2024年11月30日土曜日

マンディ 地獄のロード・ウォリアー Mandy 2018

パノス・コスマトス監督、ベルギー、121分。ニコラス・ケイジ主演。ケイジの妻の名がマンディ。

夫婦で田舎に住んでいた。ある時、マンディがカルト集団に見染められ、残酷な方法で捕まる。縛られたケイジの前で、マンディは生きたまま火をつけられ焼死する。ケイジは復讐を誓う。カルト集団の連中と一騎打ちで次々と対決、やっつけていく。ケイジもかなり傷づく。スプラッター風に残酷な殺し合い場面が続く映画。

クレアラ・リーヴ『イギリスの老男爵』 The old english baron 1778

ゴシック小説の 歴史の中でウォルポールとアン・ラドクリフの中間に位置する小説。

騎士フィリップはかつての友人をその城に訪ねる。するとその友人は既に亡くなっており、館は他人の手に移っていた。その今の館の主人にもてなされるが、友人を亡くした傷心で滞在する気は起きず、立ち去る。ただこの間、フィリップを世話してくれた青年エドマンド、近くの農家の者なのだが、にいたく惹かれる。非常に好青年と映った。館の主人もこのエドマンドを高く買い、息子と同様に遇している。息子は二人いて弟のウィリアムはエドマンドと親友である。兄のロバートはエドマンドを快く思っていない。更に従兄はもっとエドマンドに悪意を持っていた。エドマンドは自分の存在が屋敷に良くない影響を与えると思い、去る決心をする。

この館の古い部分は使われておらず、そこに幽霊が出るという噂があった。エドマンドは主人に言われ、そこで数夜過ごし、確かめることとする。すると実際に奇妙な体験をし、中に閉じ込められていた死骸を発見するが、隠す。後にロバートや従兄がそこで過ごすと恐怖のあまり逃げ出す。結局のところ、エドマンドはこの館の正統な領主の息子であると分かり、その義弟に殺された兄が農民に預けて育てさせていたのだった。悪徳な義弟は決闘で敗北し、エドマンドが正式な城主としておさまる。エドマンドはロバート、ウィリアムの相思の妹と結婚する。(井出弘之訳、国書刊行会、1982年)

2024年11月29日金曜日

バイヤール『読んでいない本について堂々と語る』ちくま学芸文庫 2016

邦訳名のような、読んでいない本について堂々と語るだけなら、今なら簡単な方法、インターネットがある。調べればどういう本かはすぐわかる。感想もAmazonのレビューを参考にすればよい。それでも書名を見て興味を持つ人は多いと思われる。それは本だから何か有用なことが書いてあるかもしれないと思うからだろう。著者はなぜこのような本を書いたか。著者は文学の先生で大学で教えている。本を読むのが好きでないとある。授業の際、色々な本を話題にする。その本を読んでいない場合が多い。そういう読まずにコメントするという経験から、論じてみたとある。著者のような立場の人は少ないだろう。本を読むべき、は常識化している。ただそう思っても読む気になれない、時間がない。それで読まないまま来ている。そういう人は本書に対して次のような期待が働くのではないか。1)本をきちんと読まずに内容をつかむ手法等が書いてあるのかもしれない。2)そもそも本など読まなくてもいいという主張が書いてあるかもしれない。

正直なところこの期待は大して応えられていない。読まないで済ます方法が全く書いていないわけではない。例えば「共有図書館」と著者がいうのは(p.35あたり)、自分で思いついた例では『古今和歌集』について論じるのに『古今集』そのものの精読が必要になるわけでない。『古今集』の前の『万葉集』との関係、後の『新古今和歌集』に与えた影響、それで足りなければ他の八代集との関係を言えればいいのである。本というのはそれだけで孤立しているのでなく、関連する一連の図書との関係が重要だからだ。また「ヴァーチャル図書館」なる言葉が出てくる。(p.194あたり)ある本について話し合う場合、どちらか一方、あるいは双方とも当該図書をろくに知らなくても、議論はできると言いたいらしい。つまり著者の関心は、読んでなくてもコメントできる、批評できるという点である。

