかの回顧談。

『死の航海』は歴史SFものという特殊な話。第一次世界大戦でドイツ帝国は敗れ帝政は終わったが、その終わり方に関して、ドイルは別の話にしている。まず大戦末期の皇帝と政府高官のやりとりがある。ここを読むと第二次世界大戦末の御前会議を思い出してしまう。皇帝は歴史の実際と違って、名誉の戦死を遂げるため艦隊を繰り出し、英海軍の艦隊と戦うのである。つまりドイツは負けたが、その負け方を史実でない創作によって語っているのである。(小池滋監訳、北原尚彦編)

キッスで殺せ Kiss me deadly 1955

ロバート・アルドリッチ監督、米、104分、白黒映画。主人公の私立探偵が夜、車を走らせていると、コートをまとった裸の若い女に呼び止められる。ラジオの放送では精神病院から逃げたしてきたらしいが、主人公は女を匿う。主人公と女は男どもに乱暴を受け、車ごと崖下に落とされる。

主人公は病院で目が覚めたが、女は死んだ。女の残した言葉から謎を解いていこうとする。死んだ女の同室だった女を訪ねるが、引越ししており、見つけてから助けを求められ、自分の部屋に匿う。捜査を続けているうちに友人は殺され、助手の女も攫われた。謎を解いていくと、死んだ女が隠していたのは保管庫であり、そこに行くと、放射性のとんでもない物質だったと分かる。これを悪党は盗み出した。主人公は助手を助けるため、海辺の別荘に行く。あの死んだ女の同室の女は実は悪党の一味であり、分け前の奪い合いから盗み出した物質を、一人占めしようとした。主人公は助手を助け出し、別荘の外に逃げる。物質の入った箱を開けると放射能で瞬く間に火に包まれ、別荘は爆破する。

2026年7月13日月曜日

帽子から飛び出した死 Miracle for sale 1939

トッド・ブラウニング監督、米、71分、白黒映画。ニューヨークで奇術師である主人公のところに若い女が助けを求めて来る。その女を助ける。有名な奇術師のところに行く予定だった。そのホテルに行くと、当の奇術師は死体で発見された。密室である。どうして殺したのか。この場所に集まるはずになっていた他の奇術師連中に容疑がかかる。そのうち一人はラジオ出演があるからと言って、現場を去るが、それは逃亡であった。逃亡した奇術師が怪しい。

しかしその自宅に行くと、奇術師が死体となっていた。この死体の死亡時刻は先の殺人事件より早いらしい。だったら殺せるはずもない。更にその家では死体がなくなるとか、座っていた者が消えてしまうなどの現象が起こる。これは地下室があってそこに落ちていたからだった。最終的には変装して別人になりすまし、事件を起こしたのだと分かる。

稲垣栄洋『植物に死はあるのか』SB新書 2023

植物学者の著者による植物論。形式は大学の教師である書き手のところへ、毎日、植物に関する基本的な質問が電子メールで来るので、それに答えていく形である。副題に「生命の不思議をめぐる一週間」とある。曜日毎の内容は次の様である。

月曜日:どうして植物は動かないのか? 火曜日:植物と動物はどこが違うのか? 水曜日:草って何? 木曜日:木は何本あるのか? 金曜日:木は生きているか? 土曜日:植物は死ぬのか? 日曜日:植物は何からできているのか?

2026年7月12日日曜日

亀山郁夫『謎とき悪霊』新潮選書 2012

ドストエフスキーの翻訳で名をはせた著者による『悪霊』論である。全体で446ページもある大著である。しかしながら読んでよく分からないところや、驚いたところなどがある。まずよく分からないところを書く。

たくさんの話題を取り上げ、雑学的知識は増えるが、当方が関心のある事項は書かれていない。たとえば主人公となっているスタヴローギン、美貌と怪力の持ち主とは分かるが、人となりはよく分からなかった。それで神秘的になり、魅力的に見える効果があるのだろう。このスタヴローギンについて、同じ著者による『悪霊、神になりたかった男』という本を以前読んだ。内容は忘れてしまったが、この書名である。神になりたかった男とはキリーロフかと思っていたら、スタヴローギンを指すのである。『悪霊』の中にスタヴローギンが神になりたい、なんて記述があったか。(脱線だが、この本を読んだ時に一番印象に残ったのは、この著者は読者をアッと言わせたい思いが強い、という点であり、そのせいか他は忘れてしまった)

