19世紀の前半に北カロライナ州で奴隷だった黒人少女が書いた一種の自伝である。
当時の米南部は奴隷制の時代だった。北部は自由州であって奴隷制はなかった。南部に生まれ育ち、両親もなく祖母を頼みとして育つ少女。主人の医者は何とか隙を見て、少女を我が物にしようと企む。女主人も夫の気を引く少女に恨みを持つ。少女は密かに男と通じ、子供を産む。それが主人の怒りに油を注ぐ。逃亡するしかない。しかし捕まったらどんなひどい目が待っているか。少女は逃亡後、納屋の屋根裏というか、屋根の斜面の下の狭い空間に7年間住む。主人らは北部に逃げたと思い込んでいる。7年後、ようやく機会が出来、北部へ行ける。北部でははるかに恵まれた生活が送れた。逃亡奴隷を取り締まる規則が北部でも適用されて、危うくなる。それも何とか逃げられ、子供や弟との暮らしが可能になった。
本書は19世紀に発刊された際、創作だと思われたそうである。その後忘れられ、ようやく最近になって事実の記録と認められ、広く読まれるようになった。
記述されている境遇は悲惨なものである。しかし19世紀前半の白人による黒人奴隷に対する仕打ちならこんなものであろうという想定内である。
奴隷制度と人身売買は違う。人身売買なら日本だって戦前には公然とあった。非人間な制度を何でも一緒くたにして論じては問題をあいまいにしてしまう。批判も弱くなる。
近代社会、19世紀以降の大国の奴隷制度としてすぐ思い浮かぶのは米国の奴隷制度とロシヤの農奴制度である。ともに1860年代に廃止された。
米の奴隷制度は次の特徴がある。白人による黒人奴隷の支配である。当時の白人は黒人など人間と思っていなかった。だから人間的な扱いを期待できなかった。もちろん当時も善人の白人はいた。本書にも描かれている。
現代でも白人の一部は有色人種(含む日本人)を劣等種族と思っている。公然に言いにくい時代になっているが。そんな偏見を持たない白人もいる。
現代は地球化の時代と言われ、外国人と接する機会が非常に多くなっている。西洋人から不快な思いをさせられた経験を持つ者も多いのではないか。
だから本書は19世紀の米の黒人奴隷制という縁遠い話でなく、身近に感じられるところがあった。白人の読者なら黒人に対して偏見を持ってはいけないと思うだろう。それに留まらない感想を持ってしまうのである。
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