ドストエフスキーの翻訳で名をはせた著者による『悪霊』論である。全体で446ページもある大著である。しかしながら読んでよく分からないところや、驚いたところなどがある。まずよく分からないところを書く。
たくさんの話題を取り上げ、雑学的知識は増えるが、当方が関心のある事項は書かれていない。たとえば主人公となっているスタヴローギン、美貌と怪力の持ち主とは分かるが、人となりはよく分からなかった。それで神秘的になり、魅力的に見える効果があるのだろう。このスタヴローギンについて、同じ著者による『悪霊、神になりたかった男』という本を以前読んだ。内容は忘れてしまったが、この書名である。神になりたかった男とはキリーロフかと思っていたら、スタヴローギンを指すのである。『悪霊』の中にスタヴローギンが神になりたい、なんて記述があったか。(脱線だが、この本を読んだ時に一番印象に残ったのは、この著者は読者をアッと言わせたい思いが強い、という点であり、そのせいか他は忘れてしまった)
本書でスタヴローギンがどう解明されているか興味を持ったのだが、当方の読み方が不十分であろう、よく分からないままである。本書の183ページでマリヤ・レビャートキナのスタヴローギン理解にふれて、「マリヤは、わたしたち一般読者が理解しているようなスタヴローギン像を思い描いたことは、おそらく一度としてない」とある。ここで著者は、著者と読者の間に共通の理解があるように書いているが、自分など理解できていないので読んでいるのであって、著者との間に何らかの共通理解があるわけない。本書に「スタヴローギンとはだれか」という節がある。(75ページ以下)そこにはスタヴローギンのモデルとして、バクーニン、スペシネフ、フョードル・トルストイの3人の名が挙げられている。バクーニンの名くらいは知っているだろう。スペシネフもドストエフスキーに関心があれば知っているかもしれない。フョードル・トルストイなんて誰も知らない。バクーニンもアナーキストと知っているだけで、全く未知のF・トルストイを含めてこの人がモデルなんて言われても、スタヴローギンの理解につながらない。文学の世界ではモデルとなった人物を特定できれば、分かったことになるのか。
またインターネットの記事にもよくあるが、ゲーテやルソーを下敷きにしているという指摘がある。元となったゲーテやルソーの著作等について創作ノートに詳しく書いてあるのか。似ているだけというなら、西洋の文学など新旧の聖書やギリシャ神話に、元ネタを捜そうと思えばみんなできるだろう。ドストエフスキーがゲーテやルソーを元にして書いたという証拠があるのか。
この著者のドストエフスキー理解、接近の仕方の、そもそもについて述べる。本書を読んでいると驚くべき記述に出くわす。創作ノートの記述に触れ、「ドストエフスキーの脳裏に描かれていた『悪霊』とわたしたちが現に手にしている『悪霊』とはことによるとまったく別世界なのかもしれない、いった疑問さえ浮かんでくる」(本書p.54)我々が読んでいる『悪霊』はまがい物かもしれないのだ!
この著者のドストエフスキー理解の根本思想が『ドストエフスキー共苦する力』(2009)のあとがきにあった。そこには次の様にある。「わたしの考えでは、ドストエフスキーこそは、まさに「二枚舌」の天才だった。(改行)わたしのドストエフスキー理解は一貫している。それは、書かれたテクストを絶対化しない、テクストには二重構造があるという信念である。信仰の裏に不信があり、不信の闇に神は存在する。作家というのは、そうした二重性の表現においてこそ、どこまでも真剣であり、誠実なのだ。」(同書p.261)このあとがきを読んで、これこそ謎とき亀山郁夫だと思った。つまり本文などに拘泥していてはドストエフスキーの理解はできない。その底にある「真意」を読み取る作業が必要なのである。先の本の『白痴』の項で「想像はさらに膨らみます。」とあった。このように本文を読むに留まらず、その外にあるものを掴まなければならない。そんなことどうして出来るのか。普通の人では無理だろう。この著者はドストエフスキーの翻訳だけでなく、ドストエフスキーに関する本を多く出している。だからそれらを読んで真のドストエフスキー理解に達する必要がある、ということなのか。本文を絶対としない、という発想はこの著者が創作ノートを重要視している態度につながる。著者にとって創作ノートは廃棄された過去の案ではない。本文と同等に、いやそれ以上にドストエフスキーの解明にとって重要な文書なのである。それほど創作ノートが重要なら、『悪霊』本文だけでなく、創作ノートも訳してもらいたかった。『悪霊』の創作ノートの全文は、筑摩書房から出ているドストエフスキー全集の第18巻に『罪と罰』のそれと一緒に訳されている。影印本が出ているが高価であり、文庫で欲しかった。
さて本書で最も驚いたのは、ドストエフスキーの伴侶、アンナ夫人の正体を暴いていることである。いわゆる「スタヴローギンの告白」には3種の稿がある。ドストエフスキーが初校刷に手を入れた版、そこからドストエフスキーの手入れを除いた初校版そのもの、アンナ夫人の筆写版。ここで稿の違いとか、その意図を議論しようとするのではない。このうちアンナ夫人の筆写版について、アンナ夫人が主体的にドストエフスキーの原稿を改竄していると言わんばかりに書いているように見える。いや著者は夫人が手を入れたとされる一部について「夫の意図を蔑ろにしたアンナ夫人の作為と見ることはできない」(本書p.228)とあるものの、全体からは意図的な夫人の介入があったと読めるのである。先の文と同じページに、夫人の考えからして不都合な部分は切り取る必要があったと書いている。もちろん夫人の真意を当方も知らないから、著者の解釈が誤りなどと言えるわけではない。ただ夫を尊敬していたアンナ夫人が、夫の原稿に勝手に手を加えたとは思えなかったからである。
また本書には、ドストエフスキーとアンナ夫人の間はそれほど良かったものでないと言える記述がある。「・・・「家庭内検閲者」であるアンナ夫人と作家との間におそらくは小さな対立を生んだにちがいない・・・」(p.230) ここでアンナ夫人を家庭内検閲者と呼んでいる。のちの「伝記3 検閲」では検閲との戦いとして、ドストエフスキーが囲まれていた壁に、第一にロシア報知の編集部、第二に当局の検閲委員会、第三に秘密警察の皇帝官房第三課、そして第四の壁として妻アンナを挙げているのである。(p.284)アンナ夫人はドストエフスキーにとって、検閲委員会や秘密警察と同等の戦うべき敵だったのである。
またドストエフスキー夫妻がロシアに帰国する前に、『悪霊』の原稿をロシア報知の編集部に送りつけた事情についても、編集部とだけでなく、「アンナ夫人との間に何かしら複雑なやりとりがあったのではないか、と想像されるのである」(p.285)とある。以上の記述から、アンナは賢夫人であり、その内助の功によってドストエフスキーの創作に大いに貢献した、というこれまでのイメージから、実は獅子身中の虫だった!と暴露された気分になった。ともかく本書を読んでの最大の衝撃であった。
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