2024年11月12日火曜日

ギッシュ、ピンチョン『リリアン・ギッシュ自伝』 Moveis, Mr. Griffith, and me   1968

無声映画期のスターであるリリアン・ギッシュの自伝である。題名に映画、グリフィス氏とあるようにギッシュはグリフィスに見いだされ、映画史の残る古典に出演し、その名を残したのでグリフィスの伝記も結構な部分を占める。

ギッシュは1896年、オハイオに生まれた。父親は早く失踪し、ギッシュと妹のドロシーは母親によって育てられた。母親は娘二人のために生涯を捧げた。ギッシュは母親をこの上なく称賛している。父親がいなくてもこれほどいい母親に恵まれたのは幸せだったと思う。母親とギッシュ姉妹は生活のため舞台に出ていた。アメリカのあちこちに行く。母や妹と別れて別の芝居に出ることもある。当然ながら当たらない舞台もあり苦労があった。映画の黎明期、あまり映画は評価されていなかった。グリフィスも初めは作家になるつもりで、映画への関わりは最初から熱心だったわけでない。ギッシュ姉妹は友人のメアリー・ピックフォードが出ている映画を見て、会いに行く。随分お金になると聞き驚く。その時、グリフィスに会い、それから映画に出るようになった。舞台に出ていたので、あまり映画を評価する気はなかった。これは後年、テレビが出てきたとき、映画に比べテレビが低く見られていたのを思い出させる。この後のリリアンの活躍は知られているとおりである。

無声映画に関心がある者、映画の黎明期はどのような感じであったか知りたい者には資料になるし、ともかく本書は読んでいて面白いのである。本では一番重要な点だろう。俳優の自伝を幾つか読んでいるが、高峰秀子の自伝(わたしの渡世日記)以来の面白さを感じた。文庫本になっていないのが残念。(鈴木圭介訳、筑摩書房、1990年)

2024年11月11日月曜日

岸本佐知子ほか『「罪と罰」を読まない』文藝春秋 2015

これは女3人男1人(岸本佐知子、吉田篤弘、三浦しをん、吉田浩美)による座談会、話し合いでドストエフスキーの『罪と罰』を題材とする。書名を見ると『罪と罰』を読まない!と決意表明、意志表示をするのかと思ってしまうが、それでは本にならない。『罪と罰』を読んだ人も大部分忘れてしまっているらしい。それなら読んでない者たちでも読書会を開けるのではないか。目的は数少ない情報をもとに、どんな物語か推理していく。読んでいない者だけが楽しめる遊びをしていく。読んでなくて、どんな話か、登場人物がどんな者か当てられたらよい、とのことである。

ここで直ちに思うのは、全く何の情報もなく徒手空拳で空想妄想を展開しても実際の筋にあたるわけない。もちろん有名な作品だから主人公が老婆を殺す話である、くらいは知っているであろう。要はヒントとして何を与えるか、である。まず最初と最後の本文の訳を示す。更に途中の各部から最後の部分とか、途中の部分の訳を与える。また参加者の一人が以前、影絵の短い『罪と罰』を見ていて記憶で何か言う。(ただしあまりあてにならない)こんな感じで話し合いが進んでいくので、当然ながらまとまらず、またずれていく。ヒントとなる部分が核となるところか(これは偶然に左右される)、参加者の推理力、洞察力が優れているかによって原作との適合具合は決まる。

ただこれを読んで次のような感想を持った。『罪と罰』と全く違った、別の面白い話になったら一番面白いのではないか。これは昔読んだ旅行記から思いついた。アメリカに行って演劇を観た。英語がよく分からないから、終わってから、関係者にこんな話ではないかと言ったら爆笑された。そっちの方が面白いから、その筋にしようと言われた。つまり英語が分からず誤解、勘違いをしたら瓢箪から駒になった。(小田実の『何でも見てやろう』で、記憶で書いているから正確でない)もちろん最初からウケ狙いではだめである。無理だろう。I have a dreamの世界か。

この本を面白く読むのは、どうしてずれたか、この参加者はどういったところに興味があるのか、などに関心を持ちながら読むことであろう。『罪と罰』の既読者は面白く読めるのは間違いない。読んでいない人はなぜ読むのだろう。読まなくても問題ないと思いたかったのか。本書は「読まない」座談会の後、登場人物の解説とあらすじが書いてあるが、インターネットですぐ分かるから必要ないと思う。それより参加者全員に会を終えての感想、どう思ってどう違ったのか、またこのような会合をしたいか、候補となる本はどれかなどを書いてもらいたかった。座談会ではよく発言する人もいればそれほどでない人もいるから。

更にこの後、実際に『罪と罰』を読んでからの、つまり普通の意味の『罪と罰』評があるのだが、これが一番ぶっとんでいる、というか驚いた。何しろ陰険な中年男のスヴィドリガイロフが人気なのである。悪役だからではない。小説でも映画でも悪役は人気である。そういう悪役ゆえの、個性ある人格として評価しているのでなく、劇ならヴィゴ・モーテンセンにやってもらいたいと、ヴィゴファンの三浦しをん(随筆で盛んに書いていた)が言っているのである。つまり異性として魅力あると言っている。更に好人物と思っていたラズミーヒンが全然良く思われていない。ここの評は考えさせられた。

2024年11月4日月曜日

ヴェデキント『春のめざめ』 Fuehlings Erwachen 1891

ルル二部作で有名なヴェデキントによる戯曲。青少年の性教育、男女の付き合い、大人たちの対応を描く。悲劇である。

友人たちによって交わされる、学校の進学、将来への希望、性に関する話などが出てくる。事件としては一人の男の生徒が自殺し、また女の生徒が妊娠し事故死する、が大きな要素である。大人や社会が悪いといっても何もならない。またあまり細かい事情で何々のせいと言ってもしょうがない。19世紀末のドイツの状況、当時を知る資料にはなる。今の若者の悩みにどう関わり合いを持つと言えるのか、十分理解できなかった。(酒寄進一訳、岩波文庫、2017)