本書で著者が一番主張したかったのは、本を読まなくても差し支えない、という消極的、妥協的な意見でなく、本など読まない方が望ましい、と理解した。最初の方にヴァレリーがプルーストを読まずに批評して、読んでいないからこそ良い批評になった、と書いてある。これはヴァレリーのような天才だから可能なのであって、普通の者がそれを真似していい批評が書けるか、と思ってしまう。本書名を見て『吾輩は猫である』の初回で美学者迷亭がする与太話を思い出した人は多いのではないか。読むと驚くべきことにまさに迷亭の話が引用されているのである。迷亭はハリソンの歴史小説『セオファーノ』を引用し、この小説を読んでおらずに女主人公が死ぬ場面云々とでたらめを言う。苦沙味が相手が読んでいたらどうするのだと問うと、その場合は他の本と間違えたと言えばいいと答える。ここのところで、著者は迷亭が答えたように間違いを認めるよりも、いろんな理屈をこねくりまわして、でたらめ発言を擁護している。自分には要約できない。新しい話を創造したので価値があるといいたいのか(そうでもないようだが)。本当にこの著書は何が書いてあるか、非常に分かりにくい書き方をしている。この「本など読まない方がより望ましい」という意見をもっと明瞭に分かりやすく主張すればかなり価値のある本になったと思う。この本はいかにも本を読ませずに済ませる方法を書いてあるように見せかけ、それを望んでいる読者をつかんでベストセラーを狙い、主張はかなり分かりにくい。難解な本を高級だと思う人が結構いるので、それを考えてこんな分かりにくい本にしているのかとも思ってしまう。とにかく著者のようなコメントしたり、批評をしたりするという立場ならきちんと本を読まなくていいとは、確かにそうだと思う。


2024年11月26日火曜日

不良少女モニカ Sommaren med Monika 1953

イングマール・ベルイマン監督、瑞典、94分、白黒映画。青年と少女の恋物語。

青年(少年に近い)は勤め先でいじめを受け仕事に嫌気がさしている。少女モニカは家が騒がしく、以前から不良との付き合いがある。二人は好き合う。青年は仕事を馘になり、モニカも家を飛び出す。二人でモーターボートに乗って自由な生活を満喫する。しかしそのうちモニカが妊娠する。必要な食べ物がなく、モニカは別荘に忍び込むが家人に捕まる。食べ物を取って逃げ出す。青年とまた一緒になりボートで逃げる。生まれてくる子供のために、もう家に帰るしかない。

元に戻って二人は結婚する。赤ん坊が生まれる。青年は仕事に精を出すが、モニカは全く自由のない、何も贅沢が出来ない生活にうんざりする。元の彼氏と不倫しているのを青年に発見される。二人は口論し、離婚する。赤ん坊は青年が育てる。

2024年11月23日土曜日

第27囚人戦車隊 Wheels of Terror 1986

ゴードン・へスラー監督、米英丁、105分。デンマーク製のアメリカ人監督によるナチス・ドイツの戦車隊を描いた映画。囚人らは戦役に就くことで刑務所からは出される。戦車に乗る。囚人らのかなり毒々しい会話や行動がある。上官は嫌味の権化のような人物である。成果を挙げれば、罪は帳消しになると約束する。

ロシヤの列車爆破の任務に出る。敵方戦車との戦いがある。敵の武器庫で銃器を手に入れ、ロシヤ兵の軍服で近づく。最後は列車を破壊する。元の軍に帰還したが、上官らは少しも喜んでいない。その時、基地に敵の空襲がある。上官らを兵士らは銃撃する。

ビートルジュース Beetlejuic 1988

ティム・バートン監督、米、92分、マイケル・キートン、アレック・ボールドウィン他。田舎に別荘を作って優雅な生活を送るはずだった、ボールドウィンと妻は交通事故で死んでしまう。幽霊になる。元の家は観光用に改造されている。脅そうとしても幽霊は生きている人間には見えず効果がない。