本書でスタヴローギンがどう解明されているか興味を持ったのだが、当方の読み方が不十分であろう、よく分からないままである。本書の183ページでマリヤ・レビャートキナのスタヴローギン理解にふれて、「マリヤは、わたしたち一般読者が理解しているようなスタヴローギン像を思い描いたことは、おそらく一度としてない」とある。ここで著者は、著者と読者の間に共通の理解があるように書いているが、自分など理解できていないので読んでいるのであって、著者との間に何らかの共通理解があるわけない。本書に「スタヴローギンとはだれか」という節がある。(75ページ以下)そこにはスタヴローギンのモデルとして、バクーニン、スペシネフ、フョードル・トルストイの3人の名が挙げられている。バクーニンの名くらいは知っているだろう。スペシネフもドストエフスキーに関心があれば知っているかもしれない。フョードル・トルストイなんて誰も知らない。バクーニンもアナーキストと知っているだけで、全く未知のF・トルストイを含めてこの人がモデルなんて言われても、スタヴローギンの理解につながらない。文学の世界ではモデルとなった人物を特定できれば、分かったことになるのか。

またインターネットの記事にもよくあるが、ゲーテやルソーを下敷きにしているという指摘がある。元となったゲーテやルソーの著作等について創作ノートに詳しく書いてあるのか。似ているだけというなら、西洋の文学など新旧の聖書やギリシャ神話に、元ネタを捜そうと思えばみんなできるだろう。ドストエフスキーがゲーテやルソーを元にして書いたという証拠があるのか。

この著者のドストエフスキー理解、接近の仕方の、そもそもについて述べる。本書を読んでいると驚くべき記述に出くわす。創作ノートの記述に触れ、「ドストエフスキーの脳裏に描かれていた『悪霊』とわたしたちが現に手にしている『悪霊』とはことによるとまったく別世界なのかもしれない、いった疑問さえ浮かんでくる」(本書p.54)我々が読んでいる『悪霊』はまがい物かもしれないのだ!

この著者のドストエフスキー理解の根本思想が『ドストエフスキー共苦する力』(2009)のあとがきにあった。そこには次の様にある。「わたしの考えでは、ドストエフスキーこそは、まさに「二枚舌」の天才だった。(改行)わたしのドストエフスキー理解は一貫している。それは、書かれたテクストを絶対化しない、テクストには二重構造があるという信念である。信仰の裏に不信があり、不信の闇に神は存在する。作家というのは、そうした二重性の表現においてこそ、どこまでも真剣であり、誠実なのだ。」(同書p.261)このあとがきを読んで、これこそ謎とき亀山郁夫だと思った。つまり本文などに拘泥していてはドストエフスキーの理解はできない。その底にある「真意」を読み取る作業が必要なのである。先の本の『白痴』の項で「想像はさらに膨らみます。」とあった。このように本文を読むに留まらず、その外にあるものを掴まなければならない。そんなことどうして出来るのか。普通の人では無理だろう。この著者はドストエフスキーの翻訳だけでなく、ドストエフスキーに関する本を多く出している。だからそれらを読んで真のドストエフスキー理解に達する必要がある、ということなのか。本文を絶対としない、という発想はこの著者が創作ノートを重要視している態度につながる。著者にとって創作ノートは廃棄された過去の案ではない。本文と同等に、いやそれ以上にドストエフスキーの解明にとって重要な文書なのである。それほど創作ノートが重要なら、『悪霊』本文だけでなく、創作ノートも訳してもらいたかった。『悪霊』の創作ノートの全文は、筑摩書房から出ているドストエフスキー全集の第18巻に『罪と罰』のそれと一緒に訳されている。影印本が出ているが高価であり、文庫で欲しかった。

