2018年7月11日水曜日

アレクサンドル・ネフスキー Александр Невский 1938


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エイゼンシュタインの映画、108分、白黒。

13世紀の英雄、アレクサンドル・ネフスキーがドイツからの侵略団を撃退した様を描く映画。
湖の畔、蒙古人がやって来てロシヤ人たちに命令する。アレクサンドル・ネフスキーは彼らを追い返す。蒙古人に闘いを挑むよう進言されるが、ドイツ人の方が先だと言い出す。
ドイツ騎士団がロシヤの町を襲う。ドイツ騎士団との戦いが映画の山場である。
勝利する。それで映画は終わるのではなく、捕虜を引き連れて凱旋する。民衆から死者に対する弔意、捕虜に対する野次、ネフスキー等帰還した戦士への礼賛が続く。

ネフスキー配下の二人の戦士で美女を争っていた。一人がもう一方をより勇敢であったと言い、美女を負傷した友人の妻とする。彼自身もよい嫁を手に入れた。
ネフスキーの命により捕虜たちは群衆によって私刑になる。最後にネフスキーはロシヤにどんな敵がやって来ても打ち負かすと宣言する。

1941年のドイツのソ連侵攻以降はまさに共感をもってロシヤ人は観たことであろう。
山場のドイツ団との戦いは迫力がある。後年のより現実的に、迫力あるように見える映画を観慣れていると戦前らしさを感じるところがある。例えば戦士が剣を振り回して戦っている際、その戦士しか映らない。相手方は出ない。一人で剣を振り回している場面が何度か出る。
もちろん人海戦術で見栄えのある場面が多い。敗走するドイツ軍は川の表面の氷が割れ、沈んでしまい全滅する。
プロコフィエフの音楽も有名である。
全く見当違いの感想だが、観ている際、前の戦争で南洋や大陸で全滅された日本軍、その評価も戦後に侵略としか言われなかった、命令されて従軍した人々を思い出した。

2018年7月5日木曜日

長谷川宏『幸福とは何か』中公新書 2018


 幸福とは何か - ソクラテスからアラン、ラッセルまで (中公新書)
本書は西洋の哲学者等が、その著で幸福あるいは道徳について、どう述べているかをまとめたものである。

取り上げられている思想家等は、古代ギリシャ、ローマではソロン、ソクラテス、アリストテレス、エピクロス、セネカであり、近代ではヒューム、アダム・スミス、カント、ベンサム、20世紀ではメーテルリンク、アラン、ラッセルである。

なぜ西洋中世がないのか。中世はキリスト教が支配していた時代であり、現世の幸福への問いとは、迂遠な世界だったからと著者は述べる。一見尤もらしく聞こえるが、次のような疑問が出てくるかもしれない。西洋人の幸福感はキリスト教信仰に大きく影響されており、いや西洋に限らず宗教は、現生での安心をもたらすための死後等についての教えではないか。だから個人の幸福感と宗教は大きく関係しており、それについても論じていいのではないか。
しかしこのような問いというか要望は、お門違いである。本書はその時代に賢人たちが、幸福についてどう語ったかを論じた書である。だからその時代に適当な著作がなければ、いくら後世の幸福感に影響を与えたとしても対象外なのである。

近代のうちアダム・スミスとベンサムは社会思想家である。著者はベンサムの最大多数の最大幸福をくそみそに批判している。評価していないのだから、もっと簡単に済ませてもよかったのではないかと思った。アダム・スミスとベンサムのところでは、著者のような哲学者の、社会科学、社会思想への思いというか批判、解釈が述べられている感じがする。

さて20世紀である。メーテルリンクは本著のうちで、普通、思想史の類に出てこない人である。その『青い鳥』について引用を含め延々と説明している。よほど著者は『青い鳥』に思い入れがあるのか、正直これほどページを割く理由について、自分はよく理解できていない。最後にある「大切なのは、青い鳥がいるかどうか、返ってくるかどうかより、青い鳥を求めつづけることだ、と」(p.204)は当たり前過ぎるが、まさにここで言っているように結論だけではないのであろう。
なお著者は序章と終章で、随筆風に、すなわち我々がイメージする幸福論的な文章を綴っている。

本書名だけみると、人生訓や自己啓発本にもありそうな名だが、もちろんそんな類の本ではない。これを読んで幸福についての考えが変わるようなものでないだろう。ただ知識は増える。

2018年7月4日水曜日

マーク・トウェイン傑作選、柴田元幸訳 新潮文庫 平成26年


 ジム・スマイリーの跳び蛙: マーク・トウェイン傑作選 (新潮文庫)
書名は「ジム・スマイリーの跳び蛙」となっており、傑作選は副題である。

内容は「石化人間」「風邪を治すには」「スミス対ジョーンズ事件の証拠」「ジム・スマイリーの跳び蛙」「ワシントン将軍の黒人従者――伝記的素描」「私の農業新聞作り」「経済学」「本当の話――一語一句聞いたとおり」「盗まれた白い象」「失敗に終わった行軍の個人史」「フェニモア・クーパーの文学的犯罪」「物語の語り方」「夢の恋人」の諸編から成る。

書名にもなっている「跳び蛙」はあまりにも有名。「失敗に終わった行軍の個人史」は南北戦争に従事した語り手による体験記で、戦争自体のばかばかしさとそれに従軍した自分たちを呪う。解説にベトナム戦争時によく読まれたとあるが、むべなるかなである。
ところで相手方を射殺した語り手は「自分が何の恨みもない赤の他人を殺すこと」(p.174)を戦争の本質のように言っており、間違いではないものの、ただ戦争を個人個人の問題だけにしては十分でない。実際の戦闘は相手を殺さなければ自分が殺されるという意味でお互いに正当防衛なのである。戦争を始める、終わらせるのは政治である。戦争は「政治」と「戦闘」の領域がある。専ら後者の戦闘での、兵士の責任「だけ」にしてはいつまでも戦争はなくならないであろう。兵士に責任はないと言っているのではない。

「夢の恋人」は文字通り夢の話で、こんな夢を見たことがなくても既視感を思わせる内容である。「盗まれた白い象」と「フェニモア・クーパーの文学的犯罪」は既存文学への批判を意図するところがあり、前者は探偵小説、後者は文字通りクーパーを対象とする。

ところで作品の採用基準について触れたい。
元々新潮文庫には『マーク・トウェイン短編臭』(古沢安二郎訳、昭和36年)があった。本傑作選とかつての短篇集で重なっている作品は「跳び蛙」「農業新聞」「本当の話」の3篇である。本書の解説で訳者の柴田は旧版との差異化は図りたかった(p.247)と書いている。すなわち収録するにあたり前短篇集を意識しており、もし旧版がなければ別の作品も入っていただろうと思わせる。別の言い方をすれば、この傑作選は旧版を読むことを前提にしている。旧版に入っている「百万ポンド紙幣」は結構知名度のある作品ではないか。それほど傑作ではないと思った。それにしても実際に自分で読んで判断するしかない。