新しく家を占領している夫婦の子供、ウィノナ・ライダーは孤独な人格でライダーには幽霊が見える。生きている連中を脅かそうとビートルジュースなる幽霊を使ったが、問題ばかり起こしている問題児だった。最後には幽霊夫婦と生きている連中とはうまくやっていくようになる。

牛泥棒 The ox-bow incident 1943

ウィリアム・A・ウルマン監督、米、75分、ヘンリー・フォンダ主演。1886年のネヴァダの町にフォンダと友人がやって来る。当てにしていた女には会えなかった。そこにここの男が殺され、牛が盗まれたという情報が入る。

殺された男の友人はすぐ復讐に行こうとする。しかし捜索隊を立てて保安官の指導の下に行かなければいけないと言う者がいる。今保安官は不在である。副保安官が率いて捜索に出た。夜、寝ていた数人の男たちを見つけ起こし、縛り上げる。男らは身に覚えのないと言い張る。しかし来た連中は納得しない。裁判にかけろと要求するが聞き入れられそうにない。最後は多数決で裁判をするかどうか決める。フォンダらは裁判に賛成の立場だったが、少数派となった。そこの場所で私刑をすることになった。犯人と目された男は家族に手紙を書く。

処刑が終わって帰る途中、保安官が来る。そこで処刑した連中が無罪だったと知る。町に帰り、酒場でフォンダは男の書いた家族あての手紙を読み上げる。フォンダらは家族の元に手紙を届けるべく酒場から出た。戦争中の映画なので戦争への募金を呼び掛ける文が最後に出る。

2024年11月22日金曜日

アイ、トーニャ  史上最大のスキャンダル I, Tonya 2017

クレイグ・ギブスピー監督、米、120分、マーゴット・ロビー主演。実際の事件を映画化している。主人公のトーニャ・ハーディングはフィギュアスケートの選手で、全米一位にもなったことがある。オリンピックを目指して猛練習をしていた。しかしこれまでの経験から審判員はトーニャに好意的でないと感じている。スピードや高さは抜群であるが、芸術性が足りないと評価されていた。

事件はトーニャのライバルの選手が脚を打たれて負傷したというものである。これにトーニャの関与があるとされた。トーニャはオリンピックに出場できたものの、順位は振るわず、オリンピック後に裁判でフィギュアスケートから追放された。その後レスリングなどをした。

映画はトーニャの母がステージ・ママで幼い日からトーニャにフィギュアスケートを仕込む。長じて結婚した相手が、その自分の夫の友人がライバルの選手を襲った。そのために事件に関わり合いがあるとされた。トーニャが技を磨き三回転を成功功させるなとの見どころがある。

野矢茂樹『言語哲学がはじまる』岩波新書 2023

20世紀の哲学は言語論的展開と言われ、言語哲学が大いに流行った。この言語哲学に貢献した三人の哲学者、フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタインの論について解説をしている。

順番に夫々の哲学者がどう理論を展開したか、それを説明する。著者はウィトゲンシュタインの専門家であり、ウィトゲンシュタインは前二者の議論を踏まえているので、ウィトゲンシュタインの言語理解が最も優れていると本書では読める。それにしても言語という誰もが普通に使っているものを、こうまで厳密に議論しようという取り組みには感心する。読書の途中でいったん間を空けてしまったので、以前読んだところが良く覚えておらず、全体の理解に支障が出た。続けて全体を通読しなければいけない類の本である。

岡本太郎、宗左近『ピカソ「ピカソ講義」』ちくま学芸文庫 2009

元は朝日出版社のLecture booksの一冊として昭和55年に出された。岡本太郎にピカソについて評論家の宗左近が聞き、対談する。

岡本は戦前成人になるかならないかの時期、フランス、パリに行きピカソを含む当時の芸術家や知識人と交わった。岡本が自分の経験を長々と話し、ピカソについても語る、といった感じである。あとがきで岡本は外からピカソを論じても意味がないという。いかに自分の中に感動を呼び起こしたか、が重要である。絵画など美術は視覚芸術であるから、理屈で議論する、したくなるのが普通だろう。岡本はあくまで感動する、それが美術に対する態度であるとみなしている。

