光文社古典新訳文庫のドストエフスキー翻訳で有名になったロシヤ文学者の亀山郁夫が『悪霊』を論じる。著者によれば『悪霊』は若い時から思い入れの深い書らしい。そうならかなり深い分析が期待できるだろう。
さて本書の特徴は何と言っても創作ノートの多用というか、本文の裏にある考えを創作ノートによって解明していくという姿勢である。この態度は正当化されるだろうか。創作ノートの中には本文の補注と言えるものがある。しかしながら大部分は過去の制作過程の資料であり、研究者にとって有用な資料であることは確かであっても、本文と同等に扱うことは出来ない。創作ノートにあるからでなく、完成された本文の理解に使える、と判断されたものに限定すべきである。もっとも著者はここで引用した創作ノートはすべてそうだと考えているのだろうか。創作ノートが小説の理解に欠かせないものなら、『悪霊』その他を翻訳する際、創作ノートも翻訳すべきだった。
ドストエフスキー論の例に従い、本文をただ普通に読者が読んでいるだけでは思いもつかない解釈、実はこれにはこういう意味があると書いてある。正直、読んでいて説得性がなく、まるで憶測に憶測を重ねているだけのように見える例が少なくない。こんな論を展開しているのが専門家なら、巻末に掲載されている原語文献など読む必要はないと思わせる。実際、こんな文献一覧より索引が欲しかった。ある学者は索引のない本は本でないとまで言った。小説などを除き、索引のない本はただ漫然と読み捨ているだけの本だと言っているようなものである。
本書で笑ってしまったのは次の文である。小説の文字通り最後の文、遺体を調べた医師たちの言を、次の様に言っているのである。
「医学にとりたてて知識のない人でも、遺体の解剖をとおして精神錯乱の有無を診断できるとは思わないはずである。ドストエフスキーの筆が滑ったか、クロニクル記者のG氏が医学の知識をまったく欠いていると作家は言いたかったのか。」(本書p.391)
これはただスタヴローギンが精神がおかしくなって自殺したのでない、正常な神経で死んだのであると言いたいだけの文に過ぎない。それをこのように読む人がいるとは驚きであった。
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