さて本書で最も驚いたのは、ドストエフスキーの伴侶、アンナ夫人の正体を暴いていることである。いわゆる「スタヴローギンの告白」には3種の稿がある。ドストエフスキーが初校刷に手を入れた版、そこからドストエフスキーの手入れを除いた初校版そのもの、アンナ夫人の筆写版。ここで稿の違いとか、その意図を議論しようとするのではない。このうちアンナ夫人の筆写版について、アンナ夫人が主体的にドストエフスキーの原稿を改竄していると言わんばかりに書いているように見える。いや著者は夫人が手を入れたとされる一部について「夫の意図を蔑ろにしたアンナ夫人の作為と見ることはできない」(本書p.228)とあるものの、全体からは意図的な夫人の介入があったと読めるのである。先の文と同じページに、夫人の考えからして不都合な部分は切り取る必要があったと書いている。もちろん夫人の真意を当方も知らないから、著者の解釈が誤りなどと言えるわけではない。ただ夫を尊敬していたアンナ夫人が、夫の原稿に勝手に手を加えたとは思えなかったからである。

また本書には、ドストエフスキーとアンナ夫人の間はそれほど良かったものでないと言える記述がある。「・・・「家庭内検閲者」であるアンナ夫人と作家との間におそらくは小さな対立を生んだにちがいない・・・」(p.230) ここでアンナ夫人を家庭内検閲者と呼んでいる。のちの「伝記3 検閲」では検閲との戦いとして、ドストエフスキーが囲まれていた壁に、第一にロシア報知の編集部、第二に当局の検閲委員会、第三に秘密警察の皇帝官房第三課、そして第四の壁として妻アンナを挙げているのである。(p.284)アンナ夫人はドストエフスキーにとって、検閲委員会や秘密警察と同等の戦うべき敵だったのである。

またドストエフスキー夫妻がロシアに帰国する前に、『悪霊』の原稿をロシア報知の編集部に送りつけた事情についても、編集部とだけでなく、「アンナ夫人との間に何かしら複雑なやりとりがあったのではないか、と想像されるのである」(p.285)とある。以上の記述から、アンナは賢夫人であり、その内助の功によってドストエフスキーの創作に大いに貢献した、というこれまでのイメージから、実は獅子身中の虫だった!と暴露された気分になった。ともかく本書を読んでの最大の衝撃であった。


黒魔術 Black majic 1949

グレゴリー・ラトフ監督、米、105分、白黒映画、オーソン・ウェルズ主演。カリオストロ伯(実名ジョゼフ・バルサモ)をオーソン・ウェルズが演じる。ジプシーの息子だったカリオストロは両親を幼い時、貴族に殺される。長じて病気を治すなどの術で名をはせる。名前をカリオストロと変える。

マリー・アントワネットにそっくりの女を見つけ、その女を使い、フランス宮廷に乗り込む。これには、あのカリオストロの両親を殺した貴族も(カリオストロの出自を知らずに)関わっていた。陰謀が発覚し、貴族もカリオストロも捕えられる。カリオストロは貴族に自分の事実を告げ、貴族に自殺するよう、術で仕向ける。法廷では初めはカリオストロは、民衆を虜にする弁論で魅了するが、後に自分の師でもある男に、自分の正体を暴かれる。最後は塔の上で、妻とした女の恋人と闘い、敗れて落下死する。

2026年7月9日木曜日

紀田順一郎『蔵書一代』 2017

怪奇幻想文学の専門家である著者が自分自身の蔵書について語るほか、蔵書のあり方の一般論、過去の有名人の蔵書がどう処分されたかについて述べている。一般の読書家でもそうでない人から見たら随分本を持っているのが普通であろう。著者のような文筆業であれば、蔵書は恐ろしく増えていくだろう。昔「百万円の蔵書には百万円の費用がかかる」とどこかで読んだ記憶がある。

本というものは場所を取る、しかも非常に重い。これは蔵書の物理的特性だが、質的に他の蒐集と違うところは何か。切手(昔はやった)とか人形とか時計などの蒐集、あるいは骨董品集めとの違いは、本というのはその物自体より、その中の情報が、すなわち人類の叡智や文化やもっと卑近なものでも良いが、その集積である中身が重要であり、書籍自体は情報の媒体に過ぎない。しかし本としての物自体を愛で、集める人がいる。これは個人の勝手だから他人がとやかく言う話でない。ここで著者は集めた何万冊の本を数百冊残して処分したとある。がっかり極まりないのは分かるが、そう決めたのだからしょうがない。