相手の宗左近は美術評論もしているので、自分のピカソ論なるものをする。必ずしも議論をするというより、自分のピカソを両者が語っているという感じの対談である。

2024年11月20日水曜日

散り行く花 Broken Blossoms or The Yellow Man and the Girl 1919

D.W.グリフィス監督、米、74分、無声、リリアン・ギッシュ主演。ギッシュの父親は拳闘選手でいつもギッシュに暴力を振るっている。中国から青年が来る。仏教の教えを広める目的だった。

ある日、ギッシュが粗相すると、いつにもまして父親はギッシュを打擲した。ギッシュは家を出て、たまたま中国青年の店に入ったところで倒れる。中国青年はギッシュを介抱する。以前からギッシュを見かけていて、その美しさに惹かれていた。ギッシュは気づき、青年が世話してくれると知り、こんなに優しくされた経験はないと言う。中国人の2階にギッシュが療養しているとある男が知る。男はギッシュの父親にそれを告げる。父親は拳闘の試合が終わってから、うちに戻りギッシュがいない、教えてもらった中国人宅に行くとギッシュは寝ている。父親は狼藉の限りをつくし部屋を壊し、ギッシュを連れていく。

青年が帰ると部屋は破壊されギッシュはいない。ギッシュの家を知っているので行くとギッシュは虫の息だった。隣の部屋にいた父親が来て、青年に襲い掛かろうとする。青年は拳銃を取り出して撃ち父親は倒れる。青年はギッシュを自分の家に連れ戻す。警官が後に来て父親殺しを捕まえようとする。青年はギッシュを寝台に乗せ、自分も死ぬ。

バオ・ニン『戦争の悲しみ』 1991

バオ・ニンはヴェトナムの小説家で本名はホアン・アウ・フォン、1952年生まれ。『戦争の悲しみ』は1991年に出されたヴェトナム戦争を描いた小説。

ヴェトナム戦争を描いたといっても戦争それ自体を対象とした小説ではない。もちろん戦闘の描写もあるが、戦争が主人公など人々に与えた人生の破壊、恋人との離別、過去の体験が今に及ぼしている苦悩などを時間を行き来する手法で書いている。主人公は小説家で過去の経験を小説にしている。これは作者バオ・ニンが小説の中に現れているかのような印象を与える。作者もヴェトナム戦争で戦った。ヴェトナム戦争が終了してからの時点で小説は始まる。主人公と幼馴染の恋人との恋愛が小説の通底にある。ヴェトナムは戦勝国でありながら人々にこのような悲劇をもたらした。

この小説の評価とは全く別の話だが、日本は前の戦争で敗戦し、日本国、日本人は犯罪者になった。だから例え才能がある人がいたとしても日本ではこのような戦争文学は書けないと思った。(井川一久訳、河出書房)

2024年11月19日火曜日

残雪『暗夜』 2006

残雪は中国の女流作家(1953年生まれ、本名は鄧小華)、本書は短編集で『阿梅、ある太陽の日の愁い』『わたしのあの世界でのことーー友へ』『帰り道』『痕』『不思議な木の家』『世外の桃源』『暗夜』の7編を含む。カフカ的不条理の世界である。

このうち比較的長い『痕』は、題名が主人公の名で、むしろ織をしている。そのむしろを買いにくる不思議な男がいる。痕の村での付き合い、評判が悪くなっていき・・・という話。集の名に選ばれている『暗夜』は語り手が希望していた地に、連れて行ってもらえるようになる。夜出発する。いくら経っても着かない。不思議な体験をする・・・といった話。(世界文学全集 Ⅰ-6、近藤直子訳、河出書房)

2024年11月18日月曜日

連鎖犯罪/逃げられない女 Freeway 1996

マシュー・ブライト監督、米、102分、リース・ウィザースプーン主演。ウィザースプーンは不良少女である。母親が娼婦をしていて義父も犯罪保釈中。警察が客引きしている母を逮捕、更に義父まで連れていかれる。ウィザースプーンは福祉局の担当官をだまし逃げる。その間、ウィザースプーンの恋人である黒人は別の不良に銃で撃ち殺される。

