本書は警察庁のキャリアを主人公とした警察小説である。読み始めると、この主人公は一般に思い込まれている役人像を漫画的に誇張して、読者に迎合しようとしているようにさえ見える。ただ主人公の責任感などでやや現実に近いところも感じられる。
主人公は東大卒のキャリア官僚であり、自らの立場を強烈に意識し、エリート意識丸出しである。ステレオタイプ化された官僚そのものである。まず東大卒でエリート意識を持つ。これは官僚だけでなく一般の会社でも同様だろう。むしろ中央官庁の幹部候補生の東大卒の割合は高いから、民間に比べ希少価値は低い。出た大学を自慢するしかないのは能がない証拠である。東大卒が有利なのは上司、幹部に東大が多く仲間意識を持てるからだろう。実際の評価はいうまでもなくどれだけ有能かによる。当たり前すぎる話だがそれで決まる。東大を出ても、仕事で無能であれば(実際にそういう者がいる)、相手にされなく出世の見込みは全くない。東大が絶対的で私立などは論外のように書かれているが、そうばかりではない。私立大出(慶応)で事務次官(一般の会社で言えば社長)になった者がいる(経済企画庁)。更に岡山大卒で経産省の事務次官、女かつ高知大卒で厚生労働省の事務次官になった者がいる。これらは例外中の例外的な存在である。ただ優秀であれば次官にもなれる例である。また最近は役所全体としてできるだけバラエティをつけたいと思っているので、それほどでない大学出身の方がむしろ注目されやすいかもしれない。ただしこれまで東大卒が多かったから結果的に出世する人間も東大が多かったのは事実である。今後は東大等で官僚の人気が下がっているから、私立大の官僚が多くなっていき変わっていくはずである。
後半にキャリアである主人公に、露骨に反抗する現場の警察官が出てくる。なお警察庁は国の官庁で警察全般を管理する。各都道府県の警察が埼玉県警や、千葉県警などである。その県警に当たる東京の警察が警視庁である。県警の長は県警本部長、警視庁の長は警視総監である。かつて帝都である東京は特別な名称にしたのである。警察署や交番などの警官は地方公務員であり、主人公は警察庁に勤める国家公務員である。他の、国の官庁でも関係部局が県庁にあれば決まったポストに出向し、県庁職員として勤める。だから主人公は警察署に出向している。
さて現場の警官は地方公務員で、ここに出てくる男はたたき上げ、ノンキャリアである。警察のノンキャリアは知らないが、普通の行政官庁のノンキャリアは次の様である。この小説のようにキャリアということで反抗したりしない。キャリアは上司だからだ。上司に対する不満があるときはその上司の人格に問題がある場合で、それは上司がキャリアかノンキャリアかは関係ない。一般にノンキャリアでもキャリアの上司の方を好む。それは上司としてキャリアの方が優れている場合が多いからである。キャリアの特徴、自意識とは自分たちがこの組織(官庁)を仕切っている、指導しているという責任感である。ノンキャリアにそんな意識はあまりない。持てないからだ。それは出世のスピード、ポストの違いに明瞭だ。最近及びこれからは改善されると思うが、30年以上、40年近く勤務してノンキャリアがつける最高のポストは課長程度で、それはキャリアなら何十年も前に就いたポストと同程度である。しかもそのポストに就けるのはトップのノンキャリアで他の者は課長補佐止まりである。そういった仕組みでノンキャリアに自覚を持てと言っても無理な話である。若い時はキャリアもノンキャリアも同等に一所懸命に働く。しかし組織を仕切っているのはキャリアである。数十人いる課ないし部でもキャリアのラインで動かし、ノンキャリアがどれだけ働いても権限は限られている。あまり人数の多くない課でキャリアが大半を占め、ノンキャリアが一人ないし小数だと、情報はキャリアだけに流されるので、ノンキャリアはつんぼさじきに置かれる。
先にノンキャリアでも上司はキャリアの方がいいと思うと書いたのは、キャリアは責任を取るのが仕事で、自分の部下が問題を起こせば、自分の責任となる。だから部下の管理もきちんとしようとする。ノンキャリアは管理職相当(窓際の席に座る)になってもいまだ係長程度の意識しか持っていない者がいるのである。
この小説で主人公が現場の警官に頭を下げる場面があるが、やや不自然に感じた。キャリアは役所に入って10程度で課長補佐になり、自分より全員年上の課員を部下として使うことがある。中には自分の親くらいの歳の者がいる。そうして働くことは役所なら珍しくもない。だからキャリアの管理職がノンキャリアに頭を下げるなど想像しにくい。キャリアはノンキャリアを馬鹿にしているのではない。相手にしていない、と言ったらその方が正しい。
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