溝口健二監督の現存する最も古い作品。無声映画。原題「水車小屋の子」。文部省が日活関西教育部に製作を委託した作品。そのため極めて教育的というか説教調になっている。
故郷へ、都会の学校に行っている学生たちが休暇で帰って来る。まじめな学生とその妹もいれば、軽薄な連中もいる。
駅に着くとかつての親友がやっている馬車が待っている。彼は秀才であったが、家が貧しく進学出来ずに馬車引きになっているのである。親友との再会を喜ぶ帰省した友人。
馬車屋になった男は友人たちを見て、自らの境遇を嘆き、親に学校へやらせてくれと改めて頼む。しかし家の窮乏で如何ともしがたい。
友人たちと川遊びを楽しむ。その際、外国人の乗った舟から幼い子が川へ落ちる。すぐさま助けに飛び込む。助けられた親から礼としてカネを差し出される。しかし彼は、自分は日本人ですからと言って受け取らない。
帰郷した学生のうち、あまり真面目でない者たちは音楽やダンスといった娯楽を持ち込み、村の青年たちを誘ってパーティを開いている。そこへ通りかかった馬車屋と友人は妹が参加しているのを見て驚き、怒鳴り込みやめさせる。彼は地に着いた仕事がいかに重要かを説き軽薄な娯楽をたしなめる、というか攻撃して皆に改心を迫る。軽薄だった友人も反省し詫びる。
郡視学が、地方教育に関心をもつ西洋人と一緒にやって来る。西洋人は視学から馬車屋の青年がいかに優秀か聞く。自分の娘を助けてもらったお礼に彼を都会に遊学させようとする。彼の家に行く。家族の前で彼に説明する。しばらく考えた後、その申し出を断る。自分はやはりここで農業に専念すべきだと思っていると言って。
極めて当時の(というか今でも)日本人の発想がよくわかる映画である。地道に農業に従事して上を望まない。上級学校へ行って学べば地元の農業の改善に資するところがあるかもしれないとは考えない。エリートを厭う庶民感情に沿っている。娯楽を罪悪視してただただ苦難を貴ぶ思想も日本的である。娯楽というか情操を育むのは仕事の向上にもつながるだけでなく、人間として重要ではないか。
ともかく二項対立させ、良くないとされる一方を排撃して、もう一方の苦労努力のみを説く。西洋人に対して「人間として当然ですから」と言わずに「日本人ですから」と答える。西洋人に過剰な意識を持ち、日本人としての誇りを示したいということであろう。
このようなイデオロギー暴露をしていては映画を楽しめない。そんなつもりで観ているわけではない。しかしどうしても結果的にそう思ってしまう。戦前の映画であると深く感じさせられる。
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