車がエンコし、通りがかった、キーファー・サザーランドに自分の車に乗るように誘われる。不良少年の補導をしていると言う。車の中で話しているうち、嫌なことを聞かれウィザースプーンが抵抗すると、サザーランドの態度は一変し、かみそりで押さえつけられる。サザーランドは娼婦連続殺人の犯人だった。隙を見てウィザースプーンは持ってきた拳銃をサザーランドに突き付け、首を銃で撃つ。後ろから何発も撃ち、殺したかと思ったのだがサザーランドは実はまだ生きていた。後にサザーランド殺人容疑で逮捕、施設に入れられる。そこで暴れ、仲間と一緒に逃げる。

サザーランドについて警察が捜査し、ウィザースプーンが言ったように連続殺人犯だったと突き止める。妻のブルック・シールズは驚きのあまり自殺する。ウィザースプーンは祖母の家に着く。サザーランドは先回りして祖母を殺していた。ウィザースプーンも殺すつもりだった。二人の格闘が続き、最後はサザーランドの首を絞める。刑事二人がやってきて、最終場面ではウィザースプーンと刑事二人がほほ笑む。

2024年11月16日土曜日

身代金 Ransom 1996

ロン・ハワード監督、米、122分、メル・ギブソン主演。航空会社の社長のギブソンの一人息子が攫われる。身代金の要求が来る。FBIの指示に従って金を渡すつもりだったが、引き渡しの現場で現れた男を、空中からヘリコプターでFBIが急に出てきて、撃ち殺してしまう。ギブソンは怒る。

再度犯人から電話があり、金を持って車で行く途中、気が変わる。テレビ局に緊急で出て、犯人に身代金を渡すつもりはない、この金は犯人を捕まえる懸賞金にすると言い出すのである。妻やFBIは金を渡してくれと頼むが聞き入れない。再度声明を出し、懸賞金は2倍にすると言い出す。犯人と電話でお前に金を渡す気はないと言う。電話口に誘拐した息子を呼び出し、犯人は銃をぶっ放す。てっきり息子を殺害したかと思い、夫婦は絶望に陥る。

犯人は逃げ出そうとする仲間たちを銃で殺す。それで誘拐した息子のそばで横たわり、警察が来ると犯人らを殺し息子を助け出したと言う。ギブソン夫妻は息子に再会でき喜ぶ。約束の懸賞金を犯人(刑事だった)が取りに来る。その時息子は犯人と気づき怯える。ギブソンも気づく。犯人は銃を取り出し金を出せと言い、二人で銀行に行く。銀行に行って手続きをしている間、警察やFBIが来る。犯人は逃げ出す。ギブソンは追い、格闘して抑えたかと思ったが相手は脚から銃を取り出し撃とうとするので、ギブソン、FBIとも犯人を撃ち殺す。

2024年11月14日木曜日

中野翠『ウテナさん祝電です』新潮文庫 平成2年


随筆家、中野翠の本で元は昭和59年に出ている。著者にとって2番目の本だそうだが、文庫化されたのは本書が初めてである。

この本は昔、買って読んだのだが、また当時の装丁は異なっていたのだが、久方ぶりに読んで幾つかの箇所は思い出した。著者はこの本を闇から闇へと葬りたい種類の本だと文庫版のまえがきで書いているが、極めて著者らしい文が載っており、著者の本を多く読んだつもりの自分としては代表作にしてもいいのではないかと思った。よく処女作には著作家の凡てが入っているというが、本書もそうではなかろうか。

島田裕巳『宗教消滅』SB選書 2016

現在、宗教がかつてに比べ、人々の生活や意識から非常に薄くなっている。存在感が低下しているのは誰でも気づいているであろう。この実態を日本だけでなく、世界各国の実際、更に既存の伝統ある宗教だけでなく、新興宗教についても調べている。日本で寺院との関わり合いが現在低下しているのは誰でも知っているであろう。これは仏教だけでなく、戦後著しく成長、巨大化した新興宗教についても同様である。数字を挙げて、PL教団、創価学会の他、新興宗教が今如何に信者を減らしているかを述べる。

