2019年6月4日火曜日

岡田暁生『音楽の聴き方』中公新書、2009

著者は「音楽の「語り方=聴き方」には確かに方法論は存在するのだ」(はじめにp.III)という。それならその方法論とは何か。興味を持って読み始める。しかしちっとも面白くない、興味をもって読み進められない。権威ある引用と個人的な体験や感動が色々述べられている。

1章の最後に村上春樹の文章が引用されている。読めばほとんどの人がそのとおり、同意見と思うであろう。著者は「音楽を聴くことの究極の意味について、これにつけ加えることは何もあるまい」(p.33)と言うのである。呆れる。それまで述べてきたことは何だったのか。付加価値ゼロである。

最後の「おわりに」を読む。小説のようにそれを読む自体が楽しみでなく、何か知りたい、目的を持って読む、手段としての読書ならはじめにの後、おわりにを読むといい。俯瞰が得られる、残りを読む際にも分かりやすくなる。
本書の「おわりに」を見ると、箇条書きで要約が書いてある。ここを読めばよい。大体同意できるというか、当然の事柄が書いてある。同意できないところもある。どちらにしろ新味は全くない。
本書を読もうとする人はまず最初に「おわりに」にある要約を見ればよい。これで自分にとって読む意味があるかどうか分かる。

「あとがき」を見てもボルネオへ行ったとか、ジャズばかり聴いていたとか著者自身の経験をまた延々と書いているが、読者が知りたいのは音楽の聴き方であって著者自身には興味はない。大学の先生は知見経験のない学生を相手にしているからそれで済むことでも、当該事項に関心のある読者には本当に「内容のある」(難しい書き方で煙にまくのでなく)ことを書かないと相手にしてもらえない。正直本書は著者の権威を保たそうとするなら書くべきでなかった。

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