2023年8月29日火曜日

コリンズ『法と淑女』 The law and the lady 1875

語り手の若い女ヴァレリアは、結婚した相手には秘密があるようで、気になり事情を聞く。しかし夫は秘密を知らない方がいいのだ、と言って何も教えてくれない。義母とは知らずに会ったが、その義母も不幸な結婚をしたと言うだけで、やはり謎を解いてくれない。語り手は八方手を尽くしその原因を知る。夫には前妻がいて毒死した。その容疑者として裁判で裁かれ、証拠不十分で今なら無罪になるところを、当時は「証拠不十分」なる判決があり、それが下った。つまり無罪ではないわけである。夫は偽名を使い語り手に接近して結婚したのである。語り手は事件当時外国にいてこの事件を知らなかった。語り手は夫の無罪を証明すべく、奔走するのが本小説のあらましである。

語り手の夫はダメ人間で、語り手の献身に全く値しない男である。だからといって尽くす価値がないとは、その妻である語り手は思っていない。愛する夫のために尽くしたい、多くの女はそう思う。特に夫が逆境にあり、自分の助けを求めている、自分の手助けが役に立つかもしれないと思えば一層尽くすのである。解説で訳者は、語り手は「どうしてそこまで彼(夫)のことを思うのか?」夫に尽くす語り手は読者に不可解であろうとある。「なるほど男女の仲は理屈では説明つかぬものである。にもかかわらず、何故?と思わぬ読者がいるだろうか。」「どうして彼女はそんなにユースタス(夫)に尽くすのか、こんな男にそこまでしなくてよさそうなものなのに!」(本書p.352、p.353)と書いている。訳者は損得勘定だけで判断するらしい。

ダメな男に尽くす必要はないのではなく、ダメな男だから一層尽くすのである。脱線だが戦前の溝口健二監督の映画『残菊物語』(昭和14年)では主人公の女は、芸人の夫の出世のため、徹底的な自己犠牲を行なう。男に都合のよい封建的な思想と見えようが、女の意地を感じてしまうくらいである。

『法と淑女』に戻ると、本書の主人公、ヴァレリアは『名無』No Name(ウィルキー・コリンズ傑作選では「ノー・ネーム」と原題そのままで出ている)のマグダレンと共に、積極的な行動する女である。昔、遺作の『盲目の愛』を読んだらやはり女の語り手で、女だから行動に制約がある、男が現れると次々と行動していく、とあってこれが19世紀の普通の姿だったろうと思った。登場人物の中ではデクスターなる強烈な人格と容姿の男が出てきて心に残る。過去の醜聞の解明では推理小説的な部分になっている。毒死が出てきて、これは解説にあるように19世紀半ば、スコットランドっで起きたマデリン・スミス事件に影響されている。この事件に興味があれば昔『密会』という題の旺文社文庫の実録裁判シリーズで出ており、図書館などで見つけたら読めばよい。(佐々木徹訳、臨川書店、2000)


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