更に西洋について言えば、観念的にキリスト教が盛んであるかのような印象を抱きがちだが、ヨーロッパのキリスト教の衰退ぶりは半端でない。教会が世俗施設に売りに出されたり、回教のモスクに変わっている例が少なからずある。ヨーロッパに比べキリスト教が強いアメリカでも信者数の低下は見られる。新興宗教が戦後、急速に数を伸ばしたのは高度成長で田舎から都会にやってきた者たちが心情的な絆を求め、宗教の側でも積極的に信者獲得を図ったからである。日本の新興宗教にあたる宗教は世界的に見ればキリスト教のプロテスタントの福音派だそうだ。これは資本主義化が進む各国で数を伸ばしている。しかし急速な経済成長が一段落すれば日本の新興宗教が増えず、減っているように、世界のプロテスタント福音派も数を伸ばせなくなるだろう。

ジェイムズ・ホッグ『悪の誘惑』 The Private Memoirs and Confessions of a Justified Sinner 1824

スコットランドの作家ジェイムズ・ホッグ(1770~1835)によるゴシック小説の一つに数えられる作品。原題は『義とされた罪人の手記と告白』でこの題で白水社から出ている。『悪の誘惑』とは昔出した時、出版社が直訳の題では不適当とし、こうなったとある。『悪の誘惑』ではあまり一般的で直訳の方が良いと思うが。

小説の舞台は17世紀末から18世紀初頭のスコットランド。領主の二人の息子は対照的な人間だった。兄は快活なスポーツマン、弟は宗教に凝り固まった傲慢な男となる。二人は別々に育てられ、長じてからの衝突が描かれる。第二部では同じ経緯を別の観点から見た記述がある。弟は不思議な男に出会い、感銘を受け心服する。外国人のようでありロシヤのピョートル大帝かと思い込む。弟はその男にそそのかされ、神からの使命に突き進んでいく。名誉革命後のスコットランドの宗教対立を承知していればより深く理解できる。(知らなくても読めるが)

20世紀初めまで忘れられていた小説であり、アンドレ・ジイドの序文はネタバレがある。現在では当時のスコットランドを代表する小説の一つとされているとのこと。(高橋和久訳、国書刊行会、2012年)

2024年11月12日火曜日

ギッシュ、ピンチョン『リリアン・ギッシュ自伝』 Moveis, Mr. Griffith, and me   1968

無声映画期のスターであるリリアン・ギッシュの自伝である。題名に映画、グリフィス氏とあるようにギッシュはグリフィスに見いだされ、映画史の残る古典に出演し、その名を残したのでグリフィスの伝記も結構な部分を占める。

ギッシュは1896年、オハイオに生まれた。父親は早く失踪し、ギッシュと妹のドロシーは母親によって育てられた。母親は娘二人のために生涯を捧げた。ギッシュは母親をこの上なく称賛している。父親がいなくてもこれほどいい母親に恵まれたのは幸せだったと思う。母親とギッシュ姉妹は生活のため舞台に出ていた。アメリカのあちこちに行く。母や妹と別れて別の芝居に出ることもある。当然ながら当たらない舞台もあり苦労があった。映画の黎明期、あまり映画は評価されていなかった。グリフィスも初めは作家になるつもりで、映画への関わりは最初から熱心だったわけでない。ギッシュ姉妹は友人のメアリー・ピックフォードが出ている映画を見て、会いに行く。随分お金になると聞き驚く。その時、グリフィスに会い、それから映画に出るようになった。舞台に出ていたので、あまり映画を評価する気はなかった。これは後年、テレビが出てきたとき、映画に比べテレビが低く見られていたのを思い出させる。この後のリリアンの活躍は知られているとおりである。

無声映画に関心がある者、映画の黎明期はどのような感じであったか知りたい者には資料になるし、ともかく本書は読んでいて面白いのである。本では一番重要な点だろう。俳優の自伝を幾つか読んでいるが、高峰秀子の自伝(わたしの渡世日記)以来の面白さを感じた。文庫本になっていないのが残念。(鈴木圭介訳、筑摩書房、1990年)

