話はインディアン・白人間の和平を求める主人公と同様の考えを持つインディアンの酋長がその理想に向けて努力する話。
ジミー・スチュアートは傷ついたインディアンの少年を助ける。そのためアパッチ・インディアン達から見逃される。当時馬車や郵便夫がインディアンに襲われていた。アパッチとの争いを避けたいジミーは自分が交渉に赴き、郵便の配達の安全を確保すると言い出す。単身丸腰でアパッチの部落へ行く。酋長(まだ若い)は彼の言い分を聞き、郵便の安全を保障すると約束する。白人の仲間達は信用していなかったが郵便が安全に届くようになる。アパッチの若い娘とジミーは相思相愛の仲になり結婚する。
将軍は大統領の代理としてアパッチとの和平条約を結びたいと考えている。ジミーと酋長に話すが、酋長だけでは決められずアパッチ全体で協議する必要があるとの答え。集会を行い他の者の意見を聞く。ジェロニモというアパッチとその仲間は賛同できず、酋長から離れる。3か月の試験期間を設けてみることになる。
馬車が襲われることは原則としてなくなったがジェロニモ達は攻撃を仕掛ける。
白人の一味がジミーとその妻、酋長を騙し銃撃戦になる。ジミーの妻が撃たれる。ジミーは怒り狂うがこれも平和のための犠牲と諭される。
この映画の舞台は19世紀の後半、そして作成されたのは1950年である。舞台となった時代も制作された時代も現代とはあまりに価値観が異なる。
舞台の時代には白人から見ればインディアンは野蛮人で獣と同じであった。制作された時代も少なくともそれ以前の西部劇を見ればわかるように成敗すべき野蛮人であった。
この映画の酋長が平和に努力しているので、インディアンらしからぬ好人物に描かれているという意見があるが、何といっても理想化されているのは主人公のジミー・スチュアートである。和平を固く信じ、その信念のため身の危険も顧みず行動する。ジミーなら理想化されて当然というわけか。ジミーと酋長が理想なら白人もインディアンも悪人を登場させている。悪人というより当時の常識からみれば現実的に対応している。
騙す白人たちは現代の感覚からすれば文字通り悪人であるが、当時なら不思議でない(これが正当化できるという意味でない)行動である。白人ばかり悪者にすると制作当時の観客に評判が悪いのでジェロニモたちという悪いインディアンを登場させている。これも白人を信用しない好戦的な者ということである。
この後インディアンを悪として描き成敗する西部劇は作りにくくなった。当然といえば当然であるがそこに至るまでの一つの里程標ということであろう。
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