2024年11月11日月曜日

岸本佐知子ほか『「罪と罰」を読まない』文藝春秋 2015

これは女3人男1人(岸本佐知子、吉田篤弘、三浦しをん、吉田浩美)による座談会、話し合いでドストエフスキーの『罪と罰』を題材とする。書名を見ると『罪と罰』を読まない!と決意表明、意志表示をするのかと思ってしまうが、それでは本にならない。『罪と罰』を読んだ人も大部分忘れてしまっているらしい。それなら読んでない者たちでも読書会を開けるのではないか。目的は数少ない情報をもとに、どんな物語か推理していく。読んでいない者だけが楽しめる遊びをしていく。読んでなくて、どんな話か、登場人物がどんな者か当てられたらよい、とのことである。

ここで直ちに思うのは、全く何の情報もなく徒手空拳で空想妄想を展開しても実際の筋にあたるわけない。もちろん有名な作品だから主人公が老婆を殺す話である、くらいは知っているであろう。要はヒントとして何を与えるか、である。まず最初と最後の本文の訳を示す。更に途中の各部から最後の部分とか、途中の部分の訳を与える。また参加者の一人が以前、影絵の短い『罪と罰』を見ていて記憶で何か言う。(ただしあまりあてにならない)こんな感じで話し合いが進んでいくので、当然ながらまとまらず、またずれていく。ヒントとなる部分が核となるところか(これは偶然に左右される)、参加者の推理力、洞察力が優れているかによって原作との適合具合は決まる。

ただこれを読んで次のような感想を持った。『罪と罰』と全く違った、別の面白い話になったら一番面白いのではないか。これは昔読んだ旅行記から思いついた。アメリカに行って演劇を観た。英語がよく分からないから、終わってから、関係者にこんな話ではないかと言ったら爆笑された。そっちの方が面白いから、その筋にしようと言われた。つまり英語が分からず誤解、勘違いをしたら瓢箪から駒になった。(小田実の『何でも見てやろう』で、記憶で書いているから正確でない)もちろん最初からウケ狙いではだめである。無理だろう。I have a dreamの世界か。

この本を面白く読むのは、どうしてずれたか、この参加者はどういったところに興味があるのか、などに関心を持ちながら読むことであろう。『罪と罰』の既読者は面白く読めるのは間違いない。読んでいない人はなぜ読むのだろう。読まなくても問題ないと思いたかったのか。本書は「読まない」座談会の後、登場人物の解説とあらすじが書いてあるが、インターネットですぐ分かるから必要ないと思う。それより参加者全員に会を終えての感想、どう思ってどう違ったのか、またこのような会合をしたいか、候補となる本はどれかなどを書いてもらいたかった。座談会ではよく発言する人もいればそれほどでない人もいるから。

更にこの後、実際に『罪と罰』を読んでからの、つまり普通の意味の『罪と罰』評があるのだが、これが一番ぶっとんでいる、というか驚いた。何しろ陰険な中年男のスヴィドリガイロフが人気なのである。悪役だからではない。小説でも映画でも悪役は人気である。そういう悪役ゆえの、個性ある人格として評価しているのでなく、劇ならヴィゴ・モーテンセンにやってもらいたいと、ヴィゴファンの三浦しをん(随筆で盛んに書いていた)が言っているのである。つまり異性として魅力あると言っている。更に好人物と思っていたラズミーヒンが全然良く思われていない。ここの評は考えさせられた。

2024年11月4日月曜日

ヴェデキント『春のめざめ』 Fuehlings Erwachen 1891

ルル二部作で有名なヴェデキントによる戯曲。青少年の性教育、男女の付き合い、大人たちの対応を描く。悲劇である。

友人たちによって交わされる、学校の進学、将来への希望、性に関する話などが出てくる。事件としては一人の男の生徒が自殺し、また女の生徒が妊娠し事故死する、が大きな要素である。大人や社会が悪いといっても何もならない。またあまり細かい事情で何々のせいと言ってもしょうがない。19世紀末のドイツの状況、当時を知る資料にはなる。今の若者の悩みにどう関わり合いを持つと言えるのか、十分理解できなかった。(酒寄進一訳、岩波文庫、2017)